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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第48話 クラリス顧問は、倒れる前に座らされた

 報告書の締切前夜、王宮臨時顧問室の灯りは、いつもより長く燃えていた。


 窓の外はすでに暗い。


 王宮の廊下を歩く足音も減り、遠くで夜番の兵が交代する声だけが聞こえる。


 それでも、顧問室の机の上には書類が山のように積まれていた。


 第一章、不正の事実。

 第二章、関与者および流通経路。

 第三章、不正を可能にした制度的欠陥。

 第四章、被害と未着物資の補填。

 第五章、再発防止策。

 第六章、補助記録の正式参考資料化。

 付録、証言と帳簿写し。


 報告書は、ほぼ完成していた。


 ほぼ、という言葉が厄介だった。


 クラリスは、その「ほぼ」の部分がどうしても気になっていた。


「第一章の赤い紐の箱の記述、もう一度確認します」


 彼女がそう言うと、オスカーが顔を上げた。


「クラリス顧問。そこは王弟府記録官と私で二度確認済みです」


「分かっています。でも、証拠番号と付録番号がずれていないかを」


「ずれていません」


「一応」


「ずれていません」


 オスカーの声はいつもより少し強かった。


 彼も疲れている。


 だが、それ以上に、クラリスがまた危険な方向へ進み始めていることに気づいていた。


 クラリスは手元の資料を見た。


 赤い紐の箱の押収記録。


 それだけではない。


 ダレスの証言。

 セム・ヴァルトの帳簿。

 王太子妃教育関連支出。

 南施療院の未着記録。

 フィオナ司祭の受領記録。

 ミレーヌの五欄様式。

 ローゼン侯爵夫人の社交界側報告。


 どれも重要だった。


 どれも間違えられない。


 だから、見たい。


 最後にもう一度。


 全部。


「お嬢様」


 イリスが声をかけた。


 その声は静かだったが、いつもの柔らかさが少し減っていた。


「はい」


「その手を止めてください」


「今、第二章の照合だけ」


「止めてください」


 イリスは繰り返した。


 顧問室の空気が、少しだけ変わる。


 クラリスは顔を上げた。


 イリスは、机の横に立っていた。


 手には茶器ではなく、札を持っている。


 そこには太い字で書かれていた。


 座る


「……座っています」


 クラリスは椅子に腰かけたまま答えた。


 イリスは無表情で、もう一枚の札を置いた。


 仕事から離れて座る


 オスカーが小さく咳をした。


 リーナが笑いそうになって、慌てて資料へ目を落とした。


 ミレーヌは真剣な顔で札を見ている。


 レオンハルトは腕を組み、扉近くの壁にもたれていた。


 彼は先ほどから、何も言わずにクラリスを見ていた。


「イリス。まだ終わっていません」


「終わっていないのは報告書です。お嬢様の体力は、ほぼ終わっております」


「そこまででは」


「顔色が悪いです」


「灯りのせいです」


「手元が少し震えています」


 クラリスは、自分の指先を見た。


 確かに、羽根ペンを持つ指がわずかに震えている。


 それでも、まだ書ける。


 まだ読める。


 まだ確認できる。


 そう思った瞬間、イリスが三枚目の札を置いた。


 その「まだ」が危険


 クラリスは黙った。


 読まれている。


 完全に。


 イリスは一歩も引かなかった。


「お嬢様。座り直してください。机から離れた椅子へ」


「でも」


「でも、ではございません」


 その声は、侍女の声ではあった。


 けれど同時に、長年クラリスの無理を隣で見てきた人の声だった。


「お嬢様は今、報告書の完成を理由に、また全部ご自分で確認しようとしておられます」


 クラリスは反論しようとした。


 けれど、言葉が出ない。


 事実だった。


「最後の確認です」


 ようやく出た言葉は、自分でも弱かった。


 イリスの目が細くなる。


「最後の確認が百枚ございます」


 オスカーが、そっと付け加えた。


「正確には、付録込みで百二十七枚です」


「オスカー様」


「記録上、正確に」


 イリスが深く頷いた。


「ありがとうございます」


 クラリスは額に手を当てたくなった。


 味方が多い。


 多すぎる。


 そして、誰も今はクラリスの味方ではないように見えて、実は全員がクラリスの味方だった。


 レオンハルトが、そこでようやく口を開いた。


「クラリス」


「はい」


「座れ」


 短い言葉だった。


 王弟としての命令ではない。


 それより、もっと個人的で、逃げ場がない言葉だった。


「殿下まで」


「私もだ」


 扉の方から、別の声がした。


 クラリスが振り向くと、ジュリアスが立っていた。


 いつからいたのか。


 手には、自分の署名確認書類の最終束を持っている。


「王太子殿下」


「失礼。入るタイミングを完全に逃した」


 ジュリアスは少し苦く笑った。


「だが、話は聞こえた。クラリス、座った方がいい」


「すでに座っています」


「机から離れた方の椅子へ」


 全員が同じことを言う。


 クラリスは、最後の抵抗としてローゼン侯爵夫人を見た。


 彼女なら、少しは社交界らしい逃げ道を作ってくれるのではないか。


 ローゼンは扇を開かず、にっこりと笑った。


「クラリス顧問」


「はい」


「あなたが倒れたら、また“できる人に全部任せる王宮”へ逆戻りですわよ」


 その一言は、どの札より効いた。


 クラリスは息を止めた。


 できる人に全部任せる王宮。


 それを壊すために、ここまで報告書を書いてきたのだ。


 見えない仕事に名前をつけるため。

 商会報告だけで済ませないため。

 補佐人員費を名目だけにしないため。

 誰か一人が黙って全部を埋めないため。


 その報告書を完成させるために、クラリス自身がまた全部を抱えれば、何の意味があるのか。


 クラリスは、羽根ペンを置いた。


 小さな音だった。


 でも、顧問室の全員が聞いた。


「……分かりました」


 イリスが、すぐに椅子を引いた。


 机から少し離れた場所にある休憩用の椅子。


 そこへクラリスを座らせる。


 本当に座らされた。


 まるで子どもだ。


 けれど、反論する力も、理由もなかった。


 クラリスが椅子に腰を下ろすと、イリスは温かい茶を手渡した。


「持っていてください」


「飲まなくても?」


「今日は少し飲んでください」


「はい」


 素直に茶を飲むと、喉が思った以上に乾いていたことに気づいた。


 空腹もある。


 肩も痛い。


 自分で思っていたより、ずっと疲れていたらしい。


「では、残りの確認を分担します」


 レオンハルトが机へ向かった。


 自然に場を仕切る。


「第一章と第二章は、オスカーと王弟府記録官が最終確認。証拠番号、証言番号、付録番号を照合」


「承知しました」


 オスカーが即座に答えた。


「第三章は、王太子府部分を兄上、王妃執務院部分をマルタ女官長、社交界部分をローゼン夫人が確認」


「分かった」


「承知しました」


「お引き受けしますわ」


「第四章はフィオナ司祭の記録をリーナが照合。補填対象の品目分類はミレーヌ」


「はい」


「はい」


 ミレーヌの返事は少し緊張していたが、しっかりしていた。


「第五章は明朝、全員で確認。今日は骨子の誤字だけ見る。第六章はミレーヌ案を土台に、オスカーが文体を整える」


「分かりました」


 皆が動き出す。


 クラリスは椅子に座ったまま、その光景を見ていた。


 自分の机。


 自分の報告書。


 自分が始めた調査。


 だが、今そこに手を入れているのは自分だけではない。


 オスカーが証拠番号を確認している。

 ジュリアスが自分の署名欄の記述を見ている。

 マルタ女官長が王妃執務院側の文言を直している。

 ローゼンが社交界側の表現を調整している。

 リーナが受領記録と補填記録を照合している。

 ミレーヌが品目分類の表を確認している。

 レオンハルトが全体の流れを見ている。

 イリスが、クラリスが立ち上がらないよう見張っている。


 不思議な光景だった。


 自分が手を離しても、仕事が止まらない。


 王宮が止まらない。


「お嬢様」


 イリスが小声で言う。


「はい」


「不安ですか」


 クラリスは少し考えた。


「不安です」


 正直に答える。


「自分が見ていないところで間違いが残るかもしれないと思うと」


「残るかもしれません」


 イリスは、容赦なく言った。


 クラリスは思わず彼女を見る。


「そこは慰めないのね」


「慰めで消える間違いなら、最初から問題になりません」


「そうね」


「ですが、一人で見ても間違いは残ります」


 イリスは続けた。


「疲れたお嬢様が百二十七枚を確認するより、皆様で分担した方が、見つかる間違いは多いでしょう」


「……そうね」


「そして、もし残ったら直せばよろしいのです」


 クラリスは、茶の水面を見つめた。


 もし残ったら直す。


 その考え方を、自分は長く持てなかった。


 間違ってはいけない。

 抜けてはいけない。

 自分が防がなければいけない。


 そう思っていた。


 でも、報告書自体が教えている。


 完璧な人間に頼る制度は壊れる。


 間違いを見つけて直す仕組みが必要なのだ。


「イリス」


「はい」


「あなたがいてくれてよかった」


 イリスは一瞬だけ動きを止めた。


 それから、いつものように静かに礼をした。


「当然でございます」


「そこは照れないのね」


「勤務中ですので」


 だが、耳が少し赤かった。


 クラリスは、見なかったことにした。


 机の方では、ミレーヌが第四章の表を確認していた。


 彼女は品目分類の横に、小さく注意書きを入れている。


 毛布と膝掛けを混同しないこと。

 冬服は年齢別サイズを明記すること。

 包帯布は医療用と儀礼用布を分けること。

 再仕立て品は最終受領先を必ず記すこと。


 その横に、リーナが受領確認欄を追加していく。


 商会報告。

 受領先確認。

 現物確認。

 補助記録。

 未着報告。


 ミレーヌの五欄様式は、いつの間にか報告書の中核になっていた。


「ミレーヌ様」


 リーナが言った。


「この“冬服補填数”ですが、孤児院側の年齢別人数と合わせた方がよいかもしれません。三十着とだけ書くと、サイズが合わない可能性があります」


「そうですね。では、年齢帯を分けます。幼年、少年少女、年長……あ、男女で型も違うかもしれません」


「フィオナ司祭の記録に、必要サイズがありました」


「では、それを参照しましょう」


 二人の会話は、とても実務的だった。


 クラリスは、少しだけ目を細める。


 ミレーヌが、誰かと一緒に仕事をしている。


 頼り、頼られ、確認し合っている。


 それは、かつての彼女からすれば大きな変化だった。


 そのミレーヌが、ふとクラリスの視線に気づいた。


 少し迷ってから、席を立って近づいてくる。


「お姉様」


「はい」


「……あ、クラリス顧問」


「今はどちらでも」


 ミレーヌは小さく頷いた。


 そして、少し緊張した顔で言った。


「お姉様が全部見なくても、私たちが見ます」


 クラリスは黙って彼女を見た。


「間違えたら、直します。見落としたら、また確認します。だから」


 ミレーヌは、両手で資料を抱えていた。


 まだ少し頼りない。


 けれど、逃げてはいない。


「少しだけ、信じてください」


 その言葉は、クラリスの胸に深く届いた。


 かつてミレーヌは、姉の仕事を軽く見ていた。


 お姉様の仕事くらい私にもできます、と言った。


 その言葉から、王宮は三日で止まった。


 でも今、ミレーヌは違う。


 簡単にできるとは言わない。


 間違えないとも言わない。


 間違えたら直すと言っている。


 皆で見ると言っている。


 クラリスは、カップを机に置いた。


「お願いします」


 短い言葉だった。


 だが、ミレーヌの目が大きく揺れた。


「はい」


 彼女は深く頷いた。


「任されました」


 任された。


 その言葉を、ミレーヌは大事そうに胸の中へしまうように言った。


 ローゼン侯爵夫人が、その様子を見ていた。


 扇の奥で、少しだけ微笑んでいる。


「よい姉妹になってきましたわね」


「まだ途中です」


 クラリスが答えると、ローゼンは楽しそうに目を細めた。


「途中と言えるようになったなら、十分進歩ですわ」


 ジュリアスは、少し離れた席でその会話を聞いていた。


 彼の手元には、王太子署名管理の記述案がある。


 自分の失敗が、制度的欠陥として報告書に入る。


 それは王太子として痛いはずだった。


 だが、彼は逃げずに赤字を入れていた。


「クラリス顧問」


 ジュリアスが顔を上げる。


「この文言だが、“王太子府における署名確認の不足”では弱い」


 オスカーが驚いたように瞬きした。


「弱い、ですか」


「ああ。私は、内容を確認せずに署名した書類が複数ある。なら、“不足”ではなく“形骸化”だ」


 部屋が静かになった。


 ジュリアスは自分で書き換えた。


 王太子府における署名確認の形骸化。


 クラリスは、その文字を見た。


 重い。


 だが、正しい。


「よろしいのですか」


 オスカーが確認する。


 ジュリアスは苦く笑った。


「よくはない。だが、弱く書けば、また同じことをする」


 レオンハルトが静かに頷いた。


「それでよい」


 兄弟の間に、短い沈黙があった。


 以前なら刺々しくなっていたかもしれない。


 だが今日は違った。


 ジュリアスは自分の責任を見ている。


 レオンハルトはそれを見届けている。


 少しずつだ。


 全員が、少しずつ変わっている。


 夜がさらに深くなった頃、第一章から第四章までの最終確認が終わった。


 まだ第五章と第六章が残っている。


 だが、そこは明朝の全体確認に回すことになった。


 クラリスは、つい立ち上がりかけた。


 瞬間、イリス、レオンハルト、ミレーヌの三人が同時にこちらを見た。


 圧がすごい。


 クラリスはゆっくり座り直した。


「立とうとしただけです」


 イリスが札を置いた。


 危険


「そこまで?」


「そこまでです」


 オスカーが、疲れた顔で笑った。


「クラリス顧問。第五章と第六章は、明朝の方がよいです。今読むと、全員の目が滑ります」


「そうですね」


 クラリスは素直に頷いた。


「今日はここまでにしましょう」


 その言葉に、部屋全体が少し緩んだ。


 イリスが、最後の札を置く。


 今日は帰る


 クラリスはそれを見て、少し笑った。


「最重要札ね」


「はい」


 レオンハルトが書類箱を閉じた。


「報告書は逃げない」


「確認表も逃げませんしね」


 クラリスがそう言うと、イリスが満足そうに頷いた。


「覚えておいででしたか」


「何度も言われましたので」


 ローゼン侯爵夫人が立ち上がる。


「では、私は帰ります。明朝、また参りますわ」


「遅くまでありがとうございました」


「礼には及びません。私自身の怒りも、ここにかなり混ざっていますから」


 そう言って、彼女は扇を軽く持ち上げた。


「それに、皆で一つの報告書を作るというのは、意外と悪くありませんわね」


「社交界の茶会に似ていますか」


「似ていません」


 即答だった。


「茶会よりずっと疲れます」


「申し訳ありません」


「でも、茶会より意味があります」


 ローゼンはそう言い残して、優雅に部屋を出ていった。


 ジュリアスも書類をまとめ、オスカーへ預けてから帰っていく。


 ミレーヌは最後まで品目分類表を整えようとしたが、リーナに止められた。


「明朝、二人で見ましょう」


「はい。明朝、二人で」


 そのやり取りを聞きながら、クラリスは立ち上がった。


 今度は誰も止めなかった。


 仕事を続けるためではなく、帰るためだと分かっていたからだ。


 顧問室の灯りが落とされる。


 机の上には、閉じられた報告書の束が置かれている。


 未完成ではない。


 明日の確認を待つ、皆の仕事だった。


 廊下へ出ると、夜の王宮は静かだった。


 レオンハルトが隣を歩く。


「よく座った」


「褒めるところですか」


「かなり」


「皆に座らされただけです」


「それでも、立ち上がらなかった」


 クラリスは、少しだけ笑った。


「そうですね」


 イリスが後ろから言う。


「明日も必要があれば座らせます」


「容赦ないわね」


「お嬢様のためでございます」


 その言葉が、今日は素直に受け取れた。


 報告書完成前夜。


 クラリス顧問は、倒れる前に座らされた。


 そして、王宮は止まらなかった。


 彼女が机から離れても、オスカーが書き、ミレーヌが分類し、リーナが照合し、ジュリアスが自分の署名を直視し、ローゼンが社交界の責任を整え、レオンハルトが全体を支えた。


 それこそが、この報告書の答えだった。


 できる人に全部任せる王宮から、皆で確認し、皆で直す王宮へ。


 その変化は、まだ小さい。


 けれど確かに、灯りの消えた顧問室の机の上に残っていた。

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