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第17話 ローゼン侯爵夫人の午後茶会

 ローゼン侯爵夫人の午後茶会は、招待状の時点で完璧だった。


 紙の質。

 封蝋の色。

 季節の挨拶。

 出席者の顔ぶれ。

 そして、文面の余白。


 どれを取っても、隙がない。


 クラリスはその招待状を最初に見た時、思わず感心したほどだった。


 王宮ではない。


 侯爵家の私的な茶会。


 だが、それは私的であるからこそ厄介だった。


 王宮主催なら、記録が残る。

 席次の責任者も明確になる。

 発言も、ある程度は公的な場のものとして扱える。


 しかし私的茶会は違う。


 そこでは、夫人たちの笑顔が法であり、噂が記録になる。


 誰が招かれたか。

 誰が隣に座ったか。

 誰がどの言葉に笑い、どの話題で黙ったか。


 それらが翌日には王都中のサロンへ広がる。


 ローゼン侯爵夫人は、その場を誰よりも使い慣れている。


「お嬢様」


 馬車の中で、イリスが静かに声をかけた。


「はい」


「本日のお茶会は、罠でございます」


「分かっているわ」


「分かっておいでで、その表情ですか」


「どんな表情?」


「少しだけ、楽しそうでございます」


 クラリスは目を瞬かせた。


「楽しそう?」


「はい」


「まさか」


「ご自覚がないのですね」


 イリスは膝の上で手袋を整えながら言った。


「お嬢様は、危険な書類や面倒な相手を前にすると、少し目が明るくなります」


「レオンハルト殿下にも似たようなことを言われたわ」


「殿下は正しいです」


「二人とも、私を何だと思っているの」


「仕事を見つけると巣へ持ち帰りたくなる大型の鳥でしょうか」


「鳥なの?」


「猛禽寄りでございます」


 クラリスは思わず小さく笑った。


 緊張が、少しだけほどける。


 今日の茶会に向かうのは、クラリス一人ではない。


 イリスが侍女として同行している。

 フィオナ司祭も招かれている。

 そして王妃執務院からは、正式にクラリス顧問の出席記録が残されている。


 私的茶会とはいえ、完全に丸腰ではない。


 それでも、相手はローゼン侯爵夫人だ。


 警戒しすぎるくらいでちょうどいい。


 ローゼン侯爵邸は、王都西区の高台にあった。


 王宮ほど大きくはないが、古い家門らしい重厚さがある。白い石壁に蔦が絡み、門の両脇には季節の花が控えめに植えられていた。


 派手ではない。


 だが、金のかかっていない場所がない。


 そういう屋敷だった。


 案内された庭園の東屋には、すでに数名の夫人たちが集まっていた。


 ローゼン侯爵夫人。

 ヴェルナー伯爵夫人。

 フィオナ司祭。

 財務卿派とされる伯爵夫人が二人。

 王妃執務院に縁のある侯爵家の未亡人。

 そして、数名の若い令嬢。


 若い令嬢たちは、いずれも下級貴族の娘たちだった。


 おそらく、王宮の「見習い」として無償で手伝いをしている家の娘だ。


 ローゼン夫人が、わざと呼んだのだろう。


 クラリスは一目で理解した。


 今日の茶会の議題は、王宮の非公式業務一覧。


 つまり、見習い令嬢たちの無償奉仕を記録する件だ。


「クラリス顧問」


 ローゼン侯爵夫人が立ち上がった。


 濃緑のドレスが、庭の色によく馴染んでいる。


「ようこそお越しくださいました」


「お招きいただき、ありがとうございます」


 クラリスは礼を返した。


 ローゼンは優雅に微笑む。


「今日は堅苦しいお話ではなく、皆様でゆっくりお茶を楽しみたいと思っておりますの」


 嘘だ。


 全員が分かっている。


 だが、誰も言わない。


 茶会とは、そういうものだ。


 クラリスは示された席へ向かった。


 席次を見る。


 ローゼン夫人の正面。

 右隣にフィオナ司祭。

 左隣に財務卿派の伯爵夫人。


 真正面から試される席だった。


 少し離れた位置には、ヴェルナー伯爵夫人が座っている。


 彼女は柔らかな薄青のドレス姿で、静かにクラリスへ会釈した。


 クラリスも頷き返す。


 以前の茶会でローゼン夫人と火花を散らした相手だ。


 今はどちらにつくか分からない。


 ただ、少なくとも何かを見ている目だった。


 茶が注がれ、軽い挨拶が済む。


 最初は天候の話だった。


 次に、王妃陛下のご体調。

 続いて、神殿の慈善事業。

 そして、自然に見えるほど滑らかに、話題は王宮の新しい取り組みへ移った。


「そういえば」


 財務卿派の伯爵夫人が、扇を口元に当てて言った。


「王妃執務院で、見習い令嬢のお仕事まで記録なさるとか」


 来た。


 クラリスはカップを置く。


「はい。まずは招待状、席次、茶会事前確認に関わる業務からです」


「まあ、大変ですこと」


 別の夫人が笑う。


「私どもの頃は、王宮でお手伝いできるだけで光栄でしたのに」


「ええ」


 ローゼン侯爵夫人が、ゆったりと頷いた。


「若い令嬢が王宮の空気を学ぶ。家門の名誉にもなる。そうしたものまで、労働だ、記録だ、所要時間だと数えるのは……少し味気ない気もいたしますわ」


 味気ない。


 その言葉を使うか、とクラリスは思った。


 実に上手い。


 無償労働と言えば角が立つ。

 だが「味気ない」と言えば、改革する側が無粋に見える。


 クラリスは、焦らず答えた。


「名誉であることと、仕事であることは両立いたします」


「両立?」


「はい。王宮で学ぶ機会が名誉であるなら、その中で何を学び、何を担ったのか記録することは、その名誉を明確にすることにもなります」


 若い令嬢の一人が、わずかに顔を上げた。


 すぐに俯いたが、クラリスは見逃さなかった。


 ローゼンは微笑む。


「記録がお好きね、クラリス顧問」


「忘れられるものを減らしたいだけです」


「忘れられる?」


「はい。誰かが夜に封筒を直したこと。誰かが喪中の家への文面を差し替えたこと。誰かが厨房へ走って菓子を変えたこと。それらは、失敗が起きなければ忘れられます」


「失敗が起きなければ、それでよろしいのでは?」


 財務卿派の伯爵夫人が口を挟む。


 クラリスはその夫人を見る。


「失敗が起きなかった理由を忘れれば、次は起きます」


 夫人の笑みが少し硬くなった。


 フィオナ司祭が、そこで静かに茶を置いた。


「私は、記録に賛成です」


 視線が彼女へ向かう。


 ローゼンが、柔らかく問う。


「司祭様も?」


「はい。神殿でも同じことがあります。祈りの場を整える者、孤児院の帳簿をつける者、施療院の薬草を分ける者。人々は、祭壇に立つ司祭を見ますが、その後ろの仕事は見えません」


 フィオナの声は穏やかだ。


 だが、揺るがない。


「見えないからといって、存在しないわけではありません」


 クラリスは心の中で、そっと息を吐いた。


 ありがたい援護だった。


 だが、ローゼン夫人は崩れない。


「もちろん、神殿のお仕事は尊いものですわ。ただ、王宮の令嬢教育とは少し違うのではなくて?」


「違いますね」


 フィオナは頷いた。


「けれど、毛布を買うお金は、優雅さでは増えません」


 茶会の空気が、一瞬止まった。


 あまりに実際的な言葉だったからだ。


 フィオナは続ける。


「王宮の茶会が一つ無事に終わる裏で、誰が何をしたのか。その仕事を把握することは、慈善事業の配分にもつながります。人手も時間も有限ですから」


 ローゼン夫人の扇が、ゆっくり動く。


「司祭様は、ずいぶん現実的でいらっしゃるのね」


「神殿で冬を越す子どもたちを見ておりますので」


 それ以上、軽くは扱えない言葉だった。


 クラリスはフィオナに視線で礼を送る。


 フィオナは、ほんの少しだけ頷いた。


 そこへ、意外な人物が口を開いた。


「私は、クラリス顧問の取り組みに興味がありますわ」


 ヴェルナー伯爵夫人だった。


 ローゼンの目が、微かに動く。


「まあ、ヴェルナー伯爵夫人。あなたも?」


「ええ」


 ヴェルナーは柔らかく微笑む。


「我が家の姪も、以前王宮で見習いをしておりました。帰宅後、何日も寝込むほど疲れていましたの。でも本人は、“名誉なことだから疲れたと言ってはいけない”と申しておりました」


 若い令嬢たちが、かすかに反応した。


 自分のことだ、と思った者がいるのだろう。


「その頃、私も深く聞きませんでした。王宮で学べるのだから良いことだと思って」


 ヴェルナーの声には、少し苦みがあった。


「でも今思えば、あの子が何を担っていたのか、誰も記録していなかった。だから、誰も多すぎるとは気づかなかったのです」


 ローゼンは笑みを保っている。


 だが、その笑みは少し薄い。


「ヴェルナー伯爵夫人は、若い方にずいぶんお優しいのね」


「そうかもしれません」


 ヴェルナーは穏やかに答えた。


「身内を疲れさせて初めて気づいたのですから、優しいというより遅かっただけですわ」


 その返しに、クラリスは少しだけ目を伏せた。


 強い。


 ヴェルナー伯爵夫人は、ただローゼン夫人と敵対しているからクラリス側に立ったのではない。


 自分の家の娘のことを、思い出しているのだ。


「ただ」


 別の夫人が、少し慌てるように言った。


「記録すると言っても、すべての仕事に報酬を求めるのですか? それでは王宮の負担が」


「すべてに金銭報酬をつけるとは申し上げておりません」


 クラリスは答える。


「まず、何が行われているかを把握します。そのうえで、教育として妥当な範囲、正式業務として任命すべき範囲、廃止すべき雑務を分けます」


「廃止?」


 ローゼンが反応した。


「ええ。不要な仕事もあります」


「王宮に不要な仕事などありますの?」


「あります」


 クラリスははっきり言った。


「例えば、担当者がいるにもかかわらず、“念のためクラリスにも見せる”と回ってくる私的な花材相談などです」


 イリスが後ろで気配を消した。


 笑いを堪えたのだろう。


 ローゼンの目が、わずかに細くなる。


 それが彼女の出した相談であることは、当然分かっている。


「それは、信頼の表れではなくて?」


「信頼なら、正式に職務として依頼していただければお受けします」


「まあ。何でも正式に?」


「曖昧なままですと、責任も曖昧になりますので」


 クラリスは微笑んだ。


 ローゼンも微笑む。


 笑顔同士が、静かにぶつかる。


 若い令嬢たちは息をひそめている。


 その一人が、意を決したように小さく手を上げた。


「あの……」


 全員の視線が向く。


 その令嬢は、まだ十六、七歳ほどだろう。緊張で頬を赤くしている。


「発言しても、よろしいでしょうか」


 ローゼンが柔らかく言う。


「もちろんよ。今日は気楽な茶会ですもの」


 気楽ではない。


 誰もが思ったが、誰も言わなかった。


 令嬢は震える声で続けた。


「私、王宮の見習いで、招待状の控えを写したことがあります。夜までかかって、翌日も朝から出ました。でも、母には“王宮で学べてよかったわね”と言われて……私も、そう言わなければいけないと思っていました」


 手が膝の上で握られている。


「でも、もし、何をしたか書けるなら……家にも説明しやすいと思います」


 彼女はそこで俯いた。


「すみません。生意気なことを」


「生意気ではありません」


 クラリスはすぐに言った。


 令嬢が驚いたように顔を上げる。


「それは、とても大事な意見です」


 フィオナも頷く。


「働いたことを説明できるのは、大切です」


 ヴェルナー伯爵夫人が、静かに微笑む。


「お母様も、きっと知りたかったのだと思いますよ。ただ、どう聞けばよいか分からなかったのでしょう」


 令嬢の目が潤んだ。


 ローゼン侯爵夫人は、笑っていた。


 だが、その笑みの奥に、少しだけ苛立ちが見える。


 茶会の流れが、彼女の思った方向からずれ始めていた。


「皆様、ずいぶん熱心ですこと」


 ローゼンは優雅に声を上げた。


「けれど、議論ばかりではお茶が冷めてしまいますわ。そろそろ菓子を」


 侍女たちが菓子皿を運んでくる。


 焼き菓子、果実の砂糖漬け、薄い蜂蜜菓子。


 蜂蜜菓子。


 クラリスは一瞬だけ視線を止めた。


 ノルヴァルト公国の件があったばかりだ。


 もちろん、ここにはノルヴァルト関係者はいない。


 だが、蜂蜜菓子を出すこと自体が、小さな挑発に見えなくもない。


 ローゼン夫人は、涼しい顔で言った。


「王都で人気の蜂蜜菓子ですの。クラリス顧問もお好きかしら」


 場が少し緊張した。


 クラリスは菓子皿を見て、微笑む。


「王都式のものでしたら、祝いの席にふさわしいですね」


 ローゼンの目が光る。


「ノルヴァルト式ではない、と?」


「ええ。形が違います。ノルヴァルトで葬送に用いられるものは、旅路を示す長舟形です。こちらは王都式の円形ですので、問題ございません」


 夫人たちが、わずかにざわめいた。


 ローゼンの挑発は、逆にクラリスの知識を示す場になった。


 フィオナ司祭が、少しだけ笑う。


 ヴェルナー伯爵夫人も口元を押さえた。


 ローゼンは扇で口元を隠す。


「さすが、顧問でいらっしゃるわね」


「失敗したくありませんので」


「失敗を恐れすぎると、社交は窮屈になりますわ」


「恐れているのではありません。敬意を払っているだけです」


 クラリスはそう言って、菓子を一つ取った。


 場は静かになった。


 ローゼン夫人が仕掛けた小さな刃は、ひとまず受け流された。


 茶会はその後、表面上は穏やかに進んだ。


 夫人たちは話題を変え、若い令嬢たちは少しずつ口を開き始めた。


 王宮見習いで何をしているか。

 何が分からないか。

 家にどう説明しているか。


 それはまだ、愚痴と呼べるほどのものではない。


 けれど、最初の言葉だった。


 見えない仕事が、誰かの口から少しだけ見えた。


 帰り際、ローゼン侯爵夫人は玄関ホールまでクラリスを見送った。


「本日は楽しいお茶会でしたわ」


「ありがとうございました」


「クラリス顧問」


「はい」


「次の王妃主催茶会で、あなたのお手並みを拝見できるのでしょう?」


 クラリスは、意味を測った。


「王妃主催茶会、ですか」


「ええ。王妃陛下のご体調も戻りつつありますし、社交界の皆様も楽しみにしておられます」


 その笑みで分かった。


 次は王宮が舞台だ。


 ローゼン夫人は、そこで試すつもりなのだ。


 非公式業務一覧。

 儀礼補佐官。

 見えない仕事の可視化。


 それらが本当に機能するのか。


 公の茶会で。


「承知いたしました」


 クラリスは礼をした。


「王妃陛下の茶会が滞りなく進むよう、職務として努めます」


「楽しみにしておりますわ」


 ローゼンは甘く微笑む。


「正しさだけでは回らない王宮を、どう回されるのか」


 クラリスは静かに返した。


「一人で回さないようにいたします」


 ローゼンの笑みが、ほんの少し止まった。


 その一瞬だけで十分だった。


 馬車に乗ると、イリスがすぐに言った。


「お嬢様、たいへんお疲れ様でございました」


「ありがとう」


「今日のお茶会は、帳簿五冊分でございます」


「レオンハルト殿下より多いわね」


「精神的負荷が高めでしたので」


 クラリスは背もたれに身を預けた。


 疲れた。


 確かに疲れた。


 でも、悪い疲れではない。


 若い令嬢の言葉。

 フィオナ司祭の援護。

 ヴェルナー伯爵夫人の告白。


 今日、少しだけ風向きが変わった。


 ローゼン夫人の場で。


 それは大きい。


「イリス」


「はい」


「明日、王妃主催茶会の準備会議を開きます」


「承知いたしました」


「一人で抱え込まないように」


 クラリスが自分で言うと、イリスは微笑まないまま嬉しそうな目をした。


「素晴らしいです、お嬢様」


「褒めすぎよ」


「まだ足りません」


 クラリスは窓の外を見る。


 夕暮れの王都が、淡い金色に染まっていた。


 王宮へ戻れば、また書類が待っている。


 王妃主催茶会という新しい試練も待っている。


 けれど、今日のクラリスは一人ではなかった。


 社交界の古狸たちは動き出した。


 だが、見えない仕事を見えるようにしたことで、これまで声を持たなかった者たちもまた、少しずつ動き始めていた。

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