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第20話 見えない仕事に、名前がついた日

 王宮の朝は、いつもどおり鐘の音から始まった。


 一の鐘で廊下の燭台が消され、二の鐘で厨房の火が強くなり、三の鐘で書記官たちが東棟へ向かう。


 何も変わっていないように見える。


 だが、その朝の王宮には、ひとつだけ新しいものがあった。


 王妃執務院の掲示板に、一枚の告示が貼られていたのである。


 王宮補佐官制度・試験導入について


 その文字を前に、女官たち、書記官補佐、侍従、見習い令嬢たちが足を止めていた。


 内容は、決して派手なものではない。


 だが、そこには確かに新しい役目の名が並んでいた。


 儀礼補佐官。

 招待状管理官。

 慈善配分連絡官。

 外交儀礼記録官。

 王族発言確認官。


 これまで誰かが何となく担っていた仕事に、名前がついた。


 担当がついた。


 記録が残ることになった。


 若い女官の一人が、掲示板の前でぽつりと呟いた。


「……あの控え写し、仕事だったんだ」


 隣の書記官補佐が、少し笑った。


「そうらしい。これからは、夜にこっそり直した分も記録していいんだと」


「変な感じ」


「でも、悪くない」


 その会話を、少し離れた場所でクラリスは聞いていた。


 声をかけることはしない。


 彼らが自分たちの言葉で受け止めることが大事だと思ったからだ。


 隣にはイリスがいる。


「お嬢様」


「何?」


「見事に足を止めておられます」


「え?」


「掲示板の前で、完全に立ち止まっておいでです。観察する気配が隠せておりません」


 クラリスは少しだけ姿勢を正した。


「そんなに?」


「はい。仕事を見つけた猛禽の顔です」


「まだそれを言うのね」


「便利な表現ですので」


 イリスは淡々と言い、それから掲示板を見た。


「でも、今日は少し違いますね」


「違う?」


「獲物ではなく、巣立ちを見る顔です」


 クラリスは返事をしなかった。


 けれど、胸の奥が少し温かくなった。


 巣立ち。


 たしかに、そうかもしれない。


 今までは、書類も段取りも失敗の火種も、最後にはクラリスの手元へ戻ってきた。


 だが、今日は違う。


 仕事が、それぞれの名を持って歩き出そうとしている。


 彼女一人の机から離れて。


「行きましょう」


 クラリスは言った。


「王妃陛下がお待ちです」


 王妃エレオノーラの私室は、朝の光に満ちていた。


 病み上がりの王妃は、まだ長椅子に腰かけている時間が長い。けれど、その顔色は以前より少しよくなっていた。


 卓上には、王宮補佐官制度の試験導入案が置かれている。


 その端には、王妃の承認印。


 そして、クラリスの署名。


「掲示板は見た?」


 王妃が尋ねた。


「はい。多くの方が足を止めておりました」


「不満そうだった?」


「戸惑っている方もいました。でも……少し、ほっとしているようにも見えました」


 王妃は、ゆっくり頷いた。


「そう。なら、まずは十分ね」


「十分、でしょうか」


「ええ」


 王妃は書類を指先で撫でる。


「王宮は、一度に変えると壊れるもの。けれど、まったく変えなければ腐るものでもあるわ」


 その声には、長く王宮にいた者の実感があった。


「あなたは、王宮の空気を少し変えた」


「まだ少しだけです」


「それでいいの」


 王妃は微笑んだ。


「少し変われば、次に少し変える人が出てくる。そうして、いつか大きく変わる」


 クラリスは、机の上の制度案を見た。


 完璧ではない。


 穴もある。


 反発も起きるだろう。


 ローゼン侯爵夫人はまだ諦めていない。

 バルツァー元財務卿の背後も不透明だ。

 財務院の中には、今回の調査を面白く思わない者もいる。


 それでも、始まった。


 見えない仕事に、名前がついた。


「王妃陛下」


「何?」


「この制度、必ず定着させます」


「必ず、は少し危うい言葉ね」


 王妃は柔らかくたしなめた。


「必ず一人で、と思うと、あなたはまた抱え込むわ」


 クラリスは一瞬黙った。


 そして、少し苦笑する。


「では、皆で定着させます」


「ええ。それならよろしい」


 王妃は満足そうに頷いた。


「それと、午後にミレーヌ嬢の小試験があるそうね」


「はい。封筒書きと家格確認です」


「見に行くの?」


「行きません」


 即答した自分に、クラリスは少し驚いた。


 王妃は面白そうに目を細める。


「行かないの?」


「担当はマルタ女官長です。わたくしがいると、ミレーヌがこちらを気にします」


「そうね」


「終わってから結果だけ聞きます」


「成長したわね」


「皆様に言われすぎて、さすがに覚えました」


 王妃は小さく笑った。


 クラリスも少し笑う。


 以前なら、こんなふうに王妃と話すことはなかった。


 いつも用件が先で、書類が先で、次の予定が先だった。


 今も仕事はある。


 山ほどある。


 それでも、会話の中に息継ぎがある。


 それだけで、同じ王宮なのに違う場所のように思えた。


 午後、王宮儀礼局の小部屋では、ミレーヌが封筒を前に座っていた。


 机の上には、三種類の招待状。


 一つは侯爵夫人宛て。

 一つは喪中の伯爵家宛て。

 一つは同じ家名を持つ本家と分家の確認問題。


 マルタ女官長は、正面に立っている。


 隣には若い女官が記録係として控えていた。


「始めてください」


「はい」


 ミレーヌは筆を取った。


 手は少し震えている。


 だが、以前のように周囲へ助けを求める目はしなかった。


 まず、侯爵夫人宛て。


 正式敬称を確認する。

 慈善委員会名誉職も書く。

 長くなりすぎないよう、文字の大きさを整える。


 次に、喪中の伯爵家。


 祝い文言は使わない。

 王妃へのご厚情に感謝する文面へ変更。

 春の喜び、という表現も避ける。


 最後に、本家と分家。


 家系表を見る。

 領地名を見る。

 当主名を見る。

 招待するのは本家ではなく東領分家。


 ミレーヌは慎重に封筒を書いた。


 時間はかかった。


 途中で一度、手が止まった。


 でも、泣かなかった。


 分からない箇所を勝手に埋めず、資料を見直した。


 そして最後に筆を置いた。


「終わりました」


 マルタは一枚ずつ確認した。


 室内に、紙の擦れる音だけが響く。


 ミレーヌは膝の上で手を握っていた。


 爪が食い込みそうになるのを、必死にこらえる。


 長い沈黙の後、マルタが言った。


「合格です」


 ミレーヌは、すぐには意味が分からなかった。


「……え?」


「三通とも、重大な誤りはありません。文字の余白と一部表現には改善の余地がありますが、招待状として出せる水準です」


 合格。


 その言葉が胸に落ちるまで、数秒かかった。


 ミレーヌの目に涙が浮かぶ。


 けれど、マルタが視線を向けると、彼女は慌てて背筋を伸ばした。


「ありがとうございます」


「礼は結構です。次は五通です」


「五通……」


「はい。王宮儀礼は増えます」


「はい」


 ミレーヌは封筒を見た。


 たった三通。


 それだけで、こんなに疲れた。


 でも、初めて自分で合格した。


 お姉様が直したものではない。


 誰かが先に失敗を消してくれたものでもない。


 自分で資料を見て、自分で書いた。


「マルタ女官長」


「何でしょう」


「私、今日のことを記録してもよろしいですか」


 マルタの目が、わずかに和らいだ。


「もちろんです」


 ミレーヌは、小さく頷いた。


 記録する。


 自分が何を間違え、何を直し、何をできるようになったか。


 今なら、その意味が少し分かる。


 同じ頃、王太子ジュリアスは別の小部屋で、白紙を前にしていた。


 机の上には、過去の演説原稿が二枚。


 青紐の当初原稿。

 赤紐の最終稿。


 そして、レオンハルトが向かいに座っている。


 オスカーは記録係として控えていた。


「一文でいい」


 レオンハルトが言った。


「分かっている」


 ジュリアスの声は不機嫌だった。


 だが、昨日ほど荒れてはいない。


 今日の課題は、北方街道補修に関する挨拶文の一部修正だった。


 元の文は、こうだ。


 ――王家は、地方の安寧にも心を配り、必要に応じて支援を行います。


 昨日までのジュリアスなら、問題ないと言っただろう。


 だが今は、その「地方」という言葉が気になる。


 国境を守る諸侯に対して、遠くから見下ろす響きがある。


 必要に応じて、という言葉も曖昧だ。


 誰が必要と判断するのか。

 王都が余裕のある時だけなのか。


 彼は筆を取った。


 何度も止まる。


 インクをつける。


 また止まる。


 やがて、白紙に一文を書いた。


 ――北方街道を守る諸侯と民の働きは、王都の繁栄を支える道そのものです。王家はその責任を共に担います。


 書き終えて、ジュリアスは紙を見た。


 拙い。


 自分でも分かる。


 華やかではない。


 耳に残る名文でもない。


 だが、以前より相手を見ている気がした。


 レオンハルトが紙を取る。


 しばらく黙って読んだ。


「悪くない」


 ジュリアスは眉を寄せた。


「それだけか」


「最初の一文としては十分だ」


「直すところは」


「ある」


「なら言え」


 レオンハルトは、少しだけ口元を緩めた。


「今の兄上は、直すところを聞けるのですね」


 ジュリアスは黙った。


 皮肉を言い返そうとした。


 だが、やめた。


「……言え」


 レオンハルトは赤いペンを取った。


「“道そのもの”は少し比喩が重い。だが、“責任を共に担う”は残していい」


 オスカーも控えめに言った。


「北方諸侯への敬意は伝わります。あとは、具体的な支援内容に接続できれば」


 ジュリアスはその指摘を聞いた。


 腹は立つ。


 それでも、紙から目を逸らさなかった。


 自分の言葉を直されることは、こんなに居心地が悪いものだったのか。


 クラリスは、これを十年していた。


 しかも、自分の不機嫌を受けながら。


 ジュリアスは、低く呟いた。


「……もう一度書く」


 レオンハルトは頷いた。


「そうしてください」


 その声に、少しだけ満足が混じっていた。


 夕方、クラリスは顧問室で一日の報告を受けていた。


 机の上には、王宮補佐官制度の初日記録が並んでいる。


 大きな混乱はない。


 小さな戸惑いは多い。


 けれど、それでいい。


 制度が動き出した初日としては、むしろ上出来だった。


「ミレーヌ様、封筒試験に合格です」


 マルタからの報告を聞いた時、クラリスは思わず顔を上げた。


「三通とも?」


「はい。重大な誤りなし」


「そう」


 短く答えたつもりだった。


 だが、イリスが隣で言う。


「お嬢様、かなり嬉しそうでございます」


「そう見える?」


「はい」


「……そう」


 否定はしなかった。


 嬉しい。


 それは事実だった。


 許したわけではない。

 すべてが元に戻ったわけでもない。


 でも、妹が初めて自分の手で得た小さな合格を、嬉しくないはずがなかった。


「王太子殿下の方は?」


 クラリスが尋ねると、オスカーが報告書を出した。


「本日、一文を自力で修正されました」


「殿下が?」


「はい」


「どのような文ですか」


 オスカーは少し迷ったが、写しを差し出した。


 クラリスはそれを読む。


 北方街道。

 諸侯と民。

 王家が責任を共に担う。


 まだ硬い。


 少し不器用だ。


 だが、以前のジュリアスの文とは違う。


 自分を飾るためではなく、相手へ届くように書こうとしている。


「……よい一文です」


 クラリスは静かに言った。


 オスカーが小さく頷く。


「私もそう思います」


 その時、扉が叩かれた。


 入ってきたのはレオンハルトだった。


 手には一通の封書。


 王弟府の使者が運んできたものらしく、封蝋にはノルヴァルト公国の紋章が押されている。


 クラリスはすぐに立ち上がった。


「ノルヴァルトからですか」


「ああ」


 レオンハルトは封書を卓上へ置いた。


「正式な招待状だ」


「招待状?」


「関係修復のための外交晩餐会。場所はノルヴァルト大使館」


 クラリスは封を確認し、開封する。


 文面は丁寧だった。


 丁寧すぎるほどではない。


 つまり、完全な抗議文ではなくなっている。


 王宮側の謝罪文が、一定の効果を持ったのだ。


 読み進めると、最後にセルゲイ大使の直筆と思われる一文があった。


 クラリス・フォン・エルディア顧問が出席されるならば、我々は席に着きましょう。


 部屋が静かになる。


 イリスが小さく息を呑んだ。


 オスカーは眼鏡を押し上げる。


「これは……大きいですね」


「はい」


 クラリスは、その一文を見つめた。


 かつて、菓子一つで失った信頼。


 それを取り戻す場に、名指しで求められている。


 婚約者としてではない。


 王太子の影としてでもない。


 王宮臨時顧問として。


 レオンハルトが言った。


「次は外交だ」


「はい」


「ノルヴァルト公国との正式な関係修復を、君に任せたい」


 クラリスは顔を上げる。


「正式な職務命令として?」


 レオンハルトは、少し笑った。


「もちろん」


「職務範囲と同行者は?」


「王妃執務院、王弟府、書記官室から必要人員を出す。君一人にはしない」


「報告書式は?」


「オスカーが用意する」


 オスカーが即座に頷いた。


「準備します」


「労働時間は?」


 イリスが横から言った。


 レオンハルトは真面目に答える。


「契約に従う」


「よろしいです」


 クラリスは、思わず笑ってしまった。


 外交晩餐会。


 次の大きな仕事。


 不安はある。


 失敗はできない。


 だが、以前のような息苦しさはなかった。


 自分一人で背負わなくていいと分かっているからだ。


「お受けいたします」


 クラリスは言った。


「王宮臨時顧問として」


 レオンハルトは頷いた。


「頼む」


 その夜、王宮の灯りは静かに揺れていた。


 掲示板には、王宮補佐官制度の告示が残っている。


 儀礼局では、ミレーヌが合格した封筒をもう一度見直していた。


 小会議室では、ジュリアスが自分の書いた一文に赤を入れていた。


 書記官室では、オスカーが外交晩餐会用の報告書式を作り始めていた。


 王妃の私室では、エレオノーラが新制度の控えを読み、静かに微笑んでいた。


 そしてクラリスは、自分の机の横にある書類箱を見た。


 緊急。

 明日でよい。

 誰かに任せる。

 断る。


 その横に、イリスが作った新しい札がある。


 名前をつける。


 クラリスは、そっとその札に触れた。


 見えない仕事に、名前がついた日。


 それは王宮が少しだけ変わった日であり、クラリス自身が少しだけ変われた日でもあった。


 だが、物語はここで終わらない。


 ノルヴァルト公国からの招待状。


 バルツァーが残した不穏な言葉。


 ローゼン侯爵夫人の静かな笑み。


 王宮の奥には、まだいくつもの扉がある。


 クラリスはその前に立っていた。


 今度は一人ではなく。


 自分の名と、役目と、共に歩く者たちを持って。

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