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第24話 白い花は、皿の上で試される

 皿の上に置かれた白い小花は、ほんの親指の先ほどの大きさだった。


 砂糖を固め、花弁を薄く重ねた飾り菓子。


 王都の菓子職人が見れば、よくできていると褒めただろう。

 白く、繊細で、夜会の皿に添えるには上品すぎるほど上品だった。


 けれど、クラリスはその美しさを見た瞬間、胸の奥が冷えた。


 白薔薇ではない。


 だが、似ている。


 ノルヴァルト公国で葬送の席に用いられる、白い冬薔薇に。


 しかも今夜は、関係修復のための晩餐会である。


 先日の蜂蜜菓子の件があったばかりだ。


 ここでまた、白い花を模した飾りが皿に出る。


 偶然で済ませるには、あまりにも悪い。


 エリナ夫人の指先が止まっている。


 セルゲイ大使の目は冷たい。


 ジュリアスも気づいたらしい。顔が硬くなった。


 その瞬間、クラリスの中で、いくつもの選択肢が走った。


 自分がすぐに指摘する。

 リーナに確認させる。

 大使館側の侍従を呼ぶ。

 レオンハルトへ目で合図する。

 ジュリアスに発言させる。


 以前のクラリスなら、迷わず自分で動いただろう。


 誰よりも早く、誰にも気づかれないように、場を直す。

 そうして、何もなかったことにする。


 けれど今は違う。


 これは、クラリス一人の晩餐会ではない。


 リーナは儀礼補佐官としてここにいる。

 オスカーは記録係として控えている。

 ジュリアスは謝罪した本人として、この場にいる。

 レオンハルトは王族として、全体を支えている。


 ならば、クラリスがすべてを奪ってはいけない。


 皿が置かれるまで、あと数秒。


 クラリスはリーナを見る。


 リーナは顔色を失っていたが、目は逃げていなかった。


 彼女はすぐに控えの侍従へ近づき、小さく声をかけた。


「失礼いたします。この飾り菓子の由来を、確認してもよろしいでしょうか」


 声は震えていなかった。


 少し硬かったが、十分だった。


 侍従は一瞬戸惑い、皿を見る。


 その動きで、セルゲイ大使もエリナ夫人も、クラリスではなくリーナを見た。


 クラリスは動かない。


 リーナの仕事だ。


 ここで奪ってはいけない。


 侍従は、控えめに答えた。


「王都より取り寄せた砂糖細工と聞いております」


「大使館側の厨房で用意されたものではなく?」


「はい。本日のため、アルヴィア側の菓子職人より届けられたものです」


 その一言で、場の温度がさらに下がった。


 アルヴィア側。


 誰が用意したのか。


 王宮では、白い花材に注意するよう確認していた。

 リーナの表にも書かれていた。

 ミレーヌの禁忌一覧にもあった。


 白薔薇、葬送花に類する装飾を避けること。


 それなのに、王都の菓子職人から届いた砂糖細工が皿に乗っている。


 クラリスは、初めて口を開いた。


「セルゲイ大使、エリナ夫人。確認のため、一度こちらの皿を下げていただいてもよろしいでしょうか」


 謝るより先に、止める。


 それが今すべきことだった。


 エリナ夫人は、クラリスを見た。


「理由を伺っても?」


「はい」


 クラリスは隠さなかった。


「こちらの砂糖細工が、貴国の葬送花に似ている可能性がございます。私どもの確認不足であれば、この場でお出しするべきではありません」


 ジュリアスの顔が強張った。


 だが、今度は黙っていなかった。


 彼は静かに杯を置くと、セルゲイ大使へ向き直った。


「大使。これは、私どもが事前に避けるべきものとして確認していた装飾です。皿に乗るまで防げなかったことは、こちらの落ち度です」


 クラリスは、わずかに目を上げた。


 ジュリアスが、自分で言った。


 言い訳をしなかった。


 誰のせいか分からない段階で、それでもアルヴィア側の確認不足として受け止めた。


 セルゲイ大使は、しばらくジュリアスを見ていた。


「王太子殿下」


「はい」


「その花の意味をご存じで?」


「今は、完全には存じません」


 ジュリアスは一拍置いた。


「ですが、貴国において弔意を示す花に近いと聞いております。関係修復の席にふさわしくありません」


 硬い。


 まだ硬い。


 けれど、逃げていない。


 エリナ夫人が、ゆっくり皿から手を離した。


「……似ています」


 その言葉に、侍従たちの顔色が変わった。


 エリナ夫人は砂糖細工を見つめる。


「正確には、冬薔薇ではありません。花弁の数も違います。けれど、遠目には似て見えるでしょう」


「申し訳ございません」


 リーナが頭を下げた。


 クラリスは、一瞬だけ彼女を見る。


 リーナは青ざめていた。


 だが、崩れてはいない。


「儀礼補佐官として、皿が出る前に止めるべきでした」


 その言葉に、クラリスはすぐ口を挟みたくなった。


 違う。


 責任を一人で背負う必要はない。


 だが、ここでリーナの言葉を遮れば、彼女が自分の役割で発言した意味が消える。


 だから、クラリスは少し待った。


 エリナ夫人がリーナを見る。


「あなたが気づいたのですか」


「はい。予定表にはない装飾でしたので」


「では、気づかなかったのではなく、気づいて止めようとしたのですね」


 リーナは一瞬戸惑った。


「……はい」


「ならば、その仕事は無意味ではありません」


 エリナ夫人の声は柔らかかった。


「皿が客の前に置かれる前に、声を上げたのですから」


 リーナの目が揺れた。


 クラリスは、胸の奥で小さく息を吐いた。


 救われたのは、リーナだけではない。


 この場そのものだった。


 レオンハルトが、そこで静かに言った。


「大使。念のため、こちらの料理は下げさせてください。代替の皿が必要であれば、こちらから持ち込んだ確認済みの菓子と果実があります」


 セルゲイ大使が、少しだけ眉を上げた。


「持ち込んだ?」


「はい。先日の反省を踏まえ、王宮側で非常用の代替品を準備しました。ただし、大使館側の許可なく出すつもりはありません」


 クラリスは心の中で、レオンハルトに感謝した。


 この準備は、彼の提案だった。


 外交の場では、完璧な準備よりも、失敗した時の出口を用意しておく方が重要な場合がある。


 その言葉を、彼は出発前に言っていた。


 セルゲイ大使は、レオンハルトとクラリスを順に見た。


「用意がよろしい」


「前回、用意が悪すぎましたので」


 レオンハルトは淡々と答えた。


 皮肉にも聞こえるが、自分たちへの皮肉だ。


 セルゲイの目元が、わずかに緩んだ。


「よろしい。皿を下げましょう。ただし、代替品を出す前に、こちらの料理長にも確認させます」


「もちろんです」


 侍従たちが静かに皿を下げた。


 場は完全には和やかではない。


 だが、壊れなかった。


 むしろ、何かが一つ見えた。


 以前の王宮なら、きっとこの場で誰かが慌て、誰かが隠し、誰かが責任を押しつけた。


 今は違う。


 気づいた者が声を上げた。

 謝るべき者が謝った。

 出口を用意した者が出した。

 記録する者が記録している。


 クラリスは、オスカーをちらりと見た。


 彼は控え席で素早く筆を走らせていた。


 この件も記録に残る。


 誰が、いつ、何に気づき、どう止めたか。


 何もなかったことにはしない。


 だから、次に防げる。


 少しの間を置いて、代替の皿が出された。


 梨の薄切りに、淡い香草と北方産の塩を合わせたもの。


 王宮側が用意した果実を、大使館の料理長が確認し、ノルヴァルト式に整えた皿だった。


 エリナ夫人が一口食べ、微笑む。


「こちらは良いですね。梨の甘さに、北方の塩が合います」


 場の空気が、少しだけ戻る。


 セルゲイ大使も皿に手をつけた。


 ジュリアスはそれを見届けてから、自分の皿を取った。


 無理に話題を変えようとしない。


 それも良かった。


 沈黙を恐れて余計なことを言うより、相手が食べるのを待つ方がいい場面もある。


 クラリスは、ジュリアスの変化を静かに見た。


 まだ危うい。


 けれど、今夜の彼は自分の危うさを知っている。


 それだけで、以前とは違う。


 晩餐が再開されてしばらくすると、セルゲイ大使がレオンハルトへ話を振った。


「王弟殿下。今回の皿は、どこで用意を?」


「王妃執務院の儀礼補佐官が候補を出し、クラリス顧問が確認し、王弟府で保管しておりました」


「儀礼補佐官」


 セルゲイはその言葉を繰り返す。


「新しい役職ですか」


「試験導入です」


 クラリスが答えた。


「これまで非公式に行われていた確認業務を、正式な役割として記録するためのものです」


「なるほど」


 セルゲイ大使は、控え席のリーナを見る。


 リーナは緊張しながらも礼をした。


「では、今夜の白い花を止めたのも、その儀礼補佐官の仕事ですか」


「はい」


 クラリスは言った。


「そして、それを記録し、次に同じことを起こさないようにするところまでが仕事です」


 セルゲイは少し黙った。


「アルヴィア王国は、変わろうとしているのですか」


 重い問いだった。


 国の姿勢を問われている。


 クラリスが答えるべきか。


 レオンハルトか。


 あるいはジュリアスか。


 クラリスが迷う前に、ジュリアスが口を開いた。


「変わらなければならないのだと思います」


 全員の視線が彼へ向く。


 ジュリアスは一拍置いた。


「少なくとも、私は変わらなければならない。先日の失礼も、今夜の白い花も、知らなかったからで済ませてよいものではありません。知る仕組み、止める仕組みが必要です」


 彼の声は硬かった。


 けれど、自分で考えている。


「そのために、クラリス顧問たちが制度を作っています。私は……それを、ようやく見始めたところです」


 最後の言葉は、少し不格好だった。


 王太子らしい華やかな締めではない。


 だが、セルゲイ大使はその不格好さを笑わなかった。


「ようやく、ですか」


「はい」


 ジュリアスは逃げなかった。


「ようやくです」


 エリナ夫人が、静かに言った。


「遅くても、見ないよりはよろしいでしょう」


 セルゲイは夫人を見た。


 彼女は微笑んでいる。


 その笑みを見て、セルゲイ大使は小さく息を吐いた。


「今夜は、皿が二度試しましたな」


「二度?」


 ジュリアスが尋ねる。


「白魚の前菜は、我々からの問いです。貴国が我々の歓迎を、弔意と取り違えず受け取れるか」


 セルゲイ大使は、下げられた皿の方を見る。


「そして白い花は、意図せぬ問いでした。失敗しかけた時、貴国がどう動くか」


 クラリスは、静かにその言葉を受け止めた。


「どちらも、まだ完全な答えではありません」


 セルゲイは言った。


「ですが、席を立つほどではない」


 それは、最大級の譲歩ではない。


 けれど、十分だった。


 今夜の目的は、完全に許されることではない。


 席を立たず、対話を続けること。


 そこまで戻すことだった。


 晩餐の後半は、少しずつ穏やかに進んだ。


 北方街道の話。

 交易の話。

 神殿を通じた孤児院支援の話。

 ノルヴァルト産の毛織物と、アルヴィアの染色技術の話。


 その途中で、クラリスはふと気づいた。


 バルツァー元財務卿の不正で問題になったのも、毛布や布地だった。


 ノルヴァルト産の毛織物。


 王宮の慈善事業。


 商会の流れ。


 別々の問題に見えたものが、どこかでつながるかもしれない。


 だが、ここで深入りはしない。


 今日は晩餐会だ。


 調査の場ではない。


 クラリスは、その気づきを心の中で一度だけ折り畳んだ。


 帰ったら記録する。


 今は、場を見る。


 終盤、エリナ夫人がクラリスへ小さく言った。


「クラリス顧問」


「はい」


「あなたは、よく手を止めましたね」


「手を?」


「白い花の時です。あなたが真っ先に動くこともできたでしょう。でも、若い補佐官に言わせた」


 クラリスは、一瞬言葉に詰まった。


 そこを見られていたのか。


 エリナ夫人は静かに微笑む。


「人を育てる場では、手を出さない勇気も必要です」


「……まだ、練習中です」


「そのようですね」


 からかうようではなく、温かい声だった。


「でも、良い練習です」


 クラリスは頭を下げた。


「ありがとうございます」


 晩餐会が終わる頃には、最初の冷たさは少し薄れていた。


 セルゲイ大使は玄関広間まで見送りに出た。


「王太子殿下」


 ジュリアスが立ち止まる。


「はい」


「今夜の謝罪と対応は、国へ報告します」


「はい」


「良い報告だけではありません。白い花の件も書きます」


「当然です」


 ジュリアスは一拍置いた。


「私どもも記録します。なかったことにはいたしません」


 セルゲイは、わずかに頷いた。


「それがよろしい」


 次に、セルゲイはクラリスを見る。


「クラリス顧問」


「はい」


「次の協議では、毛織物と慈善物資の流通についても話したい」


 クラリスの胸の奥で、先ほど折り畳んだ気づきが開いた。


「承知いたしました」


「貴国の王宮内で、いくらか問題が起きていると聞いております」


 やはり、知られている。


 バルツァー元財務卿の件は、完全には隠せない。


 むしろ、隠すべきではない。


「現在、調査中です」


「ノルヴァルトの商人が関わっていなければよいのですが」


 その声は穏やかだった。


 だが、意味は重い。


 クラリスは静かに答えた。


「必要であれば、正式な照会を行います」


「お待ちしております」


 新しい課題が生まれた。


 晩餐会は終わったが、外交は始まったばかりだ。


 馬車に戻ると、ジュリアスはしばらく無言だった。


 クラリスは別の馬車へ向かおうとしたが、彼に呼び止められる。


「クラリス」


「はい」


「今日の白い花の時」


 ジュリアスは言葉を探していた。


「私は、また失敗したと思った」


「はい」


 慰めはしなかった。


 彼も望んでいないだろう。


「だが、前の時とは違った」


「何がでしょう」


「誰かが気づいた。誰かが止めた。誰かが謝った。誰かが代わりを用意していた」


 ジュリアスは、少しだけ苦い顔で笑った。


「これが、仕組みというものか」


「はい」


「……私は、今までそれをクラリス一人だと思っていた」


 クラリスは、静かに彼を見る。


「正確には、わたくし一人に集めすぎていました」


「そうだな」


 ジュリアスは、目を伏せた。


「今日は、よく分かった」


「それなら、意味がありました」


 ジュリアスは頷き、自分の馬車へ向かった。


 その背中はまだ未熟で、重い。


 だが、少しずつ自分で背負うものを知り始めている。


 クラリスが自分の馬車へ戻ると、レオンハルトが待っていた。


「よくやった」


「皆が、です」


「そう言えるところも含めて」


 クラリスは少しだけ笑った。


 馬車が走り出す。


 夜の王都を、大使館の灯りが遠ざかっていく。


 クラリスは窓の外を見ながら、今日の出来事を頭の中で整理した。


 白魚の前菜。

 白い花の砂糖細工。

 リーナの判断。

 ジュリアスの謝罪。

 セルゲイ大使の言葉。

 毛織物と慈善物資の流通。


 次に調べるべきことが、また増えた。


 だが、今夜はすぐに書類を開かない。


 馬車の中で、イリスがそれを許さないだろうし、レオンハルトも許さないだろう。


 クラリスは、静かに息を吐いた。


「明日、記録します」


 そう呟くと、レオンハルトが少し笑った。


「今日は?」


「今日は、帰ります」


「良い答えだ」


 夜の馬車は、王宮へ向かって進んでいく。


 和平の席は、まだ完全には整っていない。


 けれど、今夜、誰も席を立たなかった。


 それだけで、次の一歩を踏み出すには十分だった。

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