表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/44

第33話 社交界に、記録という嵐が吹きました

 王妃執務院から出された一枚の通知は、翌朝には王都中の馬車道を走っていた。


 白い封筒。

 王妃の承認印。

 王宮臨時顧問クラリス・フォン・エルディアの署名。

 そして、協力者として記されたローゼン侯爵夫人の名。


 社交界慈善記録整理への協力依頼。


 言葉だけ見れば、穏やかなものだった。


 過去六年に行われた慈善茶会、慈善晩餐、寄付品贈呈式について、寄付品の品目、数量、納入先、受領確認の有無を整理したい。

 目的は、慈善活動の正確な記録化と、今後の支援体制改善である。

 各家の善意を正しく残すため、可能な範囲で記録提出に協力してほしい。


 脅しではない。


 告発でもない。


 だが、その通知を受け取った貴族家の反応は、穏やかとは言い難かった。


 王都西区のある伯爵家では、夫人が封筒を読んだ瞬間、扇を落とした。


「寄付品の受領確認ですって? そんなもの、全部残していないわ」


 別の侯爵家では、執事が青い顔で古い帳簿棚を開けた。


「奥様、三年前の慈善晩餐の控えが……二冊ほど見当たりません」


 ある子爵家では、若い令嬢が母親の後ろから通知を覗き込み、小さく呟いた。


「……私が夜に写した招待客名簿も、記録に入るのかしら」


 その日の午前、社交界は茶よりも記録の話題で持ちきりになった。


 そして王宮臨時顧問室には、その反応が次々と届いていた。


「返信、早すぎませんか」


 オスカーが、机の上に積まれた封書を見て言った。


 彼の顔には、すでに胃痛の影がある。


「早い方がありがたいです」


 クラリスは封書を一つ開きながら答えた。


「後から来るほど、言い訳が整います」


「確かに。それはそれで怖いですね」


 イリスが無言で封書を分類している。


 机の上には、いくつもの札が置かれていた。


 協力的。

 記録不足。

 回答保留。

 拒否に近い。

 要確認。


 さらに、イリスが勝手に作った札が一枚ある。


 お嬢様が一人で返事を書かない。


「これは毎回必要なの?」


 クラリスが尋ねると、イリスは迷わず頷いた。


「必要でございます」


「今回は書簡が多いから、少しは」


「必要でございます」


 二度言われた。


 反論の余地はなかった。


 レオンハルトは王弟府から届いた返答一覧を見ている。


「反発している家は、予想通りだな」


「ローゼン侯爵夫人と距離がある家ほど、様子見ですね」


 クラリスは封書を読みながら言った。


「逆に、夫人と近い家の方が二つに割れています。夫人が協力者として名を出したから、すぐ従う家。何か裏があると警戒する家」


「ローゼンの名は、やはり強い」


「はい」


 強い。


 それは味方にしても敵にしても変わらない。


 社交界の女王が協力者に名を連ねたことで、記録整理は単なる王宮の命令ではなくなった。


 夫人方にとっては、無視しにくい。


 しかし同時に、警戒もされる。


 ローゼン侯爵夫人が自分の茶会を調べさせている。

 なぜか。

 誰かを切るつもりなのか。

 それとも、自分が巻き込まれたのか。


 噂は早い。


 そして、噂は事実より先に走る。


「クラリス顧問」


 オスカーが一通の封書を差し出した。


「これは少し気になります」


 差出人は、ヴェルナー伯爵夫人だった。


 丁寧な文面である。


 だが、内容は簡潔だった。


 過去六年分の慈善茶会記録を提出する準備があること。

 ただし、二年前にハイム商会を通じて寄付した冬用布の一部について、受領確認が返ってきていないこと。

 当時は単なる事務遅れと考えていたが、今回の整理を機に確認したいこと。


「ヴェルナー伯爵夫人も、ハイム商会を」


 クラリスは低く呟いた。


「はい」


 オスカーは別の一覧を広げた。


「これまでに名前が出た家のうち、少なくとも五家がハイム商会を使っています」


「バルツァー元財務卿の紹介ですか」


「二家はそうです。一家はローゼン侯爵夫人の茶会で使われていたから安心だと思った、と書いています。残り二家は、執事や家令の判断」


 レオンハルトの目が細くなる。


「つまり、ローゼンの名も利用された」


「可能性が高いです」


 クラリスは、机の上の線図に新しい線を引いた。


 ハイム商会から、ローゼン侯爵家へ。


 ローゼン侯爵家から、社交界の複数家へ。


 バルツァー元財務卿から、ハイム商会へ。


 ヴァルト家とラドナー運送を介して、金と物が動く。


 線は複雑だ。


 だが、少しずつ形が見えてきた。


「広がり方が、病のようですね」


 イリスが静かに言った。


「一つの家だけではなく、信頼を媒介に広がっている」


「信頼を媒介に」


 クラリスはその言葉を繰り返した。


 まさにそうだ。


 ハイム商会は、ただ安い品を売ったのではない。


 誰かの信頼を使って入り込んだ。


 王宮財務卿の推薦。

 ローゼン侯爵夫人の慈善茶会。

 貴族家の家令や執事たちの横のつながり。


 信頼がある場所ほど、確認が甘くなる。


 そして善意の寄付ほど、細かく問い詰めにくい。


 そこを突かれた。


 昼前、ローゼン侯爵夫人が王宮へ来た。


 今日は事前の約束通りである。


 彼女は顧問室に入るなり、机の上の分類札を見た。


 そして、ほんの少しだけ眉を上げる。


「“拒否に近い”という札は、なかなか直接的ですわね」


「内部分類です」


 クラリスは答えた。


「夫人がご覧になる予定ではありませんでした」


「見えてしまいましたわ」


「では、見えた記録として残します」


「本当に徹底していること」


 ローゼンは少しだけ笑った。


 以前のような毒のある笑みではない。


 しかし、いつもの鋭さは戻りつつある。


 扇も今日は持っている。


 ただし、まだ開いていない。


「反応は?」


 ローゼンが尋ねる。


 クラリスは一覧を差し出した。


「協力的な家が七。記録不足が五。回答保留が四。拒否に近いものが三」


「拒否に近い三家は?」


 クラリスは名前を示した。


 ローゼンの目が、少しだけ細くなる。


「なるほど。私に茶会の招待状を送る時だけは筆まめな方々ですこと」


 オスカーが咳をした。


 レオンハルトも、わずかに口元を動かした。


 ローゼンは扇の先で一覧を軽く叩く。


「この三家は、私からも声をかけます」


「圧力になりませんか」


「なりますわ」


 即答だった。


 クラリスは目を瞬かせた。


 ローゼンは涼しい顔で続ける。


「ただし、今回は必要な圧力です。慈善の記録を出せない理由があるなら、その理由を言わせればよろしい」


「夫人」


「クラリス顧問。社交界は、お願いだけでは動きません」


 ローゼンは、ようやく扇を開いた。


 ぱちり、と小さな音がした。


「けれど、脅しだけでも動きません。相手に逃げ道と面子を残しながら、出すべきものを出させるのです」


「その方法をご存じなのですね」


「存じておりますわ。そうやって何十年も生きてきましたもの」


 その声には、誇りと苦みが混じっていた。


 クラリスは頷いた。


「では、お願いします。ただし」


「ただし?」


「記録に残る形で」


 ローゼンは一瞬黙った。


 それから、扇の奥で笑った。


「本当に、色気のない方」


「よく言われます」


「褒めていませんわよ」


「半分は褒めていただいていると受け取ります」


 ローゼンは、今度こそ声を出して笑った。


「よろしい。記録に残る形で、社交界らしい圧力をかけて差し上げます」


 不穏な言い方だ。


 だが、今は心強くもある。


 その時、扉が叩かれた。


 入ってきたのはミレーヌだった。


 手には、昨夜から作っていた用語表の修正版と、社交界慈善記録の提出様式案を抱えている。


 ローゼン侯爵夫人がいるのを見て、一瞬だけ足が止まった。


 以前なら、そこで顔に出ていただろう。


 今日は少し緊張しただけで、すぐに礼をした。


「ローゼン侯爵夫人。失礼いたしました」


「まあ、ミレーヌ嬢」


 ローゼンは穏やかに微笑む。


「ずいぶん実務の顔になりましたわね」


 ミレーヌの頬が少し赤くなる。


 だが、逃げなかった。


「まだ練習中でございます」


「練習中と言える方は、伸びますわ」


 その言葉に、クラリスは少し驚いた。


 ローゼンがミレーヌをからかわなかった。


 むしろ、静かに認めた。


 ミレーヌもそれを感じたのか、深く礼をする。


「ありがとうございます」


「提出物ですか」


 クラリスが尋ねると、ミレーヌは慌てて頷いた。


「はい。慈善記録の提出様式案です。品目、数量、寄付元、納入先、受領確認、再利用予定、未着時の報告先を入れました」


 オスカーが受け取り、目を通す。


 すぐに表情が変わった。


「これは使えますね」


「本当ですか」


「はい。特に“再利用予定”と“未着時の報告先”を入れたのが良いです」


 ミレーヌの顔がぱっと明るくなりかけ、すぐに引き締まる。


「ありがとうございます」


 ローゼンが様式案を見て、ゆっくり頷いた。


「これなら夫人方にも説明しやすいですわね。難しすぎず、逃げにくい」


「逃げにくい」


 ミレーヌが少し困った顔をする。


「はい、良い様式です」


 ローゼンはさらりと言った。


 ミレーヌは、褒められたのか恐ろしい評価をされたのか分からない顔をしていた。


 クラリスは少しだけ笑いそうになった。


「ミレーヌ、この様式を清書して、マルタ女官長にも確認を」


「はい」


「それから、ローゼン侯爵夫人のご意見も反映します」


 ミレーヌはローゼンを見る。


 ローゼンは扇を軽く動かした。


「“善意の記録”という欄を入れるとよろしいわ」


「善意の記録、ですか?」


「ええ。寄付した側が何を願って出したのか、一言で残す欄です。例えば“冬の病室用”“孤児院の外出着用”“施療院の夜間用”など」


 クラリスは、その提案に目を細めた。


 良い。


 ただの品目ではなく、意図が残る。


 何のために出したものかが明確になれば、別用途へ回された時に気づきやすい。


「入れましょう」


 クラリスは言った。


「ミレーヌ、できますか」


「はい」


 ミレーヌは力強く頷いた。


「善意の記録、入れます」


 その言葉を聞いた時、部屋の空気が少しだけ変わった。


 かつて「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言った妹が、今は善意を記録する欄を作っている。


 それは小さな変化だ。


 でも、確かな変化だった。


 午後には、ローゼン侯爵夫人から社交界の主要夫人たちへ、追加の私信が出された。


 文面は優雅だった。


 慈善活動の尊さ。

 記録を残すことの意義。

 寄付品が確かに届いたことを確認する大切さ。

 王妃執務院への協力のお願い。


 しかし、最後の一文だけは、ローゼンらしかった。


 善意を記録できぬ慈善など、社交界に誇るには少々心もとないものですわね。


 オスカーはその文を読んで、震えた。


「これは……強いですね」


「社交界らしい圧力ですわ」


 ローゼンは涼しく言った。


 レオンハルトが短く評した。


「効くだろうな」


「効きますわ」


 夫人は自信満々だった。


 実際、その効果は早かった。


 夕方までに、回答保留だった家のうち二家が「記録を整理して提出する」と返答してきた。


 拒否に近かった一件も、表現を改めた。


 完全な協力ではないが、少なくとも扉は開いた。


 クラリスは届いた返答を分類しながら、ふとローゼンを見た。


「夫人」


「何かしら」


「やはり、社交界では夫人のお名前は強いのですね」


「そうね」


 ローゼンは否定しなかった。


「長く積み上げてきましたから」


「それを今回、記録整理に使ってくださっている」


「私の茶会が利用されたのですもの。利用されたままで終わるのは、腹が立ちます」


 率直だった。


 美しい理念だけではない。


 怒りもある。

 誇りもある。

 面子もある。


 でも、それでいいのかもしれない。


 人を動かすのは、正しさだけではない。


 悔しさや誇りが、時に正しい方向へ向くこともある。


 その時、王弟府から使者が来た。


 ラドナー運送に関する追加報告だった。


 レオンハルトが封を開け、すぐに表情を険しくする。


「どうされました」


 クラリスが尋ねると、彼は紙を机に置いた。


「ラドナー運送の帳簿から、定期的な支払い先が見つかった」


「ヴァルト家ですか」


「一部はな。だが、別にもう一つある」


 レオンハルトは、指で名前を示した。


 黒鷹商会。


 聞いたことのない名だった。


 オスカーが眉を寄せる。


「王都商業台帳では見た記憶がありません」


「港湾都市の商会だ。表向きは倉庫業と輸送仲介」


 クラリスは胸の奥に、嫌な予感が沈むのを感じた。


「ノルヴァルトとの取引は?」


「ある」


 レオンハルトは短く答えた。


「しかも、リュード商会の荷を何度か扱っている」


 部屋の空気が重くなった。


 ハイム商会、ラドナー運送、ヴァルト家。


 そこまでは王国内の線だった。


 だが、黒鷹商会が港湾都市でノルヴァルト商流とつながるなら、国境を越えた線がさらに濃くなる。


 ローゼンも扇を止めた。


「黒鷹商会……」


「ご存じですか」


 クラリスが問うと、夫人は少しだけ考えた。


「名だけは。確か、数年前から社交界の裏方に入り始めた商会ですわ。表には出ませんが、大きな茶会や晩餐会で、遠方の品を手配する時に名前が出ることがあります」


「誰が紹介を?」


「……何度か、バルツァー財務卿の周辺で聞いた覚えがあります」


 またバルツァー。


 だが、もう彼一人の不正ではない。


 黒鷹商会。


 新しい中心候補が現れた。


 クラリスは新しい札を作った。


 黒鷹商会


 イリスが、その横に別の札を置く。


 今日はここまで


「イリス」


「終業時刻です」


「でも」


「お嬢様」


 イリスの声は静かだった。


「黒鷹は明日も黒鷹です」


 オスカーが、珍しく真顔で頷いた。


「逃げる前に記録保全だけは済ませました。今日はここまでがよろしいかと」


 レオンハルトも言う。


「王弟府で監視をかける。今夜、君が読む必要はない」


 クラリスは、黒鷹商会の名を見つめた。


 読みたい。


 調べたい。


 今すぐ線を追いたい。


 けれど、ここで無理をすれば、また以前に戻る。


 自分一人で抱えて、周りを巻き込む。


 それでは駄目だ。


「分かりました」


 クラリスは書類を閉じた。


「明日、皆で確認します」


 ローゼンが、その様子をじっと見ていた。


「あなた、本当に変わっているのね」


「そうでしょうか」


「以前のあなたなら、たぶん今すぐ全部読もうとしたでしょう」


「夫人にも分かりますか」


「分かりますわ。昔の私も、そうでしたから」


 その言葉に、クラリスは少しだけ目を伏せた。


 人は、似ている相手ほど厳しく見る。


 ローゼンが最初にクラリスへ反発した理由が、少し分かった気がした。


 顧問室の灯りが落とされる。


 机の上には、新しい札が残った。


 黒鷹商会。


 社交界の慈善記録は動き始めた。


 だが、その奥にはまだ、港湾都市の影が広がっている。


 記録という嵐は、王宮から社交界へ。


 そして次は、王都の外へ向かおうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ