第26話 共同確認という名の、静かな試験
ノルヴァルト大使館からの返答は、翌日の昼前に届いた。
封筒は白。
封蝋は銀。
鷹と月桂樹の紋章は、昨日の招待状と同じだった。
ただし、文面の温度は少し違っていた。
クラリスは王宮臨時顧問室の机で封を開き、最初の一文を読んだ瞬間、背筋を伸ばした。
アルヴィア王国より申し出のあった毛織物および慈善物資流通に関する共同確認について、ノルヴァルト公国大使館は協力の用意があります。
「協力する、と」
オスカーが眼鏡を押し上げた。
「はい。ただし、続きがあります」
クラリスは文面を読み進めた。
協力の条件。
開示する資料の範囲。
双方の商人名簿の取り扱い。
慈善物資に関わる記録を政治的攻撃に利用しないこと。
確認作業には、双方の書記官と儀礼担当者を同席させること。
そして最後に、セルゲイ大使の直筆と思われる追記があった。
信頼は、言葉で始まり、記録で続くものと考えます。
クラリスは、その一文をしばらく見つめた。
「厳しいですが、前向きですね」
オスカーが言う。
「ええ」
クラリスは頷いた。
「こちらが記録を出すなら、向こうも記録を出す。隠さず確認するなら、協力する。そういう返答です」
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「つまり、まだ信用はされていないということですね」
「はい」
クラリスは迷わず答えた。
「ですが、信用していない相手とは、記録の突き合わせもしません。完全に扉を閉じられてはいない」
「扉の隙間に大量の書類を差し込まれておりますが」
「それは……そうね」
否定できなかった。
共同確認。
響きは穏やかだが、実際には大仕事である。
こちらの帳簿を整理し、相手国の記録と照合し、商会名、輸送経路、価格差、手数料、納入品の品質を一つずつ確認する。
しかも、これは国内調査ではない。
相手国がいる。
曖昧なまま出せば、王国の恥になる。
隠せば、信頼を失う。
出しすぎれば、商人や貴族家の反発を招く。
細い橋を渡るような作業だった。
そこへ、レオンハルトが入ってきた。
今日の彼は、少しだけ早足だった。
「返答は?」
クラリスは文書を差し出した。
「協力の用意あり、です」
レオンハルトは読み終えると、口元をかすかに緩めた。
「セルゲイらしい」
「殿下は大使をご存じなのですか」
「数年前、北方交易協議で一度会った。笑顔のまま、こちらの曖昧な数字を三つ潰された」
「それは……」
「嫌な汗をかいた」
レオンハルトがそう言うのは珍しい。
クラリスは少し驚いた。
「殿下でも?」
「私でも、だ」
彼は文書を机に戻した。
「だから、今回はこちらも曖昧なものは出せない」
「はい」
「担当を分けよう」
その言葉に、イリスが満足そうに頷いた。
「たいへんよろしい始まりでございます」
クラリスは少しだけ頬を赤くした。
「私が言う前に」
「殿下は学習されておりますので」
「わたくしも学習しています」
「はい。少しずつ」
また少しずつと言われた。
反論しかけたが、正しいのでやめた。
クラリスは新しい紙を広げた。
「共同確認の準備は、五つに分けます」
羽根ペンを取る。
一つ目、王宮側の慈善物資支出記録。
二つ目、港湾輸入記録と関税控え。
三つ目、商会間の価格差一覧。
四つ目、現場受領記録――孤児院、施療院、神殿。
五つ目、ノルヴァルト側へ確認する商人名簿。
「オスカー様には、一つ目と三つ目を」
「承知しました」
「王弟府には、二つ目と五つ目をお願いしたいです」
レオンハルトが頷く。
「港湾記録は、王弟府から照会した方が早い。任せてくれ」
「四つ目は、フィオナ司祭へ正式に依頼します。神殿側の受領記録が必要です」
「私が使者を手配します」
イリスが言う。
「ミレーヌには」
クラリスはそこで一度手を止めた。
ミレーヌに何を任せるか。
簡単な写しだけなら安全だ。
だが、それでは彼女の学びにならない。
かといって、外交記録の中核にはまだ入れられない。
少し考え、クラリスは書いた。
慈善物資の品目別用語表作成。毛布、寝台布、冬服、包帯布、祭礼布の区別。
「ミレーヌには用語表を作ってもらいます」
オスカーが頷いた。
「良いですね。意外と混同しやすい部分です」
「はい。布地と一口に言っても、用途が違えば求められる品質も違います。そこを理解することが、今回の調査にもつながります」
レオンハルトが少し笑った。
「姉としても、顧問としても良い課題だ」
「……評価されると落ち着きません」
「慣れろ」
短く言われた。
イリスが横で頷いた。
「慣れていただきます」
どうやら、味方が多いほど逃げ場がない。
昼過ぎ、ミレーヌは顧問室へ呼ばれた。
彼女は相変わらず実務用の控えめなドレスを着ていた。以前なら不満そうに裾を気にしていたかもしれないが、今はもうその様子はない。
手には、小さな筆記板と予備の紙。
呼ばれた理由を聞く前から、仕事を受ける姿勢だった。
「クラリス顧問。ご用件を伺います」
その言い方も、以前より自然になってきた。
クラリスは用語表の概要を渡す。
「ノルヴァルト公国との共同確認に向けて、慈善物資の品目別用語表を作ってください」
「用語表、ですか」
「ええ。毛布、寝台布、冬服、包帯布、祭礼布。似たような布製品でも、使われる場所と必要な品質が違います。帳簿上で混同されると、価格の不自然さが見えにくくなります」
ミレーヌは紙をじっと見た。
「これも、外交に関わるのですか」
「関わります」
「私は大使館へ行かないのに」
「行かなくても、関わります」
クラリスは静かに言った。
「外交は、晩餐会の席に座る人だけでするものではありません。事前に資料を整える人、言葉を確認する人、記録を写す人、品目を間違えないよう調べる人。そういう仕事も外交を支えます」
ミレーヌは目を伏せた。
少しして、口を開く。
「前の私なら、席に出ることだけを気にしていたと思います」
「そうね」
クラリスは否定しなかった。
ミレーヌも、少しだけ苦笑した。
「はい。そうでした」
その笑いには、まだ痛みがある。
だが、自分で言えたことは大きい。
「期限はいつですか」
「明日の夕方までに第一案を。分からない言葉は、勝手に埋めないこと」
「はい。確認します」
「マルタ女官長と、必要ならオスカー様に聞きなさい」
「お姉様には?」
つい出た言葉だったのだろう。
言った直後、ミレーヌはしまったという顔をした。
クラリスは少しだけ微笑む。
「最終確認はします。でも、最初に聞く相手は担当者です」
「……はい」
ミレーヌは紙を胸元に抱えた。
「やってみます」
「お願いします」
妹が出ていった後、クラリスはしばらく扉を見ていた。
イリスが言う。
「行かなくてよろしいのですか」
「行かないわ」
「本当に?」
「本当に」
「素晴らしいです」
「でも、気にはなる」
「それは姉ですので」
イリスの声は、珍しく少し柔らかかった。
クラリスは何も言わず、小さく頷いた。
午後の終わり頃、フィオナ司祭から返答が届いた。
神殿側の受領記録は提出可能。
ただし、現場の孤児院や施療院に残る補助記録も確認したいので、二日ほど時間がほしいとのことだった。
書簡の最後には、フィオナらしい一文が添えられていた。
毛布の枚数は、祈りでは増えません。記録を出します。
オスカーがその一文を読んで、深く頷いた。
「司祭様は、時々とても強いですね」
「ええ」
クラリスは書簡を大切にたたんだ。
「だから信頼できます」
レオンハルトは王弟府から届いた港湾記録の予備報告を確認していた。
「港での価格は、やはり安定している。問題は王都までの輸送と仲介だ」
「輸送業者は?」
「三社ある。そのうち一社が、ヴァルト家とつながる可能性がある」
「またヴァルト家」
「便利な名義だったのだろう」
レオンハルトの声は低い。
「ただ、ここまでくるとバルツァー一人の話ではない」
クラリスは頷いた。
「元財務卿の最後の言葉通りですね」
王宮の腐敗は、私一人でできるほど小さくはない。
負け惜しみではなかった。
少なくとも、完全な嘘ではない。
そこへ、オスカーが別の紙を出した。
「気になる点がもう一つあります」
「何でしょう」
「慈善物資の価格が不自然に上がった年と、ローゼン侯爵夫人の慈善茶会の寄付額が増えた年が重なっています」
クラリスは手を止めた。
ローゼン侯爵夫人。
白い砂糖花の紹介状に続き、またその名が影を落とす。
「直接関係は?」
「まだありません。ただ、茶会で集めた寄付金がどの慈善事業に流れたか、その一部が王妃執務院経由の物資購入と重なっています」
イリスが静かに言った。
「見事に絡まってまいりましたね」
「はい」
クラリスは紙を見つめた。
「ですが、慎重に。ローゼン侯爵夫人を財務不正と直接結びつける証拠はまだありません。慈善茶会の寄付が不正に利用された可能性もありますし、夫人自身が知らなかった可能性もあります」
「知っていて利用した可能性もある」
レオンハルトが言う。
「あります」
クラリスは否定しなかった。
「けれど、今は断定しません」
「そうだな」
重い話になったところで、イリスが全員に茶を配った。
その手つきはいつもどおり完璧だったが、彼女は一つだけ菓子皿も置いた。
林檎の薄焼き菓子。
先日、レオンハルトが差し入れたものと同じだった。
クラリスは少し驚いた。
「イリス?」
「休憩でございます」
「今?」
「今でございます。これ以上続けると、お嬢様の顔が完全に帳簿狩りの猛禽になります」
オスカーがまた咳をした。
レオンハルトは笑いを隠さなかった。
「良い判断だ」
「殿下もどうぞ」
「いただこう」
クラリスは少しだけ不満だったが、菓子を一つ取った。
甘い。
林檎の酸味が少し残っている。
その味で、肩の力が抜けた。
仕事は重い。
けれど、重い仕事を続けるには、こういう小さな休憩が必要なのだと、最近ようやく分かってきた。
「お嬢様」
イリスが言う。
「何?」
「今日の終業時刻は守れそうですか」
「……内容によります」
「守れませんね」
「守ります」
「本当に?」
「本当に」
レオンハルトが横から言った。
「では、終業時刻になったら私が迎えに来よう」
「殿下が?」
「君が逃げないように」
「逃げません」
イリスとオスカーが、同時に少しだけ視線を逸らした。
信用がない。
だが、少し前の自分なら本当に逃げていたかもしれない。
仕事の中へ。
書類の山へ。
終業時刻。
レオンハルトは本当に迎えに来た。
扉を開けた彼は、机の上を見てからクラリスを見る。
「閉じられるか」
クラリスは、少しだけ手元の資料を見た。
ローゼン侯爵夫人。
慈善茶会。
毛織物。
ヴァルト家。
ノルヴァルト商流。
気になることは、山ほどある。
だが、今日はここまで。
そう決めることもまた、仕事の一部だ。
「閉じます」
クラリスは書類を揃え、書類箱の「明日でよい」に入れた。
イリスが満足そうに頷く。
オスカーが小さく拍手しそうになり、途中でやめた。
「明日、続きを」
クラリスが言うと、レオンハルトは頷いた。
「明日、皆で」
皆で。
その言葉が、以前よりずっと自然に響いた。
夜の王宮を歩きながら、クラリスはふと窓の外を見た。
王都の向こうには、国境がある。
その先に、ノルヴァルト公国がある。
毛織物の帳簿は、国境を越えていた。
けれど、帳簿だけではない。
信頼もまた、国境を越えなければならない。
そのために必要なのは、美しい言葉だけではない。
記録。
確認。
そして、間違いをなかったことにしない勇気。
共同確認という名の静かな試験は、始まったばかりだった。




