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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第35話 燃え残った帳簿は、灰よりも雄弁でした

火事の知らせが届いた翌朝、王宮の空気はいつもより乾いていた。


 雨は降っていない。


 空はよく晴れている。


 それなのに、廊下を歩く者たちは皆、どこか煙の匂いを嗅いでいるような顔をしていた。


 黒鷹商会の倉庫が燃えた。


 その噂は、正式な通達より早く王宮内を駆け抜けた。


 港湾都市ヴァレン港。

 未明の火災。

 焼けた帳簿保管室。

 黒鷹商会。

 慈善物資。

 ノルヴァルト産毛織物。


 どれも、普通の女官や侍従には詳しく知らされていないはずの言葉だった。


 それでも、噂は形を持つ。


 人は、分からないことほど話したがる。


 クラリスが王宮臨時顧問室へ入ると、すでにオスカーがいた。


 目の下に少し影がある。


 だが、机の上の書類は整っていた。


「おはようございます、クラリス顧問」


「おはようございます。眠れましたか」


「二刻ほど」


「それは眠ったと言えるのですか」


「王宮基準では、ぎりぎり」


 いつもの冗談に聞こえる。


 だが、声は少し掠れていた。


 クラリスは机の上を見る。


 黒鷹商会関連の写し。

 ラドナー運送の支払い記録。

 王妃執務院に残っていた未着報告控え。

 南施療院の受領記録。

 ローゼン侯爵家から出された紹介状と回収記録。

 ノルヴァルト側の輸出記録。


 昨日の夜、できる限り複写し、別々の保管場所へ移したものだ。


 書類は、一か所に置かない。


 それは、ここ数日の教訓だった。


「港からの続報は?」


 クラリスが尋ねると、オスカーは一枚の報告書を差し出した。


「王弟府の調査官から第一報です。倉庫の帳簿保管室はかなり焼けています。ただ、全焼ではありません」


「残ったものが?」


「あります」


 その一言で、クラリスは背筋を伸ばした。


「どの程度ですか」


「水をかぶったもの、端が焼けたもの、煤で読みにくいもの。状態は悪いですが、いくつかの台帳は回収できたようです」


 オスカーは別紙を差し出した。


「中でも、倉庫入出庫控えの一部が残っています」


 クラリスはその写しを受け取った。


 まだ完全な解読ではない。


 しかし、読める文字がある。


 日付。

 品目。

 数量。

 出庫先。


 そして、一つの欄に、黒く焼け残った文字。


 灰倉移し。


「灰倉……?」


「港の倉庫街にある通称だそうです」


 オスカーが答える。


「正式な倉庫名ではありません。古い石炭置き場を転用した保管区画で、記録上は別名義になっています」


「黒鷹商会とは別?」


「表向きは」


「表向きは、ですね」


「はい」


 クラリスは報告書を見つめた。


 火事で帳簿保管室は焼けた。


 だが、焼け残った入出庫控えに「灰倉移し」という文字があった。


 つまり、抜かれた品物がすべて黒鷹商会内で消えたわけではない。


 別の保管区画へ移された可能性がある。


 まだ追える。


 そこへ、扉が開いた。


 レオンハルトが入ってくる。


 外套には、まだ朝の冷たい空気が残っていた。


「港の第一報は見たか」


「はい。灰倉移し、ですね」


「ああ。王弟府の調査官には、灰倉の封鎖を命じた」


「間に合いますか」


「分からない」


 レオンハルトは短く答えた。


 その正直さが、かえって状況の厳しさを示していた。


「火を出した者がいるなら、灰倉も動かしている可能性がある」


「はい」


「だが、こちらも昨日から港へ手を伸ばしていた。完全に後手ではない」


 完全に後手ではない。


 その言葉に、クラリスは少しだけ息を吐いた。


 以前なら、黒鷹商会の倉庫が燃えた時点で多くの証拠が失われていた。


 だが今は違う。


 ノルヴァルト側にも記録がある。

 王宮にも写しがある。

 施療院にも受領記録がある。

 ローゼン侯爵家にも控えがある。

 港には、焼け残った台帳がある。


 証拠は、もう一か所に閉じ込められていない。


「それと、もう一つ」


 レオンハルトが言った。


「黒鷹商会の代表、ダリオ・クレインの行方が分からない」


 オスカーの顔色が変わる。


「逃げたのですか」


「その可能性が高い。昨夜、港湾都市から南へ向かう馬車に乗ったという証言がある」


「誰かが逃がした?」


「あるいは、逃げるよう命じられたか」


 クラリスは、机の上の線図に目を落とした。


 ダリオ・クレイン。


 黒鷹商会の名義上の代表。


 実権は別にある可能性がある。


 もし彼がただの名義人なら、逃がされる理由は二つ。


 口封じ。

 あるいは、身代わりとして切り捨てるため。


「保護が必要かもしれません」


 クラリスが言うと、レオンハルトは小さく頷いた。


「同じことを考えた。追跡は捕縛だけでなく、保護目的で行わせている」


「よかった」


「君ならそう言うと思った」


 レオンハルトの声は少しだけ柔らかかった。


 だが、すぐに表情が戻る。


「問題は、情報漏れだ」


 部屋の空気が重くなる。


 黒鷹商会の名が本格的に出た直後の火災。


 偶然ではない。


 こちらの動きが、何らかの形で港へ伝わった。


「王宮内のどこかに、まだ漏らしている者がいます」


 クラリスは言った。


「財務院の残党か」


「可能性はあります。ただ、黒鷹商会の名を知っていたのは、財務院だけではありません」


 レオンハルトが視線を上げる。


「この顧問室、王弟府、王妃執務院、ローゼン侯爵家」


「ノルヴァルト大使館も」


 オスカーが付け加えた。


「もちろん、大使館側を疑うという意味ではありません。ただ、情報に触れた場所は複数あります」


「疑う範囲を広げすぎれば、誰も動けなくなる」


 レオンハルトが言った。


「だが、狭めすぎれば漏れる」


「はい」


 クラリスは少し考えた。


「情報を分けましょう」


「どういう意味だ」


「今後、各所へ伝える情報に少しずつ差をつけます。内容を変えすぎると混乱しますが、確認対象の順番や表現を分ければ、どこから漏れたか追える可能性があります」


 オスカーが目を上げた。


「情報の通し番号のようなものですね」


「はい。書類にも、写しごとに目立たない差を入れます」


「可能です。句読点、行間、表題の語順。記録として不自然にならない範囲で差をつけられます」


 レオンハルトは、わずかに感心したように言った。


「帳簿だけでなく、情報にも罠を仕込むのか」


「罠ではありません」


 クラリスは答えた。


「流れを確認するための印です」


 オスカーが小さく呟く。


「その言い方の方が怖いですね」


 イリスが、いつの間にか全員に茶を配っていた。


「お嬢様らしいです」


「褒めているの?」


「半分ほど」


「最近、半分ばかりね」


「残り半分は心配ですので」


 それは否定できなかった。


 午前のうちに、情報管理の新しい手順が決まった。


 王弟府へ渡す港湾資料。


 王妃執務院へ渡す慈善記録。


 ローゼン侯爵夫人へ渡す社交界関連資料。


 ノルヴァルト大使館へ渡す共同確認資料。


 それぞれ、内容は正確に保つ。


 だが、写しごとに微細な識別点を入れる。


 もし同じ文面が外へ漏れれば、どこから出たか分かる。


 ミレーヌは、その作業を聞いて目を丸くした。


「同じ書類なのに、少しだけ違うのですか」


「内容は同じです」


 クラリスは説明した。


「ただ、写しの見分けがつくようにします」


「そんなことをしても、相手は気づかないのですか」


「気づかれないようにするのが仕事です」


 ミレーヌは、少しだけ唇を結んだ。


「難しそうです」


「難しいわ」


「お姉様は、前からそういうことを?」


 クラリスは少し考えた。


「必要な時だけ」


 イリスが横から小さく言う。


「必要以上に」


「イリス」


「事実でございます」


 ミレーヌが少し笑った。


 だが、すぐに真面目な顔に戻る。


「私にも、できることはありますか」


「あります」


 クラリスは一枚の紙を渡した。


「王妃執務院内で使う慈善記録の写しに、整理番号をつけてください。ただし、番号だけではなく、配布先と保管場所も記録すること」


「はい」


「一枚でも行方不明になったら、すぐ報告を」


「分かりました」


 ミレーヌは、紙を大事そうに受け取った。


 最近の彼女は、仕事を受ける時の顔が変わった。


 以前のように「できる」と先に言わない。


 まず、聞く。


 確認する。


 分からないところを見つける。


 それは、王宮で働く者として大切な変化だった。


 午後、ローゼン侯爵夫人が顧問室へ来た。


 今日は珍しく、少し急いでいる様子だった。


 扇は持っている。


 だが、開いていない。


「黒鷹商会の火事、聞きましたわ」


「はい」


 クラリスは応接卓へ案内する。


「社交界でも噂になっていますか」


「もちろんです。港の火事が、なぜか王都の茶会で話題になる。社交界とはそういう場所です」


 ローゼンは椅子に座り、すぐに紙を一枚出した。


「昨夜出した私信への返答です。黒鷹商会を使ったことがあると認めた家が二つ。記録を確認中が三つ。強く否定した家が一つ」


「強く否定?」


「ええ。強すぎる否定です」


 ローゼンの目が鋭くなる。


「たいてい、後ろめたい方ほど声が大きい」


「家名は?」


 ローゼンは紙を指で押さえた。


「モントレイ子爵家です」


 オスカーが即座に帳簿をめくる。


「モントレイ……二年前、慈善音楽会を主催。寄付先は西孤児院。品目は冬用靴と毛織り外套」


「受領確認は?」


「一部未確認です」


 部屋の空気が、また冷えた。


 ローゼンは扇を閉じたまま言う。


「子爵夫人は、昨日の私信にこう返してきました。“当家は黒鷹などという怪しげな商会とは一切関わりがございません”と」


「誰も怪しげとは書いていません」


 クラリスが言うと、ローゼンは薄く笑った。


「そうですわ。自分で言いましたの」


 オスカーが記録する。


「要確認ですね」


「はい」


 クラリスは新しい線を引いた。


 黒鷹商会――モントレイ子爵家――西孤児院。


 また一つ。


 火が出ても、線は消えない。


 むしろ、燃えたことで慌てた者たちが動き出している。


 そこへ、王弟府から二通目の急報が届いた。


 レオンハルトが封を開く。


 今度は、読む途中で表情が変わった。


「灰倉を押さえた」


 全員の視線が集まる。


「中身は?」


「空に近い。だが、完全に空ではない」


 レオンハルトは報告書を机に置いた。


「古い箱が十七。帳簿の切れ端。布地の端切れ。焼却しかけた荷札。そして、封印のない木箱が一つ」


「中身は?」


「冬用外套。子ども用だ」


 ミレーヌが息を呑んだ。


 クラリスも、指先が冷えるのを感じた。


「数量は」


「二十四着」


「西孤児院の未確認寄付品と一致する可能性があります」


 オスカーが言った。


「二年前のモントレイ子爵家の慈善音楽会。寄付予定は冬用外套五十着。受領確認が取れているのは二十六着です」


 差は二十四着。


 灰倉で見つかった子ども用外套。


 数が合う。


 偶然にしては、あまりにも整いすぎていた。


 ローゼン侯爵夫人が、低く言った。


「……子どもの外套を、倉庫に隠していたの?」


 その声には、怒りがあった。


 クラリスは報告書を見る。


 灰倉。


 隠された外套。


 燃え残った荷札。


 黒鷹商会。


 モントレイ子爵家。


 ハイム商会。


 これはもう、帳簿の上の疑惑ではない。


 品物が出た。


 届くはずだったものが、届かずに倉庫で眠っていた。


「すぐに西孤児院へ確認を」


 クラリスが言うと、レオンハルトは頷いた。


「王弟府から使者を出す。外套は証拠として記録した後、必要なら補填品として渡せるよう手続きを進める」


「お願いします」


「それと、灰倉で見つかった荷札に、印があった」


「印?」


 レオンハルトは、紙を差し出した。


 煤で汚れた荷札の写し。


 そこには、小さな黒い鷹の印。


 そして、その下にもう一つ、見慣れた印があった。


 ヴァルト家の印章。


 オスカーが低く言う。


「つながりましたね」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「黒鷹商会とヴァルト家が、同じ荷札に残りました」


 バルツァー元財務卿。


 ヴァルト家。


 ハイム商会。


 ラドナー運送。


 黒鷹商会。


 灰倉。


 そして社交界の慈善事業。


 線はまだ複雑だ。


 だが、中心に近づいている。


 その日の夕方、王宮内には新しい命令が出された。


 黒鷹商会および関連倉庫の記録保全。

 ラドナー運送関係者の尋問準備。

 ヴァルト家への正式照会。

 モントレイ子爵家慈善音楽会の記録提出命令。

 西孤児院への確認使者派遣。


 王宮は、またざわめいた。


 だが、以前のようにただ混乱しているわけではなかった。


 各部署に担当がある。


 記録の保管場所がある。


 報告の流れがある。


 クラリス一人の机に、すべてが雪崩れ込むわけではない。


 夜、顧問室で最後の確認を終えたクラリスは、黒鷹商会の札の横に新しい札を置いた。


 灰倉。


 その横に、イリスが別の札を置く。


 睡眠。


 クラリスは、それを見て思わず瞬きをした。


「それは分類札ではないわ」


「最重要でございます」


「まだ報告が」


「終わっています」


「灰倉の」


「明日です」


 レオンハルトが扉のところで言った。


「今日は帰る」


「殿下まで」


「灰倉は封鎖した。外套も確保した。荷札も写しを取った。これ以上、今夜君が読むべきものはない」


 クラリスは、反論しようとして、やめた。


 確かに、そうだ。


 今日できる保全は済んだ。


 明日、皆で続きを見ればいい。


「分かりました」


 イリスが満足そうに頷く。


 オスカーは机に突っ伏しそうな顔で「助かります」と呟いた。


 ローゼン侯爵夫人は、帰り際に灰倉の札を見て言った。


「港の霧に隠れていたものが、ようやく形を持ちましたわね」


「はい」


 クラリスは答えた。


「でも、まだ霧は晴れていません」


「ええ」


 ローゼンは扇を閉じた。


「だからこそ、明日また記録を見るのでしょう?」


「はい」


「本当に、面倒な戦いですこと」


「夫人も、もう巻き込まれておいでです」


「知っていますわ」


 ローゼンは少しだけ笑った。


「逃げません」


 その言葉は短かった。


 けれど、頼もしかった。


 黒鷹商会は、港の霧に隠れていた。


 だが、燃え残った帳簿と、隠された外套が、その霧の奥へ道を作り始めている。


 そしてその道は、王宮だけではなく、社交界と国境の向こうまで続いていた。

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