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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第36話 外套二十四着は、冬を待っていました

西孤児院の門は、王都の西外れにあった。


 高い塀も、華やかな門飾りもない。


 古い木の扉に、何度も塗り直された白い看板が掛かっているだけだった。


 西孤児院


 文字は少しかすれている。


 けれど、門の周りはきれいに掃かれていた。


 小さな靴跡がいくつも残る土の上に、朝の光が落ちている。


 クラリスは馬車を降り、その靴跡を見た。


 昨日、灰倉から見つかった子ども用外套は二十四着。


 モントレイ子爵家の慈善音楽会で寄付されたはずの冬用外套は五十着。


 西孤児院で受領確認が取れているのは、二十六着。


 足りない数は、二十四着。


 数が合う。


 あまりにも、合いすぎている。


「お嬢様」


 イリスが横に立つ。


「はい」


「今日は、帳簿だけでは済まない日でございますね」


「ええ」


 クラリスは静かに頷いた。


「だから、来ました」


 同行者は、レオンハルト、オスカー、イリス。


 さらに王弟府の記録官が一人。


 ミレーヌは王宮に残した。


 本人は行きたそうだったが、今日は孤児院での現場確認であり、外套が本当に子どもたちへ届かなかった記録に向き合う日である。


 学びにはなる。


 だが、まだ早い。


 クラリスはそう判断した。


 門の前で待っていたのは、院長のエレナという女性だった。


 年齢は四十代半ばほど。


 質素な黒い服に、よく洗われた白い襟。


 顔には疲れがあるが、目は強かった。


「王弟殿下、クラリス顧問。遠いところをお越しいただき、ありがとうございます」


「突然の確認でご負担をおかけします」


 クラリスが礼をすると、エレナ院長は首を横に振った。


「ご負担など。むしろ、ようやく見ていただけるのだと思っております」


 その言葉だけで、胸の奥が少し重くなった。


 ようやく。


 その一語の中に、どれほどの時間が入っているのか。


 案内された記録室は、南施療院よりもさらに小さかった。


 棚は二つ。


 机は一つ。


 帳面は多くない。


 だが、一冊一冊に布のカバーがかけられ、大切に保管されていた。


「こちらが、二年前の慈善音楽会の記録です」


 エレナ院長が帳面を開く。


 そこには、丁寧な字でこう書かれていた。


 モントレイ子爵夫人慈善音楽会。冬用外套五十着寄付予定。


 その下。


 受領二十六着。残二十四着、後日納入予定。


 さらに赤い小さな文字。


 未着。二度照会。返答なし。


 クラリスは、その字を見つめた。


 赤字は、怒りではなく記録だった。


 けれど、だからこそ痛い。


「二十四着は、届かなかったのですね」


「はい」


 エレナ院長は静かに答えた。


「届きませんでした」


「二度照会、とありますが」


「一度目はハイム商会へ。二度目はモントレイ子爵家の家令へ出しました」


「返答は?」


「ハイム商会からは、“検品中のため遅延”と。モントレイ子爵家からは、返答がありませんでした」


 オスカーが記録する手を止めずに尋ねる。


「王宮へは報告されましたか」


「しました。寄付品未着報告として、王妃執務院へ」


 エレナ院長は、別の控えを出した。


 クラリスはそれを受け取る。


 やはり、同じ構造だった。


 王妃執務院宛ての報告。

 財務院確認済。

 商会調整へ回付。

 至急扱い不要。


 クラリスの指先が冷えた。


「また、この印です」


 オスカーが低く言った。


 ミレーヌが見つけた南施療院の控えと同じ処理印。


 つまり、西孤児院の報告も同じ経路で流された。


 王妃執務院へ届き、財務院へ回され、商会調整にされ、至急扱いから外された。


 誰かが同じ手順で、未着の声を消している。


 レオンハルトの顔が険しくなった。


「この処理をした文官を洗う」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「南施療院と西孤児院、同じ印。偶然ではありません」


 エレナ院長は、静かに二人を見ていた。


「外套は、見つかったのですか」


 クラリスは、少しだけ言葉を選んだ。


「灰倉と呼ばれる港の保管区画で、子ども用外套二十四着が見つかりました。まだ正式確認中ですが、数量は一致しています」


 エレナ院長の目が揺れた。


 怒りか。


 安堵か。


 どちらでもあるのだろう。


「……二年も」


 小さな声だった。


「二年も、倉庫にあったのですか」


「その可能性が高いです」


 エレナ院長は目を閉じた。


 しばらくして、言った。


「その年、外套が足りず、上の子たちは小さい子へ譲りました」


 クラリスは黙って聞く。


「十四歳の男の子がいました。もうすぐ奉公に出るから、自分は古いものでいいと言って、新しい外套を弟のように面倒を見ていた子へ渡しました。でも、その冬に熱を出しました」


 エレナ院長は、淡々と話す。


 淡々と話さなければ、続けられないのかもしれない。


「命に関わるほどではありませんでした。ですが、働き口へ出る日が遅れました」


 外套一着。


 帳簿では、そう書かれる。


 けれど実際には、子どもの冬と、奉公に出る日と、体調と、未来に関わる。


 クラリスは深く息を吸った。


「記録に残します」


「お願いします」


 エレナ院長は、そう答えた。


 それから、少しだけためらうように言った。


「でも、子どもたちの名は」


「出しません」


 クラリスはすぐに答えた。


「必要なのは、外套が届かなかった事実と、その影響です。個人名は保護します」


 エレナ院長は、初めて少しだけ表情を緩めた。


「ありがとうございます」


 その後、孤児院の衣類保管室を見せてもらった。


 古い外套が何枚も掛かっている。


 何度も繕われた袖。

 丈を直した裾。

 布を足した襟。


 どれも大切に使われていた。


 だが、冬用として十分な厚さがあるものは少ない。


 レオンハルトが一枚を手に取り、眉を寄せた。


「これは、外では寒い」


「はい」


 エレナ院長が答える。


「ですが、ないよりはましです」


 ないよりはまし。


 その言葉が、重く落ちた。


 王宮では使われない言葉だ。


 貴族の茶会では聞こえない言葉だ。


 でも、ここではその言葉が日常を支えている。


「灰倉で見つかった外套は、証拠確認後、こちらへ戻せるよう手続きします」


 レオンハルトが言った。


 エレナ院長は驚いたように彼を見る。


「戻るのですか」


「本来こちらへ届くべきものなら」


「でも、二年も倉庫にあったものです。使えるかどうか」


「品質を確認します。使えない場合は、王弟府から同数を補填します」


 エレナ院長は言葉を失った。


 しばらくして、深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


「礼は不要です」


 レオンハルトの声は少し硬かった。


「本来、届くべきでした」


 その言葉に、クラリスは彼の横顔を見た。


 王弟殿下としての責任。


 王族としての痛み。


 それが、静かに滲んでいた。


 王宮へ戻る馬車の中で、オスカーは沈んだ顔をしていた。


「数字が合うと、こんなに嫌な気持ちになることもあるのですね」


「はい」


 クラリスは答えた。


「二十四着、合ってしまいました」


「帳簿上は、美しく合っています」


 オスカーは苦く言う。


「でも、美しく合ってはいけない数字でした」


 誰もすぐには返さなかった。


 レオンハルトが窓の外を見ながら言う。


「モントレイ子爵家には、今日中に照会を出す」


「はい」


「強く否定した理由を聞こう」


「おそらく、家令か商人へ責任を押しつけます」


 クラリスは言った。


「だが、記録は出させる」


「ええ」


 王宮へ戻ると、すでにモントレイ子爵家から二通目の書簡が届いていた。


 最初の強い否定とは違い、文面は慎重だった。


 当家は黒鷹商会との直接契約を確認しておりません。ただし、一部物資手配において外部仲介が入っていた可能性があり、現在家内記録を確認しております。


 ローゼン侯爵夫人の私信が効いたのだろう。


 あの「善意を記録できぬ慈善など、社交界に誇るには少々心もとない」という一文は、かなり刺さったらしい。


 クラリスは書簡を読み、机に置いた。


「直接契約はない、でも外部仲介はある」


 オスカーが言う。


「逃げ道を作っていますね」


「はい。でも、その逃げ道を記録に残しました」


 そこが重要だった。


 完全否定から、外部仲介の可能性へ。


 一歩下がった。


 そして下がった場所に、こちらは線を引ける。


 その時、ミレーヌがマルタ女官長と共に顧問室へ入ってきた。


 手には整理番号をつけた文書束がある。


「クラリス顧問。王妃執務院内の未着報告控えを確認しました」


「結果は?」


 ミレーヌは緊張した顔で紙を開く。


「南施療院、西孤児院の他にも、同じ“財務院確認済。商会調整へ回付。至急扱い不要”の印がある記録が三件ありました」


 部屋の空気が止まった。


「三件」


「はい。一件は北施療所の包帯布不足。一件は東孤児院の冬用靴不足。もう一件は、王都外れの母子保護院への寝台布未着です」


 オスカーがすぐに筆を走らせる。


 レオンハルトの表情がさらに険しくなる。


「すべて慈善物資か」


「はい」


 ミレーヌの声は震えていた。


 だが、最後まで読んだ。


「処理印はいずれも同じです。担当者名は、南施療院と同じエドモン・ライル、またはその補佐と思われる者です」


「よく見つけました」


 クラリスが言うと、ミレーヌの目が潤みそうになった。


 でも、泣かなかった。


「マルタ女官長が、棚の奥まで確認するようにと」


 マルタは淡々と言う。


「見つけたのはミレーヌ様です」


 ミレーヌが驚いたように女官長を見る。


 マルタは表情を変えない。


「事実です」


 その短い一言で、ミレーヌは少しだけ背筋を伸ばした。


 クラリスは、その様子を見てから資料へ視線を落とす。


 同じ印が五件。


 南施療院。

 西孤児院。

 北施療所。

 東孤児院。

 母子保護院。


 慈善物資の未着や不足が、同じ処理で商会調整へ回され、至急扱いから外されている。


 これはもう偶然ではない。


 仕組みだ。


 誰かが、弱い場所からの声を「後回し」に分類する仕組みを作っていた。


「エドモン・ライルを呼び戻しましょう」


 クラリスは言った。


 レオンハルトが頷く。


「地方出納所へ使者を出す。任意聴取ではなく、王弟府命令で」


「逃げる可能性があります」


「監視をつける」


 ローゼン侯爵夫人にも、この報告はすぐ伝えられた。


 彼女は夕刻、再び顧問室に来た。


 書類を読んだ後、しばらく黙っていた。


「……こんなに」


 声は低かった。


「はい」


 クラリスは答えた。


「確認できているだけで五件です」


「全部、慈善物資」


「はい」


「全部、声の小さい場所」


 ローゼンは扇を握りしめる。


「施療院、孤児院、母子保護院。騒ぎ立てても社交界に届きにくい場所ばかり」


「だから狙われた可能性があります」


「許せませんわね」


 その言葉には、もう社交の薄布はかかっていなかった。


 ただの怒りだった。


「モントレイ子爵家は?」


「外部仲介の可能性を認め始めました」


「なら、次は私が直接行きます」


 クラリスは顔を上げた。


「夫人が?」


「ええ。子爵夫人は、私の前でなら余計な言い逃れをするでしょう。その言い逃れを、あなたが記録なさい」


 オスカーが小さく震えた。


「恐ろしい連携ですね」


 ローゼンは涼しく言う。


「社交界とはそういう場所です」


 レオンハルトが少し考え、頷いた。


「有効だ。だが、私も同席する」


「もちろんですわ、王弟殿下。王族の圧も必要ですもの」


「隠さないのだな」


「隠す段階は終わりました」


 ローゼンは扇を閉じた。


「子どもの外套が倉庫で二年眠っていたのです。こちらも少しは荒くなります」


 クラリスはその横顔を見た。


 かつて、社交界の古狸として立ちはだかった女性。


 今は、同じ帳簿の前に立っている。


 完全な味方かどうかはまだ分からない。


 けれど、少なくとも今この怒りは、本物だった。


 夜、顧問室にはまた新しい札が増えた。


 エドモン・ライル召喚。

 モントレイ子爵家面会。

 未着報告五件。

 灰倉外套二十四着。


 イリスは、その横にいつもの札を置く。


 睡眠。


 クラリスは、それを見て少しだけ笑った。


「今日は反論しないわ」


「よろしいです」


「明日が大変だから」


「そのための睡眠でございます」


 レオンハルトも頷く。


「明日、子爵家へ行く。今日は休め」


「はい」


 素直に返事をしたつもりだった。


 すると、オスカーが驚いた顔をした。


「本当に反論なしですね」


「オスカー様まで」


「記録しておきますか」


「しなくていいです」


 少しだけ笑いが起きた。


 重い一日だった。


 西孤児院で見た古い外套。


 見つかった二十四着。


 同じ処理印の未着報告。


 怒るローゼン侯爵夫人。


 明日向き合うモントレイ子爵家。


 どれも軽くはない。


 それでも、笑いが完全に消えなかったことに、クラリスは救われた。


 灰倉で見つかった外套二十四着は、二年もの間、冬を待っていた。


 もう、その冬を取り戻すことはできない。


 だが、次の冬を奪わせないことはできる。

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