第18話 王妃主催茶会、今度は止まりません
王妃主催茶会の朝、王宮西棟はいつもより静かだった。
不思議な静けさである。
人が少ないわけではない。むしろ逆だ。廊下には女官が行き交い、侍従は銀器の確認に走り、厨房からは菓子の焼ける香りが漂ってくる。
けれど、怒鳴り声がなかった。
誰かが焦って名を呼ぶ声もない。
廊下を駆ける足音も少ない。
直前になって「クラリス様を呼んでください」と泣きつく者もいない。
それは、クラリスにとって、かえって落ち着かない朝だった。
「お嬢様」
イリスが、王宮臨時顧問室の扉を開けながら言った。
「はい」
「本日、妙に静かですね」
「あなたもそう思う?」
「はい。嵐の前か、改革の成果か、判別がつきません」
「できれば後者であってほしいわ」
「私もそう願っております」
顧問室に入ると、机の上にはすでに必要な書類だけが置かれていた。
王妃主催茶会・招待客最終確認表。
席次表。
食事・菓子・香・花材禁忌一覧。
控え室配置図。
当日対応者一覧。
そして、儀礼補佐官試験運用表。
クラリスは、最後の紙に視線を止めた。
儀礼補佐官。
まだ正式制度ではない。
けれど今回の茶会では、試験的にその役割を置くことになった。
オスカーは記録確認。
マルタ女官長は女官配置。
厨房連絡は王妃執務院の若い女官。
招待状と封筒確認の補助は、ミレーヌ。
菓子と食事の禁忌最終確認は、クラリスとミレーヌの二重確認。
全体統括はクラリス。
王族側の後ろ盾として、レオンハルト。
以前なら、これらの多くがクラリス一人の頭の中に入っていた。
今日は紙に書かれている。
担当者の名がある。
所要時間も、確認印もある。
「……止まらないといいわね」
クラリスが呟くと、イリスがすぐに答えた。
「止まりません」
「断言するの?」
「はい。止まる前に、止める方が増えましたので」
その言葉に、クラリスは少しだけ笑った。
止まる前に、止める人が増えた。
それは、たぶん今日の茶会のすべてだった。
しばらくして、オスカーが書類を抱えて入ってきた。
顔色は悪くない。
胃痛は相変わらずらしいが、以前ほど切羽詰まってはいなかった。
「クラリス顧問。最終確認です」
「お願いします」
「出席者は予定どおり。ローゼン侯爵夫人、ヴェルナー伯爵夫人、ノルヴァルト公国大使夫人エリナ様、フィオナ司祭、財務卿派の伯爵夫人二名、王妃執務院関係者、その他十二名」
「欠席変更は?」
「ございません」
「喪中の家は?」
「ヴェルナー伯爵家のみ。文面、菓子、花材、話題すべて確認済みです」
「ノルヴァルト大使夫人の禁忌は?」
「蜂蜜菓子、長舟形の焼き菓子、白薔薇、葬送香に類する香。すべて厨房と花係へ伝達済みです」
オスカーは少しだけ誇らしそうだった。
彼の手元の確認表には、各担当者の印がきちんと並んでいる。
それだけで、クラリスは胸の奥が少し軽くなった。
「良い表ですね」
「ありがとうございます」
オスカーは眼鏡を押し上げた。
「実は、これだけで胃薬が二割減りました」
「二割だけですか」
「王宮勤務ですので」
いつもの答えだった。
その少し後、マルタ女官長がミレーヌを連れてやってきた。
ミレーヌは淡い水色の実務用ドレスを着ていた。
以前のような華やかさはない。
だが、今日は髪がきちんとまとめられ、手には封筒確認表と小さな筆記板を持っている。
表情は緊張していた。
けれど逃げ出しそうではなかった。
「クラリス顧問」
マルタが礼をする。
「女官配置、控え室、配膳順は確認済みです」
「ありがとうございます」
「ミレーヌ様、報告を」
ミレーヌは、はっと背筋を伸ばした。
「はい」
紙を見ながら、少し硬い声で読み上げる。
「招待状の宛名、封筒、敬称、慶弔文面の確認は完了しております。ヴェルナー伯爵夫人には祝い文言を避け、王妃陛下へのご厚情に感謝する文面へ変更済みです。ローゼン侯爵夫人の敬称は、慈善委員会名誉職を含めた正式表記です。ノルヴァルト大使夫人には、花材確認済みの案内状をお送りしています」
最後まで言い切った。
途中で声は一度だけ震えたが、止まらなかった。
クラリスは頷く。
「よく確認できています」
ミレーヌの目が、少しだけ揺れた。
褒められ慣れているはずの妹が、今はその一言を大事そうに受け取っている。
ただ可愛いと言われるのとは違う。
仕事を見てもらったのだと、分かったのだろう。
「ありがとうございます」
ミレーヌは小さく礼をした。
マルタがすぐに言う。
「喜ぶのは茶会が終わってからです」
「はい」
ミレーヌは慌てて姿勢を戻した。
イリスがクラリスの後ろで小さく呟く。
「女官長、相変わらず隙がございません」
「だから任せられるのよ」
「はい」
そこへ、レオンハルトが入ってきた。
今日の彼は王族としての正装だった。
だが、あくまで控えめだ。
王妃主催茶会の主役は王妃であり、場を整えるのはクラリスたち。レオンハルトは後ろ盾としてそこにいる。
その立ち位置を、彼は間違えない。
「準備は?」
レオンハルトが尋ねる。
クラリスは確認表を差し出した。
「現時点では、すべて予定どおりです」
「それは良い報告だな」
「逆に不安になります」
「分かる」
レオンハルトは少しだけ笑った。
「だが、予定どおりとは、誰かが事前に働いたということだ」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。
オスカーも、マルタも、ミレーヌも、それぞれの確認表を見る。
名前のある仕事。
記録された確認。
誰かがしたことが、紙の上に残っている。
「では」
クラリスは、書類を閉じた。
「始めましょう」
王妃主催茶会は、王宮南庭に面した陽光の間で開かれた。
以前、ミレーヌが失敗した茶会とは別の部屋である。
窓が広く、庭の見える美しい部屋だ。
中央には白い卓布をかけた丸卓。
花は淡い菫と白百合。
ただし白薔薇はない。
香は控えめで、薬草香に近い柔らかなものが使われている。
王妃エレオノーラは、淡い銀青のドレスで現れた。
病み上がりではあるが、座るだけで場の中心になる。
夫人たちは一斉に礼をした。
その中に、ローゼン侯爵夫人の姿がある。
今日の彼女は、深紅のドレスだった。
華やかだが、王妃より目立ちすぎない。
絶妙な加減。
さすが、とクラリスは思った。
ただし、彼女は招かれた客として来たのではない。
試験官として来ている。
そういう目をしていた。
「本日は、皆様にお集まりいただき感謝いたします」
王妃の声が、柔らかく響いた。
「体調のことでご心配をおかけいたしました。こうしてまた皆様とお茶の時間を持てることを、嬉しく思います」
その挨拶文は、クラリスが確認した。
だが、王妃自身の言葉がきちんと残っている。
余計に飾りすぎず、体調への言及も重くしすぎない。
場は穏やかに始まった。
席次も問題ない。
ローゼン侯爵夫人とヴェルナー伯爵夫人は離してある。
ただし遠すぎない。
不自然に避けたようには見せない距離。
フィオナ司祭は王妃の斜め向かい。
ノルヴァルト大使夫人エリナは、王妃の左手側。
財務卿派の夫人たちは、話題が暴走しない位置に置いてある。
すべて、事前に確認した通り。
クラリスは部屋の端で、全体を見る。
以前なら、彼女は一人で全方向を見ていた。
今日は違う。
オスカーは隣室で記録係。
マルタは女官の動線を見ている。
ミレーヌは厨房と菓子の最終確認。
イリスは、クラリスが余計に動きすぎないよう監視している。
レオンハルトは、王族席の少し後ろで場を見ている。
一人ではない。
それを何度も確認するように、クラリスは小さく息を吸った。
最初の茶が出る。
問題なし。
次に軽い菓子。
問題なし。
会話は王妃の体調から、神殿の慈善事業、王都の春祭りへ移る。
フィオナ司祭が孤児院の冬支度について触れ、ヴェルナー伯爵夫人が穏やかに応じる。
ローゼン夫人は微笑んでいる。
まだ動かない。
それが逆に不気味だった。
その時、ミレーヌが小走りにならないぎりぎりの速さで、クラリスのもとへ来た。
顔が青い。
だが、声は抑えている。
「クラリス顧問」
顧問、と呼んだ。
場をわきまえている。
「何かありましたか」
「厨房で、二皿目の菓子が差し替えられていました」
クラリスの目が細くなる。
「差し替え?」
「はい。予定では林檎の薄焼き菓子でしたが、厨房補佐が蜂蜜入りの焼き菓子を用意しかけていました」
蜂蜜。
クラリスはすぐに確認する。
「形は?」
「長舟形ではありません。ですが、ノルヴァルト大使夫人へ出すには避けるべきだと思いました」
ミレーヌの声が震える。
けれど、逃げない。
「止めたの?」
「はい。マルタ女官長には報告済みです。代わりに、予定表にある梨の砂糖煮へ戻すよう伝えました。ただ、私だけの判断でよかったのか不安で……」
「正しい判断です」
クラリスはすぐに言った。
ミレーヌの瞳が揺れる。
「本当に?」
「ええ。蜂蜜そのものが必ず禁忌というわけではないけれど、先日の件を考えれば、今日は避けるべきです。よく気づきました」
ミレーヌは唇を噛んだ。
泣きそうだった。
だが、泣かない。
「ありがとうございます。厨房へ戻ります」
「待って」
クラリスは小さく呼び止めた。
「はい」
「この件、後で確認表に記録しておきなさい。誰が、いつ、何を差し替えかけ、誰が止めたのか」
ミレーヌは一瞬驚いた顔をした。
それから、はっきり頷いた。
「はい。記録します」
彼女は戻っていった。
その背中を、クラリスは見送る。
あの子が、自分で止めた。
先日の茶会で何も知らずに失敗した妹が、今日は厨房で菓子を止めた。
小さなことだ。
だが、その小さなことが、外交上の失礼を防いだ。
これが仕事だ。
見えない場所で、何かが起きないようにした。
記録に残さなければ、誰も知らない。
だから、残す。
「良い顔をしている」
横からレオンハルトの声がした。
いつの間にか近くに来ていた。
「そうでしょうか」
「ああ。姉の顔と、顧問の顔が半分ずつだ」
「混ざっていましたか」
「悪くない」
クラリスは少しだけ目を伏せた。
レオンハルトは、部屋の中心へ視線を戻す。
「次が来るぞ」
「え?」
ローゼン侯爵夫人が、ちょうど口を開いたところだった。
「王妃陛下」
声は柔らかい。
「本日は本当に、滞りなく美しい茶会ですこと。クラリス顧問のお手並みは、さすがでございますわね」
褒め言葉。
だが、罠だ。
王妃は穏やかに微笑む。
「ええ。クラリス顧問だけでなく、王妃執務院の者たちがよく支えてくれています」
ローゼンの目が一瞬動いた。
王妃は続ける。
「今日は儀礼補佐の試験運用もしておりますの。誰が何を担ったか、きちんと記録に残すために」
クラリスは、心の中で静かに驚いた。
王妃が、自分からその話題を出した。
ローゼンは扇を広げる。
「まあ。茶会の裏側まで記録なさるのですか」
「ええ。裏側が整ってこそ、表が美しくなるのでしょう?」
王妃の声は柔らかい。
しかし、強い。
「私も長く王宮におりますが、少し反省しておりますの。美しい場を保つために、誰がどれほど動いたかを、あまりにも当然として見てきました」
部屋の空気が変わった。
王妃自身が、古い王宮の慣習に触れた。
ローゼン夫人も、すぐには返せない。
ヴェルナー伯爵夫人が静かに微笑む。
「それは素晴らしいお考えですわ、王妃陛下。若い方々も、自分が何を学び、担ったのか分かりやすくなりますもの」
フィオナ司祭も頷いた。
「神殿としても、王宮との連携が明確になるのはありがたく存じます」
流れができた。
ローゼン夫人は、それを見ている。
この場では、もう正面から反対できない。
王妃が語り、ヴェルナーが乗り、フィオナが支えた。
クラリス一人ではない。
だから崩れない。
ローゼンは、ふっと笑った。
「時代は変わるのですね」
「少しずつ」
王妃は答えた。
「急に変えると、皆が驚きますから」
「ええ。本当に」
ローゼンの声は甘い。
だが、その中にかすかな苦みがあった。
茶会は続く。
次の菓子は、梨の砂糖煮だった。
予定どおり。
ノルヴァルト大使夫人エリナが、口にして微笑んだ。
「とても上品な甘さですわ」
その一言で、クラリスは胸を撫で下ろした。
ミレーヌが部屋の端で、小さく息を吐いているのが見えた。
クラリスは、遠くからほんの少しだけ頷いた。
ミレーヌも、ぎこちなく頷き返す。
茶会は最後まで止まらなかった。
夫人同士の会話に小さな棘はあった。
ローゼン夫人の笑みは油断ならなかった。
財務卿派の夫人が何度か話題を逸らそうとした。
それでも、止まらなかった。
菓子も、席次も、会話も、控え室も、帰りの馬車も。
問題が起きなかった。
ただし、それは偶然ではない。
誰かが止めたからだ。
誰かが確認したからだ。
誰かが記録したからだ。
茶会後、王妃はクラリスを呼んだ。
陽光の間から続く小さな控え室で、王妃は椅子に腰を下ろす。
少し疲れた顔だった。
「無事に終わったわね」
「はい。皆のおかげです」
クラリスは答えた。
「あなたがそれを言えるようになって、よかったわ」
王妃の言葉に、クラリスは少しだけ目を伏せる。
「以前のわたくしなら、自分で全部見ようとしていたと思います」
「そうね」
「今でも、つい見たくなります」
「でしょうね」
王妃は微笑む。
「でも、今日は止まらなかった。あなた一人が走らなかったのに」
「はい」
「それを忘れないで」
クラリスは深く礼をした。
「はい」
控え室を出ると、廊下にミレーヌが立っていた。
手には確認表。
そこに、厨房での菓子差し替え未遂が記録されている。
ミレーヌは、緊張した顔で紙を差し出した。
「クラリス顧問。記録しました」
クラリスは受け取る。
文字は少し硬い。
だが、必要なことは書かれている。
時刻。
場所。
差し替えられかけた菓子。
止めた理由。
報告先。
代替品。
「よくできています」
ミレーヌの目が、大きく揺れた。
今度は、涙が一粒だけこぼれた。
彼女は慌てて拭う。
「すみません」
「謝らなくていいわ」
「はい……」
ミレーヌは、紙を見つめながら言った。
「私、今日、初めて……何も起きないようにする仕事をした気がします」
クラリスは、静かに頷いた。
「ええ。したわ」
短い言葉だった。
けれど、ミレーヌには十分だったらしい。
彼女は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
そこへ、マルタ女官長が来る。
「ミレーヌ様」
「はい」
「泣くのは後です。記録をオスカー書記官へ提出し、厨房にも写しを渡してください」
「はい」
ミレーヌは慌てて歩き出す。
その足取りは、まだぎこちない。
だが、前へ進んでいた。
夕刻、王宮臨時顧問室に全員が集まった。
オスカー、マルタ、イリス、ミレーヌ、レオンハルト。
茶会の記録確認のためである。
クラリスは全員の報告を受け、最後に言った。
「本日の茶会は、予定どおり終了しました」
オスカーが記録する。
「特記事項は、厨房での蜂蜜菓子差し替え未遂。ミレーヌ様が発見、差し止め。代替菓子に変更。外交上の問題は発生せず」
ミレーヌが、少しだけ背筋を伸ばす。
マルタも何も言わない。
だが、その沈黙は悪いものではなかった。
レオンハルトが言う。
「良い結果だ」
「はい」
クラリスは頷いた。
「茶会は、止まりませんでした」
その言葉に、部屋の中が少しだけ静かになる。
第1章で止まった王宮。
止まりかけた茶会。
今日は違った。
王宮は、少しだけ自分の足で動いた。
その時、扉が叩かれた。
若い補佐官が封筒を持って入ってくる。
「クラリス顧問。こちらが、先ほど顧問室の机に置かれていたとのことです」
「机に?」
「はい。差出人は不明です」
イリスがすぐに警戒した。
「触れても?」
「封蝋はありません。紙だけです」
クラリスは受け取り、慎重に開いた。
中には、数枚の写しが入っていた。
商会間の送金記録。
ハイム商会。
ルグラン織物商。
北門生活用品組合。
エルザック納入所。
そして、ヴァルト家名義の口座。
さらにその先に、バルツァー財務卿の親族筋へ流れている金の記録。
オスカーの顔色が変わった。
「これは……」
クラリスは、紙を一枚ずつ確認した。
手が冷える。
けれど、頭は冴えていた。
「決定的な証拠になるかもしれません」
レオンハルトが近づく。
「送り主は?」
「不明です」
マルタが低く言う。
「茶会が終わった直後に、この資料」
イリスが周囲を見回す。
「誰かが、今日の結果を見て動いたのでしょうか」
クラリスは、手元の紙を見つめた。
今日、王宮は止まらなかった。
クラリス一人ではなく、複数人で回した。
それを見て、誰かが判断したのかもしれない。
この人たちなら、この証拠を扱えると。
「保管を」
クラリスは言った。
「写しを取り、原本は封印します。オスカー様、記録を。殿下、国王陛下への報告手順をお願いいたします」
レオンハルトは頷く。
「分かった」
ミレーヌは、何が起きているのか完全には分かっていない。
だが、空気の重さは理解しているようだった。
彼女は小さく言った。
「私、何をすれば」
クラリスは妹を見た。
「今日は、あなたの記録を提出しなさい。それがあなたの仕事です」
「はい」
ミレーヌは頷いた。
それでいい。
すべてを知る必要はない。
今、自分の役割を果たすことが大事だ。
クラリスは証拠の写しを見つめた。
茶会は止まらなかった。
だが、その直後に、王宮の奥の膿が姿を現した。
次に向き合うのは、菓子でも席次でもない。
帳簿の奥に隠された、金の流れ。
そして、それを守ってきた者たちだった。




