第25話 毛織物の帳簿は、国境を越えていた
翌朝、王宮臨時顧問室の机には、晩餐会の記録が三種類並んでいた。
一つ目は、オスカーの正式記録。
誰が出席し、どの席に座り、どの順番で料理が出され、どの発言が重要だったか。書記官らしい整った文面で、感情を挟まず、必要な事実だけが残されている。
二つ目は、リーナの儀礼補佐官報告。
白魚の前菜についての事前確認。白い砂糖花が予定表にない装飾であったこと。皿が客の前に置かれる直前に気づき、侍従へ由来を確認したこと。代替皿への変更までの手順。
三つ目は、クラリス自身の覚書。
それは正式記録ではない。けれど、後で必ず必要になる種類のものだった。
セルゲイ大使の表情。
エリナ夫人の言葉。
ジュリアスが謝罪した時の間。
リーナが止めた瞬間の侍従の反応。
そして、晩餐の終盤に出た一言。
毛織物と慈善物資の流通についても話したい。
クラリスは、その一文を見つめていた。
「お嬢様」
イリスが茶を置きながら言った。
「はい」
「その一文を、もう五回は見ておられます」
「数えていたの?」
「はい。六回目です」
クラリスは視線を上げる。
イリスはいつもどおり涼しい顔で立っていた。
「気になりますか」
「気になるわ」
「でしょうね」
否定されなかった。
クラリスは、覚書をそっと指先で押さえた。
「バルツァー元財務卿の件は、王宮内の不正だと思っていました」
「違うのですか?」
「まだ分からない。でも、慈善物資の中にノルヴァルト産の毛織物が入っているなら、商流は国境を越えます」
ハイム商会。
ルグラン織物商。
北門生活用品組合。
エルザック納入所。
王宮側で見えていた名前は、王都の商会ばかりだった。
だが、毛織物そのものがどこから来たのか。
そこをまだ十分に見ていない。
王都の帳簿は、王都の中で完結しているように見せられていた。
けれど品物は、必ずどこかから運ばれてくる。
羊毛。
織物。
染料。
輸送。
保管。
そこにノルヴァルトの商人が関わっているなら、これは国内の財務不正だけでは済まない。
「オスカー様は?」
「書記官室で、昨夜の正式記録の清書中です。胃薬は飲まれました」
「そこまで報告しなくても」
「健康管理も重要でございます」
そこへ、扉が叩かれた。
入ってきたのはリーナだった。
昨日の晩餐会で儀礼補佐官として同行した若い女官である。
顔には疲れが残っている。
それでも、目はしっかりしていた。
「クラリス顧問。昨夜の件について、追加報告がございます」
「どうぞ」
リーナは一枚の紙を差し出した。
「白い砂糖花の件です。大使館側の侍従から、今朝、非公式に確認が入りました。あの砂糖細工は、アルヴィア側からの土産菓子として事前に届けられたものだそうです」
「土産菓子?」
「はい。王宮公式の贈答品ではありません。晩餐会用の追加装飾として、王都の菓子職人から納められたものです」
「誰が手配を?」
リーナは少しだけ息を吸った。
「ローゼン侯爵夫人の紹介状が添えられていたそうです」
室内の空気が変わった。
イリスの目が冷たくなる。
クラリスは、すぐには答えなかった。
ローゼン侯爵夫人。
ここで彼女の名が出る。
意外ではない。
しかし、あまりにも分かりやすすぎる。
「紹介状そのものは確認できますか」
「大使館側にございます。正式照会があれば写しを出せる、とのことです」
「正式照会にしましょう」
クラリスは言った。
「ただし、断定はしません。ローゼン侯爵夫人が意図して葬送花に似せたのか、職人が無知だったのか、誰かが途中で差し替えたのか。まだ分かりません」
リーナは頷いた。
「はい」
クラリスは、リーナの報告書に目を通した。
記述は簡潔だが、必要な事実は押さえられている。
白い砂糖花の発見。
予定表との不一致。
大使館側侍従への確認。
代替皿への変更。
今朝の非公式確認。
ローゼン侯爵夫人の紹介状。
「よくまとめています」
クラリスが言うと、リーナの表情がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます」
「この報告書は、オスカー様へ回してください。正式記録とは別に、儀礼補佐官記録として保管します」
「はい」
リーナは礼をする。
だが、去る前に少しだけ迷った。
「あの、クラリス顧問」
「何でしょう」
「昨日、私がもっと早く気づけていたら」
クラリスは、静かに彼女を見た。
リーナの指先は、報告書の端を握っている。
責任を感じているのだ。
白い花が皿に乗りかけたことを。
クラリスは以前の自分を思い出した。
何かが起きた時、まず自分の確認不足だと思っていた。
誰かが仕込んだかもしれないことも、仕組みがなかったことも、担当が曖昧だったことも、すべて自分の肩に乗せていた。
その結果、何が起きたか。
仕事は集まり続けた。
「リーナ」
「はい」
「あなたは気づきました。そして声を上げました。それは失敗ではなく、機能した記録です」
「機能した記録……」
「はい。次は、皿が客席に運ばれる前ではなく、厨房で止める仕組みに変えればいい。それが改善です」
リーナの目が、少しだけ潤んだ。
「はい」
「だから、今回の報告書には“自分の失敗”ではなく、“改善点”として書きなさい」
「承知しました」
リーナは今度こそ礼をして出ていった。
扉が閉まると、イリスが静かに言った。
「お嬢様」
「何?」
「今のお言葉、ご自分にも適用してくださいませ」
「……分かっているわ」
「本当に?」
「努力します」
「実行でございます」
この言い方にも、ずいぶん慣れてしまった。
クラリスは苦笑しながら、白い砂糖花の件を新しい紙に書き加えた。
ローゼン侯爵夫人紹介状。要正式照会。
そして、その下にもう一つ書く。
毛織物流通。ノルヴァルト商人との関連確認。
ちょうどその時、オスカーが入ってきた。
両腕に資料を抱えている。
顔はいつもどおり少し疲れていたが、目には緊張があった。
「クラリス顧問。毛織物の件で、商業台帳の追加写しが届きました」
「早いですね」
「大使館側から正式協議の予告が来たことで、王弟府の照会が通りやすくなりました」
オスカーは資料を卓上へ並べる。
「ハイム商会が扱っていた毛織物の一部は、ノルヴァルト公国の北東部、リュード商会という中継商から入っています」
「リュード商会」
「はい。ただし、直接取引ではありません。リュード商会から港湾都市のアルヴィア商人を経由し、さらに王都のハイム商会へ入っています」
「二重に間を挟んでいるのですね」
「はい」
クラリスは資料を見る。
輸入記録。
関税控え。
港湾倉庫の保管記録。
王都への輸送証。
品目は毛織物。
用途は慈善事業用、または王宮備品用。
そこまではおかしくない。
問題は価格だ。
「港での価格は、それほど高くありませんね」
「はい。むしろ良心的です」
「王都に着いた段階で跳ね上がっている」
「その通りです」
オスカーは別の表を出した。
「輸送費、保管費、仲介手数料、緊急調達費。この四つで価格が膨らんでいます」
「緊急調達費?」
「慈善物資の納期が迫っていたため、特別料金が必要だったという名目ですね」
クラリスは、数年前の納入遅延記録を思い出す。
冬服が遅れた年。
毛布の枚数が減った年。
施療院の寝台布が薄かった年。
それらは、相場上昇や緊急調達のせいにされていた。
だが、港での価格は安定していた。
つまり、問題は輸入元ではなく、王都へ届くまでの間にある。
「ノルヴァルト側の商人が不正に関わっているとは、まだ言えませんね」
「むしろ現時点では、王都側で価格を膨らませた可能性が高いです」
「セルゲイ大使がこの件を知れば」
「アルヴィア側の慈善物資にノルヴァルト産品が使われ、その途中で不正に利用されたと見るでしょう」
面倒だ。
非常に面倒だ。
ただでさえ儀礼問題で信頼を失ったばかりなのに、今度は商流と慈善物資の問題が重なる。
しかも、ノルヴァルト側の商人が潔白なら、アルヴィア王国は相手国の商品名まで利用して不正を隠していたことになる。
逆に、ノルヴァルト側の一部商人が関与していれば、外交問題はさらに複雑になる。
「殿下は?」
「王弟殿下は、国王陛下への報告後こちらへ来られるとのことです」
「では、それまでに整理しましょう」
クラリスは書類箱へ手を伸ばした。
緊急。
明日でよい。
誰かに任せる。
断る。
そして、名前をつける。
彼女は新しい札を一枚取り、こう書いた。
国境商流確認
イリスがそれを見て言う。
「また札が増えましたね」
「必要な名前だから」
「では、担当も分けてくださいませ」
「分かっているわ」
クラリスは、紙に担当を書き始めた。
オスカー――商業台帳と輸入記録の照合。
リーナ――外交晩餐会の儀礼記録と白い花の件の正式照会準備。
マルタ女官長――王妃執務院の慈善物資受領記録確認。
ミレーヌ――禁忌一覧の第二写し、および白い花の文化的意味の比較表作成。
クラリス――全体統括、国王報告案、ノルヴァルト側照会文案。
レオンハルト――王弟府経由の外交・商流照会。
そこまで書いて、イリスが横から一枚の小札を置いた。
クラリス顧問が全部読まない。
「イリス」
「必要でございます」
オスカーが頷く。
「私も賛成です」
「オスカー様まで」
「今回の資料量は、全部読んだら三日寝込む量です」
「それは困ります」
「ですから、分けましょう」
オスカーの言い方は穏やかだった。
けれど、以前よりはっきりしている。
彼も変わったのだ。
クラリスが何でも抱えることを、ただ見ているだけの書記官ではなくなった。
「分かりました。全部は読みません」
「記録しますか」
イリスが聞く。
「しなくていいわ」
「残念です」
そこへ、ミレーヌが入ってきた。
手にはノルヴァルト関連の禁忌一覧の第二写しを持っている。
彼女は部屋に入るなり、雰囲気が重いことに気づいたようだった。
「何か、ありましたか」
「新しい確認事項です」
クラリスは答えた。
「ミレーヌ、追加でお願いしたい仕事があります」
ミレーヌの顔が引き締まる。
「はい」
「昨夜の白い砂糖花について、ノルヴァルトの葬送花との違いをまとめてください。形、花弁の数、使われる場面、避けるべき装飾例。絵が必要なら、王宮植物図譜を使って構いません」
「白い花……」
ミレーヌは一瞬、目を伏せた。
先日の自分の失敗を思い出したのだろう。
蜂蜜菓子。
知らなかったこと。
知ろうとしなかったこと。
だが、彼女はすぐに顔を上げた。
「承知しました。いつまでに?」
「明日の午前までに第一案を」
「はい」
ミレーヌは小さく頷いた。
そして、少しだけ不安そうに尋ねる。
「あの、間違えていたら」
「マルタ女官長に確認してもらいなさい」
「はい」
「そして、間違いは記録すればいいわ」
ミレーヌは、その言葉を聞いて少しだけ息を吐いた。
「分かりました」
彼女が去った後、オスカーが静かに言った。
「妹君、変わりましたね」
「少しずつです」
クラリスは答えた。
「人は急には変わりません」
「クラリス顧問も?」
「わたくしも」
イリスが横で強く頷いた。
「本当に、少しずつでございます」
「そこまで強調しなくても」
「まだ油断できませんので」
昼過ぎ、レオンハルトが顧問室へ来た。
国王への報告を終えた後らしく、表情は少し硬い。
「父上は、正式照会を認めた」
「ノルヴァルト側へ?」
「ああ。毛織物の輸入元と商流について、共同確認の形にする」
「共同確認」
「一方的に疑うのではなく、双方の記録を突き合わせる」
クラリスは頷いた。
「妥当です」
「ただし、先方も同じことを望んでいる」
「つまり、こちらの帳簿も見せる必要がある」
「そうなる」
オスカーの顔色が、少し悪くなった。
「国内不正の一部を、外交相手に見せることになりますね」
「隠せば、もっと悪い」
レオンハルトは言った。
「セルゲイ大使は、すでに何か掴んでいる。こちらが隠せば、信用は完全に落ちる」
クラリスは、昨夜のセルゲイの言葉を思い出した。
ノルヴァルトの商人が関わっていなければよいのですが。
あれは単なる不安ではなかった。
おそらく、何らかの情報を持っている。
「こちらから先に出すべきでしょう」
クラリスは言った。
「ハイム商会、関連商会、港湾経由の価格差、バルツァー元財務卿の職務停止。必要な範囲で開示します」
「王宮の恥になる」
レオンハルトが言う。
責めているのではなく、確認だった。
「はい」
「それでも?」
「はい。隠して後で出る方が、もっと恥になります」
レオンハルトは少しだけ笑った。
「同感だ」
イリスが茶を置く。
「では、また仕事が増えますね」
「増えます」
クラリスは正直に認めた。
イリスが目を細める。
「お嬢様」
「分かっています。一人で抱えません」
「よろしいです」
レオンハルトが卓上の担当表を見る。
そこに置かれた小札――クラリス顧問が全部読まない――を見て、口元を押さえた。
「これは良い札だ」
「殿下まで」
「王弟府でも採用したい」
「しないでください」
「いや、私にも必要かもしれない」
そう言って、レオンハルトは少しだけ目を伏せた。
クラリスは、その表情に気づく。
彼もまた、多くを背負う立場にいる。
王位を望まないと言いながら、王宮の歪みを見て、兄を見て、国王を支え、クラリスを支えようとしている。
「殿下」
「何だ」
「殿下にも、必要なら札をお作りします」
言ってから、クラリスは少し恥ずかしくなった。
何を言っているのだろう。
相手は王弟殿下だ。
しかしレオンハルトは、真面目に考える顔をした。
「そうだな」
「本当に?」
「“兄上の失敗を全部拾わない”という札が必要かもしれない」
オスカーが激しく咳き込んだ。
イリスは平然としている。
「大変よろしい札かと存じます」
「イリス」
「事実でございます」
クラリスは笑ってしまった。
重い話の途中なのに。
けれど、その笑いで少しだけ場が緩んだ。
大事なことだった。
重い仕事ほど、息継ぎが必要になる。
夕刻、ノルヴァルト大使館への正式照会文案が完成した。
文章は長すぎず、短すぎない。
国内調査で確認された事実。
ノルヴァルト産毛織物の流通記録に関する照会。
相手国商人を一方的に疑うものではないこと。
双方の慈善事業と交易の信頼を守るため、共同確認を求めること。
クラリスは、最後の一文をこう整えた。
――本件は過去の過失を隠すためではなく、今後同じ過失を繰り返さぬために確認するものです。
レオンハルトがそれを読み、頷いた。
「良い」
「ありがとうございます」
「ただ、少し君らしすぎる」
「どういう意味でしょう」
「逃げ道を塞いでいる」
「必要ですので」
「だろうな」
オスカーが写しを取り、王弟府の封筒へ入れる。
これで、国境を越えた確認が始まる。
国内の帳簿だけではない。
外交の場で、商流の線を追う。
クラリスは、窓の外を見た。
夕暮れの王宮は美しい。
けれど、その美しさの下に、まだ見えない線が走っている。
金の線。
品物の線。
人の思惑の線。
それらを一本ずつ見えるようにするのが、今の仕事だ。
終業時刻が近づき、イリスがいつものようにインク壺の蓋を閉めた。
「お嬢様。本日はここまででございます」
「ええ」
クラリスは素直に頷いた。
すると、イリスが少し驚いた顔をした。
「反論なしですか」
「今日はしません」
「明日は?」
「内容によります」
「まだまだですね」
レオンハルトが笑った。
「少しずつでいい」
クラリスは机の上の札を見た。
国境商流確認。
名前をつける。
誰かに任せる。
クラリス顧問が全部読まない。
増えていく札は、増えていく仕事の証であると同時に、一人で抱えないための証でもあった。
翌日には、ノルヴァルト大使館から返答が来るだろう。
その返答次第で、商流の奥にあるものが見えてくる。
クラリスは書類箱を閉めた。
毛織物の帳簿は、国境を越えていた。
そして、国境を越えた先にあるのは、ただの数字ではない。
失われた信頼と、取り戻すべき誠実さだった。




