第31話 執事グレヴィスは、銀盆を傾けない
ローゼン侯爵家の執事グレヴィスは、銀盆を傾けない男だった。
それは、クラリスが彼を初めて見た時に抱いた印象である。
背筋はまっすぐ。
歩幅は一定。
扉を開ける角度も、茶器を置く位置も、主人の言葉を待つ間合いも、すべてが正確だった。
使用人として完璧。
だからこそ、厄介だった。
雑な者は、記録にも雑さが出る。
焦る者は、言葉にも焦りがにじむ。
小さな不正に慣れていない者は、帳簿の端に乱れを残す。
だが、長年侯爵家を支えてきた執事が本気で隠したものは、簡単には見えない。
「お嬢様」
イリスが顧問室の机に茶を置いた。
「はい」
「その顔は、また難しい相手を見つけた顔でございます」
「……最近、顔で読まれすぎている気がするわ」
「お嬢様が読みやすくなられたのです」
「それは良いことなの?」
「少なくとも、無理をしている時に止めやすくなりました」
イリスは当然のように言った。
クラリスは反論を諦め、机の上の資料へ目を戻した。
ローゼン侯爵夫人が提出した記録は、予想より多かった。
慈善茶会の発注書。
装飾布の納入書。
ハイム商会との書簡控え。
茶会後の回収記録。
再仕立て依頼書。
南施療院への納入予定表。
どれも、ローゼン侯爵家の正式な控えである。
だが、そこに署名しているのは、ほとんど夫人ではなかった。
執事 グレヴィス・オルド
「仕事が丁寧ですね」
オスカーが、帳面をめくりながら言った。
「はい」
クラリスは頷く。
「丁寧すぎるくらいです」
「不審な点は?」
「書類そのものには、ほとんどありません」
「それが不審ですか」
「ええ」
クラリスは一枚の受領控えを指で押さえた。
「ハイム商会へ装飾布を引き渡した記録。数量も、日付も、受領印も整っています。でも、その後の再仕立て完了確認がありません」
「未完了だからでは?」
「なら、催促状が残るはずです。ローゼン侯爵夫人の古い慈善記録を見る限り、未着品を放置する家ではありません」
オスカーは眉間を押さえた。
「つまり、グレヴィス殿の代から催促が消えた」
「そう見えます」
そこへ、レオンハルトが入ってきた。
手には王弟府の調査票がある。
「ラドナー運送の予備報告が来た」
クラリスは顔を上げる。
「どうでしたか」
「表向きは独立した運送業者だが、出資者の一部にヴァルト家の縁者がいる」
「やはり」
「さらに、五年前からハイム商会との専属契約が増えている。慈善物資、茶会装飾、王宮備品の輸送に食い込んでいる」
オスカーが低く呟いた。
「商会、運送、財務、侯爵家の執事……つながってきましたね」
「ただし、まだ中心が見えない」
レオンハルトは資料を置く。
「グレヴィスが主犯なのか、利用されたのか。それとも、ただ命じられた通りに書類を整えただけなのか」
クラリスは、グレヴィスの署名を見つめた。
筆跡は美しい。
乱れがない。
何度見ても、そこに焦りや迷いは見えなかった。
「本人に会う必要があります」
クラリスが言うと、イリスがすぐに札を置いた。
一人で会わない
「分かっています」
「念のためです」
レオンハルトは、少しだけ笑った。
「今回は私も同席する」
「はい」
「オスカーも」
「胃が痛いですが、参ります」
オスカーはすでに覚悟した顔だった。
午後、グレヴィスは王宮へ呼ばれた。
形式上は、ローゼン侯爵家から提出された慈善茶会記録の確認である。
罪人としてではない。
証人としてでもない。
あくまでも、記録担当者への確認。
だが、呼ばれたグレヴィスはすべて分かっているようだった。
王宮臨時顧問室へ入るなり、彼は深く礼をした。
「王弟殿下、クラリス顧問。お呼びにより参上いたしました」
年齢は五十代後半だろう。
白髪交じりの髪をきちんと撫でつけ、黒い執事服には皺一つない。
目は穏やか。
声も低く、整っている。
隙のない人間だった。
「ご足労いただきありがとうございます」
クラリスが言うと、グレヴィスは静かに答えた。
「侯爵家の記録についての確認と伺っております」
「はい。数点、確認させてください」
「承知しております」
グレヴィスは促されて席に着いた。
姿勢が崩れない。
机の上には、ローゼン侯爵家の記録と、南施療院の受領控え、ハイム商会の書状が並べられている。
クラリスは、まず穏やかに始めた。
「三年前の慈善茶会後、装飾布をハイム商会へ引き渡した記録があります。こちらの署名はグレヴィス殿ですね」
「はい。私でございます」
「再仕立て後、南施療院へ膝掛け三十枚として納入予定となっています」
「そのように手配いたしました」
「実際には、届いておりません」
グレヴィスの表情は変わらなかった。
だが、一拍だけ返答が遅れた。
「……そのようでございますね」
クラリスは見逃さない。
「ご存じだったのですか」
「昨日、侯爵夫人より伺いました」
「それ以前は?」
「ハイム商会より、布地の傷みがあり、代替品を納めたと報告を受けておりました」
「南施療院へ確認は?」
「いたしておりません」
「なぜですか」
グレヴィスは、少しだけ目を伏せた。
「長年取引のある商会でしたので」
ありふれた答えだった。
信頼していた。
任せていた。
確認しなかった。
この数日、何度も出てきた言葉である。
レオンハルトが静かに口を挟んだ。
「グレヴィス殿。侯爵家の執事として、寄付品が届いたか確認する責任はあったのではないか」
「仰る通りです」
グレヴィスはすぐに頭を下げた。
「私の怠慢でございます」
早い。
謝罪が早すぎる。
クラリスは、内心でそう思った。
自分の責任として受け止める姿勢は立派だ。
しかし、早すぎる謝罪は時に壁になる。
そこから先を聞かせないための壁。
「怠慢とおっしゃいましたが」
クラリスは続けた。
「この件は怠慢だけでは説明できません。南施療院から王妃執務院へ未着報告が出ています。その後、ハイム商会から施療院へ“寄付元への直接連絡を控えるように”との連絡が入っています」
グレヴィスは黙って聞いている。
「侯爵家にも、同様の連絡は来ましたか」
「はい」
クラリスは羽根ペンを止めた。
「来たのですか」
「ハイム商会より、“施療院側で混乱が生じているため、問い合わせがあった場合は当方で調整する”との書簡が届きました」
「その書簡は?」
「侯爵家に残っているはずです」
オスカーがすぐに記録する。
クラリスはさらに尋ねる。
「それを受けて、夫人には?」
「報告しませんでした」
「なぜですか」
初めて、グレヴィスの表情に影が差した。
「奥様は、当時すでに多くの茶会と社交上の調整を抱えておられました。慈善事業の細部まで煩わせるべきではないと判断いたしました」
「それは、あなたの判断ですか」
「はい」
即答。
また早い。
クラリスは、机の上の古い帳面を開いた。
ローゼン侯爵夫人が若い頃につけていた慈善記録。
「昔の夫人は、寄付先へ直接足を運び、受領確認までなさっていたようです」
「はい。存じております」
「それを止めたのは、誰ですか」
グレヴィスの指が、膝の上でわずかに動いた。
ほんの小さな動きだった。
「止めた、という表現は」
「では、勧めたのは?」
グレヴィスは、少しだけ沈黙した。
「……私でございます」
部屋の空気が、静かに沈む。
クラリスは続きを待った。
「侯爵夫人が寄付先へ直接赴かれるたび、社交界では不要な噂が立ちました。施療院へ出入りするなど、侯爵夫人にふさわしくない。貧民救済に深入りしすぎる。善意を見せびらかしている。そういう声がございました」
「それで?」
「私は、奥様を守るため、実務は私どもが担うべきだと申し上げました」
イリスが、後ろでわずかに目を細めた。
守るため。
便利な言葉だ。
守るという名目で、本人の目を現場から遠ざけることもできる。
「それは本心でしたか」
クラリスが尋ねると、グレヴィスは初めて真正面から彼女を見た。
「本心でございました」
その目に嘘は見えない。
少なくとも、クラリスにはそう見えた。
だが、本心であったことと、結果が正しかったことは別である。
「その結果、夫人の善意はハイム商会に利用されました」
「……はい」
「冬服は足りず、膝掛けは届きませんでした」
「はい」
「夫人は、それを知りませんでした」
グレヴィスは、静かに目を閉じた。
「はい」
責められる覚悟はある。
だが、何かをまだ隠している。
クラリスはそう感じた。
レオンハルトが低く言う。
「グレヴィス殿。バルツァー元財務卿とは、どの程度の関係がある」
「侯爵家の慈善事業について、助言をいただいた程度でございます」
「金銭のやり取りは?」
「ございません」
「ハイム商会からは?」
「個人的な金銭は受け取っておりません」
個人的な。
クラリスはその言葉を拾った。
「侯爵家としては?」
「手数料の減免を受けたことはございます」
「減免?」
「慈善茶会の装飾品輸送費を、一部免除されました」
オスカーの筆が走る。
「その代わりに、ハイム商会を継続利用した?」
「結果としては」
「誰の提案ですか」
グレヴィスは一瞬だけ黙った。
「ハイム商会です」
「バルツァー元財務卿では?」
「最初に商会を紹介されたのは財務卿です。その後の条件交渉は、商会と私の間で」
レオンハルトが資料に目を落とす。
「輸送費を安く見せて、別の場所で抜いたわけか」
「その可能性が高いです」
クラリスは言った。
グレヴィスは何も言わなかった。
「グレヴィス殿」
クラリスは、声を少しだけ柔らかくした。
「あなたは、ハイム商会を信頼していたのですか」
「はい」
「それとも、信頼しなければならない理由があったのですか」
グレヴィスの目が、わずかに揺れた。
初めてだった。
銀盆を傾けない男の手元が、ほんの少し乱れた。
「……何を仰りたいのでしょう」
「あなたは夫人を守るため、現場から遠ざけた。商会に任せた。報告を絞った。そこまでは理解できます」
クラリスは一つずつ言う。
「ですが、未着報告が出ても夫人に知らせなかった。南施療院への確認もしなかった。ハイム商会からの説明だけで済ませた。これは、ただの信頼にしては不自然です」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがてグレヴィスは、静かに息を吐いた。
「奥様は」
声が少し低くなった。
「ローゼン侯爵家は、当時かなり厳しい立場にございました」
クラリスは黙って続きを促す。
「先代侯爵の投資失敗で、家の資金繰りが一時悪化しておりました。表には出しておりません。奥様の社交手腕で、家の名誉は保たれました」
初耳だった。
ローゼン侯爵家は裕福な名門という印象が強い。
だが、その内側までは分からない。
「ハイム商会は、慈善茶会の資材を安く提供すると申し出ました。輸送費も下げる。支払いも待つ。その代わり、継続して利用してほしいと」
「それを受けたのですね」
「はい」
「夫人には?」
「家計の詳細までは」
「知らせなかった」
「……はい」
クラリスは、胸の奥が重くなるのを感じた。
善意。
名誉。
家計。
社交界での立場。
商会の甘い条件。
それらが絡まり、確認の目が曇った。
グレヴィスは、夫人を守ろうとしたのだろう。
侯爵家の名誉を守ろうとしたのだろう。
だが、その結果、施療院の膝掛けは消えた。
守る相手を間違えた。
「グレヴィス殿」
レオンハルトの声は厳しかった。
「家の名誉を守るために、寄付先の確認を怠った。それで間違いないか」
グレヴィスは、深く頭を下げた。
「返す言葉もございません」
「個人的な着服は?」
「しておりません」
「証明できますか」
「私の私財記録を提出いたします」
「提出を」
「承知いたしました」
クラリスは、彼を見ていた。
この男は、完全な悪人ではないのかもしれない。
だが、善人とも言えない。
忠義と保身と誇りと怠慢が、丁寧に磨かれた銀盆の上に並んでいる。
だから厄介だった。
面談が終わり、グレヴィスが退出する時、クラリスは一つだけ尋ねた。
「グレヴィス殿」
「はい」
「ローゼン侯爵夫人は、南施療院の膝掛けが届かなかったことを知って、どうなさると思いますか」
グレヴィスは、しばらく黙った。
そして、初めて少しだけ表情を崩した。
「お怒りになるでしょう」
「あなたに?」
「私にも。ハイム商会にも。そして、おそらくご自身にも」
その声には、長年仕えた者の実感があった。
「奥様は、扇の奥で笑う方です。けれど、本当に怒った時は扇を閉じます」
クラリスは、前日のローゼンを思い出す。
閉じた扇。
茶は不要。
帳簿を見せて。
「では、もう怒っておいでですね」
「……はい」
グレヴィスは深く礼をした。
「私も、覚悟いたします」
彼が去った後、部屋には重い沈黙が残った。
オスカーが、そっと記録をまとめる。
「悪人、ではなさそうですね」
「ええ」
クラリスは答えた。
「でも、責任はあります」
レオンハルトが頷く。
「ああ。善意であれ忠義であれ、結果として届くべきものが届かなかった」
「はい」
イリスが静かに札を置いた。
善意でも確認する
クラリスは、その札を見つめた。
それが、今回の核心なのかもしれない。
悪意だけが人を傷つけるのではない。
善意を確認しないことも、忠義を言い訳にすることも、誰かの冬を奪うことがある。
夕方、ローゼン侯爵夫人へグレヴィスの供述要旨が送られた。
返事は、その日のうちには来なかった。
代わりに、夜遅く、侯爵家から王宮へ一つの知らせが届いた。
執事グレヴィス・オルド、当面の職務停止。侯爵夫人自ら慈善記録の再確認を開始。
クラリスはその文を読み、静かに目を閉じた。
扇を閉じた侯爵夫人は、笑わなかった。
そしてどうやら、ただ怒るだけでも終わらないらしい。
王宮の改革は、社交界の奥へ広がり始めていた。




