第39話 至急扱い不要と書いた男
エドモン・ライルは、雨に濡れた小鳥のような男だった。
いや、実際には雨など降っていない。
その日の王都はよく晴れていて、王宮の白い石壁には朝の光がまぶしいほど反射していた。
けれど、王弟府の騎士に連れられて王宮臨時顧問室へ入ってきたエドモンは、どこか濡れているように見えた。
髪はきちんと撫でつけている。
服装も乱れていない。
地方出納所の文官らしく、控えめで地味な灰色の上着を着ている。
だが、目が落ち着かない。
椅子を勧められても、すぐには座らなかった。
王弟殿下レオンハルト。
王宮臨時顧問クラリス・フォン・エルディア。
書記官オスカー。
王妃執務院のマルタ女官長。
そして壁際に控えるイリス。
その顔ぶれを見ただけで、自分がただの事務確認に呼ばれたのではないと分かったのだろう。
「エドモン・ライル殿」
クラリスは静かに名を呼んだ。
「はい」
返事は細かった。
「本日は、三年前から二年前にかけて王妃執務院へ届いた慈善物資未着報告の処理について確認します」
「……はい」
「あなたには、記憶している範囲で正確に答えていただきます。分からないことを分かると言わないでください。推測は推測として述べてください」
エドモンは何度も頷いた。
「承知しました」
机の上には、五件の未着報告控えが並んでいた。
南施療院。
西孤児院。
北施療所。
東孤児院。
母子保護院。
いずれにも同じ流れがある。
財務院確認済。
商会調整へ回付。
至急扱い不要。
そして、いくつかの備考欄に、エドモンの筆跡と思われる書き込み。
その中に、ひとつだけはっきりと残る名。
カイ確認中。
クラリスは、一枚目の控えをエドモンの前へ置いた。
「この処理印は、あなたのものですね」
エドモンは紙を見た。
喉が動く。
「……はい。私が押したものです」
「こちらも?」
「はい」
「こちらも?」
「はい」
五枚。
すべてに、彼は頷いた。
オスカーが淡々と記録する。
羽根ペンの音が、小さく響いた。
「では、確認します」
クラリスは声を荒げなかった。
声を荒げれば、相手は怯える。
怯えた相手は、事実ではなく許されそうな言葉を探し始める。
今必要なのは、懺悔ではない。
経路だ。
「これらの未着報告は、本来なら王妃執務院で再確認されるべきものでした」
「はい」
「それを財務院確認済として、商会調整へ回した」
「はい」
「至急扱い不要とした理由は?」
エドモンは、口を開きかけて、閉じた。
そしてまた開く。
「当時、財務院からそのように処理するよう指示がありました」
「財務院の誰から?」
「バルツァー財務卿の補佐官からです」
「名は?」
「……ロイダン補佐官です」
オスカーの筆が止まりかけた。
すぐに続ける。
レオンハルトの目が細くなった。
「ロイダンは、現在どこにいる」
「財務院の整理係に残っているはずです」
レオンハルトは控えの騎士へ短く命じた。
「所在確認を」
「はっ」
騎士が退室する。
クラリスはエドモンへ視線を戻した。
「あなた自身は、未着報告の中身を読みましたか」
「読みました」
「なら、なぜ至急扱い不要に?」
エドモンの顔が歪む。
「……商会側で調整すると聞いていました。王妃執務院に戻せば、かえって処理が重複すると」
「誰からそう聞きましたか」
「ロイダン補佐官と、商会側の連絡人です」
クラリスは、指先で紙を押さえた。
「商会側の連絡人とは、誰ですか」
エドモンは黙った。
その沈黙は、先ほどまでとは違った。
分からない沈黙ではない。
言いたくない沈黙だ。
クラリスは急かさなかった。
レオンハルトも、マルタも、オスカーも黙っている。
沈黙は、時に相手の言い訳を削る。
やがてエドモンは、かすれた声で言った。
「カイ、と名乗っていました」
部屋の空気が変わった。
イリスの目が、わずかに鋭くなる。
クラリスは静かに尋ねた。
「カイ・ローレンですか」
「姓は、その時々で違いました」
「違った?」
「ある時はカイ・ローレン。ある時はカイル・ロアン。書類にはK.L.とだけ書かれていることもありました」
オスカーが低く呟く。
「やはり」
クラリスは続ける。
「その人物は、財務院へ出入りしていたのですか」
「正式な出入りではありません。補佐官の控え室や、裏の記録受け渡し所で何度か」
「財務卿は知っていましたか」
エドモンは、顔を上げられなかった。
「直接会っているところは見ていません。ただ……」
「ただ?」
「カイは、財務卿の私印が押された小札を持っていました」
レオンハルトが身を乗り出す。
「私印?」
「正式決裁ではありません。ですが、財務院内で“財務卿の意向”を示すものとして扱われていました」
「その小札は?」
「私は持っておりません。カイが見せるだけでした」
「写しは?」
「ありません」
クラリスは、内心で息を吐いた。
やはり、正式な記録には残さない。
だが、証言としては重い。
「あなたは、なぜ従ったのですか」
マルタ女官長が初めて口を開いた。
その声は低く、冷静だった。
エドモンは小さく震える。
「財務卿の意向だと……言われましたので」
「それだけですか」
マルタの声が鋭くなる。
「施療院や孤児院からの未着報告を、至急扱い不要にしたのです。誰のための処理か、考えなかったのですか」
エドモンの唇が震えた。
「考えました」
「では、なぜ」
「……考えたから、怖くなりました」
その言葉は、思っていたものと少し違った。
クラリスは目を細める。
エドモンは両手を握りしめた。
「最初は、ただの手続きだと思いました。商会が調整する。財務院が確認する。王妃執務院へ戻す必要はない。そういうものだと」
声が、少しずつ乱れていく。
「でも、同じような報告が何件も来ました。施療院、孤児院、保護院。全部、弱いところばかりで。おかしいと思いました。でも、私のような下級文官が財務卿の処理に異を唱えれば、すぐに飛ばされます」
「実際に地方へ異動したのですね」
クラリスが言うと、エドモンは頷いた。
「はい。母子保護院の件で、私は一度だけ王妃執務院へ戻すべきだと言いました。その翌月、地方出納所への異動が決まりました」
オスカーの筆が止まった。
マルタの顔が険しくなる。
クラリスは静かに尋ねた。
「その時の記録はありますか」
「正式な抗議記録はありません。ただ、私用の控えに、日付と処理内容を書いていました」
「持っていますか」
「地方出納所の宿舎に」
「提出できますか」
エドモンは、一瞬だけ迷った。
そして深く頭を下げた。
「提出します」
レオンハルトが控えの騎士へ言う。
「宿舎を押さえろ。本人立ち会いで私用控えを確保する。紛失させるな」
「はっ」
クラリスは、エドモンの顔を見た。
怯えている。
だが、逃げるより話す方へ傾き始めている。
ここで責めすぎれば、また閉じる。
「エドモン殿」
「はい」
「カイと最後に会ったのはいつですか」
「……王都を離れる前です。二年前」
「その後は?」
「直接は会っていません。ただ、地方出納所にも一度だけ手紙が来ました」
「手紙?」
エドモンは青ざめた顔で頷いた。
「“古い処理を掘り返すな。あなたはもう安全な場所にいる”と」
「差出人は」
「ありません」
「保管していますか」
「はい」
クラリスは、胸の奥が冷えるのを感じた。
脅しだ。
直接的な脅迫ではない。
だが、十分に意味は伝わる。
古い処理を掘り返すな。
安全な場所にいる。
つまり、黙っていれば安全だ。
逆に言えば、黙らなければ安全ではない。
「その筆跡は?」
オスカーが尋ねる。
「分かりません。整った字でした」
「カイの字を見たことは?」
「ほとんどありません。彼はたいてい口頭で伝え、書く時はK.L.とだけ」
「K.L.の筆跡は?」
「……一度だけ、見ました」
エドモンは、記憶を掘り起こすように目を閉じた。
「カの終わりが長く、イが跳ねる字でした」
ミレーヌが見つけた筆跡。
母子保護院の控え。
エドモンの書き込みに似ていると思われたもの。
クラリスはそこで確認した。
「母子保護院の備考欄に“カイ確認中”と書いたのは、あなたですか」
「はい」
「では、その字はあなたのものですね」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「あの時、カイが目の前で自分の名を小さな紙に書きました。私は、それを見ながら控えに書きました。だから、少し字が似たのかもしれません」
オスカーが息を呑んだ。
「見写した」
「はい。無意識に」
クラリスは、ミレーヌの発見の意味を理解した。
備考欄の字はエドモンのもの。
だが、その癖はカイの字を見写した影響がある。
ならば、K.L.の筆跡にもつながるかもしれない。
「その時、カイが書いた紙は?」
クラリスが尋ねると、エドモンは首を横に振った。
「彼が持ち帰りました」
残念だ。
だが、手がかりは残った。
カイの筆跡の特徴。
名前を複数使っていたこと。
財務卿の私印を使っていたこと。
財務院内に出入りしていたこと。
そして、エドモンへ脅しの手紙が来ていたこと。
「エドモン殿」
レオンハルトが言った。
「あなたには責任がある」
エドモンは目を閉じた。
「はい」
「未着報告を止めたこと。至急扱い不要にしたこと。おかしいと気づきながら、途中まで従ったこと」
「はい」
「だが、証言すれば、守ることもできる」
エドモンが顔を上げる。
「私を、ですか」
「あなたの証言が必要だ。逃げられては困る。消されても困る」
レオンハルトの言葉は、厳しいが現実的だった。
エドモンは小さく震えた。
「消される……」
「可能性はある」
クラリスが静かに言った。
「カイ・ローレンが逃げているなら、過去を知る人間も危険です」
エドモンは、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げる。
「証言します。私用控えも、手紙も出します」
「ありがとうございます」
クラリスは言った。
許したわけではない。
ただ、必要な協力を受け取る。
それが今すべきことだった。
聴取が終わると、エドモンは王弟府の保護下に置かれることになった。
彼が退室した後、顧問室には重い沈黙が残った。
オスカーが記録をまとめながら、ぽつりと言う。
「悪意だけではなく、恐怖も仕組みに使われていたのですね」
「はい」
クラリスは答えた。
下級文官が逆らえない。
異を唱えれば地方へ飛ばされる。
黙れば安全だと脅される。
そうして報告は止まり、声の小さい場所から物資が消える。
これは、ただの商会不正ではない。
王宮の上下関係、社交界の見栄、商流の曖昧さ、慈善の善意、文官の恐怖。
それら全部を利用した仕組みだった。
午後、ジュリアスがまた顧問室へ来た。
今度は少しだけためらいながらではあったが、自分から入ってきた。
「エドモン・ライルの聴取が終わったと聞いた」
「はい」
クラリスは要点だけを伝えた。
ジュリアスは黙って聞いていた。
途中で口を挟まなかった。
最後に、低く言った。
「下級文官が、財務卿の意向に逆らえなかったのか」
「はい」
「私は、そういう報告を見たことがなかった」
レオンハルトが静かに言う。
「見せられていなかったのではなく、見ようとしていなかった部分もある」
ジュリアスは、少しだけ顔を歪めた。
だが、反論しなかった。
「……そうだな」
彼は机の上の未着報告を見た。
「至急扱い不要」
その文字を、声に出して読む。
「こんな言葉で、子どもの外套や施療院の膝掛けが後回しにされたのか」
「はい」
クラリスは答えた。
ジュリアスはしばらく黙っていた。
そして、言った。
「この処理分類を変えるべきだ」
クラリスは目を上げる。
「処理分類、ですか」
「未着報告が財務院へ回った時点で、王妃執務院へ控えが戻るようにする。商会調整にしても、寄付先と寄付元へ同時通知する。至急扱い不要という処理は、慈善物資には使わせない」
言いながら、彼自身も驚いているようだった。
だが、言葉は止まらなかった。
「それを……制度にできないか」
クラリスは、レオンハルトを見た。
レオンハルトも、少し驚いた顔をしている。
オスカーが、眼鏡の奥で目を細めた。
「できます。手順としては重くなりますが、未着報告の握り潰しは防げます」
ジュリアスはオスカーを見る。
「草案を作ってくれ」
オスカーが一瞬止まる。
ジュリアスは、すぐに言い直した。
「いや、私も見る。草案を一緒に作ってくれ」
部屋の空気が変わった。
クラリスは、静かに息を吸った。
以前のジュリアスなら、命じただけだった。
今は、一緒に作ると言った。
自分も見る、と。
レオンハルトが口元を少しだけ緩める。
「兄上、それは良い仕事です」
ジュリアスは少し気まずそうにした。
「そうか」
「はい」
クラリスも頷いた。
「王太子殿下の名で出せば、王宮内の処理分類を変える力があります」
「では、やる」
短い言葉だった。
だが、その中には確かな意志があった。
その日の夕方、顧問室には新しい札が増えた。
慈善未着報告処理改定案。
書いたのは、クラリスではない。
ジュリアスだった。
字はまだ少し硬い。
だが、まっすぐだった。
イリスがその札を見て、ぽつりと言った。
「王太子殿下も、札を作られるようになりましたね」
クラリスは少し笑った。
「ええ」
「良い傾向です」
「本当に」
夜、エドモンの私用控えと脅しの手紙を確保したという報告が届いた。
手紙の末尾には、署名はなかった。
だが、紙の端に小さな癖のある印があった。
K.L.
これで、カイ・ローレンは未着報告の処理、財務院の裏連絡、そして脅しに関わっていたことになる。
逃げた男の影は、さらに濃くなった。
けれど同時に、王宮側も変わり始めていた。
至急扱い不要。
その冷たい処理語を、二度と慈善物資へ使わせないために。
王太子自身が、初めて仕組みを変える側へ立とうとしていた。




