第41話 セム・ヴァルトは、金貨より沈黙を選んだ
セム・ヴァルトは、想像していたより小柄な男だった。
王弟府の尋問室へ連れてこられた時、クラリスはまずそう思った。
ヴァルト家の会計代理人。
セム・ヴァルト会計相談所の主。
ハイム商会、ラドナー運送、南門倉庫、そしてバルツァー元財務卿へつながる金の出口。
その肩書きだけを聞けば、もっとふてぶてしい男を想像していた。
だが実際のセムは、色の薄い髪を後ろへ撫でつけた、痩せた中年男だった。背は低く、頬はこけ、指は細い。机に置かれた手は、商人というより書記官に近かった。
ただ、その目だけは違った。
怯えている。
けれど、折れてはいない。
捕まった者の目ではなく、まだ何かを隠している者の目だった。
「セム・ヴァルト」
レオンハルトが名を呼んだ。
尋問室には余計な飾りがない。
石壁。
木机。
椅子。
記録用の台。
窓は小さく、光は細い。
クラリスはレオンハルトの隣に座り、オスカーは記録係として少し離れた席にいる。イリスも壁際に控えていた。
尋問という場に侍女は不自然かもしれない。
だが、クラリスにとっては必要だった。
イリスは茶を出すためだけにいるのではない。
クラリスが無理をしすぎないよう、そして場の小さな違和感を見落とさないよう、そこにいる。
「あなたは、ヴァルト会計相談所の主で間違いありませんね」
クラリスが尋ねると、セムは薄く頷いた。
「はい」
「ハイム商会、ラドナー運送、南門倉庫との会計処理を請け負っていましたか」
「一部です」
「一部とは?」
「帳簿整理、支払い予定表の作成、税務上の相談。どこの商会でも行っていることです」
声は弱い。
だが、言葉は用意されている。
何度も頭の中で練習した返答だ。
クラリスは、すぐには責めなかった。
机の上に一枚の写しを置く。
赤い紐の箱から出てきた帳簿控えである。
「こちらは、あなたの隠れ場所から押収された帳簿控えです」
セムの目が、ほんの少し動いた。
「私は、隠れていたわけではありません」
「では、なぜ王弟府の照会後に会計相談所を離れたのですか」
「身の危険を感じたからです」
「誰から?」
セムは黙った。
最初の沈黙。
クラリスはそれを記録した。
口ではなく、心の中で。
「答えられませんか」
「……私のような小さな会計人が、王宮の大きな騒ぎに巻き込まれたのです。怖くなって当然でしょう」
「怖くなっただけの方が、帳簿を焼こうとするでしょうか」
セムの唇が引き結ばれた。
オスカーの筆が走る音だけが、室内に響く。
クラリスは、次の資料を出した。
「こちらは、金貨と商会印が入っていた赤い紐の箱についての押収記録です。ハイム商会、北門生活用品組合、エルザック納入所。複数の商会印が、あなたの管理する倉庫で見つかっています」
「私は預かっていただけです」
「誰から?」
「商会から」
「どの商会ですか」
「複数です」
「なぜ複数の商会が、自分たちの印をあなたに預けるのですか」
セムは視線を落とした。
「会計処理の都合です」
「納入済み報告を作るため?」
沈黙。
クラリスはさらに言葉を重ねた。
「それとも、実際には納入されていない品物を、納入済みにするため?」
セムの指が、机の上でわずかに動いた。
細い指。
インクの染みが残っている。
この指が、どれだけの数字を動かしてきたのだろう。
冬服。
膝掛け。
包帯布。
毛布。
寄付金。
輸送費。
調整費。
数字の上では、すべて綺麗に整っていた。
でも、南施療院の病室には届かなかった。
「セム殿」
クラリスは、声を低くした。
「あなたが管理していた帳簿では、寄付金が物資に変わり、物資が輸送費に変わり、輸送費が調整費に変わっています」
「帳簿とは、そういうものです。金の流れを整理するために」
「違います」
クラリスははっきり言った。
「あなたの帳簿では、善意が途中で薄くなっています」
セムが初めて顔を上げた。
「……詩のような言い方ですね」
「詩ではありません」
クラリスは、南施療院の受領記録を置いた。
「膝掛け三十枚は未着。代替品は薄手布十五枚」
次に、孤児院の冬服記録。
「冬服二百着のうち、三十着分が消えました」
次に、フィオナ司祭から届いた神殿側の控え。
「包帯布は帳簿上より薄く、施療院では冬季用として不十分でした」
クラリスは、セムを見据えた。
「あなたが動かしたのは、金貨だけではありません。届くはずだった冬です」
セムの表情が、わずかに歪んだ。
その言葉は、少しは刺さったのかもしれない。
だが、彼はすぐに目を伏せた。
「私は、計算しただけです」
「誰のために?」
「依頼人のために」
「依頼人とは、ハイム商会ですか。バルツァー元財務卿ですか。それともヴァルト家ですか」
セムは答えない。
レオンハルトが、静かに口を開いた。
「セム。お前が守っているものは何だ」
その声は、クラリスより冷たい。
王族としての声だった。
「金か。家名か。バルツァーか」
セムは、乾いた笑いを漏らした。
「金貨なら、戻せます」
ぽつりと。
それは言い訳ではなく、独白のようだった。
「帳簿も、書き直せる。印も、処分できる。商会名も、変えられる」
「では、何が戻せない」
レオンハルトが問う。
セムは顔を上げた。
初めて、その目に明確な恐れが浮かんでいた。
「沈黙です」
クラリスは黙っていた。
オスカーの筆も、一瞬だけ止まる。
セムは続けた。
「沈黙だけは、一度破れば戻せない。私が話せば、私一人では済まない」
「だから破るのだ」
レオンハルトは即座に言った。
「お前一人で済まないからこそ」
セムの喉が動いた。
クラリスは、そこで少しだけ間を置いた。
沈黙は、今やセムの盾だった。
それを無理に叩けば、彼は殻に閉じこもる。
だから、別の方向から開ける。
「セム殿。あなたは、自分が小さな会計人だとおっしゃいました」
「事実です」
「本当に小さな会計人なら、なぜ複数の商会印を預かれたのですか。なぜ王宮慈善事業と社交界茶会の両方の帳簿を処理できたのですか。なぜ赤い紐の箱を保管する場所を持っていたのですか」
クラリスは、一枚ずつ紙を並べた。
「あなたは小さくありません。少なくとも、この仕組みの中では重要な場所にいた」
セムは、唇を噛んだ。
「違います。私は、出口を作っただけです」
「金の出口ですか」
「……はい」
「誰のための?」
また沈黙。
だが、今度の沈黙は少し短かった。
「財務院の一部。商会。倉庫。運送。貴族家の代理人。いろいろです」
「バルツァー元財務卿は?」
セムは、目を閉じた。
「知っていました」
「指示は?」
「最初は、ありました」
クラリスは息を詰めた。
オスカーの筆が再び走り出す。
「最初は、とは?」
「最初は王宮慈善事業だけでした。財務院の支出を調整するためです。王宮は金が足りない。だが見栄えは落とせない。慈善をやめるとも言えない。なら、少しずつ調整する」
「調整」
「そう呼んでいました」
セムの声は、乾いていた。
「毛布を少し薄くする。冬服の数を少し減らす。輸送費を少し上げる。納入を遅らせる。誰かが我慢すれば済む程度に」
「誰かとは?」
クラリスの声が低くなる。
「孤児院の子どもですか。施療院の患者ですか。王宮で声を上げられない見習い令嬢ですか」
セムは答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
クラリスは続けた。
「あなた方は、“誰か”という言葉で人を消しました」
セムの顔が少し青ざめる。
「私は……現場を見ていません」
「だからできたのでしょう」
その言葉は、ダレスにも言ったものだった。
だが、セムにも刺さった。
彼は指を組み、しばらく黙っていた。
「社交界へ広げたのは、誰ですか」
レオンハルトが問う。
セムは、疲れたように笑った。
「広げた、というより……自然に広がりました」
「自然に?」
「ローゼン侯爵夫人の茶会にハイム商会が入った。それを見た他の家が、同じ商会を使った。夫人方は、ローゼン家が使っているなら安心だと思った。商会は実績を得た。財務院は、王宮外にも流れを作れた」
「その流れを整えたのが、あなたですね」
「……はい」
ついに認めた。
セムは、深く息を吐く。
「私は、商会名を分けました。ハイム商会だけでは目立つ。北門生活用品組合、エルザック納入所、グレイン布問屋。小さな店を使ったように見せました」
「実際には?」
「帳簿処理は、ほとんどダレスが行っていました。私は金の流れを整えた」
「商会印は?」
「報告作成のために預かっていました」
「偽造ですか」
「委任、という形です」
レオンハルトの目が冷えた。
「言葉を飾るな」
セムは黙った。
「偽造か」
「……はい」
オスカーの筆が紙を走る音が、ひどく大きく聞こえた。
クラリスは、次に最も重い問いを出した。
「黒革の小箱について教えてください」
セムの肩が、わずかに跳ねた。
「何のことですか」
「あなたの帳簿に記録がありました。黒革の小箱。バルツァー元財務卿の私室へ運ばれたものです」
「知りません」
「本当に?」
「私は……」
「沈黙は戻せないとおっしゃいましたね」
クラリスは、セムを見つめた。
「なら、ここが戻れない場所です」
セムは顔を伏せた。
長い沈黙。
尋問室の空気は冷たかった。
外からは何の音も聞こえない。
やがて、セムは低く言った。
「黒革の小箱には、金貨は入っていません」
「何が?」
「覚書です。バルツァー様ご自身の」
オスカーが、はっと顔を上げる。
「内容は?」
「詳しくは知りません。ですが、指示の控え、調整先の符丁、関係者名……そういうものだと聞きました」
「なぜバルツァー元財務卿は、そんな危険なものを残したのですか」
クラリスが問う。
セムは、苦笑した。
「保険です」
「保険」
「商会も、倉庫も、貴族家も、財務院も。皆、自分だけが切られるのを恐れていました。だから、誰もが少しずつ証拠を持っていた。自分が捕まった時、上を道連れにするために」
「あなたも?」
「私もです」
セムは、押収された帳簿控えの方を見た。
「でも、燃やすのが遅かった」
「遅かったのではありません」
クラリスは言った。
「記録が追いついたのです」
セムは何も言わなかった。
レオンハルトが椅子から立ち上がる。
「黒革の小箱は、どこにある」
「旧財務卿執務室です」
「そこは既に調べた」
「見つからなかったでしょう」
「場所を言え」
セムは少し迷った。
だが、もう沈黙は破れていた。
「税制改革案の古い束の中です。机の右側ではなく、左奥の分類棚。『地方関税改定案・第三稿』の裏」
オスカーが思わず呟いた。
「そんなところに……」
「財務官ほど、書類の森に物を隠します」
セムはかすかに笑った。
「金庫は疑われる。だが、古い改革案の束は誰も読みません」
クラリスは、少しだけ胸が痛んだ。
読む人間ならいる。
少なくとも、ここには。
だが、今は言わなかった。
レオンハルトは即座に記録官へ命じる。
「旧財務卿執務室を再調査。今の場所を正確に伝えろ。証拠保全を最優先に」
「承知しました」
記録官が走る。
尋問室に残ったセムは、急に小さく見えた。
沈黙を破ったことで、支えていたものが崩れたのだろう。
「セム殿」
クラリスは静かに言った。
「あなたの証言は記録されました。これで罪が消えるわけではありません」
「分かっています」
「ですが、届かなかったものを取り戻すための手がかりにはなります」
「……冬服は戻りません」
「はい」
クラリスは頷く。
「戻りません。でも、次の冬服を届かせることはできます」
セムは、初めて少しだけ顔を歪めた。
泣きそうな顔ではない。
笑いそうな顔でもない。
ただ、長く数字の奥に押し込めていた何かが、少しだけ表に出たような顔だった。
「それを、私が言う資格はありませんね」
「ありません」
クラリスは正直に答えた。
「ですが、証言する責任はあります」
セムは目を伏せた。
「……分かりました」
尋問が終わると、セムは王弟府の管理下へ戻された。
部屋に残ったクラリスは、しばらく動かなかった。
レオンハルトが声をかける。
「大丈夫か」
「はい」
「顔が重い」
「重い話でしたので」
イリスが静かに茶を置いた。
「お嬢様。座ったままでいらしてください」
「立っていないわ」
「心が走り出しそうでしたので」
クラリスは小さく息を吐いた。
走り出したい気持ちはあった。
今すぐ旧財務卿執務室へ行きたい。
黒革の小箱を、この目で見たい。
だが、それは王弟府の仕事だ。
証拠保全の仕事だ。
クラリスの仕事は、今聞いた証言を整理すること。
そして、無理をしないこと。
「行きません」
クラリスが言うと、イリスは少し満足そうに頷いた。
「よろしいです」
レオンハルトも小さく笑った。
「では、報告を待とう」
「はい」
その日の夕方。
旧財務卿執務室から、黒革の小箱が発見されたという報告が届いた。
場所は、セムの証言通り。
地方関税改定案・第三稿の裏。
箱は小さく、鍵はかかっていなかった。
中には、数枚の覚書。
そして、古い資料束。
その一部に、クラリスは予想もしなかった文字を見つけることになる。
王太子妃教育関連支出
クラリスは、その報告書の写しを見つめた。
胸の奥が、静かに冷える。
慈善物資の不正は、孤児院や施療院だけでは終わらなかった。
過去の自分自身へも、線が伸び始めていた。




