第21話 招待状は、和平の顔をしていました
ノルヴァルト公国から届いた招待状は、美しかった。
雪を思わせる白い紙。
銀糸のように細い飾り罫。
封蝋には、北方の鷹と月桂樹を組み合わせた公国紋章。
派手ではない。
けれど、こちらを試すような品のよさがあった。
クラリスは、その招待状をもう一度読み返した。
文面は丁寧だ。
アルヴィア王国からの謝罪文を受け取ったこと。
王妃主催茶会が滞りなく終わったことへの祝意。
両国の友好を保つため、ノルヴァルト大使館で小規模な晩餐会を開きたいこと。
そして最後に、セルゲイ大使の直筆で一文。
クラリス・フォン・エルディア顧問が出席されるならば、我々は席に着きましょう。
名指し。
それは名誉でもあり、責任でもあった。
「……重い一文ですね」
王宮臨時顧問室で、オスカーが眼鏡の奥の目を細めた。
「はい」
クラリスは招待状を机に置いた。
「こちらへの信頼というより、王宮全体への条件です」
「クラリス顧問が来るなら話を聞く。つまり、来ないならまだ席には着かない、と」
「そう読めます」
イリスが茶を置きながら言った。
「実に分かりやすい圧力でございますね」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「ですが、悪意だけではありません。交渉の窓は開いてくださっている」
「閉じた扉の隙間から、細い針を出しているようにも見えますが」
「イリス」
「失礼いたしました。少し本音が」
「少し?」
「かなり」
オスカーが小さく咳をした。
この部屋で、イリスの率直さに慣れていない者はもう少ない。
むしろ、クラリスが言いにくいことを先に言ってくれるので助かることもある。
問題は、たいてい言い方が鋭いことだ。
扉が叩かれ、レオンハルトが入ってきた。
手には王弟府の書類を数枚持っている。
「国王陛下との協議は、午後一刻に決まった」
「出席者は?」
「父上、王妃陛下、私、君、オスカー、マルタ女官長。それから……兄上も来る」
クラリスは一瞬、手を止めた。
「王太子殿下も」
「ああ」
レオンハルトの声には、わずかな硬さがあった。
「本人が望んだ」
「望まれたのですか」
「自分が原因の一端だから、逃げるわけにはいかない、と」
オスカーが驚いたように顔を上げた。
イリスも、ほんの少しだけ眉を動かす。
クラリスは、招待状の上に視線を落とした。
ジュリアスが、逃げないと言った。
それは小さな変化ではない。
かつての彼なら、面倒な後始末は誰かに任せていただろう。
あるいは、自分が出れば相手も納得すると考えた。
だが今の言葉は違う。
少なくとも、自分の失敗を失敗として見始めている。
「殿下は、晩餐会にも出席を望まれているのですか」
「そこまでは決めていない。今日の協議次第だ」
「難しいですね」
クラリスは言った。
「王太子殿下が欠席すれば、責任から逃げたように見える。出席すれば、先日の発言を思い出される」
「その通りだ」
レオンハルトは椅子に腰かけた。
「だから、今日の協議で決める」
イリスが静かに言う。
「お嬢様が全部決めないよう、私も壁際から見張っております」
「あなたは出席しないでしょう」
「扉の外までは参ります」
「見張る気なのね」
「もちろんでございます」
クラリスは少しだけ笑い、それから招待状を閉じた。
笑っている場合ではない。
ノルヴァルト公国との関係修復は、第2章までの王宮改革とは違う。
国内の帳簿や茶会なら、王宮の中で処理できる。
だが外交は違う。
一語で相手国の面子を傷つける。
一皿で文化的軽視になる。
一席で序列を読み違える。
そして、今回はすでに一度失敗している。
取り返す場ではなく、試される場だ。
「準備することが多いわね」
思わず呟くと、レオンハルトが即座に言った。
「一人で準備しない」
クラリスは顔を上げた。
「まだ何も言っていません」
「顔が言っていた」
「わたくしの顔は、そんなに分かりやすいですか」
「最近は特に」
イリスが後ろで頷いた。
「殿下のおかげでございますね」
「なぜそこで殿下が」
「お嬢様が、表情を隠しすぎなくなりましたので」
クラリスは返す言葉を探した。
見つからなかった。
オスカーが何も聞こえなかった顔で紙を揃えている。
とても賢明だった。
午後の協議は、王宮西棟の小会議室で行われた。
国王アレクシスは、招待状を読み終えると静かに息を吐いた。
王妃エレオノーラは、膝の上で手を重ね、少しだけ目を細めている。
ジュリアスは、国王の右手側に座っていた。
顔色は悪くない。
だが、いつもの華やかな余裕はない。
ミレーヌは同席していない。
まだその場に出る段階ではないと判断されたのだろう。
「セルゲイ大使は、まだ完全には怒りを解いていない」
国王が言った。
「はい」
クラリスは頷く。
「ですが、対話の席は用意してくださいました。招待状の文面から見る限り、これは拒絶ではなく、条件付きの再開です」
ジュリアスが口を開いた。
「その条件が、クラリスの出席か」
「はい」
「……当然だな」
静かな声だった。
クラリスは思わず彼を見る。
ジュリアスは視線を招待状に落としたまま続けた。
「先日の茶会で、私の言葉が大使を怒らせた。ミレーヌの菓子だけではない。私が軽く扱ったことも問題だった」
国王は何も言わなかった。
レオンハルトも口を挟まない。
ジュリアスは指先を握り込む。
「だから、私が行くべきだと思った」
王妃が、静かに尋ねた。
「謝罪のために?」
「はい」
「何を謝るのか、言葉にできますか」
その問いに、ジュリアスはすぐには答えなかった。
以前なら、王妃にそんな問いを投げられただけで不機嫌になっただろう。
けれど今日は、黙って考えていた。
「……大使の文化を、菓子一つと言ったことです」
彼はゆっくり言った。
「それから、ノルヴァルト公国の儀礼を知らなかったことより、知ろうとしていなかったことです」
部屋の空気が少し変わった。
クラリスは、机の下でそっと指を重ねた。
その答えは、まだ完璧ではない。
だが、以前のジュリアスからは出なかった言葉だ。
王妃は、小さく頷いた。
「よろしい。少なくとも、最初の一歩にはなるわ」
ジュリアスは、少しだけ息を吐いた。
国王がクラリスを見る。
「クラリス嬢。そなたはどう見る」
「王太子殿下のご出席は、必要だと思います」
ジュリアスが顔を上げた。
クラリスは続ける。
「ただし、謝罪の言葉は短く、明確に。弁解を挟まないことが条件です」
「弁解はしない」
ジュリアスはすぐに言った。
クラリスは、少しだけ視線を向ける。
「殿下」
「何だ」
「今のように即答なさる前に、一度だけ呼吸を置いてくださいませ」
「……なぜだ」
「即答は、時に反射的な防御に見えます。相手の言葉を受け止めたうえで返していると示すには、一拍置く方がよろしいかと」
ジュリアスは眉を寄せかけた。
だが、途中で止めた。
一呼吸。
本当に、一呼吸置いた。
「分かった」
それだけ言った。
オスカーが、記録を取りながら妙に感慨深い顔をしていた。
レオンハルトは、表情を動かさない。
だが、目だけが少し柔らかい。
国王が言う。
「では、出席者はどうする」
クラリスは準備していた案を出した。
「王族側からは、王太子殿下と王弟殿下。王妃陛下はご体調を理由に正式書簡でご挨拶を。実務側として、わたくしとオスカー様。必要であれば、王妃執務院からマルタ女官長の代理として儀礼補佐官を一名」
「儀礼補佐官か」
国王が少しだけ笑う。
「さっそく制度を使うのだな」
「使わなければ、制度になりませんので」
「誰を出す」
クラリスは少し迷った。
ここでミレーヌを出す案も、頭の片隅にはあった。
先日の茶会で蜂蜜菓子を止めた。
学びの場としては意味がある。
だが、まだ早い。
ノルヴァルト大使館での外交晩餐会は、失敗できない。
ミレーヌ本人にも重すぎる。
「今回は、王妃執務院の若手女官リーナを推薦します」
マルタが頷いた。
「妥当です。先日の茶会でも厨房連絡を担当しておりました」
ジュリアスが口を挟む。
「ミレーヌではないのか」
クラリスは彼を見る。
「今回は違います」
「なぜ」
「学びの段階と、外交現場に出す段階は違います。先日の茶会でミレーヌは成果を出しました。ですが、それを理由にすぐ大使館へ出せば、また“少しできたから次もできる”と誤解させることになります」
ジュリアスは何か言いかけた。
そして止めた。
一拍置いた。
「……そうか」
その短い返事に、クラリスは少し驚いた。
以前なら、ミレーヌを庇うか、自分の判断を通そうとしただろう。
今は、止まった。
それだけでも進歩だった。
王妃が目を細める。
「ミレーヌ嬢には、何をさせますか」
「国内での準備補助を。ノルヴァルト公国の禁忌一覧の写し作成と、王宮側の反省記録整理を任せたいと思います」
「反省記録?」
ジュリアスが少し苦い顔をした。
クラリスは、遠慮せず答える。
「はい。先日の失敗を、同じことが起きないよう記録に残します。ミレーヌにとっても、王宮にとっても必要です」
「私の発言もか」
「もちろんです」
ジュリアスは天井を見た。
だが、怒らなかった。
「分かった」
オスカーが記録する。
その羽根ペンの音が、以前より少し軽く聞こえた。
協議が終わった後、クラリスは廊下でジュリアスに呼び止められた。
レオンハルトは少し離れたところで待っている。
イリスも、目を光らせながら控えていた。
「クラリス」
「はい、殿下」
「大使館での謝罪文……いや、謝罪の言葉だが」
ジュリアスは少し言い直した。
「自分で書く」
クラリスは黙って待つ。
以前なら、すぐ「確認いたします」と言ったかもしれない。
だが、今は相手が続けるのを待った。
「書いたものを、見てほしい」
「職務として?」
ジュリアスは、一瞬だけ苦い顔をした。
けれど、次には頷いた。
「職務として」
「承知いたしました。草案をオスカー様経由で提出してください」
「直接では駄目か」
「記録に残すためです」
「……分かった」
言葉を飲み込むような返事だった。
だが、受け入れた。
ジュリアスは歩き出しかけて、もう一度止まった。
「クラリス」
「はい」
「私は、まだお前に謝れるほど分かっていないのだと思う」
クラリスは、静かに彼を見た。
「そうかもしれません」
「だが、少しずつ見る」
その言い方は不器用だった。
王太子らしい華やかさもない。
けれど、自分の言葉のように聞こえた。
「はい」
クラリスは短く答えた。
「それがよろしいかと存じます」
ジュリアスは、かすかに頷いて去っていった。
背中はまだ硬い。
だが、以前のようにすべてを誰かに持たせる背中ではなかった。
レオンハルトが近づいてくる。
「兄上は?」
「謝罪の言葉をご自分で書かれるそうです」
「雪でも降るかもしれないな」
「殿下」
「冗談だ。半分」
「半分なのですね」
「半分は、よく言ったと思っている」
クラリスは少しだけ笑った。
その時、儀礼局の方からミレーヌが現れた。
手には家格表と禁忌一覧の写し。
こちらに気づき、立ち止まる。
「お姉様……クラリス顧問」
「ミレーヌ」
ミレーヌは視線をジュリアスが去った方向へ向けた。
そして小さく言う。
「外交晩餐会、私は出ないのですね」
もう聞いたのだろう。
クラリスは頷いた。
「ええ。今回は国内準備を担当してもらいます」
ミレーヌは少しだけ唇を噛んだ。
悔しいのだろう。
それは当然だ。
しかし彼女は、泣かなかった。
「分かりました」
「不満?」
「少し」
正直な答えだった。
クラリスは、妹を見る。
ミレーヌは続ける。
「でも、たぶん、今の私が行っても、足手まといになります」
その言葉に、クラリスは一瞬だけ胸が痛んだ。
以前のミレーヌなら、絶対に言わなかった言葉だ。
「足手まといにならない準備をするのも、仕事です」
クラリスは言った。
「はい」
「禁忌一覧の写し、お願いできますか」
「はい。あと、先日の茶会の反省記録も……私が書きます」
その声は小さい。
だが、逃げていなかった。
「分かりました。マルタ女官長に確認してもらいなさい」
「はい」
ミレーヌは礼をして去る。
その背中を見ながら、クラリスは少しだけ息を吐いた。
「気になるか」
レオンハルトが問う。
「気になります」
「助けるか」
「いいえ」
「いい答えだ」
クラリスは彼を見る。
「殿下も、最近わたくしの扱いがマルタ女官長に似てきました」
「それは光栄だな」
「光栄なのですか」
「王宮で最も頼りになる女性の一人だ」
それは否定できなかった。
その日の夕刻、王宮臨時顧問室には新しい分類札が置かれた。
外交晩餐会。
ノルヴァルト公国。
王太子謝罪草案。
儀礼補佐官リーナ。
ミレーヌ国内準備。
オスカー報告書式。
そして、クラリス自身の担当欄には、こう書かれた。
全体統括。ただし、各担当の仕事を奪わないこと。
それを書いたのはイリスだった。
クラリスは札を見て、少しだけ眉を下げた。
「ここまで書く必要が?」
「ございます」
イリスは即答した。
オスカーも頷く。
「私も賛成です」
レオンハルトまで頷いた。
「必要だな」
「皆様でそう言うのですね」
「皆で言わないと、君は忘れる」
クラリスは言い返せなかった。
それがまた少し悔しい。
けれど、机の上に並んだ担当表を見ていると、以前ほど不安ではなかった。
仕事は多い。
だが、分けられている。
名前があり、担当があり、記録がある。
自分一人で抱える必要はない。
夜、クラリスが顧問室を出ようとした時、机の上に置かれた招待状が目に入った。
ノルヴァルト公国の白い紙。
セルゲイ大使の直筆。
席に着きましょう。
和平の顔をした招待状。
だが、その裏には試験がある。
クラリスは、そっと封を閉じた。
「行きましょうか」
レオンハルトが扉のところで言った。
「はい」
「今日は、残業しないのか」
「いたしません」
「即答だな」
「一拍置いた方が?」
「いや、今のはいい」
クラリスは小さく笑った。
王宮の廊下には、夜の灯りがともり始めていた。
次の舞台は、ノルヴァルト大使館。
王宮の中ではなく、外。
クラリスは初めて、国内の制度改革だけでは届かない場所へ踏み出すことになる。
けれど今度は、一人ではない。
見えない仕事に名前をつけた王宮が、その背中を支える。
そして隣には、花ではなく書類箱を贈る王弟がいる。




