第34話 黒鷹商会は、港の霧に隠れていた
黒鷹商会。
その名は、王都の貴族名簿には載っていない。
王宮出入りの御用商人一覧にも、表向きは載っていない。
ハイム商会やラドナー運送のように、王宮の帳簿へ何度も名前を出しているわけでもなかった。
それなのに、線をたどると、必ずどこかで影が差す。
港湾倉庫。
輸送仲介。
遠方品の手配。
慈善茶会の装飾品。
ノルヴァルト産毛織物。
そして、ラドナー運送からの定期的な支払い。
名前は見えない。
けれど、気配だけがある。
「幽霊のような商会ですね」
オスカーが、王宮臨時顧問室の机で帳簿をめくりながら言った。
朝の光が窓から差し込んでいる。
昨日、イリスに止められて閉じた黒鷹商会の資料は、今朝になって正式に開かれた。
机の上には、港湾都市から届いた商業台帳の写し、王弟府の調査票、ラドナー運送の支払い記録、そしてノルヴァルト側の輸出記録が並んでいる。
「幽霊なら、帳簿に足跡を残しません」
クラリスは言った。
「黒鷹商会は、足跡を残しています。ただ、靴を何度も履き替えているだけです」
オスカーが少しだけ遠い目をした。
「詩的ですね」
「そうでしょうか」
「はい。胃には来ますが」
いつもの調子だった。
イリスが茶を置きながら、表情を変えずに言う。
「オスカー様、今日は胃薬を先に用意しております」
「ありがとうございます。王宮で最も信頼できる配慮です」
「お嬢様にも必要でしたら」
「私は大丈夫よ」
「大丈夫な方は、昨日“黒鷹商会”の札を五分見つめ続けません」
「……見ていたの?」
「はい」
見られていた。
クラリスは軽く咳払いをして、資料へ視線を戻した。
黒鷹商会の所在地は、王都ではなく港湾都市ヴァレン港。
アルヴィア王国北西部にある大きな港で、ノルヴァルト公国との交易路の玄関口でもある。
表向きの事業は、倉庫業と輸送仲介。
王宮へ直接品を納める立場ではない。
だからこそ、王宮の帳簿にはほとんど出てこなかった。
しかし、港で荷を受け、倉庫に預かり、別の業者へ流す。
その途中に入り込めば、品物の数量も価格も、いくらでも曖昧にできる。
「こちらを見てください」
オスカーが一枚の記録を差し出した。
「黒鷹商会は、三年前の冬服輸送便で、倉庫保管の一時請負をしています」
「孤児院向け冬服二百着の便ですね」
「はい。ノルヴァルト側では二百着出荷。港湾到着も二百着。ですが王都到着後、孤児院へ届いたのは百七十着」
「その間に、黒鷹商会の倉庫を通っている」
「ええ」
クラリスは記録を読む。
入庫、二百着。
出庫、二百着。
数字だけ見れば問題ない。
だが、出庫先が二つに分かれていた。
百七十着はラドナー運送へ。
三十着は、別倉庫へ移送。
備考欄には、小さくこうある。
検品不良分、再確認。
「検品不良分」
クラリスは呟いた。
「便利な言葉です」
オスカーが頷く。
「三十着を一時的に外す理由として使えます。その後、再確認記録が見つかっていません」
「消えたのですね」
「おそらく」
そこへ、レオンハルトが入ってきた。
手には王弟府からの封書。
朝から国王への報告を済ませてきたらしく、少しだけ表情が硬い。
「新しい報告だ」
「黒鷹商会ですか」
「ああ」
レオンハルトは封書を机に置いた。
「黒鷹商会の名義上の代表は、ダリオ・クレイン。港の商人だ。だが実権を握っているのは、別の人物らしい」
「誰ですか」
「まだ名は確定していない。だが、商会の大口資金は“灰の組合”と呼ばれる港湾商人団から出ている」
オスカーが眉を寄せた。
「灰の組合?」
「正式名称ではない。港での通称だ。表に出ない仲介業者の集まりで、荷の保管、転売、再輸送を請け負う」
クラリスは紙に書き留める。
黒鷹商会。
灰の組合。
さらに影が増えた。
「合法なのですか」
「表向きはな。問題は、品質不良、検品保留、再仕立て予定といった名目で荷を一度外し、別の流れに乗せることだ」
「慈善物資が、そこで抜かれた可能性がある」
「高い」
レオンハルトの声が低くなる。
「さらに、黒鷹商会はバルツァー元財務卿の甥が関わる投資組合から融資を受けている」
部屋の空気が、また重くなった。
やはり、バルツァーの影は消えない。
彼一人で終わらないと言ったあの言葉は、警告であり、ある種の自白でもあったのかもしれない。
「ローゼン侯爵夫人には?」
クラリスが尋ねると、レオンハルトは首を横に振った。
「まだ伝えていない」
「伝えるべきです」
「そうだな。ただ、伝え方を考えたい」
「夫人の慈善茶会が、黒鷹商会の線にもつながる可能性があります」
「だからこそだ」
ローゼン侯爵夫人は、今や協力者だ。
だが、完全な味方と言い切るにはまだ早い。
そして何より、彼女の社交界での影響力は大きい。
不用意に伝えれば、噂が先に走る。
逆に隠せば、夫人の信頼を失う。
クラリスは少し考えた。
「事実だけを伝えましょう。黒鷹商会が慈善物資の倉庫保管に関わっていたこと。ラドナー運送とつながりがあること。バルツァー元財務卿の甥の投資組合から融資を受けていたこと」
「推測は?」
「控えます」
「良い」
レオンハルトは頷いた。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのはミレーヌだった。
手には清書された提出様式案を持っている。
だが、顔が少し強張っていた。
「クラリス顧問」
「どうしました」
「王妃執務院の文書控え棚で、変なものを見つけました」
変なもの。
その言い方は曖昧だが、ミレーヌの顔を見る限り、ただの誤字や封筒違いではなさそうだった。
「見せてください」
ミレーヌは一枚の古い控えを差し出した。
それは三年前、南施療院から届いた未着報告の受領控えだった。
つまり、昨日サーラ院長が見せたものと同じ報告が、王妃執務院に届いていたことを示す紙である。
問題は、その下に押された処理印だった。
財務院確認済。商会調整へ回付。
処理担当者の名は、見慣れない下級文官。
その横に、薄い朱で別の印がある。
至急扱い不要。
「至急扱い不要……」
オスカーの声が硬くなった。
「南施療院の膝掛け未着報告が、至急扱い不要にされた」
ミレーヌは頷く。
「はい。それで、王妃執務院の通常未処理束ではなく、財務院連絡済みの箱に入っていました」
「よく見つけましたね」
クラリスが言うと、ミレーヌは少しだけ目を伏せた。
「用語表を作るために、未着時の報告先を確認していたら、似た記録がありました。……前の私なら、たぶん見ませんでした」
その声は小さかったが、確かだった。
クラリスは、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
妹が、ただ与えられた写し仕事をしているだけではない。
自分で探し、違和感を持ち、持ってきた。
「とても重要な記録です」
クラリスは言った。
ミレーヌの顔が少し上がる。
「本当ですか」
「ええ。南施療院の報告が王妃執務院で止まったのではなく、財務院へ回され、そこから商会調整へ流されたことが分かります」
レオンハルトが記録を見て、目を細める。
「そして、至急扱い不要にした者がいる」
「この下級文官を確認しましょう」
オスカーが言う。
「名前はエドモン・ライル。現在は財務院から地方出納所へ異動しています」
「異動時期は?」
「二年前です」
「バルツァー元財務卿の部下ですね」
「おそらく」
また一つ、王宮内の線が出た。
黒鷹商会は港の霧に隠れている。
しかし、その霧へ荷を流したのは、王宮内の誰かでもある。
「ミレーヌ」
クラリスは妹を見る。
「この控えをどこで見つけたか、記録にしてください。棚の位置、箱の表題、挟まれていた前後の文書も」
「はい」
「それから、同じ印のある文書が他にないか、マルタ女官長と一緒に確認を」
「分かりました」
ミレーヌは、少しだけ緊張した顔で頷いた。
そこへイリスが横から言う。
「ミレーヌ様」
「はい」
「休憩も記録してくださいませ」
「休憩も?」
「お嬢様の妹君ですので、放っておくと似ます」
ミレーヌがぱちぱちと瞬きをした。
クラリスは慌てて言う。
「似ません」
イリスは無表情のまま答える。
「似ています」
レオンハルトまで頷いた。
「少し似ている」
「殿下まで」
ミレーヌは、少しだけ笑った。
緊張がほどけたようだった。
「分かりました。休憩も記録します」
それでいい。
クラリスは、そう思った。
重要な記録を見つけても、その人自身が潰れてはいけない。
それを自分は、ようやく学び始めたところなのだから。
午後には、ローゼン侯爵夫人が再び王宮へ来た。
黒鷹商会の件を伝えるためである。
夫人は顧問室に入るなり、机の上に置かれた新しい札を見た。
黒鷹商会。
扇の動きが、一瞬止まった。
「やはり、その名が出ましたのね」
「ご存じだったのですか」
クラリスが尋ねると、ローゼンは少しだけ眉を寄せた。
「名前だけは、と申し上げましたでしょう。ですが、今朝思い出したことがあります」
「何でしょう」
「黒鷹商会は、ある夫人方の間で“便利な港の手”と呼ばれていました。珍しい品を早く、安く、表の商会を通さずに用意する時に使われる、と」
「表の商会を通さずに」
「ええ。社交界には、そういうものを好む方もおります。誰より早く珍しい布を使いたい。王都では手に入らない香を出したい。遠方の菓子を用意したい」
ローゼンの声には、苦々しさがあった。
「見栄ですわ」
その一言は、鋭かった。
「見栄が、慈善物資の流れと重なった」
クラリスが言うと、ローゼンは頷いた。
「そういうことなのでしょうね」
レオンハルトが尋ねる。
「夫人、その“便利な港の手”を使っていた家の名は分かりますか」
「分かる限り、書き出します」
「記録に残る形で」
「もちろん」
ローゼンは扇を閉じた。
「ここまで来て、口先だけで済ませるつもりはありませんわ」
オスカーがすぐに紙を用意する。
ローゼンは、いくつかの家名を書き出した。
ヴェルナー伯爵家は入っていない。
だが、先ほど「拒否に近い」に分類された三家のうち、二家がそこにあった。
クラリスは視線を落とす。
偶然ではない。
記録提出を嫌がる理由が見えてきた。
「この二家には、早めに正式照会を出します」
「私からの私信も重ねます」
ローゼンが言う。
「逃げられないように?」
「面子を保って出せるように、ですわ」
言い方は優雅だったが、中身はかなり強い。
クラリスは少しだけ笑った。
「頼もしいです」
「あなたに頼もしいと言われる日が来るとはね」
「不本意ですか」
「半分は」
「半分は?」
「悪くありません」
ローゼンは、ほんの少しだけ笑った。
その時、王弟府の使者が飛び込んできた。
普段なら、顧問室へ入る前に必ず取次を待つ。
それを省いたということは、急ぎだ。
「殿下」
使者はレオンハルトへ封書を差し出した。
「ヴァレン港より至急報告です」
レオンハルトが封を切る。
読み進めるにつれ、表情が変わった。
「どうされました」
クラリスが尋ねる。
レオンハルトは封書を机に置いた。
「黒鷹商会の倉庫で火が出た」
空気が凍った。
「火事ですか」
「ああ。今朝未明。幸い死者は出ていない。だが、倉庫の一部と帳簿保管室が焼けた」
オスカーが青ざめる。
「帳簿保管室……」
「証拠隠滅かもしれない」
レオンハルトの声が低い。
クラリスは、紙を見つめた。
昨日、黒鷹商会の名が王宮で出た。
今日、港で火が出た。
早すぎる。
偶然ではない可能性が高い。
「情報が漏れています」
クラリスは言った。
誰も否定しなかった。
王宮内か。
王弟府か。
財務院の残党か。
社交界か。
それとも、黒鷹商会側がもともと警戒していたのか。
分からない。
だが、こちらの動きが伝わっている。
イリスが静かに言った。
「お嬢様」
「何?」
「今日はここまで、とは言えなさそうですね」
「ええ」
クラリスは立ち上がった。
「まず、現存する写しの保全を。黒鷹商会に関する王宮内資料、ラドナー運送の支払い記録、ノルヴァルト側輸出記録、すべて複写して別保管します」
オスカーがすぐに頷く。
「書記官室へ指示します」
「ミレーヌが見つけた王妃執務院の控えも」
「マルタ女官長へ連絡します」
レオンハルトは使者へ命じた。
「ヴァレン港へ追加調査官を出す。火災現場の封鎖、残存帳簿の確保、黒鷹商会代表ダリオ・クレインの身柄確認」
「承知しました」
ローゼンは、扇を閉じたまま言った。
「社交界の方も急ぎます。黒鷹商会を使っていた家が、今夜中に帳簿を処分しないとは限りません」
クラリスはローゼンを見る。
「夫人」
「私から、今すぐ私信を出します。記録提出を遅らせれば、王妃執務院への非協力と見なされる可能性がある、と」
「かなり強い文面になります」
「火が出た後ですもの。優雅な言葉で包む時間は終わりましたわ」
その言葉に、場の全員が頷いた。
港の霧に隠れていた黒鷹商会。
その倉庫に火がついた。
つまり、誰かが焦っている。
誰かが証拠を消そうとしている。
それは恐ろしいことだ。
だが同時に、こちらが核心に近づいている証でもあった。
その夜、王宮の灯りは遅くまで消えなかった。
ただし、クラリス一人が残ったわけではない。
オスカーは書記官室で写しを取り、ミレーヌはマルタ女官長と王妃執務院の控え棚を確認し、レオンハルトは王弟府から港へ使者を飛ばし、ローゼンは社交界へ私信を書いた。
イリスは、各所へ茶と軽食を配りながら、全員の休憩時刻まで記録した。
クラリスは顧問室の中央で、黒鷹商会の札を見つめた。
火は、証拠を焼くために放たれたのかもしれない。
けれど、すべてが燃えたわけではない。
記録はもう、一か所にはない。
王宮に。
神殿に。
施療院に。
ノルヴァルト大使館に。
社交界の各家に。
少しずつ、写しが残っている。
それが、これまで積み上げてきた改革の意味だった。
見えない仕事に名前をつけたこと。
届かなかったものを記録したこと。
誰か一人の机に集めず、皆で持つようにしたこと。
それが今、火から証拠を守っている。
「燃やせるものなら、燃やしてみなさい」
クラリスは小さく呟いた。
隣でイリスが、少しだけ目を丸くした。
「お嬢様」
「何?」
「今の一言は、なかなか強いです」
「聞こえていたの?」
「はい」
クラリスは少し恥ずかしくなり、視線を逸らした。
イリスは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ですが、嫌いではありません」
黒鷹商会の火災は、静かな調査を次の段階へ押し上げた。
港の霧は晴れない。
だが、その向こうで誰かが動揺している。
クラリスたちは、もうその気配を見失わなかった。




