第38話 逃げた男は、名前を二つ残していた
翌朝、王都の門はいつもより重く開いた。
完全に閉じたわけではない。
商人の荷車も、農村から来た野菜売りも、神殿へ向かう巡礼者もいる。王都は生き物のようなもので、門を閉ざせば街そのものが息苦しくなる。
ただし、出入りの確認は厳しくなっていた。
商人札。
通行証。
積荷目録。
馬車の底板。
旅装の男の顔。
王弟府の騎士たちは、昨夜からほとんど休まず動いていた。
探しているのは、ハイム商会の店主ハイム、番頭、そして黒鷹商会の実務担当と見られる男。
カイ・ローレン。
その名前が、本名かどうかも分からない。
けれど、記録の中に何度も現れた。
ハイム商会の裏口。
モントレイ子爵家の慈善音楽会。
母子保護院の寝台布未着報告。
港湾都市ヴァレン港の黒鷹商会。
王都と港をつなぐ線の上に、その名だけが妙に薄く残っている。
「薄いのに、消えませんね」
王宮臨時顧問室で、オスカーが言った。
机の上には、カイ・ローレンに関する記録だけを抜き出した紙が並べられている。
クラリスは、その中の一枚を見つめていた。
母子保護院の控え。
備考欄に、薄く書かれた手書き。
カイ確認中。
筆跡は乱れている。
急いで書いたのだろう。
だが、その字には妙な癖があった。
カの終筆が長く、イの二画目が少し跳ねている。
「この字を書いたのは、保護院側でしょうか」
クラリスが尋ねると、オスカーは首を横に振った。
「いいえ。紙質とインクが違います。おそらく、王妃執務院に届いた後、処理した者が書き加えたものです」
「つまり、王宮内の誰か」
「はい」
その時、ミレーヌがマルタ女官長と共に入ってきた。
手には、整理番号を振った文書束を抱えている。
昨夜より顔色は少し悪いが、目は眠そうではなかった。
「クラリス顧問。未着報告五件の備考欄を確認しました」
「ありがとう。結果は?」
ミレーヌは紙を一枚広げた。
「“カイ”の名が出ているのは、母子保護院の一件だけです。ただ、南施療院と北施療所の控えに、同じ筆跡と思われる短い印があります」
「印?」
「はい。こちらです」
紙には、いくつかの写しが並べられている。
南施療院の控えには、小さく「済」。
北施療所の控えには、「回」。
母子保護院の控えには、「カイ確認中」。
一見すると、それぞれ違う。
だが、筆の跳ね方が似ている。
特に、最後の払い。
ミレーヌは少し緊張した声で続けた。
「文字そのものは違いますが、筆の癖が似ていると思いました。マルタ女官長に確認していただいたところ、同じ人物の可能性がある、と」
マルタは頷いた。
「確定はできません。ただ、王妃執務院で処理印を押した後、追加で何かを書き込んだ者がいる可能性が高いです」
クラリスは、ミレーヌを見た。
「よく気づきました」
ミレーヌの頬が少し赤くなる。
けれど、以前のように大きく喜びはしなかった。
「まだ、可能性です」
「それで十分です。可能性を記録するところから始まります」
ミレーヌは小さく頷いた。
オスカーが写しを手に取り、目を細める。
「この跳ね方……どこかで見た覚えがあります」
彼は自分の鞄から、別の控えを取り出した。
昨日から何度も見ている、南施療院の未着報告に押された処理印の担当者控え。
エドモン・ライル。
地方出納所へ異動した下級文官。
その署名。
オスカーは、ミレーヌの写しと並べた。
「似ています」
クラリスも見る。
確かに、似ている。
エドモン・ライルの「ル」の払い。
備考欄の「回」の最後の払い。
母子保護院の「カイ」のイの跳ね。
同じ手癖に見えた。
「エドモン・ライルが、カイの名を知っていた」
レオンハルトの声がした。
いつの間にか扉のところに立っていた。
外套を脱ぐ前にこちらへ来たらしく、肩に朝露が残っている。
「殿下。港からの続報は?」
クラリスが尋ねると、彼は封書を机に置いた。
「灰倉で見つかった外套二十四着は、モントレイ子爵家の慈善音楽会分でほぼ確定だ。縫い付けられていた内側の印が一致した」
「西孤児院へは?」
「証拠記録後、品質確認をして渡す。劣化があれば王弟府で補填する」
「ありがとうございます」
クラリスは深く頷いた。
外套が、ようやく本来の場所へ向かう。
二年遅れで。
取り戻せないものは多いが、それでも届かないよりはいい。
レオンハルトは続けた。
「それから、ダリオ・クレインの足取りが一つ出た。南街道ではなく、東の旧道へ向かった可能性がある」
「港へ戻ったのではないのですね」
「逃げるなら、そう見せるだろう」
オスカーが胃のあたりを押さえた。
「逃走経路まで二重ですか」
「相手も慣れている」
レオンハルトは短く言った。
「ただ、カイ・ローレンの足取りはまだない」
クラリスは、机の上の筆跡比較を見る。
「もしかすると、カイ・ローレンは王都から出ていないのかもしれません」
部屋が静かになる。
レオンハルトが彼女を見る。
「理由は」
「カイという名は、王宮内の控えに残っています。ハイム商会の裏口で会っていたという証言もある。ですが、門の出入り記録にはまだ引っかかっていません」
「偽名で出た可能性はある」
「あります。ただ……」
クラリスは少し考えた。
「カイ・ローレンが港の人間なら、逃げる先は港か国外と思われます。でも、王都での実務担当なら、隠れる場所は王都内にあるかもしれません」
イリスが静かに言った。
「商会の裏口に出入りできる者なら、貴族家の裏口にも出入りできますね」
その言葉に、全員が一瞬黙った。
社交界。
慈善茶会。
裏方。
珍しい品の手配。
表に出ない商人。
カイ・ローレンが、ただの港湾商人ではなく、社交界の裏方に入り込んでいたなら。
「ローゼン侯爵夫人に確認を」
クラリスが言うと、イリスはすでに頷いていた。
「使者を出します」
その直後、別の使者が到着した。
王太子ジュリアスからだった。
封筒を見て、クラリスは少し意外に思った。
最近ジュリアスは、政務再教育の一環として書類確認を始めている。
だが、この件へ直接関わる立場ではない。
封を開けると、中には短い報告が入っていた。
カイ・ローレンという名について、二年前の慈善音楽会の来賓控えに似た名を見つけた。カイル・ロアン。北方楽師団の世話役として記録あり。写しを送る。
クラリスは目を見開いた。
「カイル・ロアン……」
オスカーが写しを受け取り、すぐに別の帳簿を開く。
「カイ・ローレン。カイル・ロアン。似ていますね」
「名前を少し変えている?」
「可能性があります」
レオンハルトの表情が変わる。
「兄上はどこで見つけた」
「二年前の慈善音楽会の来賓控え、とあります」
モントレイ子爵夫人の慈善音楽会。
冬用外套五十着が寄付されるはずだった場。
そこに、北方楽師団の世話役としてカイル・ロアンという名があった。
クラリスは、紙を見つめた。
「カイ・ローレンは、商人としてだけではなく、催しの裏方として入り込んでいた」
「楽師団の世話役なら、荷物の搬入、楽器箱、衣装箱、控え室に出入りできます」
オスカーが言った。
「慈善音楽会なら、寄付品の確認にも近づける」
「王太子殿下は、なぜこの控えを?」
ミレーヌが尋ねる。
それはもっともだった。
クラリスは書簡の最後を見る。
そこには、少し不器用な字で追記があった。
以前なら、私はこういう控えを読まなかった。今は、読むべきだと思った。
短い一文。
飾っていない。
ジュリアス自身の言葉だった。
レオンハルトは、その追記をしばらく見ていた。
そして、静かに言った。
「兄上も役に立つことがあるな」
「殿下」
「褒めている」
「半分くらいですか」
「七割だ」
イリスが小さく頷いた。
「高評価でございます」
張り詰めた空気の中に、少しだけ息が戻った。
だが、状況は動いている。
カイ・ローレン。
カイル・ロアン。
名前を変え、商人として、世話役として、社交界と慈善行事の裏側へ入り込んでいた可能性。
クラリスは、すぐに指示を出した。
「二年前の慈善音楽会の楽師団記録を確認します。北方楽師団の実在、世話役名、宿泊先、搬入経路」
「オスカー、写しを」
レオンハルトが言う。
「はい」
「王弟府は、カイル・ロアン名義の出入り記録を調べる。門、宿、貸馬車、商館」
「ローゼン侯爵夫人には、社交界の催しでその名を聞いたことがあるか確認を」
クラリスが続ける。
「ミレーヌは」
言いかけて、クラリスは一度止まった。
ミレーヌは、少し緊張した顔でこちらを見ている。
期待と不安が混じった顔だった。
「ミレーヌは、来賓控えや招待客名簿の中で、カイ、カイル、ロアン、ローレンに似た名を拾ってください。ただし、必ずマルタ女官長と一緒に」
「はい」
ミレーヌはしっかり頷いた。
「休憩も記録します」
先に言った。
イリスが満足そうに頷く。
「よろしいです」
その日の午後、ローゼン侯爵夫人が王宮へ来た。
カイル・ロアンの名を伝えると、彼女は扇を止めた。
「……聞いたことがありますわ」
「どちらで?」
「モントレイ子爵夫人の慈善音楽会だけではありません。三年前、私の慈善茶会でも、北方の小楽団を呼んだことがありました。その時、楽師の手配をした男の名が、たしかカイル」
「ロアン?」
「姓までは覚えておりません」
ローゼンの表情が険しくなる。
「まさか、私の茶会にも」
「可能性があります」
クラリスは答えた。
「その時の記録は?」
「侯爵家に残っているはずです。すぐ取り寄せます」
「お願いします」
ローゼンは、しばらく黙った。
そして、低く言った。
「社交界の裏方に入り込むには、商人より楽師や花屋の方が楽ですわ」
「なぜですか」
「貴族は、商人には多少警戒します。でも、楽師や花屋、菓子職人、装飾係は“場を作る者”として裏に通される。大きな箱も運べる。控え室にも近づける。誰も細かく見ない」
クラリスは、その言葉を紙に書き留めた。
場を作る者。
それは、慈善茶会や音楽会に不可欠な人々だ。
しかし、そこに紛れ込まれたら。
寄付品も、装飾布も、外套も、楽器箱や衣装箱に紛れて動かせるかもしれない。
「カイ・ローレンは、商会だけでなく催事裏方の顔を持っていた」
オスカーが呟く。
「だから、社交界側からも追える」
レオンハルトが言った。
「ローゼン夫人」
「分かっていますわ」
ローゼンは扇を閉じた。
「過去六年の慈善茶会、音楽会、晩餐会で、北方楽師団、花材商、装飾係、菓子職人の手配記録を集めます」
「かなりの量になります」
「ええ。ですから、社交界の皆様にも働いていただきます」
その言い方に、オスカーが小さく震えた。
「夫人方が本気で動くと、書記官より早いかもしれませんね」
ローゼンは涼しく微笑んだ。
「噂と記憶の速度だけは、王宮の文書便に負けませんわ」
その言葉は冗談のようで、かなり本当だった。
夕方、ジュリアス本人が顧問室へやってきた。
珍しいことだった。
以前なら、呼ばれない限りこういう場所には来なかった。
彼は少し居心地悪そうに立ち、クラリスへ向かって言った。
「来賓控えは、役に立ったか」
「はい。とても」
クラリスが答えると、ジュリアスは目を伏せた。
「そうか」
それだけで少し安心したようだった。
レオンハルトが言う。
「よく見つけたな、兄上」
「たまたまだ」
「たまたまでも、読まなければ見つからない」
ジュリアスは、弟を見た。
何か言い返しかけ、やめた。
「……そうだな」
短い返事。
だが、以前より柔らかい。
ミレーヌが少し離れたところから兄妹を見るような顔でジュリアスを見ていた。
自分も、少しずつ実務を覚えている。
王太子も、少しずつ控えを読むようになっている。
完璧ではない。
けれど、変化は同時に起きている。
「ジュリアス殿下」
クラリスは言った。
「この来賓控えを見つけた経緯も、記録に残してください」
「経緯?」
「はい。どの資料を、どの目的で読んでいて、どの名前に違和感を覚えたのか」
ジュリアスは一瞬だけ嫌そうな顔をした。
だが、すぐに頷いた。
「分かった」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどではない」
「仕事ですので」
クラリスが言うと、ジュリアスは少し苦笑した。
「本当に、何でも仕事にするな」
「必要なら」
「……そうだな。必要なら」
彼はそれだけ言い、少しだけ部屋を見回した。
机の上に並ぶ札。
カイ・ローレン。
カイル・ロアン。
黒鷹商会。
灰倉。
未着報告五件。
情報漏れ確認。
ジュリアスは低く言った。
「私は、今までこういうものを全部、見ないでいたのだな」
誰もすぐには答えなかった。
やがてレオンハルトが言った。
「今は見ている」
「遅いが」
「遅い」
容赦ない。
だが、ジュリアスは怒らなかった。
「なら、急ぐしかない」
その言葉に、クラリスは静かに頷いた。
王太子が、自分でそう言った。
それもまた記録に残すべき変化だった。
夜、各方面からの調査結果が集まり始めた。
ローゼン侯爵家の三年前の慈善茶会にも、カイルという世話役の名があった。
別の伯爵家の慈善晩餐にも、似た男が装飾品搬入を手配していた。
母子保護院の寝台布未着報告にも、カイの名。
そして、港の灰倉で見つかった荷札の一部に、かすかに残った署名。
K. L.
カイ・ローレン。
カイル・ロアン。
名前は二つ。
だが、頭文字は同じ。
クラリスは机の上に新しい札を置いた。
K.L.
その横に、イリスがいつもの札を置く。
睡眠。
クラリスは札を見て、小さく笑った。
「今日も?」
「今日もです」
イリスはきっぱり言った。
「K.L.は逃げるかもしれないわ」
「王弟府が追っています」
「社交界の記録も」
「ローゼン侯爵夫人が集めています」
「王妃執務院は」
「ミレーヌ様とマルタ女官長が整理しております」
イリスは一つずつ返した。
「お嬢様が今夜一人で起きている理由はございません」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
本当に、そうなったのだ。
自分一人で起きていなくても、仕事は止まらない。
誰かが続きを持ってくれている。
「分かりました。今日は帰ります」
イリスは満足そうに頷いた。
「よろしいです」
顧問室の灯りを落とす前に、クラリスはK.L.の札をもう一度見た。
逃げた男は、名前を二つ残していた。
けれど、その名前を追うのは、もうクラリス一人ではない。
王宮、王弟府、王妃執務院、社交界、そして少しずつ変わり始めた王太子までもが、その足跡を見始めていた。
闇の中で逃げる者にとって、それはきっと何より厄介なことだった。




