第19話 王宮の膿は、帳簿の奥に眠っていた
証拠は、綺麗な顔をしていなかった。
美しい封蝋もない。
丁寧な挨拶文もない。
差出人の署名すらなかった。
ただ、写しが数枚。
商会名。
送金日。
品目。
金額。
仲介者。
受取口座。
そして、そこからさらに別の名義へ移された金の流れ。
それだけだった。
けれどクラリスには、そこに王宮の古い匂いがした。
誤魔化しの匂い。
言い訳の匂い。
長い年月をかけて、誰も触れなくなった場所に溜まった埃の匂い。
「もう一度、最初から確認しましょう」
王宮臨時顧問室の卓上には、匿名で届いた資料と、これまで集めた帳簿の写しが並べられている。
窓の外はすでに暗い。
けれど室内の空気に眠気はなかった。
いるのは、クラリス、レオンハルト、オスカー、マルタ女官長、イリス。
ミレーヌは茶会記録を提出した後、マルタに命じられて儀礼局へ戻った。
それでいい。
今ここで扱うものは、封筒の宛名とは違う。
王宮の金の流れだ。
不用意に触れれば、まだ足元の定まらないミレーヌごと巻き込まれる。
クラリスは、一枚目の写しに指を置いた。
「ハイム商会。三年前、施療院用寝台布。支払額は王都相場より二割八分高い」
オスカーが記録を確認する。
「王宮慈善事業会計から支出。承認は財務院第二補佐官。保証人欄にヴァルト家」
「次」
クラリスは二枚目を見る。
「ルグラン織物商。同年、式典用旗布として支出。ただし請求書番号は、ハイム商会の施療院用寝台布と連番」
「七三三番ですね」
「ええ。これが昨日探していたもの」
レオンハルトが低く言う。
「式典用旗布として紛れ込ませたか」
「おそらく」
クラリスは頷いた。
「慈善関連だけを見れば抜けているように見える。でも、請求書番号で追うとつながります」
マルタが静かに紙を見つめていた。
「財務院の資料箱に、関係のない式典資料を大量に混ぜたのは、この番号を隠すためでしょうか」
「その可能性が高いです」
オスカーの声には、いつもより硬さがあった。
「ただし、それだけなら“代書屋が同じだった”で逃げられます」
「そこで、この送金記録ですね」
クラリスは三枚目を置いた。
エルザック納入所から、ヴァルト家名義の口座へ。
ヴァルト家から、バルツァー財務卿の甥が管理する投資組合へ。
さらにそこから、財務卿の私的債務の穴埋めに近い形で金が動いている。
線は複雑だ。
わざと複雑にしている。
だが、つながっている。
「これを誰が送ったのか」
レオンハルトが呟いた。
「内部の者でしょうか」
オスカーが言う。
「商会側、財務院側、あるいはヴァルト家側。どこからでも出せる資料ではありますが……」
「少なくとも、かなり近い位置の者です」
クラリスは答えた。
「これだけの写しを揃えるには、長く記録を見られる立場でなければ無理です」
イリスが一歩後ろから言う。
「罠の可能性は?」
全員が、彼女を見た。
イリスは表情を変えない。
「失礼ながら、匿名で届いた都合のよい証拠でございます。お嬢様がすぐ飛びつくことを見越している可能性もございます」
「その通りです」
クラリスはすぐに頷いた。
イリスの目がわずかに和らぐ。
「ですから、これだけで断じません。まずは既存の帳簿と照合します。写しにない原記録を取り寄せ、筆跡、印、日付、承認経路を確認します」
レオンハルトが頷いた。
「国王陛下には、疑惑として報告する」
「はい。処分を求める段階ではありません」
「バルツァーを呼ぶか?」
クラリスは少し考えた。
「呼ぶべきです。ただし、こちらがどこまで把握しているかは見せません」
「では?」
「まず、財務院が提出した資料の不備について質問します。七三三番の請求書が慈善資料ではなく式典資料に混ざっていた理由を」
オスカーが眼鏡を押し上げる。
「相手がどう答えるかを見るわけですね」
「ええ。そこで代書屋の話をするなら、代書屋の記録へ。資料整理上の誤りと言うなら、誰が整理したかへ。慣例と言うなら、その慣例を書面で出してもらいます」
マルタが、わずかに頷いた。
「逃げ道を、一本ずつ記録するのですね」
「逃げ道ではありません」
クラリスは紙を揃えた。
「本人に、自分で道を選んでいただくのです」
オスカーが小さく呟いた。
「……やはり敵に回したくありません」
「何か?」
「いえ。記録します」
翌朝、国王アレクシスの執務室で、最初の報告が行われた。
国王は資料を読み終えた後、しばらく黙っていた。
レオンハルトは窓際に立ち、クラリスは卓の前に控えている。
オスカーは記録係として端の席に座っていた。
「重いな」
国王が言った。
その声には、怒りよりも疲労があった。
「はい」
クラリスは答えた。
「ただし、匿名資料だけでは決定打にできません。照合が必要です」
「分かっている。だが、ここまで具体的なものが出た以上、無視はできぬ」
国王は資料を置いた。
「バルツァーは古い臣だ」
「存じております」
「先王の頃から財務を支えてきた。倹約家として名も通っている。王宮内にも、貴族家にも、商人にもつながりがある」
「だからこそ、慎重に進める必要がございます」
「そなたは、怖くないのか」
唐突な問いだった。
クラリスは少しだけ目を上げる。
国王アレクシスは、彼女を王宮臨時顧問としてではなく、一人の若い令嬢として見ているようだった。
「怖くないわけではございません」
クラリスは正直に答えた。
「財務卿を敵に回せば、わたくし一人への反発では済みません。王妃執務院、儀礼補佐官制度、見えない仕事の記録化。そのすべてに反対する者が勢いづく可能性があります」
「では、なぜ進める」
「ここで止まれば、帳簿は二度と口を開かなくなるからです」
国王は黙った。
「それに、これは数字だけの問題ではございません。孤児院の毛布、施療院の包帯、冬服、寝台布。少しずつ抜かれた金は、誰かの寒さや痛みになっております」
クラリスは静かに言った。
「王宮の膿を出すなら、痛むのは当然です。ですが、放置すればもっと深く腐ります」
しばらくして、国王は深く息を吐いた。
「分かった。バルツァーを呼ぶ」
「陛下」
レオンハルトが口を開いた。
「同席者は限定した方がよろしいかと。漏れれば証拠が消えます」
「そなた、クラリス嬢、オスカー、私。マルタは?」
「王妃執務院の慈善関連支出が絡みます。必要です」
クラリスが答える。
「では、マルタも呼ぶ」
国王は、もう一度資料を見た。
「今日の午後だ」
午後の小会議室は、重かった。
窓は開いている。
花も飾られている。
それでも空気は硬い。
バルツァー財務卿は、いつもと同じ服装で現れた。
濃い茶の上着。
控えめな金の留め具。
倹約を重んじる財務官らしい装い。
だが、その目だけは鋭い。
彼は部屋へ入ると、国王へ礼をし、次にクラリスへ視線を向けた。
「クラリス顧問。本日も帳簿のお話でしょうか」
「はい」
「若い方が熱心なのは結構なことです」
いつもの言い方だった。
穏やかで、少し上から。
クラリスは動じない。
「財務卿。先日ご提出いただいた追加資料について、いくつか確認がございます」
「もちろんです。財務院として、全面的に協力いたします」
全面的に。
便利な言葉だ。
クラリスは一枚の写しを出した。
「請求書番号七三三番についてです」
バルツァーの眉が、ほんのわずかに動いた。
すぐ戻る。
「七三三番」
「はい。ルグラン織物商の式典用旗布として提出されていました。ところが、前後の七三一、七三二、七三四番は、いずれも慈善関連支出に関わる資料です」
「偶然でしょう」
「では、同じ代書屋を使ったということでしょうか」
「その可能性はございますな」
「代書屋の名は?」
バルツァーは一拍置いた。
「そこまでは、すぐには」
「先日も同じお答えでした」
クラリスは言った。
「本日は、財務院の記録係より代書屋台帳の写しを提出いただいております」
オスカーが別の紙を出した。
バルツァーの目が、はっきりと動いた。
クラリスは続ける。
「七三一から七三四までの請求書は、代書屋を通しておりません。いずれも商会側で作成されたものです」
「商会が同じ書式を使うことは珍しくありません」
「珍しくはありません。ただ、別商会であるはずなのに請求書控え番号が連続するのは不自然です」
「事務上の便宜でしょう」
「では、その便宜を誰が指示したのか、記録に残しましょう」
オスカーの羽根ペンが動く。
バルツァーは、静かに息を吐いた。
「クラリス顧問。あなたは、財務の現場をご存じない」
「はい。ですから記録を確認しております」
「財務は、あなたが思うほど単純ではありません。商会同士の融通、納入時期、価格調整、物資確保。王宮を滞りなく回すためには、表に出しにくい調整も必要です」
「その調整で、孤児院の毛布が減ってもですか」
バルツァーの目が細くなる。
「感情論ですな」
「いいえ。数量です」
クラリスは別の表を出した。
「三年前、孤児院へ納入された毛布は予定より二十枚少ない。帳簿上は単価上昇のため数量調整とされています。しかし同時期、ハイム商会からヴァルト家名義の口座へ、差額に近い金額が送金されています」
部屋の空気が変わった。
バルツァーは、表情を変えなかった。
だが、指先が一瞬だけ動いた。
「匿名資料をお使いですか」
バルツァーは静かに言った。
「出所不明の紙切れで財務卿を疑うとは、王宮臨時顧問も大胆ですな」
クラリスは頷いた。
「匿名資料だけでは疑いません」
「では」
「ですので、王宮帳簿、財務院支出記録、商業台帳、代書屋台帳、神殿側の納入控えを照合しました」
オスカーが、次々と資料を並べる。
紙が卓上に重なる。
バルツァーは、それを見ていた。
「誰が、いつ、どの商会から、いくらで買い、誰が得をしたか」
クラリスは静かに言った。
「複雑なものを、単純にしました」
沈黙。
小会議室の外で、遠く女官の足音がした。
その音すら大きく聞こえる。
バルツァーは、ゆっくり椅子の背にもたれた。
「なるほど」
笑った。
ここで初めて、彼は作り物の柔和さを少し外した。
「たしかに、数字はお読みになる」
「ありがとうございます」
「褒めてはおりません」
「存じております」
レオンハルトがわずかに口元を動かした。
だが、口は挟まない。
これはクラリスの場だ。
バルツァーは国王へ向き直った。
「陛下。財務院には長年の慣例がございます。慈善支出も、王宮備品も、時に商会の協力なくしては成り立ちません。多少の融通は、王宮運営の潤滑油でございます」
国王アレクシスは低く言った。
「潤滑油にしては、孤児院の毛布が減っている」
「数量調整です」
「その差額が、なぜヴァルト家を経由する」
「商会間の貸借関係までは」
「なぜ、それがそなたの甥の投資組合へ流れる」
バルツァーは黙った。
国王の声は荒くない。
だからこそ逃げ場がない。
「バルツァー」
アレクシスは、彼の名を呼んだ。
「私は、そなたを長く信じてきた」
「恐れ入ります」
「その信頼を使ったのか」
バルツァーは、すぐには答えなかった。
やがて、彼は小さく笑った。
「陛下。王宮は綺麗ごとだけでは回りません」
「その言葉は聞き飽きた」
レオンハルトが低く言った。
バルツァーは弟王子を見た。
「王弟殿下には、財務の泥はお分かりにならないでしょう」
「泥を全部悪いとは言わない。だが、孤児院の毛布を汚す泥なら洗うべきだ」
バルツァーの笑みが消えた。
マルタが、初めて口を開く。
「財務卿。王妃執務院にも、納入遅延による苦情が何度も届いておりました。これまでは財務院から“相場上昇による調整”と説明され、私どももそれを受けておりました」
「事実です」
「その説明が、今後も通るとお思いですか」
静かな声だった。
バルツァーは返さない。
クラリスは最後の紙を出した。
「こちらは、施療院側の受領記録です」
そこには、納入品の品質について小さな注記があった。
布が薄い。
洗濯に耐えない。
冬季用としては不十分。
王宮側の納入記録には、良質毛織物とある。
「帳簿上は高品質。現場では薄手。差額は関連口座へ。これが一度だけなら偶然かもしれません。ですが、複数年、複数商会、複数品目で同じ構造が出ています」
クラリスは、バルツァーを見た。
「財務卿。これは、慣例ではありません」
声は静かだった。
「搾取です」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が張りつめた。
バルツァーは、しばらくクラリスを見ていた。
そして、ふっと笑った。
「若い」
低い声だった。
「若い方は、物事を綺麗に切り分けたがる。不正か、正義か。搾取か、奉仕か。ですが王宮は、そのような単純な場所ではありません」
「単純にしたのは財務卿です」
「何?」
「弱いところから少しずつ抜いた。孤児院、施療院、見習い令嬢、女官、書記官補佐。反論しづらい場所、記録に残りづらい場所、誰かが我慢すれば済む場所」
クラリスは一つずつ言った。
「それを複雑だと呼んで隠しただけです」
バルツァーの目に、初めて明確な怒りが浮かんだ。
「クラリス・フォン・エルディア。あなたは、自分が何をしているのか分かっているのか」
「はい」
「財務卿を退ければ、王宮の金が止まる」
「止まらないよう、引き継ぎ資料を整えます」
「財務院は混乱する」
「混乱しないよう、オスカー様と王弟府で記録を保全します」
「社交界も黙っていない」
「すでに黙っておりません」
バルツァーは、言葉を失った。
クラリスは、静かに続ける。
「ですので、今さらです」
レオンハルトが、そこでわずかに笑った。
国王は目を閉じる。
長い沈黙の後、アレクシスは決断した。
「バルツァー財務卿」
「陛下」
「そなたを、本日付で財務卿の任から外す」
室内の空気が、一段重くなった。
「正式な処分については、調査委員会を設ける。財務院内の関連記録は直ちに封印。関係商会との新規契約は停止。ヴァルト家、および関連投資組合についても調査する」
バルツァーは、深く頭を下げた。
驚くほど整った礼だった。
「御意」
その声には、悔しさも怒りも薄かった。
むしろ、奇妙に落ち着いている。
クラリスは、それが気になった。
国王は侍従を呼び、バルツァーの退室を命じた。
だが、出ていく直前、バルツァーは一度だけ振り返った。
彼の視線は国王ではなく、クラリスに向いていた。
「クラリス顧問」
「はい」
「あなたは一つ、思い違いをしている」
レオンハルトがわずかに動く。
クラリスは答えた。
「何でしょうか」
「王宮の腐敗は、私一人でできるほど小さくはない」
声は静かだった。
だから、余計に不気味だった。
「帳簿は、まだ奥がある」
それだけ言って、バルツァーは退室した。
扉が閉まる。
部屋には、重い沈黙だけが残った。
国王アレクシスは、しばらく動かなかった。
やがて、低く言う。
「負け惜しみか」
レオンハルトが答える。
「半分は」
「残りは?」
「警告でしょう」
クラリスは、卓上の資料を見た。
ハイム商会。
ヴァルト家。
バルツァー財務卿。
一本の線は切った。
だが、網はまだ残っている。
王宮の膿は、帳簿の奥に眠っていた。
そして今、その一部を切り開いた。
中にあったのは、思っていたより深い傷だった。
その日の夕刻、王宮内に通達が出た。
バルツァー財務卿、職務停止。
慈善関連支出の再調査。
関連商会との契約停止。
王宮臨時顧問クラリス・フォン・エルディアを中心とした、王妃執務院・王弟府・書記官室合同の記録照合班設置。
王宮はざわめいた。
女官たちは廊下で声を潜め、書記官室では追加資料の山に悲鳴が上がり、財務院では何人もの職員が顔色を失った。
だが、孤児院から戻ってきた神殿連絡係だけは、静かに頭を下げた。
「今年の毛布は、予定数が届くかもしれません」
それを聞いた時、クラリスはようやく小さく息を吐いた。
夜。
顧問室の机には、まだ資料が残っていた。
調査は終わっていない。
むしろ、始まったばかりだ。
イリスがインク壺の蓋を閉める。
「お嬢様。終業時刻です」
「分かっているわ」
「本当に?」
「本当に」
クラリスは手を止めた。
今日は続けたい気持ちが強かった。
バルツァーの最後の言葉が気になる。
帳簿は、まだ奥がある。
ならば今すぐ読みたい。
どこに隠れているのか。
誰が関わっているのか。
どれほど深いのか。
知りたい。
けれど、今日それを始めれば、自分も周囲も止まらなくなる。
「明日にします」
イリスが、ほんの少しだけ微笑んだ。
「はい」
扉のところに、レオンハルトが立っていた。
「帰れるか」
「はい」
「顔は帰りたくなさそうだ」
「……気になるものが多すぎます」
「明日も帳簿は逃げない」
「証拠は逃げるかもしれません」
「保全した」
「はい」
「なら、帰る」
以前なら、命令のように聞こえたかもしれない。
今は違う。
戻る場所を失わないための言葉だと分かる。
クラリスは書類箱の「緊急」の引き出しを閉めた。
そして、「明日でよい」の引き出しに一枚の覚書を入れる。
バルツァー発言確認。
王宮腐敗の範囲再調査。
明日。
そう書いた。
「殿下」
「何だ」
「明日も、よろしくお願いいたします」
レオンハルトは、少しだけ目を細めた。
「ああ。正式な職務として」
クラリスは少し笑った。
「はい。正式な職務として」
その夜、王宮の灯りはいつもどおり美しかった。
だが、その奥で何かが変わり始めていた。
見えない仕事に名前がつき、帳簿の奥の膿が一つ切り開かれた。
まだ終わりではない。
けれど、もう誰も「何もなかった」とは言えない。
第2章の戦いは、終わりに近づいていた。
そして、王宮のさらに深い闇は、次の章へ向けて静かに口を開け始めていた。




