第30話 扇を閉じた侯爵夫人は、笑わなかった
ローゼン侯爵夫人から返事が来たのは、その日の夜だった。
遅い時間ではない。
けれど、貴婦人が正式な返書を寄こすには、少しだけ早すぎる時間だった。
封蝋はいつもの薔薇印。
紙もいつも通り上質。
だが、文面は短かった。
明朝、王宮へ伺います。茶は不要です。帳簿を拝見いたします。
クラリスは、その一文を読み終えたあと、しばらく黙っていた。
イリスが横から覗き込む。
「茶は不要、ですか」
「ええ」
「かなり本気ですね」
「そうね」
ローゼン侯爵夫人が、茶を断った。
それは、ただ喉が渇いていないという意味ではない。
社交の場を作らないという意思表示だった。
扇の奥で笑い、菓子と香りと会話で相手を包み込むあの夫人が、茶を不要と言った。
つまり、今回は飾らずに来る。
少なくとも、その姿勢を見せるつもりなのだ。
「殿下に連絡を」
クラリスが言うと、イリスはすでに頷いていた。
「使者を出しております」
「早いわね」
「ローゼン侯爵夫人が茶を断るなど、天候不順より重大でございます」
「そこまで?」
「はい」
翌朝、ローゼン侯爵夫人は本当に王宮へ来た。
いつものような華やかな装いではなかった。
濃い灰紫のドレス。
飾りは少なく、真珠も一連だけ。
手には白い扇を持っているが、開いていない。
閉じたまま、指先で静かに握っている。
王宮臨時顧問室へ通された彼女は、クラリスを見るなり、挨拶もそこそこに言った。
「記録を」
その声に、いつもの甘さはなかった。
「ご用意しております」
クラリスは、南施療院で受け取った写しを机に並べた。
ローゼン侯爵夫人は座る前に、それを見た。
再仕立て膝掛け三十枚、未着。
代替品、薄手布十五枚。
ハイム商会の書状。
施療院から王妃執務院へ送られた報告控え。
そして、ハイム商会が「寄付元への直接連絡を控えるよう」伝えていた記録。
ローゼンは、最初の一枚を手に取った。
目だけが動く。
指先は動かない。
読み終え、二枚目へ移る。
三枚目。
四枚目。
全部を読み終えた時、夫人は椅子に腰を下ろした。
その動きが、ほんの少しだけ重かった。
「……届いていなかったのね」
低い声だった。
「はい」
クラリスは答えた。
「南施療院には、予定されていた膝掛け三十枚は届いておりませんでした」
「代替品は」
「薄手布十五枚です。冬用の膝掛けとしては不十分です」
ローゼンの唇が、わずかに引き結ばれる。
それは怒りにも見えた。
恥にも見えた。
あるいは、もっと古い痛みにも。
「サーラ院長は、何か言っていたかしら」
「誰かを責めたいのではなく、届かなかったことをなかったことにされたくない、と」
ローゼンは目を閉じた。
その瞬間、レオンハルトが入室した。
少し遅れてオスカーも来る。
夫人は二人に礼をしたが、いつものような社交の微笑みはない。
「王弟殿下。今日は、ご挨拶より先に記録を拝見しておりました。失礼を」
「構わない」
レオンハルトは短く答えた。
「夫人が見たいものは、挨拶ではないでしょう」
ローゼンは、小さく笑った。
だが、その笑いはいつもの毒ではなかった。
「ええ。本日は、綺麗な言葉を聞く気分ではありませんの」
オスカーが記録係として席につく。
イリスは茶を出しかけて、少し止まった。
ローゼンがそれに気づく。
「侍女殿。茶は、本当に不要ですわ」
「承知いたしました」
イリスは茶器を下げ、代わりに水だけを置いた。
ローゼンはその水にも手をつけず、持参した小さな帳面を机に置いた。
「これは、当家に残っていた古い慈善記録です」
クラリスは、思わず目を上げた。
「古い?」
「十年ほど前までのものです。私が直接、施療院や孤児院へ足を運んでいた頃の記録」
ローゼンは帳面を開いた。
そこには、今の優雅な筆跡とは少し違う、若々しい字が並んでいた。
南施療院、膝掛け四十枚。
東孤児院、冬服六十着。
北施療所、包帯布二箱。
受領確認済み。
各項目の横には、院長や管理者の署名がある。
時には短い一言も添えられていた。
今年はよく眠れる者が増えます。
子どもたちが喜びました。
布が厚く、冬に間に合います。
クラリスは、それを読んで胸が詰まった。
この帳面にある慈善は、生きている。
数字ではなく、届いた先の声が残っている。
「夫人は、以前は直接確認されていたのですね」
「ええ」
ローゼンは淡く答えた。
「若かったのです。自分が見に行かなければ気が済まなかった」
「今は?」
「行かなくなりました」
言葉は短い。
だが、その中に多くのものが入っていた。
「なぜですか」
クラリスは尋ねた。
ローゼンは、扇を握る指に力を入れた。
「忙しくなったから。侯爵家の付き合いが増えたから。社交界で立場ができたから。王妃執務院の相談役のようなことをするようになったから」
そこで一度、言葉を切る。
「……言い訳なら、いくらでも並べられますわね」
部屋は静かだった。
レオンハルトも、オスカーも、口を挟まない。
ローゼンは、古い帳面を見つめた。
「本当は、任せたのです。商会に。執事に。代理人に。私は名前を貸し、茶会を開き、寄付を集める。後の手配は任せる。それで回ると思った」
「回っているように見えたのですね」
クラリスが言うと、ローゼンは苦い顔で笑った。
「ええ。見えていましたわ。なぜなら、誰も私に届かなかったと言わなかったから」
「ハイム商会が、寄付元への直接連絡を止めていました」
「そのようね」
ローゼンの声が冷えた。
「ですが、私が見に行っていれば分かったことです」
クラリスは黙った。
それはその通りだった。
同時に、その一言で全てを夫人一人の責任にしてよい話でもなかった。
ハイム商会。
ラドナー運送。
ヴァルト家。
バルツァー元財務卿。
王宮内で止まった報告。
善意が消えるには、それだけの通路があった。
ローゼンは顔を上げた。
「クラリス顧問。私は自分の善意を誇りたいわけではありません」
「はい」
「けれど、善意を飾りにされたのなら、許すつもりもありません」
その声には、はっきりと怒りがあった。
演技ではない。
少なくとも、クラリスにはそう見えた。
レオンハルトが問う。
「夫人。ハイム商会を紹介したのは誰ですか」
「バルツァー財務卿です」
即答だった。
オスカーの筆が止まりかける。
「いつ頃ですか」
「六年前。王妃陛下の体調が崩れ始め、王妃執務院の慈善事業に遅れが出ていた頃です。財務卿から、信頼できる商会だと紹介されました」
「その時点で、ヴァルト家とのつながりは?」
「聞いておりません」
「ラドナー運送は?」
「ハイム商会が使っていた業者です。当家が直接選んだわけではありません」
ローゼンは、自分の帳面から一枚の古い書付を取り出した。
「これが、ハイム商会を使い始めた年の控えです」
クラリスは受け取り、オスカーへ回す。
そこには、バルツァー財務卿の署名入り紹介状の写しがあった。
文面は丁寧。
王宮慈善事業にも用いている信頼ある商会。
品質と納期に優れ、貴族家の寄付事業にも適する。
ローゼン侯爵夫人の慈善茶会にも推薦する。
バルツァーの筆跡だ。
「これは大きいですね」
オスカーが低く言う。
「ええ」
クラリスは頷いた。
「バルツァー元財務卿が、王宮だけでなく、社交界の慈善茶会にもハイム商会を広げていた証拠になります」
レオンハルトの顔が険しくなる。
「つまり、王宮予算だけではなく、貴族家の寄付も吸い上げていた可能性がある」
「はい」
ローゼンが静かに言った。
「私の茶会も、その入口にされたのでしょうね」
「夫人」
クラリスは彼女を見る。
「この紹介状の写しを、正式にお預かりできますか」
「そのために持ってきました」
ローゼンは扇を机に置いた。
閉じた扇。
まるで、今日は戦う道具を置いてきたと言うように。
「それと、当家の執事グレヴィスを調べてください」
クラリスは目を細めた。
「グレヴィス殿を?」
「ええ。茶会後の装飾布回収を任せたのは彼です。ハイム商会との実務連絡も、ほとんど彼が行っていました」
「夫人は、彼を疑っておいでですか」
「疑いたくありませんわ」
ローゼンの声は少しだけ低くなる。
「三十年、侯爵家に仕えた男です。ですが、疑いたくないことと、確認しないことは違います」
その言葉に、クラリスは静かに息を呑んだ。
夫人は変わろうとしている。
少なくとも、今日この場では。
かつてクラリス自身が学んだことを、今ローゼン侯爵夫人も口にしている。
信じたい。
でも、確認する。
それは冷酷さではない。
善意を守るための手順だ。
「承知いたしました」
クラリスは答えた。
「ただし、グレヴィス殿へ不用意に接触すると証拠が消える可能性があります。まずは周辺記録を確認します」
「ええ。お任せします」
そこでローゼンは、初めて水に手を伸ばした。
一口だけ飲む。
その仕草は、いつもの優雅さを失っていない。
だが、どこか疲れていた。
「クラリス顧問」
「はい」
「あなたは、私をどう見ています?」
唐突な問いだった。
オスカーの筆が止まる。
イリスの目がわずかに鋭くなる。
レオンハルトは黙っている。
クラリスは、少し考えた。
ここで綺麗なことを言えば、夫人は見抜くだろう。
敵ではありません。
善意の方です。
信じています。
そんな言葉は軽い。
「怖い方だと思っています」
クラリスは正直に言った。
ローゼンの目が、ほんの少し開かれる。
「まあ」
「社交界で多くの人を動かせる方です。言葉の使い方も、場の作り方も、わたくしよりずっと上手でいらっしゃる。敵に回すと厄介です」
「率直ですわね」
「最近、周囲に正直であるよう求められますので」
ローゼンの口元が、わずかに動いた。
笑いかけたのかもしれない。
「ですが」
クラリスは続けた。
「今日の夫人は、届かなかった膝掛けに怒っておられるように見えます」
ローゼンの表情から、笑みが消えた。
「見えます、なのね」
「まだ、全ては分かりません」
「慎重なこと」
「はい」
「でも、嫌いではありませんわ」
ローゼンは、扇を手に取った。
だが、開かなかった。
「私も、あなたをどう見ればよいか分からなくなりました」
「わたくしを?」
「ええ。最初は、若いくせに正論を振りかざす面倒な令嬢だと思っていました」
イリスが少しだけ眉を動かした。
クラリスは苦笑する。
「今も間違ってはいないかもしれません」
「そうね。面倒なのは確かです」
ローゼンは今度こそ少し笑った。
「でも、あなたの面倒さでなければ、南施療院の膝掛けは届いたことになったままだった」
クラリスは何も言えなかった。
ローゼンは立ち上がる。
「記録を進めてください。必要なものは出します。グレヴィスについても、こちらで動かずに待ちます」
「ありがとうございます」
「ただし」
ローゼンの目に、いつもの鋭さが少し戻った。
「もし私の茶会を利用した者がいるなら、私にもその者の顔を見る権利がありますわ」
レオンハルトが答える。
「その時は、正式な場を設ける」
「期待しております」
ローゼンは礼をして、部屋を出ていった。
扉が閉まると、しばらく誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、オスカーだった。
「……味方、でしょうか」
「まだ分かりません」
クラリスは答えた。
イリスが続ける。
「ですが、少なくとも本日は、敵としては来られませんでしたね」
「ええ」
レオンハルトは机の上の紹介状写しを見た。
「バルツァーからハイム商会への線。ローゼン侯爵家の執事グレヴィス。ラドナー運送。南施療院の未着記録」
「かなり見えてきました」
クラリスは新しい紙に線を引く。
王宮財務。
ハイム商会。
ラドナー運送。
ヴァルト家。
ローゼン侯爵家。
グレヴィス。
南施療院。
孤児院の冬服。
線は増えた。
だが、中心はまだ見えない。
ハイム商会が単独でやったのか。
グレヴィスが関わったのか。
バルツァーがすべてを指示したのか。
その背後に、さらに別の者がいるのか。
「次はグレヴィス殿ですね」
オスカーが言った。
「直接呼ぶ前に、彼が扱った帳簿を確認します」
クラリスは答えた。
「侯爵家内の回収記録、ハイム商会との書簡、ラドナー運送への受け渡し控え。そこからです」
イリスが机の隅に札を置く。
扇に惑わされない
「イリス」
「必要でございます」
クラリスは札を見て、少しだけ笑った。
扇の奥で笑う人は、今日は笑わなかった。
その代わり、帳簿の奥から出てきた痛みを見た。
敵か味方かは、まだ分からない。
けれど、少なくとも今は同じ方向を見ている。
届かなかった膝掛けを、なかったことにしないために。




