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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第28話 扇の奥で笑う人に、帳簿を見せに行きます

 ローゼン侯爵夫人の名が、帳簿の上に現れた。


 それは、署名ではない。


 罪を示す決定的な印でもない。


 ただ、慈善茶会の装飾記録と、孤児院向け冬服の輸送記録が、同じ日付、同じ輸送業者、同じ倉庫名で重なっていた。


 たったそれだけ。


 けれど、クラリスには十分すぎるほど不穏だった。


 王宮臨時顧問室の机に、三枚の紙が並んでいる。


 一枚目は、ノルヴァルト産高級毛織物の輸送記録。


 二枚目は、孤児院向け冬服二百着の港湾到着記録。


 三枚目は、ローゼン侯爵夫人主催慈善茶会の装飾品納入記録。


 それぞれ単独なら、問題とは言い切れない。


 高級毛織物を茶会装飾に使うことはある。

 慈善物資と同じ輸送便に、別の荷が混ざることもある。

 倉庫が同じでも、それだけでは不正とは呼べない。


 だが、冬服は三十着足りなかった。


 そして同じ時期に、ローゼン侯爵夫人の茶会では予定より多くの装飾布が使われていた。


「……綺麗に重なっていますね」


 オスカーが、眼鏡の奥で目を細める。


「綺麗すぎます」


 クラリスは答えた。


「偶然なら、たいへん悪い偶然です」


 イリスが茶を置きながら言った。


「悪い偶然は、だいたい人間が作っております」


「断定はしないわ」


「お嬢様は断定なさらないところが良いところですが、ときどき相手に逃げる廊下を掃除して差し上げているようにも見えます」


「逃げる廊下?」


「はい。綺麗に整った廊下です」


 オスカーが小さく咳をした。


 笑ったのを隠したらしい。


 クラリスは困ったようにイリスを見たが、反論はしなかった。


 たしかに、慎重であることと、逃げ道を残しすぎることは違う。


 ローゼン侯爵夫人は、その違いを突いてくる相手だ。


 彼女は、怒鳴らない。

 乱暴な命令もしない。

 書類に不用意な署名もしない。


 ただ微笑み、扇を開き、誰かが勝手に動くよう空気を作る。


 そういう人だ。


「直接尋ねるべきでしょうか」


 オスカーが言った。


 クラリスは、三枚の紙から目を離さない。


「いきなり問い詰めれば、こちらが無礼になります」


「では、茶会記録の照会ですか」


「はい。まずは正式に、ローゼン侯爵家へ慈善茶会の装飾発注記録、納入書、支払い記録の写しを求めます」


「拒まれた場合は?」


「王妃執務院の名で再照会します。慈善事業に関わる記録ですから、完全な拒否は難しいはずです」


 オスカーは頷き、羽根ペンを取った。


「照会文を作成します」


「お願いします。文面は丁寧に。疑っているのではなく、共同確認のために必要という形で」


「つまり、疑っているが疑っていない文面ですね」


「オスカー様」


「失礼しました。得意です」


 クラリスは少しだけ笑った。


 この人も、ずいぶん言うようになった。


 以前のオスカーは、もっと胃を押さえながら黙って耐える人だった。今も胃は押さえているが、必要な場面では言葉を出す。


 それは、良い変化だと思う。


 扉が叩かれた。


 入ってきたのはレオンハルトだった。


 彼は卓上の書類を見ると、すぐに状況を察したようだった。


「ローゼンか」


「まだ断定できません」


「君ならそう言うと思った」


 レオンハルトは椅子に座る。


 イリスが当然のように茶を出した。


「殿下、どうぞ」


「ありがとう」


 彼は茶に口をつけてから、改めて書類を手に取った。


「輸送便が同じ。倉庫が同じ。冬服は三十着不足。茶会装飾布は予定より増加」


「はい」


「ローゼン侯爵夫人が直接関与した証拠は?」


「まだありません」


「紹介状の件は?」


「白い砂糖花の職人への紹介状については、ノルヴァルト大使館へ正式照会中です。写しが届けば確認できます」


「つまり、ローゼン周辺に二本の線がある」


「はい」


 一本は、白い砂糖花。


 もう一本は、慈善茶会装飾布。


 どちらも単独では偶然と説明できるかもしれない。


 だが、二本が同じ方向を向いている。


 それが問題だった。


「クラリス」


「はい」


「ローゼン侯爵夫人に会う必要がある」


 レオンハルトの言葉に、オスカーの筆が止まった。


 イリスも少しだけ目を細める。


 クラリスは静かに聞き返した。


「今ですか?」


「照会文を出した後だ。彼女は書類だけで返してこない。必ず茶会か面会の形で応じる」


「でしょうね」


「その時、君一人で行くな」


「もちろんです」


 そう答えると、レオンハルトが一瞬だけ驚いた顔をした。


 クラリスは少し眉を下げる。


「殿下、そこまで意外でしたか」


「少し」


「わたくしも学んでおります」


「それは良いことだ」


 イリスが横で小さく頷いた。


「ただし、油断はできません」


「イリス」


「学んだことと、実行し続けることは別でございます」


 正しい。


 とても正しい。


 クラリスは反論を諦めた。


「では、誰を同行させますか」


 オスカーが実務に戻す。


 レオンハルトはすぐに答えた。


「私が行く」


「王弟殿下が?」


 オスカーが少し驚く。


「ローゼン侯爵夫人は、クラリスを若い令嬢として扱う。私がいれば、王弟府の正式な照会になる」


「ですが、殿下が出ると相手も警戒します」


「警戒させるために行く」


 レオンハルトは淡々と言った。


 クラリスは考える。


 たしかに、ローゼン侯爵夫人はクラリスだけなら、社交界の会話に引きずり込むだろう。


 女同士の柔らかな茶会。

 昔からの慣習。

 令嬢の名誉。

 王宮の調和。


 そういう言葉で、論点をぼかす。


 だが、レオンハルトが同席すれば、話は王弟府の調査になる。


 柔らかな毒だけでは済まない。


「オスカー様にも来ていただきたいです」


 クラリスは言った。


 オスカーが、わずかに顔色を変える。


「私もですか」


「記録係として」


「ですよね」


「胃は?」


「痛みますが、行きます」


 レオンハルトが頷く。


「良い返事だ」


「光栄です」


 少し光栄ではなさそうだった。


 クラリスは、さらに考える。


「リーナは今回は外しましょう」


「なぜ?」


 レオンハルトが尋ねる。


「儀礼補佐官としては同席する意味がありますが、ローゼン侯爵夫人の前では、まだ負担が大きいと思います。白い花の件で名前が出る可能性もあります」


「賢明だ」


「ミレーヌも外します」


「それは当然だな」


 クラリスは頷いた。


 妹は成長している。


 だが、ローゼン侯爵夫人の前に出すには早い。


 あの人は、人の弱いところを笑顔で撫でる。


 そして、相手が自分から崩れるのを待つ。


 今のミレーヌには酷だ。


「では、照会文を出します」


 オスカーが言う。


「返答が来るまでに、こちらの資料を整えましょう」


「はい」


 クラリスは新しい札を作った。


 ローゼン照会


 その横に、イリスが無言で別の札を置いた。


 一人で行かない


「……分かっています」


「念のためでございます」


 午後、ローゼン侯爵家へ照会文が出された。


 文面は丁寧だった。


 ノルヴァルト公国との共同確認に関連し、過去の慈善茶会における毛織物装飾の納入記録を確認したいこと。

 王妃執務院の慈善記録整理のため、発注書、納入書、支払い控えの写しを提出願いたいこと。

 ローゼン侯爵家の名誉ある慈善活動を正確に記録するための照会であること。


 疑っているとは一言も書いていない。


 だが、逃げるには少し狭い文面だった。


 夕方近く、早くも返事が来た。


 あまりに早い。


 クラリスは封筒を見た瞬間、ローゼン侯爵夫人がこの展開をある程度読んでいたのではないかと思った。


 封を開ける。


 中には、優雅な筆跡でこう書かれていた。


 記録の写しは用意いたします。つきましては、明後日午後、当家にて直接ご確認くださいませ。茶も用意いたします。


 イリスが横から覗き込み、低く言った。


「来い、ということですね」


「ええ」


 オスカーが胃のあたりを押さえる。


「茶も用意します、が怖いですね」


「帳簿と茶が同時に出る場になります」


「胃薬を増やします」


 クラリスは返答を机に置いた。


 予想通り。


 ローゼン侯爵夫人は、書類だけを送ってはこなかった。


 自分の屋敷、自分の茶、自分の空気の中で迎えるつもりだ。


 そこでは、帳簿も社交の道具になる。


 レオンハルトは文面を読んで、静かに言った。


「行こう」


「はい」


「ただし、向こうの茶だけは飲みすぎるな」


 イリスが真顔で頷いた。


「毒味は私が」


「イリス」


「形式上でございます」


「形式上でも物騒よ」


「ローゼン侯爵夫人ですので」


 否定しきれないのが困る。


 翌日、クラリスは準備に追われた。


 ただし、今回は一人で抱えていない。


 オスカーは照会項目一覧を作った。


 レオンハルトは王弟府から侯爵家との過去の寄付記録を取り寄せた。


 イリスは同行時の装いを選んだ。


 黒すぎず、華やかすぎず、顧問としての格を保つ濃紺のドレス。


「また戦装束ね」


 クラリスが言うと、イリスは当然のように頷いた。


「はい。今回は社交界用の戦装束でございます」


「剣はないのに」


「扇と茶器の方が危険な場合もございます」


 それも否定しきれない。


 ミレーヌは、顧問室に用語表の修正版を提出しに来た。


 彼女は机の上の「ローゼン照会」の札に気づき、少しだけ顔を強張らせた。


「ローゼン侯爵夫人に会いに行かれるのですか」


「ええ」


「私も……」


 言いかけて、ミレーヌは自分で止まった。


 以前なら、連れて行ってほしいと言っただろう。


 あるいは、自分も役に立てると言った。


 だが今は、言葉を飲み込んだ。


 クラリスは待った。


 ミレーヌはしばらく指先を握り、それから言った。


「私は、用語表の続きと、慈善茶会で使われる布の種類を調べます」


「お願いします」


「……行けないのは、悔しいです」


 正直な言葉だった。


「でも、今の私が行ったら、ローゼン侯爵夫人に何か言われただけで顔に出ると思います」


 クラリスは少しだけ微笑んだ。


「顔に出る自覚があるのは、良いことです」


「お姉様も、最近よく顔に出ると聞きました」


 クラリスは固まった。


 イリスが、さっと視線を逸らした。


「誰から聞いたの?」


「女官の皆様が」


「……そう」


 王宮内で何が共有されているのだろう。


 少し怖い。


 ミレーヌは、ほんの少しだけ笑った。


 その笑いは、以前の無邪気な甘えとは違った。


 自分の未熟さを知った上で、それでも前へ進もうとする笑みだった。


「気をつけてください」


「ええ」


「ローゼン侯爵夫人は、優しく笑う時ほど怖いです」


「知っているわ」


 ミレーヌは深く礼をして出ていった。


 その背中を見送りながら、クラリスは小さく息を吐く。


 妹が、自分の立てる場所を少しずつ分かり始めている。


 それは嬉しい。


 同時に、少し寂しい。


 守るだけの妹ではなくなっていくのだから。


 そして明後日。


 ローゼン侯爵邸は、以前と変わらぬ優雅さでクラリスたちを迎えた。


 門の花は淡い紫。


 玄関の香は控えめ。


 廊下には、王都でも名の知れた画家の風景画が並んでいる。


 どれも美しい。


 どれも隙がない。


 案内された応接室には、すでにローゼン侯爵夫人が座っていた。


 濃い葡萄色のドレス。

 手には白い扇。

 卓上には茶器と、数冊の帳簿。


 茶と帳簿。


 予想通りの組み合わせだった。


「ようこそ、クラリス顧問。王弟殿下、オスカー書記官も」


 ローゼンは優雅に立ち上がる。


「お忙しい中、当家までお越しいただき恐縮ですわ」


「こちらこそ、記録確認にご協力いただき感謝いたします」


 クラリスは礼を返す。


 レオンハルトも簡潔に挨拶した。


 オスカーは記録係として控えめに頭を下げる。


 ローゼンは、クラリスを見て微笑んだ。


「帳簿と茶を同時に出すなんて、無粋かしら」


「いいえ」


 クラリスは静かに答えた。


「どちらも、後味が大事ですので」


 ローゼンの目が、ほんの少し笑った。


「本当に、面白い方」


 着席する。


 イリスがクラリスの後ろに控え、用意された茶を確認する。


 ローゼンはそれを見て、くすりと笑った。


「侍女の方は、私のお茶を警戒していらっしゃるの?」


「侍女ですので」


 イリスは平然と答えた。


 ローゼンは扇で口元を隠す。


「頼もしいこと」


 最初に出されたのは、慈善茶会の装飾発注記録だった。


 クラリスは紙を受け取り、すぐに違和感を覚えた。


 整いすぎている。


 発注日、納入日、品目、数量、支払い額。


 すべて綺麗に記されている。


 だが、綺麗すぎる書類は、時に後から整えられた可能性がある。


「この装飾布は、ノルヴァルト産高級毛織物ですね」


「ええ。冬の慈善茶会でしたので、北方の温もりを象徴する趣向にいたしましたの」


「発注先は、ラドナー運送を通じたハイム商会」


「そう記録されておりますわね」


 ローゼンは涼しい顔だ。


「当家では商会の細かな裏事情までは存じません。信頼ある王都商人に任せておりますから」


 出た。


 信頼ある商人に任せた。


 自分は知らない。


 責任は商会へ。


 予想通りの逃げ道だ。


 クラリスは、まだ踏み込まない。


「茶会装飾用として納入された布の数量が、当初予定より三十着分、いえ、冬服三十着相当分多くなっています」


 ローゼンは、ほんの少しだけ眉を上げた。


「冬服三十着相当?」


「はい。布地量の換算です」


「面白い換算をなさるのね」


「孤児院向け冬服が三十着不足しておりましたので」


 室内の空気が、静かに冷えた。


 ローゼンは笑みを消さない。


「まあ。それはお気の毒なこと」


「同じ輸送便で運ばれています」


「偶然でしょう」


「その可能性もあります」


 クラリスは頷いた。


「ですから、確認しております」


 レオンハルトが、そこで口を開いた。


「夫人。この装飾布の追加発注を指示したのは誰ですか」


 ローゼンの視線がレオンハルトへ移る。


「当家の執事が手配したはずですわ。茶会の細部は、私はすべて見ておりませんの」


「では、執事に確認を」


「もちろん」


 ローゼンは扇を閉じた。


「ただ、王弟殿下。慈善茶会は、多くの善意で成り立つものです。多少の手違いを、あまり厳しく問い詰めれば、善意そのものが萎縮してしまいますわ」


 レオンハルトは淡々と答えた。


「善意で子どもの冬服が減るなら、それは確認が必要です」


 ローゼンの笑みが、ほんの少し硬くなった。


 クラリスは続ける。


「夫人。わたくしは、慈善茶会を責めに来たのではございません」


「あら、そう?」


「はい。慈善の名の下に、何が動いたのかを確認しに来ました」


「同じことではなくて?」


「違います」


 クラリスは、帳簿の上に手を置いた。


「善意は、記録されて初めて次につながります。記録されなければ、誰かに利用されます」


 ローゼンは黙った。


 一瞬だけ、彼女の目に別の色が浮かんだ。


 怒りではない。


 痛みに近いもの。


 だが、それはすぐに扇の奥へ隠れた。


「クラリス顧問」


「はい」


「あなたは、本当に何でも記録なさるのね」


「忘れられたものが多すぎましたので」


 ローゼンは、静かに茶を置いた。


「では、記録なさい」


 声が、少し低くなる。


「その年の慈善茶会で集めた寄付金は、王都の孤児院三つへ送られました。装飾布は、茶会後に仕立て直して施療院の膝掛けにする予定でした」


 クラリスは目を上げた。


 初めて聞く情報だった。


「予定でした、ということは」


「届きませんでした」


 ローゼンの指先が、扇の骨を軽く押さえる。


「茶会後、布はハイム商会が回収しました。仕立て直しのためと聞いておりました。ですが、その後、施療院へ届いたという報告はありません」


 オスカーの筆が止まる。


 クラリスは、ローゼンを見つめた。


「なぜ、それを今まで」


「あなたに言われるまで、私も“届いたもの”と思っておりましたの」


 ローゼンは笑った。


 けれど、その笑みは今までと違う。


 少し苦い。


「善意を利用されたのは、私も同じかもしれませんわね」


 それは、本当か。


 演技か。


 クラリスには、まだ分からなかった。


 だが、帳簿の線は新しく伸びた。


 茶会装飾布は、茶会後にハイム商会が回収。


 仕立て直し予定。


 施療院へ届かず。


 つまり、孤児院向け冬服から消えた三十着分だけではない。


 茶会後の布もまた、どこかへ消えている。


「その回収記録はありますか」


 クラリスが問うと、ローゼンは一冊の薄い控え帳を差し出した。


「こちらに」


 クラリスは受け取った。


 ハイム商会の受領印。


 日付。


 数量。


 そして、備考欄に小さな文字。


 再仕立て後、南施療院へ納入予定。


 オスカーが低く言った。


「南施療院の受領記録を確認します」


「お願いします」


 レオンハルトの目も鋭い。


「ローゼン夫人。なぜこの控えを最初から出さなかった」


 ローゼンは、扇を開いた。


「王弟殿下。求められたのは発注記録と支払い記録でしたもの」


 出た。


 求められていないものは出さない。


 嘘はついていない。


 だが、すべてを話してもいない。


 クラリスは、静かに息を吸った。


「では、改めて求めます。慈善茶会後の装飾品の再利用、寄付、回収に関する記録をすべて」


 ローゼンは、扇の奥で笑った。


「承知いたしました。クラリス顧問」


 その返事は優雅だった。


 けれど、部屋の空気はもう、最初とは違っていた。


 ローゼン侯爵夫人は敵なのか。


 被害者なのか。


 それとも、どちらでもあるのか。


 まだ分からない。


 だが一つだけ確かなことがある。


 ハイム商会は、慈善の善意まで吸い上げていた。


 そして、その奥にはまだ誰かがいる。


 帰りの馬車で、オスカーは胃を押さえながら言った。


「これは、思ったより複雑です」


「はい」


 クラリスは控え帳の写しを見つめる。


「けれど、線は増えました」


 レオンハルトが言う。


「次は南施療院だな」


「はい」


「ローゼンは、どう見た?」


 クラリスは少し考えた。


「すべてを知っていたとは、まだ思えません」


「では無関係か」


「それも違うと思います」


 茶会で集めた寄付。

 装飾布。

 回収記録。

 施療院へ届かなかった膝掛け。


 ローゼン侯爵夫人は、王宮の古い慣習を守る人だ。


 だが、慈善を軽く扱う人には見えなかった。


 少なくとも今日の一瞬、扇の奥にあったのは演技だけではなかった。


「夫人は、自分の善意が利用されたことを怒っているように見えました」


 クラリスは言った。


「それが本当なら、味方にできるかもしれない」


 レオンハルトが言う。


「はい」


「嘘なら?」


「さらに厄介です」


 イリスが横で静かに付け加えた。


「どちらにしても、怖い方でございますね」


 その通りだった。


 王宮へ戻る頃には、夕暮れが西の空を染めていた。


 クラリスは顧問室へ戻ると、すぐに新しい札を作った。


 南施療院確認


 その横に、イリスがまた札を置く。


 今日はここまで


「イリス」


「もう終業時刻です」


「まだ少し」


「お嬢様」


「……分かりました」


 クラリスは控え帳の写しを閉じた。


 明日、南施療院の受領記録を確認する。


 明日、ハイム商会の回収後の流れを追う。


 明日、ローゼン侯爵夫人が本当に知らなかったのかを見極める。


 今日はここまで。


 書類箱に写しを入れる。


 引き出しが閉まる音が、静かに響いた。


 扇の奥で笑う人に、帳簿を見せに行った。


 そこで見えたのは、敵の顔だけではなかった。


 利用された善意の影と、さらに奥へ続く暗い道だった。

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