第32話 侯爵夫人は、施療院の古い膝掛けを見た
ローゼン侯爵夫人が南施療院へ行きたいと言い出した時、クラリスは一瞬だけ返事に迷った。
行くべきだと思った。
だが、行かせてよいのかとも思った。
南施療院は、社交界の茶会場ではない。
花も香も、客のために整えられた銀器もない。
病人がいる。
薬草の匂いがする。
洗いざらしの布が干されている。
咳をする人がいる。
痛みをこらえる人がいる。
そこは、帳簿の数字が人の生活として現れる場所だった。
ローゼン侯爵夫人は、それを見ると言った。
扇を閉じたまま。
「本当に行かれますか」
王宮臨時顧問室で、クラリスはそう確認した。
ローゼンは、昨日よりさらに控えめな装いだった。
濃紺のドレス。
飾り気のない外套。
白い扇は持っているが、今日は腰の横に下げているだけで、手にはしていない。
「ええ」
短い返事だった。
「サーラ院長にもご負担をかけます」
「承知しています」
「現場をご覧になれば、不快な思いもなさるかもしれません」
「不快になる権利が私にあると思って?」
クラリスは、言葉を止めた。
ローゼンは、静かに続けた。
「不快になるべきなのは、届くはずの膝掛けを待っていた方々です。私は、それを見ずに茶を飲んでいた側ですわ」
その声には、昨日から変わらない怒りがあった。
ただし、誰か一人を責めて終わる怒りではない。
自分自身にも向いている怒りだった。
レオンハルトが、少し離れた席から口を開いた。
「同行者は限ります。私、クラリス、オスカー、イリス。夫人側は?」
「侍女を一人だけ」
「執事グレヴィスは?」
「職務停止中です。来させません」
きっぱりとした答えだった。
オスカーが記録を取りながら、小さく頷いた。
その日、馬車は二台だけで王宮を出た。
ローゼン侯爵家の馬車は、いつもの華美なものではない。紋章は入っているが、控えめな外出用だった。
道中、ローゼンはほとんど話さなかった。
クラリスも無理に話しかけなかった。
馬車の中には、紙の擦れる音だけがあった。
ローゼンは、南施療院の未着記録の写しを膝の上に置いていた。
何度も読むわけではない。
ただ、そこに置いている。
まるで忘れないための重りのように。
南施療院に着くと、サーラ院長が門の前で待っていた。
彼女はローゼン侯爵夫人を見ると、一瞬だけ目を細めた。
驚きではない。
懐かしさでもない。
もっと複雑な感情だった。
「ローゼン侯爵夫人」
「サーラ院長」
ローゼンは深く礼をした。
貴婦人が施療院の管理者へ向けるには、少し深すぎる礼だった。
サーラ院長は受け止めた。
ただし、すぐには許すような顔をしなかった。
「お久しぶりでございます」
「ええ。長く足を運びませんでした」
ローゼンの声は落ち着いていた。
「今日は、届かなかった膝掛けの記録を確認しに参りました」
「記録室へご案内します」
サーラ院長は、それ以上何も言わずに歩き出した。
南施療院の廊下は、王宮よりずっと狭い。
壁は古く、床板はところどころ軋む。
だが、どこも清潔だった。
薬草の匂い。
煮沸した布の湯気。
遠くで聞こえる咳。
ローゼン侯爵夫人は、廊下を歩く間、一度も顔をしかめなかった。
ただ、手元の扇を握る指が少しだけ白くなっていた。
記録室で、サーラ院長は昨日と同じ帳面を開いた。
ローゼンは椅子に座らず、立ったままその文字を見た。
ローゼン侯爵夫人慈善茶会装飾布、再仕立て膝掛け三十枚。納入予定。
その下。
未着。代替品として薄手布十五枚受領。ハイム商会より。
ローゼンは、指先でその赤字をなぞりかけて、途中で止めた。
触れる資格がないと思ったのかもしれない。
「この報告を、私は見ておりませんでした」
ローゼンが言った。
サーラ院長は静かに答えた。
「でしょうね」
「……そう言われると思っていました」
「届いていないと直接お伝えしたかったのです。ですが、ハイム商会から、寄付元への連絡は王宮を通すようにと言われました」
「ええ。記録で確認しました」
「その後、返答はありませんでした」
「申し訳ありません」
ローゼンは頭を下げた。
サーラ院長は、すぐには返さなかった。
しばらくして、淡々と言う。
「夫人に直接お怒りを申し上げたいわけではありません」
「はい」
「ですが、あの年は寒かった」
その言葉だけで、部屋が静かになった。
「病室をご覧になりますか」
サーラ院長が尋ねた。
ローゼンは、少しだけ息を吸った。
「お願いします」
病室には、数人の患者がいた。
見舞いの邪魔にならないよう、入口近くから見せてもらうだけだった。
古い膝掛けが、一枚の寝台にかけられている。
昨日クラリスも見た、擦り切れた膝掛けだ。
ローゼンの目が、その布に止まった。
「あれは……」
「十年前、夫人からいただいたものです」
サーラ院長が言った。
「まだ使っているのですか」
「質が良いので。何度も繕いましたが、温かいのです」
ローゼンは、動かなかった。
昔、自分が確かに届けたもの。
それは今もここにある。
だからこそ、届かなかったものの重さが見える。
彼女は、しばらくその古い膝掛けを見つめていた。
笑わなかった。
扇も開かなかった。
「私は」
ローゼンの声は小さかった。
「これを見に来るべきでしたわ」
サーラ院長は、何も言わなかった。
許すでもなく、責めるでもなく、ただその場に立っていた。
クラリスは、その沈黙が正しいと思った。
ここで優しい言葉をかければ、楽になる。
でも、楽にしてはいけない痛みもある。
記録室へ戻ると、ローゼンは持参した小さな革袋を机に置いた。
「これは?」
サーラ院長が尋ねる。
「膝掛け三十枚分と、冬用布の追加費用です。まずは私個人の資金から。正式な補填とは別に」
サーラ院長は袋を見た。
受け取れば、助かる。
だが、それで問題が終わったことにされる危険もある。
クラリスは口を開きかけた。
その前に、ローゼンが続けた。
「受け取っていただく場合も、必ず記録してください。何の補填か、誰からか、いつ受け取ったか。正式調査が終わった後、必要ならさらに清算します」
クラリスは、そっと息を吐いた。
ローゼンは分かっている。
善意を、また曖昧にしないために。
サーラ院長は、ゆっくり頷いた。
「記録するのであれば、お預かりします」
「お願いします」
ローゼンは、深く頭を下げた。
「それから、今後の寄付は、必ず受領確認を私の元へ直接送ってください。王宮にも、商会にも、代理人にも止めさせません」
サーラ院長の目が、初めて少しだけ和らいだ。
「承知しました」
「もし届かなければ、すぐに知らせてください」
「その時は、遠慮なく」
「ええ。遠慮なさらないで」
ローゼンはそこで、ようやく少しだけ笑った。
だが、いつもの社交の笑みではない。
痛みを含んだ、人間の笑みだった。
王宮へ戻る馬車の中で、ローゼンは窓の外を見たまま言った。
「クラリス顧問」
「はい」
「私は、慈善を社交の道具にしました」
クラリスはすぐには答えなかった。
ローゼンは続ける。
「最初からそうだったわけではありません。けれど、いつの間にか、茶会の出来栄え、寄付額、招待客の顔ぶれ、夫人方の評価……そういうものが先に立つようになりました」
扇を閉じた指先が、膝の上で静かに動く。
「届いたかどうかより、集めたかどうかを見ていた」
その言葉は、自分を切る刃だった。
「夫人だけの問題ではありません」
クラリスは言った。
「そう言ってくださるの?」
「事実です。王宮も、商会も、財務院も、同じように見ていませんでした」
「でも、私の問題でもありますわ」
「はい」
ローゼンが、少しだけクラリスを見る。
「そこは否定しないのね」
「否定しても、夫人は納得されないでしょう」
「本当に面倒な方」
「よく言われます」
ローゼンは小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「私は、社交界の慈善茶会の記録を集めます」
その言葉に、クラリスは顔を上げた。
「夫人が?」
「ええ。私が声をかければ、出す家もあるでしょう。もちろん、嫌がる家もあるでしょうけれど」
「反発が起きます」
「起きるでしょうね」
「夫人の立場にも響きます」
「今さらですわ」
ローゼンの声は静かだった。
「私の茶会が利用されたのです。黙っていれば、扇の奥で笑っているだけの女だと思われます」
「違うのですか」
思わず聞いた後、クラリスは少しだけしまったと思った。
しかしローゼンは怒らなかった。
「半分は合っていますわ」
さらりと言った。
「扇の奥で笑って、場を動かしてきました。それは否定しません。でも、笑って済ませてよいことと、そうでないことがあります」
クラリスは頷いた。
「では、王妃執務院と共同で記録を集めましょう」
「共同?」
「はい。夫人個人の呼びかけだけでは、社交界の争いに見えます。王妃執務院の慈善記録整理として進めれば、正式な形になります」
ローゼンは、少しだけ目を細めた。
「私を使うおつもり?」
「夫人も、わたくしたちを使えばよろしいかと」
一瞬、馬車の中が静かになった。
それから、ローゼンが小さく笑った。
今度は少しだけ、いつもの彼女らしい笑みだった。
「本当に、面倒で面白い方ね」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分だけ褒めています」
「半分でも十分です」
ローゼンは扇を手に取った。
だが、やはり開かなかった。
「よろしい。社交界の慈善記録を集めましょう。誰が何を出し、どこへ届き、どこで消えたのか」
「はい」
「ただし、クラリス顧問」
「何でしょう」
「社交界は帳簿より面倒ですわよ」
「存じております」
「本当に?」
「……少しだけ、覚悟しております」
「少しでは足りません」
ローゼンの口調が、ようやくいつもの調子に戻りかけた。
クラリスは少しだけ笑った。
「では、ご指導いただけますか」
「高くつきますわよ」
「正式な職務として記録します」
「まあ、色気のないこと」
その言葉は、以前なら毒だったかもしれない。
今は、少しだけ軽い。
王宮へ戻ると、すぐに打ち合わせが開かれた。
レオンハルト、クラリス、オスカー、ローゼン侯爵夫人、マルタ女官長。
議題は、社交界における慈善茶会記録の再確認。
対象は過去六年。
ハイム商会、ラドナー運送、ヴァルト家関連の取引が絡むもの。
寄付品の再利用、再仕立て、転送、受領確認の有無。
社交界の各家へ提出を求めるのではなく、まずローゼン侯爵夫人から「慈善活動の正確な記録化」を呼びかける。
王妃執務院は、その記録整理を正式に支援する。
「これは大変なことになりますね」
オスカーが言った。
「胃薬を増やします」
マルタ女官長は容赦なく言う。
「胃薬だけでなく、人手を増やしましょう」
「それはありがたいです」
クラリスは担当表を作り始めた。
すぐにイリスが札を置く。
社交界の慈善記録
その横にもう一枚。
クラリス顧問が全部読まない
「今回もですか」
「今回こそです」
イリスはきっぱり言った。
ローゼンがその札を見て、初めて声を出して笑った。
「良い侍女ね」
「自慢の侍女です」
クラリスが答えると、イリスは少しだけ目を伏せた。
嬉しそうだった。
ローゼンは、その様子を見てから、静かに言った。
「私にも、そう言ってやるべき者がいたのかもしれませんわね」
グレヴィスのことだろう。
クラリスは何も言わなかった。
グレヴィスの責任は消えない。
だが、長年仕えた者を疑い、職務停止にし、それでも過去まで全て切り捨てられるわけではない。
人の関係は、帳簿より複雑だ。
それでも、記録は必要だった。
その夜、王妃執務院から新たな通知が出された。
社交界慈善記録整理への協力依頼。
発起人として、王妃エレオノーラの承認印。
王宮臨時顧問クラリス・フォン・エルディアの署名。
そして、協力者としてローゼン侯爵夫人の名。
その通知を見た社交界は、翌朝から大きくざわめくことになる。
けれど、その夜だけは静かだった。
クラリスは顧問室の灯りを落とす前に、机の上の新しい札を見た。
社交界の慈善記録。
南施療院補填。
ハイム商会追跡。
ラドナー運送確認。
ローゼン侯爵夫人協力。
線は増えている。
仕事も増えている。
だが、今度は味方も増えている。
扇を閉じた侯爵夫人は、笑わなかった。
そして、笑わなかったその日から、社交界の記録もまた動き始めた。




