第29話 届かなかった膝掛けは、誰の手で消えたのか
南施療院は、王宮から馬車で半刻ほどの場所にあった。
王都の中心から少し外れた、古い石造りの建物である。
貴族街のような華やかさはない。
大通り沿いの商館のような賑わいもない。
けれど、門の前には朝早くから人が並んでいた。
母親に手を引かれた子ども。
杖をついた老人。
腕に包帯を巻いた職人。
顔色の悪い女中。
ここでは、帳簿の数字が人の体温になる。
クラリスは馬車を降りた瞬間、そのことを改めて思った。
「お嬢様」
イリスがすぐ隣に立つ。
「顔が硬いです」
「そう?」
「はい。帳簿を見る顔ではなく、帳簿の向こう側を見ている顔です」
クラリスは、門の前の列へ視線を向けた。
「ここに、届くはずだったのよね」
「膝掛けですか」
「ええ」
ローゼン侯爵夫人の慈善茶会で使われた装飾布。
茶会後にハイム商会が回収し、仕立て直して南施療院へ納入する予定だった膝掛け。
その記録は、ローゼン侯爵家の控え帳にあった。
だが、南施療院側に届いた記録はまだ確認されていない。
届いたのか。
届かなかったのか。
別のものが届いたのか。
記録だけが消えたのか。
今日、それを確認する。
「クラリス」
後ろから声がした。
レオンハルトだった。
今日は王弟としての華やかな正装ではなく、濃灰色の外套をまとっている。王弟府の徽章は小さく、目立たない。
施療院へ来る装いとして、よく考えられていた。
オスカーも同行している。
記録係として、書類鞄を抱えているが、すでに少し胃のあたりへ手がいっていた。
「オスカー様、まだ中へ入っておりません」
クラリスが言うと、オスカーは真面目な顔で答えた。
「現場記録は、帳簿より強い場合がありますので」
「怖いのですか」
「はい」
正直だった。
レオンハルトが少し笑う。
「だが、必要だ」
「分かっております」
南施療院の院長は、フィオナ司祭の紹介状を受けて、すでに待っていた。
初老の女性だった。
名をサーラという。
白髪を後ろで結び、飾りのない灰色の修道衣を着ている。神殿所属ではあるが、司祭ではなく施療院の実務を長く見てきた管理者だった。
「王弟殿下、クラリス顧問。遠いところを」
「突然の訪問をお許しください」
クラリスは礼をした。
サーラ院長は首を横に振る。
「フィオナ司祭から、記録を確認したいと伺っております。こちらへ」
案内されたのは、施療院の奥にある小さな記録室だった。
豪華さはない。
木の棚。
年季の入った机。
革紐で束ねられた古い帳面。
だが、驚くほど整理されていた。
年度別。
品目別。
寄付元別。
受領者別。
王宮の一部の帳簿より、よほど見やすい。
オスカーが、思わず呟いた。
「美しい……」
サーラ院長が少しだけ笑う。
「美しいと言われたのは初めてです」
「失礼しました。記録が整っているという意味です」
「分かっております。ここでは、一枚の布、一瓶の薬草が命に関わりますので」
その言葉に、クラリスは背筋を伸ばした。
一枚の布が命に関わる。
王宮の帳簿では、布は品目の一つでしかない。
だが、ここでは違う。
寒さをしのぐもの。
病人の体を包むもの。
寝台で震える者の夜を少しだけ楽にするもの。
同じ布でも、意味が違う。
「確認したいのは、三年前の冬の記録です」
クラリスは控えを差し出した。
「ローゼン侯爵夫人主催の慈善茶会で使用された装飾布が、ハイム商会により回収され、再仕立て後、南施療院へ膝掛けとして納入予定となっています」
サーラ院長の表情が、少しだけ動いた。
「ローゼン侯爵夫人の茶会布ですか」
「ご記憶が?」
「はい」
サーラ院長は棚へ向かい、一冊の帳面を取り出した。
古いが、よく手入れされている。
「その年、私どもは膝掛けの寄付を待っておりました。冬が厳しく、寝台にいる患者が多かったので」
帳面が開かれる。
日付。
寄付予定。
品目。
数量。
備考。
クラリスはそこに書かれた文字を読んだ。
ローゼン侯爵夫人慈善茶会装飾布、再仕立て膝掛け三十枚。納入予定。
その下。
赤い小さな文字で。
未着。代替品として薄手布十五枚受領。ハイム商会より。
クラリスの指先が止まった。
オスカーが息を呑む。
「未着……」
サーラ院長は静かに頷いた。
「届きませんでした」
「代替品は?」
「薄い布でした。膝掛けというより、春先の覆い布に近いものです。冬には足りません」
レオンハルトの声が低くなる。
「十五枚だけか」
「はい。本来は三十枚の予定でした」
半分。
しかも、質も落ちている。
孤児院の冬服三十着不足。
南施療院の膝掛け三十枚未着。
数字が重なる。
偶然ではない。
「ハイム商会から説明は?」
クラリスが尋ねると、サーラ院長は別の紙を出した。
「こちらです」
そこには、ハイム商会からの書状の写しがあった。
――再仕立て工程において布地の傷みが確認されたため、予定数の納入が困難となりました。代替品として薄手布十五枚を納入いたします。残数につきましては、後日調整いたします。
「後日調整は?」
「ありませんでした」
サーラ院長の声は淡々としていた。
怒りを通り越して、何度も同じようなことを経験した人の声だった。
「王宮へ報告は?」
「いたしました」
「記録はありますか」
「こちらに」
次に出てきたのは、王妃執務院宛ての報告控えだった。
宛先は王妃執務院慈善係。
日付も、内容も、明確。
だが、クラリスはその報告を見た記憶がなかった。
「わたくしは、この報告を見ていません」
クラリスが言うと、サーラ院長は驚かなかった。
「でしょうね」
「どういう意味でしょう」
「この種の報告は、よく途中で止まります」
サーラ院長は静かに言った。
「王宮へ出したという記録はあります。ですが、その後、返答が来るものと来ないものがある。返答がないものは、たいてい商会から直接“調整中”との連絡が来ます」
「商会から直接?」
「はい」
クラリスは、レオンハルトを見る。
レオンハルトの顔は険しい。
王宮への苦情や報告を、商会が途中で吸い取っている可能性がある。
あるいは、王宮内の誰かが商会へ流していた。
どちらにしても、ひどい。
「オスカー様」
「記録します」
オスカーはすでに筆を走らせていた。
顔色は悪い。
だが、手は止まらない。
「サーラ院長。この報告控えの写しをいただけますか」
「もちろんです」
「薄手布十五枚は、現在も残っていますか」
「一部は」
サーラ院長は、棚から小さな布片を取り出した。
記録用に保管していた端切れだという。
クラリスはそれを指先で触れた。
薄い。
冬の施療院で病人にかけるには、頼りない。
「これを、膝掛けの代替品として?」
「はい」
レオンハルトが、低く息を吐いた。
「これは春布だ」
「分かるのですか」
クラリスが尋ねると、彼は頷いた。
「北方街道の視察で見た。冬用とは織りが違う」
サーラ院長が少し驚いた顔をした。
「王弟殿下は、よくご存じで」
「知っているだけでは足りなかったようです」
その言葉は、重かった。
クラリスは布片を見つめる。
ミレーヌの用語表にあった一文が浮かんだ。
布と書いてあっても、同じものではない。使う人が違えば、必要な厚さも違う。
その通りだった。
帳簿上は布。
でも、ここでは冬を越せるかどうか。
「その年、膝掛けが足りずに困りましたか」
クラリスが尋ねると、サーラ院長は少しだけ目を伏せた。
「困りました」
「具体的に、教えてください」
サーラ院長は、すぐには答えなかった。
数字ではない話になるからだろう。
少しして、静かに口を開いた。
「熱の下がらない老人がいました。足が冷えると眠れない方で、厚手の布を必要としていました。膝掛けが足りず、夜の間だけ別の患者から借りていました」
クラリスは何も言えなかった。
「子どももいました。冬の間、母親が付き添っていましたが、母親の分の覆いが足りませんでした。母親は子どもに布をかけ、自分は椅子で震えていました」
サーラ院長の声は、淡々としている。
淡々としているからこそ、胸に刺さる。
「膝掛け一枚で命が救えるとは申しません。でも、眠れる夜が増えます。痛みが少し和らぎます。そういうものです」
クラリスは、深く頭を下げた。
「記録に残します」
「お願いします」
サーラ院長は、クラリスをまっすぐ見た。
「私どもは、誰かを責めたいわけではありません。ただ、届くと言われたものが届かなかった時、そのことをなかったことにされたくないのです」
「はい」
クラリスの声は、少し震えていたかもしれない。
「なかったことには、いたしません」
記録室を出る前、クラリスはもう一つ確認した。
「ローゼン侯爵夫人には、この未着について連絡されましたか」
「直接はしておりません」
「なぜ?」
「寄付元への連絡は、王宮を通すようにと言われておりました」
「誰に?」
サーラ院長は帳面をめくる。
「ハイム商会です」
やはり。
ハイム商会が、寄付元と受領先の間に立ち、情報を遮っていた。
ローゼン侯爵夫人が本当に知らなかった可能性が高くなる。
同時に、彼女が信頼していた商会選びの責任も残る。
簡単に白黒はつけられない。
帰り際、クラリスたちは施療院の病室を少しだけ見せてもらった。
寝台が並ぶ部屋。
窓際に置かれた薬草。
丁寧に畳まれた布。
その中に、一枚だけ明らかに古い膝掛けがあった。
擦り切れかけているが、繕われている。
「これは?」
クラリスが尋ねると、サーラ院長は答えた。
「ローゼン侯爵夫人が、さらに昔に寄付されたものです。まだ使っています」
クラリスは目を細めた。
ローゼン侯爵夫人の寄付品。
古いが、質は良い。
きちんと冬用の厚みがある。
少なくとも、昔の彼女は施療院に届くものの質を分かっていた。
「夫人は、このことをご存じですか」
「分かりません。ただ、昔は時折ご自身で見に来られていました」
「昔は?」
「ここ数年は、商会や代理人を通じてばかりです」
クラリスは、静かに頷いた。
昔は見ていた。
今は任せた。
その間に、善意が抜き取られた。
ローゼン侯爵夫人が変わったのか。
周囲が変わったのか。
それとも、王宮全体が見なくなったのか。
馬車に戻ると、オスカーは深く息を吐いた。
「帳簿で見るより、堪えますね」
「はい」
クラリスは布片の写し袋を見つめる。
「でも、来てよかった」
レオンハルトが言う。
「ああ。現場を見ない帳簿は、軽くなる」
「軽くしてはいけない数字でした」
「そうだな」
馬車が動き出す。
施療院の門の前には、まだ人が並んでいた。
クラリスは、その列を窓越しに見つめる。
届かなかった膝掛け。
足りなかった冬服。
薄い代替布。
それらは、もう帳簿の上の項目ではない。
夜に眠れなかった老人。
椅子で震えていた母親。
冬服を待っていた子ども。
そこに、つながった。
「ローゼン侯爵夫人へ、どう伝えますか」
オスカーが尋ねる。
クラリスは少し考えた。
「まず、事実を伝えます。膝掛けは届かなかった。代替品は薄手布十五枚のみ。施療院からの報告は王宮に届かなかった。そして、ハイム商会が寄付元への直接連絡を止めていた」
「夫人は怒るでしょうね」
「怒ると思います」
レオンハルトが静かに言う。
「怒りをどこへ向けるかだ」
「はい」
クラリスは頷いた。
「わたくしたちに向けるか、ハイム商会に向けるか。それとも、自分自身に向けるか」
イリスが淡々と言う。
「どれも面倒そうでございます」
「ええ」
クラリスは少しだけ笑った。
「でも、避けられません」
王宮へ戻ると、ローゼン侯爵夫人からの使者が待っていた。
早すぎる。
封書には、短い文面があった。
南施療院について、何か確認されたことがあれば、私にもお知らせくださいませ。慈善の名が使われた以上、知らぬままではいられません。
クラリスは、その文を読み、しばらく黙った。
ローゼン侯爵夫人は、知ろうとしている。
あるいは、知っていたことを隠すために先回りしている。
どちらかはまだ分からない。
ただ、一つだけ確かだった。
扇の奥で笑う人もまた、帳簿の奥から出てきた現実に向き合わざるを得なくなっている。
「返事は?」
レオンハルトが尋ねる。
クラリスは封書を閉じた。
「事実を伝えます。飾らず、削らず、記録として」
「厳しい返事になるな」
「はい」
クラリスは机に向かい、羽根ペンを取った。
そして書き出した。
南施療院において、再仕立て膝掛け三十枚は未着。
代替品として薄手布十五枚のみ受領。
施療院より王妃執務院へ報告済みの控えあり。
ハイム商会より、寄付元への直接連絡を控えるよう指示あり。
最後に、少し迷ってから一文を添えた。
この記録は、夫人の善意を責めるためではなく、善意がどこで消えたかを確認するためのものです。
書き終えた時、イリスがそっと茶を置いた。
「お嬢様」
「何?」
「今日の文章は、少し痛いですね」
「ええ」
クラリスは返事の紙を見つめた。
「でも、痛くないように書いたら、また見えなくなるから」
レオンハルトが静かに頷いた。
「送ろう」
封がされ、使者が走る。
夕暮れの王宮に、また一つ記録が残った。
届かなかった膝掛けは、誰の手で消えたのか。
答えはまだ出ていない。
だが、少なくとももう、誰も「届いたはずです」とは言えなくなった。




