第37話 強すぎる否定は、たいてい綻びを隠している
モントレイ子爵家の屋敷は、王都南西区の端にあった。
古くからの名家ではない。
だが、近年の商業投資と婚姻で少しずつ社交界に足場を築いてきた家である。
門は新しい。
石畳も磨かれている。
玄関前の花壇には、季節には少し早い花が無理に咲かされていた。
金をかけている。
だが、歴史はまだ浅い。
そういう屋敷だった。
「見栄の匂いがしますわね」
馬車を降りたローゼン侯爵夫人が、扇の奥で小さく言った。
今日は扇を開いている。
ただし、いつもの優雅な武器というより、相手に見せる旗のようだった。
社交界のローゼン侯爵夫人が来た。
そう知らせるための扇。
隣に立つクラリスは、屋敷の正面を見上げる。
「モントレイ子爵夫人は、夫人と親しいのですか」
「親しい、という言葉は便利ですわね」
ローゼンは薄く笑った。
「茶会にはよく来ます。けれど、本当に親しい方なら、あれほど強い否定はしません」
「黒鷹商会の件ですね」
「ええ。“怪しげな商会とは一切関わりがない”などと、自分から怪しげと言う方は、だいたいその名をどこかで聞いております」
クラリスは頷いた。
今日はモントレイ子爵家へ、慈善音楽会の記録確認に来ている。
同行者は、クラリス、レオンハルト、ローゼン侯爵夫人、オスカー、イリス。
表向きは、王妃執務院と王弟府による慈善記録整理。
実際には、灰倉で見つかった子ども用外套二十四着と、モントレイ子爵家の慈善音楽会との照合である。
屋敷の扉が開いた。
出迎えた家令は、少し顔色が悪かった。
「王弟殿下、クラリス顧問、ローゼン侯爵夫人。ようこそお越しくださいました」
声が硬い。
それだけで、屋敷の中が朝から落ち着いていないことが分かった。
案内された応接室には、モントレイ子爵夫人が待っていた。
年齢は三十代後半。
淡い桃色のドレスに、真珠を多く使った装い。
美しいが、少し飾りすぎている。
彼女は笑顔で立ち上がった。
「まあ、王弟殿下までお越しくださるなんて。何かの間違いだと存じますけれど、当家としてもできる限り協力いたしますわ」
最初から「間違い」と言った。
クラリスは、その言葉を心の中で記録した。
「本日は、二年前の慈善音楽会について確認に参りました」
「ええ、存じておりますわ。ですが、何度も申し上げました通り、当家は黒鷹商会などという商会とは一切」
「夫人」
ローゼンが、柔らかく遮った。
声は優しい。
だが、場の空気がぴたりと止まった。
「まだ誰も、その名を出しておりませんわ」
モントレイ子爵夫人の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まる。
「……噂で聞きましたものですから」
「噂は早いですわね」
ローゼンは微笑む。
「けれど、噂で聞いただけの名前を、そこまで強く否定なさるのは少し不思議です」
「ローゼン侯爵夫人、私はただ、当家の名誉を」
「名誉の話は、後でよろしいかしら」
ローゼンは扇をゆっくり閉じた。
ぱちり、と小さな音がした。
「今日は、外套の話をしに来ましたの」
モントレイ子爵夫人は、言葉を飲み込んだ。
クラリスは机の上に記録を並べる。
「二年前、モントレイ子爵夫人主催の慈善音楽会で、西孤児院へ冬用外套五十着が寄付される予定でした」
「ええ。もちろんです。あれは立派な慈善音楽会でしたわ。多くの方が」
「実際に西孤児院が受領したのは、二十六着です」
クラリスは静かに続けた。
「残り二十四着は、後日納入予定と記録されていますが、届いておりません」
子爵夫人は、すぐに答えた。
「それは商会の手違いですわ。当家は確かに五十着分を用意しました」
「その商会とは、どちらでしょう」
「ハイム商会です」
「ハイム商会へ直接?」
「ええ……いえ、手配は家令が」
子爵夫人の視線が、部屋の端に控える家令へ向いた。
家令の顔色がさらに悪くなる。
レオンハルトが短く問う。
「家令の名は」
「バリスと申します」
家令バリスは深く頭を下げた。
オスカーが記録を取る。
クラリスは家令へ視線を向けた。
「バリス殿。冬用外套五十着の手配は、あなたが?」
「はい。私が担当いたしました」
「発注先はハイム商会ですか」
「表向きは、そうでございます」
表向き。
部屋の温度が変わる。
モントレイ子爵夫人が慌てて言った。
「バリス、何を言っているの」
「奥様」
バリスは俯いたまま答えた。
「ここまで来ては、隠せません」
その声には、諦めがあった。
ローゼンが静かに扇を持ち直す。
「では、隠していたことを話していただきましょう」
バリスは額に汗を浮かべながら、ゆっくり口を開いた。
「慈善音楽会の直前、冬用外套の仕入れが間に合わなくなりました。王都の商会では数を揃えられず、ハイム商会も納期が難しいと」
「それで?」
「ハイム商会の担当者から、港の仲介を使えば早いと紹介されました」
「その仲介が黒鷹商会ですか」
クラリスが尋ねると、バリスは小さく頷いた。
「はい」
モントレイ子爵夫人が、扇を握りしめる。
「私は聞いておりません」
「奥様には、港の仲介とだけ」
「なぜ名前を言わなかったの」
「……黒鷹商会は、表向きに出す名ではないと聞いておりました」
ローゼンが冷たく言う。
「表向きに出せない商会を、慈善に使ったのね」
バリスは返せなかった。
クラリスは灰倉の報告書を出した。
「昨日、ヴァレン港の灰倉で、子ども用冬用外套二十四着が見つかりました。数量は、西孤児院の未着分と一致します」
子爵夫人の顔から血の気が引いた。
「そんな……まさか」
「こちらは、灰倉で見つかった荷札の写しです」
クラリスは次の紙を置く。
煤で汚れた荷札。
黒い鷹の印。
ヴァルト家の印章。
そして、かすかに残った文字。
モントレイ慈善音楽会分。検品保留。
子爵夫人は口元に手を当てた。
バリスは膝から崩れそうになったが、辛うじて踏みとどまる。
「検品保留とは何ですか」
レオンハルトが問う。
バリスはかすれた声で答えた。
「届いた外套の一部に、汚れがあると黒鷹商会から連絡がありました。二十四着分は検品し直し、後日送ると」
「その後は?」
「何度か催促しました。ですが、港で保留中、再輸送待ち、雪で遅れている、と」
「二年も?」
ローゼンの声が低くなる。
バリスは、何も言えなかった。
「奥様には?」
クラリスが尋ねると、バリスは目を閉じた。
「西孤児院には一部納入済み、残りは調整中とだけ」
「返金は?」
「ありません」
「黒鷹商会への支払いは?」
「ハイム商会を通じて支払いました」
「領収控えはありますか」
「……ございます」
クラリスはオスカーを見る。
オスカーは頷き、記録する。
「提出をお願いします」
レオンハルトが言うと、バリスは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
モントレイ子爵夫人は、震える声で言った。
「私は、本当に知らなかったのです。私は五十着寄付したつもりでした。音楽会でも、皆様の前でそう」
「そうでしょうね」
ローゼンが静かに言った。
子爵夫人は救われたように顔を上げる。
だが、ローゼンの目は甘くなかった。
「でも、届いたか確認なさらなかった」
「それは、家令が」
「家令に任せた。商会に任せた。黒鷹という名は知らなかった。そういうことでしょう」
「ローゼン様……」
「私も同じでしたわ」
ローゼンの声は静かだった。
応接室に、思わぬ沈黙が落ちる。
「だからこそ、申し上げます。知らなかったことは、無罪の証ではありません。少なくとも、慈善の場では」
モントレイ子爵夫人は泣きそうな顔になった。
だが、泣かなかった。
泣けば済む場ではないと、分かったのだろう。
クラリスは、そこで口を開いた。
「夫人。西孤児院では、外套が足りず、年長の子どもが小さい子へ新しい外套を譲った記録があります」
子爵夫人の表情が歪む。
「そんな……」
「灰倉で見つかった外套二十四着が、当時の未着分である可能性は高いです。品質確認後、本来の寄付先である西孤児院へ戻す手続きを進めます」
「お願いします」
子爵夫人は、深く頭を下げた。
「費用が必要なら、当家が」
「費用の話は、後ほど正式に整理します」
クラリスは言った。
「まず必要なのは、当時の発注書、支払い控え、ハイム商会および黒鷹商会との連絡記録、家令バリス殿の手配記録です」
「すべて出します」
子爵夫人は即答した。
今度の即答は、逃げではなく、観念だった。
だが、クラリスは慎重に続ける。
「それから、子爵家内で同様の慈善物資手配が他にないかも確認してください」
「……他にも、ということですか」
「可能性があります」
子爵夫人は椅子に座ったまま、手を握りしめた。
「分かりました」
面会は一刻ほど続いた。
家令バリスは、その場で保管庫から数冊の控え帳を持ってきた。
そこには、ハイム商会とのやり取りだけではなく、黒鷹商会の担当者名らしきものが残っていた。
カイ・ローレン。
港湾仲介人。
黒鷹商会の名義代表ダリオ・クレインではない。
実務で動いていた別の名だ。
「この者が、黒鷹商会の実務担当ですか」
クラリスが尋ねると、バリスは頷いた。
「私がやり取りしたのは、ほとんどこの男です」
「会ったことは?」
「一度だけ。王都の商館で」
「どこの商館ですか」
「ハイム商会の裏口にある応接室です」
オスカーの筆が止まりかけた。
「ハイム商会の中で?」
「はい。ですから、ハイム商会の関係者だと思っておりました」
線がつながる。
黒鷹商会は港の影。
だが、王都ではハイム商会の裏で動いていた。
カイ・ローレン。
新しい名前。
クラリスは、その名を紙に書いた。
レオンハルトが低く言う。
「すぐに照会する。ハイム商会の王都店舗を押さえる必要がある」
「はい」
面会の終わり、モントレイ子爵夫人はローゼン侯爵夫人へ向き直った。
「ローゼン様、私は……社交界で、もう」
「今は社交界の心配をなさる段階ではありません」
ローゼンは容赦なく言った。
子爵夫人は俯く。
「ただし」
ローゼンは少しだけ声を和らげた。
「外套二十四着を取り戻し、記録を正し、西孤児院へ詫びるなら、少なくとも慈善を飾りだけにしなかったことは残せます」
「……はい」
「泣くのは、その後です」
その言葉に、クラリスは少しだけ既視感を覚えた。
マルタ女官長に似ている。
厳しいが、見捨ててはいない。
子爵夫人は、小さく頷いた。
「はい」
屋敷を出ると、空は曇り始めていた。
馬車の前で、オスカーが深く息を吐く。
「強すぎる否定は、やはり綻びを隠していましたね」
「はい」
クラリスは控え帳の写しを抱える。
「でも、子爵夫人が主犯というより、家令と商会に任せた結果、入り込まれたように見えます」
レオンハルトが頷く。
「バリスには責任がある。だが、核心は黒鷹商会の実務担当、カイ・ローレンだ」
「ハイム商会の裏で会っていた」
「王都側の接点だな」
ローゼンが扇を閉じたまま言った。
「ハイム商会を押さえるなら、早い方がよろしいですわ」
「もう動かしています」
レオンハルトの答えは短かった。
その時、王弟府の騎士が馬で駆けてきた。
馬車の横で止まり、息を切らせながら礼をする。
「殿下、急報です」
「言え」
「ハイム商会王都本店、今朝から主だった者が姿を消しております。店は開いておりますが、帳簿室は空。店主ハイム、番頭、そしてカイ・ローレンと思われる男、いずれも行方不明です」
クラリスは、胸の奥が冷えるのを感じた。
やはり早い。
情報が漏れている。
あるいは、黒鷹商会の火災と同時に、王都側も動いた。
「帳簿室が空とは?」
レオンハルトの声が低くなる。
「棚は残っていますが、主要帳簿が抜かれています。ただ、焼却跡はありません。持ち出された可能性が高いです」
「追跡は」
「開始済みです」
ローゼンが、低く呟いた。
「逃げ足の速い商人ですこと」
クラリスは考える。
黒鷹商会の倉庫が燃えた。
灰倉は押さえた。
外套が出た。
モントレイ子爵家からカイ・ローレンの名が出た。
その直後、ハイム商会の主だった者が消えた。
もう偶然では済まない。
「王宮内の情報漏れもありますが」
クラリスは言った。
「彼ら自身も、危機に備えて逃げる手順を持っていたのでしょう」
「そうだな」
レオンハルトは騎士へ命じた。
「王都の門を閉じる。商人としてではなく、重要参考人として追え。港へ戻る道、南街道、東の旧道も見張れ」
「はっ」
騎士はすぐに馬を返した。
馬車が王宮へ戻る間、誰もあまり話さなかった。
それぞれが考えていた。
外套二十四着。
カイ・ローレン。
消えたハイム商会。
持ち出された帳簿。
そして、まだ見えない中心。
王宮へ戻ると、顧問室はすでに慌ただしかった。
ミレーヌが整理番号付きの写し束を抱え、マルタ女官長と共に動いている。
彼女はクラリスを見るなり、駆け寄りそうになり、途中で足を止めた。
「クラリス顧問。ハイム商会の件、聞きました」
「はい。主だった者が逃げました」
「こちらの写しは保全済みです」
ミレーヌは、少し誇らしげに、それでも緊張した顔で言った。
「南施療院、西孤児院、北施療所、東孤児院、母子保護院の未着報告控え。すべて複写し、三か所に分けて保管しました」
「よくやりました」
クラリスは言った。
ミレーヌの顔が、少しだけ明るくなる。
だが、すぐに引き締めた。
「まだ続きがあります」
「え?」
「母子保護院の寝台布未着報告にも、ハイム商会の名前がありました。その横に、小さく“カイ”と手書きがあります」
クラリスは息を呑んだ。
「その写しは」
「こちらに」
ミレーヌは紙を差し出す。
たしかに、備考欄に薄く書かれている。
カイ確認中。
また、カイ。
レオンハルトが紙を受け取り、目を細めた。
「これで、カイ・ローレンが複数の慈善物資未着に関わっていた可能性が高くなった」
オスカーが記録する。
イリスは静かに新しい札を置いた。
カイ・ローレン。
そして、その横にもう一枚。
焦らない。
クラリスは札を見た。
焦りたい。
今すぐ追いたい。
逃げた商人を捕まえたい。
けれど、焦れば見落とす。
相手は逃げる手順を持っている。
ならば、こちらは記録で道を塞ぐ。
「まず、カイ・ローレンの出入り記録を集めます」
クラリスは言った。
「ハイム商会、黒鷹商会、母子保護院、モントレイ子爵家、港湾記録。名前が出た場所をすべて」
レオンハルトが頷く。
「王弟府で追跡する」
「王妃執務院では、未着報告の備考欄を洗います」
マルタ女官長が言った。
「社交界側は、私が」
ローゼンも続ける。
「黒鷹商会、ハイム商会、カイという名に心当たりのある家を絞ります」
オスカーが苦笑した。
「本当に、全員で動く形になりましたね」
「ええ」
クラリスは、机の上の札を見る。
灰倉外套二十四着。
モントレイ子爵家面会。
カイ・ローレン。
ハイム商会逃亡。
未着報告五件。
問題は大きくなっている。
だが、クラリス一人の机だけで抱えてはいない。
そこだけは、以前と違う。
夜、王宮の門が一部閉じられ、王都の主要街道に見張りが立った。
商人たちはざわめき、社交界はさらに騒ぎ、王宮内では書記官たちが夜遅くまで写しを取り続けた。
だが、クラリスはイリスに促され、終業時刻を少し過ぎたところで手を止めた。
「今日は、完全な定時ではありませんでしたね」
イリスが言う。
「少し過ぎたわ」
「少しで止まったことを評価いたします」
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、イリスは少しだけ驚き、それから微笑んだ。
机の上で、カイ・ローレンの札が静かに灯りを受けている。
外套二十四着は、冬を待っていた。
そして今、その外套が示した道の先で、一人の男が姿を消した。
記録はまだ終わらない。
むしろ、核心へ向かって走り始めていた。




