第27話 帳簿合わせは、晩餐よりも静かに荒れました
共同確認の初日は、晩餐会よりも静かに始まった。
華やかな食卓はない。
銀の燭台も、香り高い料理もない。
王宮西棟の会議室にあるのは、長机と椅子、インク壺、砂入れ、そして山のような帳簿だけだった。
だが、クラリスには分かっていた。
時に、食卓で交わされる言葉より、帳簿の数字の方がずっと鋭く人を刺す。
「では、始めましょう」
レオンハルトの声で、会議室の空気が引き締まった。
出席者は多くない。
アルヴィア王国側からは、レオンハルト、クラリス、オスカー、王弟府の記録官、儀礼補佐官としてリーナ。
ノルヴァルト公国側からは、セルゲイ大使、エリナ夫人、大使館書記官のニコライ、商務補佐官のミーシャ。
国王アレクシスは同席していない。
最初から王が出れば、確認ではなく政治の場になってしまう。
まずは記録と記録の突き合わせ。
そのための席だった。
セルゲイ大使は、長机の向こうで静かに頷いた。
「こちらも、必要な記録を持参しました」
彼の隣に座るニコライ書記官が、革の箱を開ける。
中から出てきたのは、几帳面に束ねられた書類だった。
輸出証明。
港湾出荷記録。
リュード商会の売渡控え。
積荷目録。
価格表。
オスカーの目が、少しだけ輝いた。
書類を前にすると、彼は疲れていても生気を取り戻す。
「見事に整理されていますね」
思わずそう呟くと、ニコライは無表情のまま答えた。
「記録は、後で自分を守りますので」
オスカーが深く頷いた。
「まったく同感です」
妙なところで通じ合っていた。
クラリスは、そのやり取りに少しだけ口元を緩めたが、すぐに表情を戻す。
今日の目的は、親睦ではない。
信頼の再構築。
その第一歩として、互いの帳簿を出す。
「まず、品目を揃えます」
クラリスは大きな紙を広げた。
「毛布、寝台布、冬服、包帯布、祭礼布。この五品目について、ノルヴァルト側の輸出時価格、アルヴィア港湾到着時価格、王都到着時価格、王宮納入価格を並べます」
ニコライが頷く。
「こちらも同じ分類にしてあります」
「ありがとうございます」
クラリスは視線を少しだけ下げた。
分類が揃っている。
それだけで、作業の半分は進む。
逆に言えば、分類を曖昧にするだけで、不正はいくらでも隠せる。
バルツァー元財務卿は、そこをよく知っていたのだろう。
最初の品目は、毛布だった。
ノルヴァルト側の輸出時価格。
一枚あたり銀貨二枚と銅貨八枚。
港湾到着時価格。
銀貨三枚。
ここまでは妥当だ。
輸送費と関税を含めれば、むしろ安い。
王都到着時価格。
銀貨四枚と銅貨二枚。
少し上がるが、遠距離輸送を考えれば説明はつく。
王宮納入価格。
銀貨六枚。
部屋の空気が、ほんの少し重くなった。
セルゲイ大使は表情を変えない。
だが、エリナ夫人の指先が紙の上で止まった。
「二倍以上ですね」
彼女の声は穏やかだった。
穏やかだからこそ痛い。
「はい」
クラリスは逃げずに答えた。
「港湾到着時から見れば、王宮納入時には倍になっています」
ミーシャ商務補佐官が、ノルヴァルト側の記録を確認する。
「我が国のリュード商会は、輸出時に特別な追加料金を取っておりません」
「こちらの記録でも、そのようです」
オスカーが言った。
「価格上昇は、アルヴィア国内の中継以後に発生しています」
セルゲイ大使が、静かに尋ねた。
「中継業者は?」
クラリスは、あらかじめ用意していた表を出した。
「港湾都市では、エルム倉庫組合。王都への輸送は、ラドナー運送。王都側の納入は、ハイム商会です」
ニコライが目を細める。
「ラドナー運送」
「ご存じですか」
「名だけは。ノルヴァルト商人の間では、手数料が高い業者として知られています」
「避けられていた?」
「はい。少なくとも、大口商人は」
クラリスは、紙に線を引いた。
ラドナー運送。
新しい名だ。
「ラドナー運送とヴァルト家の関係を確認する必要がありますね」
オスカーが言う。
「すでに王弟府で照会中だ」
レオンハルトが答えた。
「午後には予備報告が来る」
セルゲイ大使が、レオンハルトを見た。
「準備が早い」
「遅かったので、今は早くしています」
レオンハルトは淡々と言った。
自国の失点を、無理に隠さない。
セルゲイは、わずかに目を細めた。
その返答をどう評価したのか、表情からは読めない。
次に、寝台布。
こちらも同じ構造だった。
輸出時価格は妥当。
港湾到着時も妥当。
王都輸送時に上がる。
王宮納入時にさらに上がる。
ただし、毛布ほど露骨ではない。
少しずつ、年ごとに。
まるで、水が石の隙間へ入り込むように。
「巧妙ですね」
リーナが控えめに言った。
クラリスは彼女を見る。
「どこが?」
「毛布の価格だけを見れば不自然ですが、寝台布は相場上昇で説明できそうです。品目ごとに上げ幅を変えています」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「すべて同じ上げ方をすると目立ちます。だから、品目ごとに違う理由をつけている」
エリナ夫人がリーナを見た。
「あなたが、昨夜の白い花に気づいた儀礼補佐官ですね」
リーナは緊張しながら礼をした。
「はい。リーナと申します」
「よく見ていますね」
「ありがとうございます」
リーナの声は少し震えたが、崩れなかった。
クラリスは、その様子を見て静かに安心した。
彼女は場に慣れ始めている。
見て、気づき、発言する。
それは簡単なようで難しい。
特に、国と国の確認の場では。
三品目目、冬服。
ここで、初めてノルヴァルト側の記録にも小さな違和感が出た。
輸出時価格は妥当。
だが、ある年だけ出荷数量が予定より多い。
アルヴィア側の受領数量は、逆に少ない。
つまり、ノルヴァルト側では多く出したことになっているのに、アルヴィア側の孤児院には少なく届いている。
差は、冬服三十着分。
会議室が静かになった。
ミーシャ商務補佐官が記録を再確認する。
「こちらの積荷目録では、冬服二百着。港湾到着記録でも二百着です」
オスカーがアルヴィア側の受領記録を出す。
「神殿側の記録では、孤児院到着は百七十着」
「三十着はどこへ?」
エリナ夫人の声が、静かに響いた。
誰もすぐには答えなかった。
クラリスは、数字を見た。
二百。
百七十。
三十。
ただの数ではない。
冬服三十着。
それは、三十人分の冬だ。
「港から王都の間で消えた可能性が高いです」
クラリスは言った。
「または、王都に到着後、王宮納入前に別用途へ回されたか」
レオンハルトが記録官へ視線を送る。
「ラドナー運送の積荷受領控えを最優先で確認しろ」
「承知しました」
セルゲイ大使は、何も言わずにそのやり取りを見ていた。
クラリスは、彼の沈黙が重いと感じた。
怒鳴られる方が、まだ楽だ。
静かに見られる方が、こちらの責任を突きつけられる。
「セルゲイ大使」
クラリスは口を開いた。
「この件については、アルヴィア側で輸送経路を調査し、結果を共有いたします」
「共有だけですか」
問いは鋭かった。
クラリスは一拍置く。
「必要であれば、補償と再納入についても協議いたします」
「必要であれば?」
セルゲイの目が冷える。
その瞬間、クラリスは自分の言葉の弱さに気づいた。
必要かどうかを、こちらが判断するように聞こえる。
よくない。
彼女が言い直す前に、レオンハルトが口を開いた。
「大使。冬服三十着分については、こちらで補填する準備を始めます。調査結果を待つのは、責任の所在を確認するためです。子どもたちの冬を待たせるためではありません」
セルゲイは、レオンハルトを見た。
「それを、王国として約束されますか」
「王弟府として即時手配します。正式な王国対応は、国王陛下の承認を得て書面にします」
クラリスは、胸の奥で小さく息を吐いた。
助けられた。
だが、ただ庇われたのではない。
レオンハルトは、必要な政治的責任を自分の立場で引き受けたのだ。
クラリスはすぐに続けた。
「私の表現が不十分でした。補填は進めます。調査は、今後同じことを起こさないために行います」
セルゲイ大使は、しばらく二人を見ていた。
「よろしい」
短い返答だった。
だが、先ほどより空気が少しだけ緩んだ。
会議は一度休憩に入った。
控え室に移る途中、イリスがクラリスへ小声で言った。
「お嬢様」
「分かっているわ」
「今の“必要であれば”は危険でございました」
「ええ。言ってすぐ気づいた」
「気づかれたならよろしいです」
イリスは、少しだけ声を柔らかくした。
「殿下がいてくださって、よかったですね」
「本当に」
クラリスは素直に頷いた。
以前なら、その一言を悔しく思ったかもしれない。
今は違う。
助けられたなら、助けられたと認めればいい。
それは弱さではなく、次に直すための記録になる。
休憩中、エリナ夫人がクラリスへ近づいた。
「クラリス顧問」
「はい」
「あなたは、今の失言をなかったことにしませんでしたね」
クラリスは少しだけ苦笑した。
「なかったことにしたい気持ちはありました」
「正直ですね」
「最近、周囲に正直であることを求められますので」
エリナ夫人は小さく笑った。
「良い周囲です」
「はい」
クラリスはその言葉に頷いた。
良い周囲。
そう言えるようになったこと自体が、少し前の自分からすれば大きな変化だった。
エリナ夫人は、窓の外を見た。
「冬服三十着。数字にすれば小さいかもしれません。でも、北の国の者にとって冬服は命に近いものです」
「承知しております」
「本当に?」
その問いは責めるものではなかった。
確認だった。
クラリスは、少し考えた。
「本当の意味では、まだ知らないのだと思います」
エリナ夫人が、クラリスを見る。
「私はアルヴィアの王都で育ちました。冬が厳しい地域の生活を、帳簿と報告でしか知りません。だから、知っていると言い切るのは傲慢かもしれません」
クラリスは続けた。
「ですが、知らないからこそ確認します。記録を見ます。現場の声を聞きます。知ったつもりで進めないようにします」
エリナ夫人は、少しだけ目を細めた。
「それは、妹君の記録にもあった言葉では?」
クラリスは驚いて顔を上げた。
「ご存じなのですか」
「昨日、あなたが教えてくださったでしょう。妹君が、失敗から学んでいると」
「そこまでは」
「顔に書いてありました」
クラリスは言葉に詰まった。
最近、自分の顔が分かりやすいと言われすぎではないだろうか。
エリナ夫人は穏やかに続けた。
「知ったつもりで進めない。良い言葉です。国同士にも必要ですね」
「はい」
休憩後、確認作業は再開された。
包帯布と祭礼布の記録も突き合わせる。
包帯布では、品質低下の記録が複数見つかった。
祭礼布では、慈善物資と関係ないはずの高級布が同じ輸送経路で動いていた。
そして、その高級布の一部が、ローゼン侯爵夫人主催の慈善茶会の装飾記録と重なっていた。
オスカーが表を見ながら、慎重に言う。
「この年、ローゼン侯爵夫人の慈善茶会で使用された祭礼布が、ノルヴァルト産高級毛織物として記録されています」
クラリスは頷く。
「それ自体は問題ではありません」
「はい。ただし、同じ輸送便で孤児院向け冬服も運ばれています。そして冬服は三十着不足」
リーナが、そっと別の記録を置いた。
「茶会装飾の納入日は、冬服不足が記録された日の二日前です」
会議室の空気が、また重くなる。
セルゲイ大使が言った。
「つまり、孤児院向けの輸送に乗せられた布の一部が、慈善茶会の装飾へ回った可能性があると」
「可能性です」
クラリスは慎重に答えた。
「現時点では断定できません。ですが、確認すべき線です」
「ローゼン侯爵夫人は、そのことをご存じで?」
「不明です」
「知らなかった場合は?」
「寄付と装飾の手配をした周辺人物を確認します」
「知っていた場合は?」
クラリスは一拍置いた。
「正式に責任を問うことになります」
その言葉を口にした瞬間、クラリスは改めて実感した。
これは、ただの帳簿合わせではない。
社交界の中心にいるローゼン侯爵夫人へ、線が伸び始めている。
彼女が直接不正をしたのか。
利用されたのか。
黙認したのか。
まだ分からない。
けれど、避けては通れない。
セルゲイ大使は、しばらくクラリスを見ていた。
「クラリス顧問。共同確認は、静かな作業に見えて、時に剣より深く切ります」
「存じております」
「本当に?」
「……今日、少し分かりました」
セルゲイは、わずかに頷いた。
「なら、続けましょう」
共同確認の初日は、日暮れ前に終わった。
結論は出ていない。
だが、三つの重要な線が見えた。
一つ、価格上昇の多くはアルヴィア国内の輸送と仲介で発生していること。
二つ、冬服三十着分が輸送途中または王都到着後に消えている可能性があること。
三つ、ローゼン侯爵夫人の慈善茶会装飾と、慈善物資の輸送経路が一部重なっていること。
オスカーが記録をまとめ、ニコライ書記官と相互確認を行った。
リーナは儀礼補佐官記録として、発言の流れと今後の照会項目を整理した。
クラリスは、最後に確認書へ署名した。
手が少し重かった。
書いた名前は、自分一人のものではない。
王宮臨時顧問として、王国側の確認責任を負う署名だった。
会議が終わった後、セルゲイ大使は静かに言った。
「本日の記録は、我が国へ送ります」
「こちらも、国王陛下へ報告いたします」
「次回は、ラドナー運送と祭礼布の流れを中心に」
「承知いたしました」
エリナ夫人が、帰り際にクラリスへ言った。
「今日は、誰も皿を取り替えませんでしたね」
一瞬、何のことかと思った。
だが、すぐに昨夜の白い花のことだと分かる。
「はい」
「代わりに、帳簿の皿を一枚ずつ開けました」
エリナ夫人は柔らかく微笑む。
「中身は、少し苦かったようですが」
「かなり」
「正直でよろしいです」
その言い方がイリスに似ていて、クラリスは少し笑ってしまった。
王宮へ戻る頃には、夕日が西の塔を赤く染めていた。
顧問室に戻ると、机の上にミレーヌの用語表第一案が置かれていた。
毛布。
寝台布。
冬服。
包帯布。
祭礼布。
それぞれの用途と品質、帳簿上の混同注意が丁寧に書かれている。
最後に、ミレーヌらしい少し不安定な字で追記があった。
布と書いてあっても、同じものではない。使う人が違えば、必要な厚さも違う。
クラリスは、その一文を見て目を細めた。
良い気づきだ。
そして、今まさに共同確認で問題になっていることでもあった。
祭礼布と冬服。
同じ布ではない。
片方は茶会を飾り、片方は子どもを冬から守る。
それを同じように扱った誰かがいる。
あるいは、意図的にすり替えた誰かがいる。
「お嬢様」
イリスが声をかける。
「終業時刻でございます」
クラリスは用語表を見つめた。
今すぐ、ローゼン侯爵夫人の茶会記録を読みたい。
祭礼布の納入書を確認したい。
ラドナー運送の関係者を洗いたい。
けれど、今日は共同確認だけで十分に頭を使った。
疲れた頭で見れば、見たい線ばかりを見てしまう。
レオンハルトが横から言う。
「明日、皆で見よう」
クラリスは、少しだけ息を吐いた。
「はい。明日、皆で」
彼女は用語表を丁寧にしまい、書類箱の「明日でよい」に入れた。
王宮の外では、夜が降り始めている。
共同確認という名の静かな試験は、まだ初日を終えただけだった。
だが、数字はもう語り始めている。
毛織物の帳簿は、国境を越え、社交界の茶会へまで伸びていた。
次に向き合う相手は、王宮の古い金庫番ではない。
扇の奥で微笑む、社交界の女王だった。




