第40話 北方訛りは、作られた仮面だった
ノルヴァルト大使館からの返答は、翌朝、朝食の鐘が鳴り終わる前に届いた。
早すぎる。
クラリスは封筒を受け取った瞬間、そう思った。
セルゲイ大使は、必要な時だけ早い。
それは好意でもあり、圧でもある。
王宮臨時顧問室には、すでにレオンハルト、オスカー、イリスがいた。ミレーヌはマルタ女官長と共に王妃執務院の控え棚を確認中で、ジュリアスは王太子用の記録室で過去の式典名簿を読んでいる。
以前なら、この部屋に集まる情報の大半をクラリス一人が受け取っていた。
今は違う。
それぞれが、別の場所で線を追っている。
だからこそ、情報は早い。
そして、重い。
「開けます」
クラリスが封を切ると、銀色の封蝋が机の上に小さく落ちた。
文面は簡潔だった。
北方楽師団に、カイル・ロアンという世話役は存在しない。
同名、または類似名の者も、過去六年の派遣記録には見当たらない。
ノルヴァルト公国の公認楽師団がアルヴィア王国の慈善音楽会へ参加した記録も、該当年にはない。
ただし、王都周辺で「北方楽師団」を名乗る民間楽団が活動していた形跡はある。
その楽団は、正式な登録をしていない。
紹介元は、アルヴィア王国の商会筋。
最後に、セルゲイ大使の直筆が添えられていた。
北方の名を借りた者がいるなら、我々もその顔を見たい。
クラリスは、文面を机に置いた。
「カイル・ロアンは、ノルヴァルト側の正式な人物ではありません」
オスカーが息を吐く。
「偽名、あるいは偽の肩書きですね」
「はい」
レオンハルトは椅子の背に軽く寄りかかった。
「北方楽師団の世話役を名乗れば、ノルヴァルト産の品や北方儀礼に詳しいふりができる。慈善音楽会や茶会の裏方にも入れる」
「さらに、疑いが向けばノルヴァルト側に影が落ちます」
クラリスは言った。
それが一番嫌な点だった。
カイ・ローレン、あるいはカイル・ロアン。
その男が、意図的に北方の名をまとっていたなら。
ノルヴァルト産毛織物の不正も、北方楽師団の名も、北方訛りも、すべて相手国へ疑念を向けるための道具だった可能性がある。
エドモン・ライルが言っていた。
あの男の北方訛りは、綺麗すぎた。
綺麗すぎる訛り。
それは、作られた仮面だったのかもしれない。
「嫌な男ですね」
オスカーがぽつりと言った。
普段の彼にしては、かなり感情の出た言葉だった。
クラリスも同感だった。
「はい」
イリスが茶を置きながら言う。
「お嬢様が素直に嫌と言わない時ほど、本当に嫌なのだと思います」
「顔に出ている?」
「はい。たいへん」
「……気をつけるわ」
「今は出してよろしいかと」
珍しいことを言われた。
クラリスが少し驚いてイリスを見ると、彼女は真面目な顔で続けた。
「怒るべきところで怒らないと、また全部書類の中へ押し込めますので」
クラリスは言葉に詰まった。
たしかに、そうかもしれない。
怒りを出さず、悲しみを出さず、ただ処理してしまう。
それは、これまで彼女が何度もしてきたことだった。
今回は違う。
冬服を待っていた子どもたち。
届かなかった膝掛け。
薄い代替布。
名を偽り、善意を利用した男。
怒っていい。
ただし、怒りだけで動いてはいけない。
「では、怒りも記録します」
クラリスが言うと、レオンハルトが少しだけ笑った。
「君らしい」
「半分は褒めていますか」
「八割だ」
「高いですね」
「今のは悪くない」
オスカーが小さく頷く。
「怒りの所在を記録するのは大事です。後で処分理由が感情だけに見えないようにできます」
「オスカー様も十分怖いです」
「王宮勤務ですので」
そう言って、彼はすぐに筆を取った。
午前のうちに、カイル・ロアンの名を使った催事記録の洗い出しが始まった。
ローゼン侯爵夫人からは、社交界側の追加記録が届いた。
三年前の慈善茶会。
二年前の慈善音楽会。
別の伯爵家の冬季晩餐会。
さらに、王妃主催ではない小規模な寄付品贈呈式。
いずれも、北方楽師団、北方風装飾、北方産毛織物、または遠方品手配の名目で、カイ、カイル、ロアン、ローレンに似た名がちらついていた。
はっきり署名があるものは少ない。
だが、手配控えや請求書の端に、略称がある。
K.L.
カイ。
カイル。
ロアン氏。
北方世話役。
同じ人物かどうかは、まだ断定できない。
けれど、あまりにも重なりすぎていた。
「この男は、社交界の“便利な人”だったのですね」
クラリスは、届いた一覧を見ながら呟いた。
「商人ではなく、裏方」
オスカーが続ける。
「商会に所属しているようで、楽団にもいて、装飾係にもいて、輸送にも顔を出す」
「誰の責任でもない場所にいる」
レオンハルトが言った。
その一言が、部屋に落ちた。
誰の責任でもない場所。
そこに入り込む。
王宮で名前のない仕事が放置されていたように、社交界にも名前のない裏方がいる。
茶会を華やかにする者。
珍しい品を運ぶ者。
楽師を手配する者。
贈答品を裏口から入れる者。
寄付品を一時的に預かる者。
そういう仕事は、場が美しく終われば忘れられる。
そして、忘れられる場所ほど、入り込まれやすい。
「また、名前のない仕事です」
クラリスが言うと、イリスが静かに新しい札を置いた。
催事裏方記録。
クラリスはその札を見て、小さく頷いた。
「必要ですね」
「はい」
そこへ、扉が叩かれた。
入ってきたのはジュリアスだった。
手には数枚の名簿と、少し乱れた覚書を持っている。
昨日より顔色は悪い。
だが、目は逃げていなかった。
「クラリス顧問」
顧問、と呼んだ。
まだ少しぎこちないが、もう嫌味ではない。
「王太子殿下」
「式典名簿を見た。カイル・ロアンの名は、正式な式典にはない。ただ、慈善音楽会と同じ年に、王宮外の歓迎演奏会で“北方楽団世話役カイル”という名がある」
ジュリアスは紙を差し出した。
オスカーがすぐに確認する。
「歓迎演奏会?」
「王都商工会主催だ。王宮行事ではないが、王族が臨席した」
「臨席した王族は?」
クラリスが尋ねると、ジュリアスの表情が少し強張った。
「私だ」
部屋の空気が、わずかに変わる。
ジュリアスは続けた。
「私は覚えていない。演奏を聞いて、挨拶をして、帰っただけだ。裏方の名など見なかった」
「その控えを、今読んだのですね」
クラリスが言うと、ジュリアスは頷いた。
「ああ」
彼は少しだけ苦い顔をした。
「読めば、あった」
その一言は重かった。
読めば、あった。
見れば、あった。
けれど、見ていなかった。
それはこの物語のあちこちに散らばっている痛みだった。
「その歓迎演奏会で、何か寄付品の贈呈はありましたか」
オスカーが尋ねる。
ジュリアスは覚書を見る。
「王都商工会から、北部孤児支援基金への寄付があった。金銭と、毛織り外套百着分の引換証」
「引換証?」
クラリスの目が細くなる。
品物ではなく、引換証。
それは危険だ。
実物が動かず、帳簿上だけで物資が動いたことにできる。
「その外套は、どこへ?」
「控えには、後日指定先へ納入とある。指定先は……北部ではなく、王都周辺の三施設へ分配予定」
「受領確認は?」
「名簿にはない」
ジュリアスの声が低くなる。
「だから持ってきた」
クラリスは、彼を見た。
王太子が、自分の関わった行事の控えを読み、違和感を見つけ、持ってきた。
大きな変化だった。
まだ未熟だ。
まだ遅い。
けれど、確かに変わっている。
「重要です」
クラリスは言った。
「この歓迎演奏会も調査対象に加えます」
ジュリアスは、小さく息を吐いた。
「私が臨席した行事だ。必要なら、私も説明する」
レオンハルトが兄を見る。
「逃げないのか」
「逃げた方が面倒になる」
「良い理由だ」
「褒めているのか」
「八割」
ジュリアスは少しだけ眉を寄せた。
「最近、割合で褒めるのが流行っているのか」
クラリスが思わず口元を押さえた。
イリスは真顔のまま言う。
「王宮臨時顧問室内で、静かに流行しております」
「そうか……」
ジュリアスは、少しだけ困った顔をした。
その空気が、一瞬だけ部屋を軽くした。
しかし、すぐに現実へ戻る。
王都商工会。
歓迎演奏会。
北方楽団世話役カイル。
毛織り外套百着分の引換証。
受領確認なし。
また新しい線だ。
それも、王太子が臨席した行事。
悪意ある者にとって、王太子の名は格好の飾りになる。
王太子が出席した行事で寄付が発表された。
それだけで、多くの者は安心する。
確認しない。
その隙を使われた。
「殿下」
クラリスはジュリアスへ向き直った。
「この件は、王太子殿下のお名前が利用された可能性があります」
「分かっている」
ジュリアスは即答しかけ、途中で止まった。
一拍置く。
「……いや、分かり始めている」
その言い直しに、クラリスは静かに頷いた。
「では、記録を一緒に確認しましょう」
「一緒に?」
「はい。殿下が臨席された行事です。殿下の記憶も必要になります。ただし、記憶だけではなく記録と合わせます」
「分かった」
ジュリアスは椅子に座った。
それは、かつての彼なら考えられない光景だった。
王太子が顧問室で、過去の名簿と控えを前に座り、書記官の指示を聞く。
しかも、不機嫌を最小限に抑えて。
オスカーは少し緊張しながらも、資料を分けた。
「では殿下、こちらの臨席記録と、こちらの商工会寄付控えを見比べてください」
「何を見ればいい」
「日付、出席者、寄付品目、後日納入先です。違和感があれば、印を」
「印?」
「はい。こちらの小札を」
ジュリアスは小さな赤札を受け取り、妙な顔をした。
「私は札を貼るのか」
「はい」
イリスが横から言った。
「顧問室ではよくあることでございます」
ジュリアスはクラリスを見る。
「君も貼っているのか」
「はい」
「……そうか」
なぜか少し納得したようだった。
午後には、ミレーヌも別室から戻ってきた。
彼女はジュリアスが机に向かっているのを見て、目を丸くした。
ジュリアスもミレーヌに気づき、少し気まずそうにした。
かつて、二人はクラリスの仕事を軽く見ていた側だった。
今は二人とも、違う形で書類の前に座っている。
滑稽で、少し痛くて、それでも悪くない光景だった。
「ミレーヌ」
ジュリアスが言った。
「何でしょう、殿下」
「この札、どこに貼るのが正しい」
ミレーヌは一瞬固まった。
それから、とても真面目な顔で答えた。
「分からない箇所の横です。ですが、理由も小さく書いた方が、後で分かりやすいです」
「そうか」
ジュリアスは頷いた。
「ありがとう」
ミレーヌが、明らかに驚いた顔をした。
礼を言われるとは思わなかったのだろう。
「……いえ」
小さな返事だった。
クラリスは、そのやり取りを見て胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
許しではない。
帳消しでもない。
ただ、少しずつ人が変わる場面を見ている。
それは、長い物語の途中にある小さな灯りのようだった。
夕方近く、王都商工会の歓迎演奏会に関する初期確認がまとまった。
外套百着分の引換証は、ハイム商会が発行。
納入手配は、黒鷹商会系列の港湾仲介を経由。
世話役カイルが、楽師団の宿泊と寄付品引換証の管理を兼ねていた。
受領確認が取れているのは、三施設合わせて六十二着分。
不足は三十八着。
また、数が出た。
三十八着。
オスカーが、疲れた声で言った。
「外套が、また」
クラリスは静かに頷く。
「はい」
ジュリアスは、紙を見つめたまま黙っていた。
その顔には、怒りと恥が混じっている。
「私の出た行事で」
「殿下だけの責任ではありません」
クラリスは言った。
ジュリアスは顔を上げる。
「だけ、ではない。そういうことだろう」
「はい」
「なら、私の責任もある」
クラリスは、その言葉を否定しなかった。
「あります」
ジュリアスは目を閉じた。
しばらくして、静かに言った。
「記録してくれ」
「はい」
「私が臨席した行事で、寄付品の受領確認が不十分だった。王太子として、確認すべきだった。今後、臨席行事の寄付品については、受領確認まで確認する」
オスカーが筆を取る。
レオンハルトが兄を見ていた。
「兄上」
「何だ」
「今のは、悪くない」
「何割だ」
「九割」
ジュリアスは、少しだけ笑った。
「満点ではないのだな」
「満点は、実行してからだ」
「厳しい弟だ」
「弟だからな」
そのやり取りに、ミレーヌが小さく笑った。
クラリスも、少しだけ笑った。
笑った後で、彼女は机の上に新しい札を置いた。
王太子臨席行事確認。
その横に、イリスが迷わず札を置く。
全員で。
クラリスは、その札を見て頷いた。
「ええ。全員で」
夜、王宮の各部署へ新しい照会が飛んだ。
王都商工会。
北方楽団を名乗った団体。
ハイム商会の引換証発行記録。
黒鷹商会系列の港湾仲介。
三施設の外套受領確認。
そして、K.L.またはカイル・ロアン名義の出入り記録。
追う線は増えた。
だが、今度は追う人も増えていた。
逃げた男の北方訛りは、作られた仮面だった。
そしてその仮面は、王太子の名、社交界の善意、ノルヴァルトの文化、孤児院の冬まで利用していた。
クラリスは灯りを落とす前に、K.L.の札を見た。
怒りはある。
だが、怒りだけでは終わらせない。
記録で追う。
仕組みで塞ぐ。
そして、今度こそ届くべきものを届かせる。
そのために、明日もまた帳簿を開くのだ。




