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第42話 黒革の小箱は、財務卿の机に眠っていた

 旧財務卿執務室は、王宮の中でも妙に乾いた部屋だった。


 豪奢ではない。


 かといって粗末でもない。


 壁際には分厚い書棚が並び、窓辺には重い机があり、床には年季の入った絨毯が敷かれている。けれど、王妃執務院のような柔らかさはなかった。


 花がない。

 香もない。

 茶器も、来客を迎えるためというより、長い会議を耐えるために置かれているように見える。


 ここは、人を迎える部屋ではない。


 数字を閉じ込める部屋だった。


 バルツァー元財務卿が長年使っていた執務室。


 その扉の前に立った時、クラリスは思わず息を整えた。


「緊張しているのか」


 隣でレオンハルトが尋ねる。


「少し」


「珍しいな」


「そうでしょうか」


「君は帳簿を前にすると、だいたい目が強くなる」


 後ろに控えるイリスが、即座に頷いた。


「はい。猛禽でございます」


「イリス」


「本日は少し、翼を畳んでおられます」


 妙な表現だったが、否定しきれなかった。


 クラリスは扉を見つめる。


 セム・ヴァルトの証言によれば、この部屋に黒革の小箱が隠されている。


 中身は、金貨ではない。


 覚書。


 関係者名。


 符丁。


 そして、バルツァー元財務卿自身の指示の控え。


 もし本当に見つかれば、慈善物資流通不正の全体像は一気に進む。


 だが、怖いのはそこではなかった。


 発見報告の中にあった一文。


 王太子妃教育関連支出


 その文字が、クラリスの中に小さな棘のように残っている。


「クラリス」


 レオンハルトが、少し声を低くした。


「無理をするな」


「大丈夫です」


「大丈夫と言う時ほど、君は大丈夫ではないことがある」


 クラリスは、返事に迷った。


 以前なら、迷わず「問題ありません」と言っただろう。


 けれど今は、その言葉が本当に正しいかを考えるようになった。


「……分かりません」


 そう答えると、レオンハルトの目が少しだけ和らいだ。


「それでいい」


 イリスも静かに言う。


「分からない時は、分からないまま進めばよろしいかと。分かったふりをするより安全でございます」


「あなたまで」


「私は以前からそう申し上げております」


「そうだったわね」


 クラリスは小さく息を吐いた。


 そして、扉の前に立つ王弟府の記録官へ頷く。


「始めましょう」


 扉が開かれた。


 部屋の中には、すでに王弟府の係官が二人入っていた。


 机、書棚、分類棚、壁裏の隠し金庫、床板の下。


 一度目の調査で確認済みの場所には、すでに封印済みの札が貼られている。


 だが今日は、違う場所を見る。


 セムが語った場所。


 左奥の分類棚。


 地方関税改定案・第三稿。


 いかにも財務官らしい隠し場所だった。


 金庫ではない。


 引き出しでもない。


 誰も読みたがらない古い政策資料の束。


 クラリスは、その棚の前に立った。


 背表紙は几帳面に揃っている。


 地方関税改定案・第一稿。

 第二稿。

 第三稿。

 補足資料。

 反対意見まとめ。

 商会別影響試算。


 どれも、普通の人なら目を通す前に眠くなるような題名である。


 オスカーなら、少し楽しそうに読むかもしれない。


 そのオスカーは、今日は別室で証拠台帳の準備をしている。発見後すぐに記録化するためだ。


「第三稿は、こちらです」


 記録官が手袋をつけた手で、資料束を指した。


「動かします」


 レオンハルトが頷く。


「記録を」


 別の係官が時刻と動作を読み上げる。


「午前第二刻三分。王弟府記録官エルン、地方関税改定案・第三稿を棚より取り出し」


 資料束が引き出される。


 埃は少ない。


 意外なほど綺麗だった。


 古い資料のはずなのに、手入れされている。


 あるいは、最近触れられていた。


 資料束の裏。


 そこに、黒革の小箱があった。


 大きくはない。


 片手で持てるほどの箱。


 飾り気はなく、角が少し擦れている。


 鍵はかかっていない。


 だが、蓋の合わせ目に細い紙片が挟まれていた。


 封印ではない。


 開けられたかどうかを見るための目印。


 バルツァーらしい、とクラリスは思った。


 大げさな錠前ではなく、小さな確認。


 目立つ守りではなく、触れた者だけが分かる仕掛け。


「箱を確認」


 記録官が声を上げる。


「黒革、金具なし。外面に紋章なし。蓋部に紙片。破損なし」


 クラリスは、思わず手を伸ばしそうになった。


 その瞬間、イリスが一歩近づく気配がした。


 何も言わない。


 だが、言いたいことは分かる。


 触らない。


 クラリスは、手を下ろした。


「開封を」


 レオンハルトが命じる。


 箱が開けられた。


 中には、金貨はなかった。


 セムの証言どおりだ。


 代わりに入っていたのは、折りたたまれた覚書の束。

 細い紐でまとめられた小さな書類。

 薄い革表紙の帳面。

 そして、数枚の古い支出資料だった。


 記録官が一つずつ取り出し、番号を振る。


 クラリスは離れた位置から見ていた。


 近づきすぎると、全部を自分で読みたくなる。


 だから、少し距離を置いた。


 それでも、目は自然と文字を追ってしまう。


 最初の覚書。


 ――慈善支出は削減対象に見えぬよう調整。数量ではなく輸送費で処理。


 次。


 ――王妃執務院には美しい報告を。現場不満は商会経由で吸収。


 次。


 ――夫人方は成果を欲し、現場は沈黙する。社交界茶会は流入路として有効。


 ローゼン侯爵夫人がこれを読めば、どんな顔をするだろう。


 クラリスは、そう思った。


 怒るだろう。


 静かに。


 扇を閉じて。


 次の覚書で、クラリスの手が止まった。


 記録官が読み上げる。


「……“クラリス嬢のような者が出る前に整理せよ”」


 室内が静かになった。


 その文字だけが、やけに鮮明に見えた。


 クラリス嬢。


 自分の名。


 正式な肩書きではない。

 王宮臨時顧問でもない。

 王太子の婚約者だった頃の呼び方に近い。


 バルツァーは、ずっと前からクラリスを見ていたのだ。


 便利な令嬢として。

 王太子の影として。

 書類を黙って整える存在として。


 そして同時に、危険な存在として。


 見えない仕事を見つけてしまう者として。


「クラリス」


 レオンハルトの声がした。


 クラリスは、自分が息を止めていたことに気づいた。


「大丈夫です」


 言ってから、少し間を置く。


「……いえ、少し驚きました」


 イリスが静かに頷いた。


「そちらの方が正確でございます」


 レオンハルトは覚書を見つめた。


「彼は、君を偶然の障害ではなく、制度の天敵として見ていたのだな」


 クラリスは、ゆっくり頷いた。


「なら、制度として向き合います」


 声は静かだった。


 けれど、自分でも分かるほど腹の底に力があった。


 個人として怒ることもできる。


 自分の名をこんな形で書かれていたことに、不快感がないわけではない。


 だが、それだけでは足りない。


 バルツァーが恐れたのは、クラリス個人ではない。


 見えないものに名前をつける仕組みだ。


 ならば、こちらも個人の感情ではなく、仕組みとして返す。


「続けてください」


 クラリスが言うと、記録官が少し姿勢を正した。


「次の資料に移ります」


 薄い革表紙の帳面が開かれた。


 そこには、符丁と数字が並んでいた。


 赤紐。

 V調整。

 H処理。

 R茶会。

 南施療。

 冬欠。


 これまで見つかっていた帳簿の符丁と一致するものが多い。


 王弟府の記録官が慎重に写しを取る。


 クラリスは、頭の中で線を引いていった。


 赤紐は抜き取り対象。

 V調整はヴァルト側の金の出口。

 H処理はハイム商会。

 R茶会はローゼン侯爵家。

 南施療は南施療院。

 冬欠は冬物不足。


 バルツァーは、すべてを把握していた。


 少なくとも、仕組みの中心にいた。


 その次に取り出された古い支出資料で、部屋の空気がまた変わった。


 記録官が表題を読み上げる。


「王太子妃教育関連支出、補助教材費」


 クラリスは、動かなかった。


 動かなかったが、胸の奥が静かに冷えた。


 王太子妃教育。


 それは彼女にとって、あまりにも身近な言葉だった。


 十年近く、当然のように受けてきた教育。

 礼法、外交、儀礼、財務、慈善、王宮内の人事、晩餐会の席次、国外使節の文化、神殿との連絡、祭礼文書の確認。


 それらを学んだ。


 そして、学ぶだけでなく実際に担ってきた。


 しかし、そこに支出不正があった?


「続けて」


 レオンハルトの声は低かった。


 記録官が資料を慎重にめくる。


「王太子妃教育補助教材費。王宮儀礼書写本十部。隣国儀礼比較表作成費。外交語学教師追加手当。王妃執務院補佐人員費」


 クラリスの眉が、わずかに動いた。


「その補佐人員費は、わたくしの記憶にありません」


 イリスが静かに言う。


「お嬢様には、補佐人員などほとんどおりませんでした」


「ええ」


 クラリスは答えた。


「儀礼書写本十部も、届いた覚えがありません。比較表は……自分で作りました」


 レオンハルトの顔が険しくなる。


「教師追加手当は?」


「語学教師はいました。ただし、追加手当が出るほどの回数は」


 途中で、クラリスは言葉を止めた。


 思い出したのだ。


 教師が何度か、授業時間を短く切り上げたこと。

 資料が足りないので、クラリス自身が古い文献を写したこと。

 補佐の女官が来るはずだったのに、結局来なかったこと。

 そのたびに「予算の都合」「人員調整」「王宮内の慣例」と説明されたこと。


 当時のクラリスは、それを受け入れた。


 王宮とはそういうものだと思っていた。


 足りなければ自分で埋めればいい。


 誰かがやらないなら、自分がやればいい。


 そうして、足りないものを見えなくしてきた。


「クラリス」


 レオンハルトが、もう一度名を呼んだ。


「大丈夫、ではありませんね」


 クラリスは、自分から先に言った。


 レオンハルトは一瞬黙り、それから頷いた。


「そうだな」


 イリスが、そっと椅子を引いた。


「お嬢様、お座りください」


「まだ」


「お座りください」


 いつもより強い声だった。


 クラリスは反射的に反論しかけ、やめた。


 座る。


 それは負けではない。


 そう学んだばかりだ。


 クラリスは椅子に腰を下ろした。


 イリスが温かい茶を手元に置く。


「飲まなくても構いません。持っていてください」


「ありがとう」


 カップを持つと、自分の指先が少し冷えていることに気づいた。


 記録官は資料を読み上げ続ける。


 王太子妃教育関連支出の一部に、妙な符丁がある。


 E補。

 J署。

 妃教調。

 V流。


 オスカーがいれば、すぐに表を作り始めただろう。


 クラリスも、そうしたい。


 だが今は、まず受け止める。


 自分に関わる資料だからこそ、冷静に扱う必要がある。


「E補は、エルディア補助でしょうか」


 クラリスは言った。


「可能性はある」


 レオンハルトが答える。


「J署は、ジュリアス殿下の署名関連かもしれません」


「兄上の決裁書を確認する必要があるな」


「はい」


 クラリスは茶を一口飲んだ。


 味はよく分からなかった。


 けれど、手の震えは少し収まった。


「この資料は、別枠で保全してください」


「承知しました」


 記録官が頷く。


「王太子妃教育関連支出として分類します」


「それと、王太子殿下にも」


 言いかけて、クラリスは少しだけ目を伏せた。


 ジュリアスに伝えなければならない。


 彼は、また自分の過去と向き合うことになる。


 王太子妃教育費。


 彼の婚約者だったクラリスを支えるはずだった費用。


 それが抜かれていた可能性。


 そして、彼自身の署名が使われているかもしれないこと。


「伝える」


 レオンハルトが言った。


「私から兄上へ話す」


「いえ」


 クラリスは顔を上げた。


「わたくしも同席します」


「無理をするな」


「これは、わたくしの過去でもあります。でも、王太子殿下の責任でもあります。どちらか一方だけで扱うべきではありません」


 レオンハルトは、しばらくクラリスを見ていた。


 やがて、短く言った。


「分かった。ただし、今日はここまでだ」


「殿下」


「今、この資料を全部読む必要はない。証拠保全が先だ。内容確認は、オスカーを入れて明日行う」


 イリスがすぐ頷く。


「賛成でございます」


「でも」


「クラリス」


 レオンハルトの声が低くなった。


「君自身が関わる資料だ。疲れた頭で読むと、自分を責める方向へ行く」


 その言葉は、痛いほど正しかった。


 クラリスは黙った。


 自分を責める。


 たぶん、そうする。


 補佐人員費が出ていたなら、なぜ自分は補佐を求めなかったのか。

 教材費が抜かれていたなら、なぜ自分は不足を疑わなかったのか。

 教育費が正しく使われていれば、もっと違う形で学べたのではないか。


 そう考え始める。


 そして、結局いつもの結論に戻る。


 自分が気づけばよかった。


 それは違う。


 今なら分かる。


 でも、分かっていても心は勝手にその道を走り出す。


「……明日、皆で読みます」


 クラリスは、ゆっくり言った。


 イリスが深く頷く。


「はい」


 レオンハルトも、少しだけ表情を緩めた。


「そうしよう」


 その後の作業は、ほとんど王弟府の記録官が進めた。


 黒革の小箱の内容はすべて番号を振られ、写しを取られ、保全袋に入れられた。


 旧財務卿執務室は再封印された。


 地方関税改定案・第三稿も、今となってはただの古い政策資料ではない。


 証拠を隠していた場所として記録された。


 顧問室へ戻る頃には、夕方になっていた。


 オスカーはすでに報告を受けており、机の上に分類表を作っていた。


 彼はクラリスの顔を見るなり、何かを言いかけ、飲み込んだ。


 代わりに、こう言った。


「明日、読みましょう」


「はい」


「全員で」


「はい」


 ミレーヌも顧問室にいた。


 彼女は王太子妃教育関連支出という言葉をまだ知らない。


 だが、クラリスの様子から重いものが見つかったのだと察したようだった。


「お姉様」


 思わず、昔の呼び方が出た。


 ミレーヌはすぐに慌てる。


「あ、クラリス顧問」


「いいの」


 クラリスは、小さく首を振った。


「今は、それでいいわ」


 ミレーヌの目が揺れた。


「何か、私にできることはありますか」


 以前の彼女なら、泣いて謝ったかもしれない。


 自分のせいではないことまで、感情で受け止めようとしたかもしれない。


 けれど今は、仕事を尋ねた。


 クラリスは少し考え、答えた。


「明日、資料分類を手伝ってください。教育費、補佐人員費、教材費、教師手当。項目ごとに」


「はい」


 ミレーヌは、すぐに頷いた。


「やります」


 その表情は真剣だった。


 クラリスは、それだけで少し救われた気がした。


 夜、終業時刻になった。


 イリスは机の上に、いつもの札を置いた。


 今日はここまで


 今日は、その札がいつもより重く見えた。


 クラリスは、黒革の小箱の写しが入った封筒を見つめた。


 読みたい。


 怖い。


 読みたい。


 でも、今は読まない。


 それが、今日の自分にできる一番大切な仕事かもしれなかった。


「閉じます」


 クラリスは言った。


 イリスは、静かに頷いた。


「はい」


 レオンハルトが、扉の近くで待っていた。


「送る」


「ありがとうございます」


 顧問室を出る前に、クラリスは一度だけ机を振り返った。


 黒革の小箱は、財務卿の机に眠っていた。


 そこに眠っていたのは、金貨ではなかった。


 孤児院の冬。

 施療院の膝掛け。

 社交界の善意。

 そして、クラリス自身が当然のように背負ってきた王太子妃教育の空白。


 明日、それを読む。


 一人ではなく。


 皆で。

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