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第22話 王太子殿下の謝罪文は、まだ少し硬い

 謝罪文の一文目は、重い。


 クラリスはそう思っている。


 長ければよいわけではない。

 美しければよいわけでもない。

 まして、相手を感動させようと飾りすぎれば、それはもう謝罪ではなく演説になる。


 謝罪文の一文目で大切なのは、逃げないことだ。


 何を悪かったと思っているのか。

 誰に対して頭を下げるのか。

 どの責任を認め、どこから先は今後の行動で示すのか。


 そこを曖昧にした文章は、どれほど整っていても、読む者には伝わってしまう。


 ごまかしている、と。


「……ですから、殿下。この一文は少し違います」


 王宮臨時顧問室の丸卓に、ジュリアスの謝罪草案が置かれていた。


 出席者は少ない。


 クラリス。

 ジュリアス。

 オスカー。

 少し離れて、レオンハルト。

 そして、壁際にイリス。


 イリスは正式な出席者ではないが、クラリスの侍女として茶を管理しつつ、ついでに主が働きすぎないよう監視している。


 ジュリアスは、クラリスの指摘に眉を寄せた。


 だが、怒鳴りはしなかった。


 少なくとも、すぐには。


「どこが違う」


 紙に書かれていた一文は、こうだった。


 ――先日の茶会におきまして、私の不用意な発言が貴国に誤解を与えたことを遺憾に思います。


 悪くはない。


 形だけなら整っている。


 だが、謝罪としては弱い。


「“誤解を与えた”では、受け取った相手の理解にも問題があるように響きます」


 クラリスは赤い線を引く。


「今回は、ノルヴァルト公国側が誤解したのではありません。こちらが、相手国の儀礼と文化への配慮を欠いたのです」


 ジュリアスは唇を結んだ。


 少し前なら、ここで反論しただろう。


 だが彼は、言葉を飲み込むように一拍置いた。


「では、どう書けばいい」


 クラリスは、すぐに答えなかった。


 代わりに、彼の前へ紙を戻す。


「殿下ご自身で、もう一度」


「君が直さないのか」


「直すことはできます」


「なら」


「ですが、これは殿下の謝罪です」


 ジュリアスの手が止まる。


 クラリスは静かに続けた。


「わたくしが整えすぎれば、セルゲイ大使は気づきます。王太子殿下ご自身の言葉ではないと」


 ジュリアスは苦い顔をした。


「そこまで見るか」


「見ます」


 答えたのはレオンハルトだった。


「セルゲイ大使は、兄上が思うよりずっと人の言葉を見る」


「……分かっている」


 ジュリアスは羽根ペンを取った。


 紙の上で止まる。


 彼はしばらく何も書かなかった。


 王太子の沈黙を、部屋の誰も急かさなかった。


 以前なら、沈黙を埋めるために誰かが助け舟を出していた。


 クラリスが言葉を差し出し、オスカーが下書きをし、周りが王太子の顔を潰さないよう整えた。


 しかし今は違う。


 沈黙もまた、ジュリアス自身のものだった。


 やがて、彼は一文を書いた。


 ――先日の茶会において、私は貴国の大切な儀礼と文化への配慮を欠き、軽率な言葉でセルゲイ大使ならびにノルヴァルト公国の皆様を傷つけました。


 クラリスは、その文を読んだ。


 少し硬い。


 王太子の謝罪としては、やや直接的すぎる部分もある。


 だが、逃げてはいない。


「こちらの方が、よろしいかと存じます」


 そう言うと、ジュリアスは少しだけ肩の力を抜いた。


「直すところは」


「あります」


「言え」


 クラリスは赤ペンを取った。


「“傷つけました”は悪くありませんが、外交文書としては少し感情に寄りすぎます。“敬意を欠いた振る舞いであったと認識しております”にした方が、王太子殿下の立場を保ちながら非を認められます」


「立場を保つ必要があるのか」


「あります」


 クラリスはすぐに答えた。


「謝罪とは、自分をすべて低く見せることではありません。王太子殿下がご自身の立場を崩しすぎれば、それはアルヴィア王国そのものの弱さとして受け取られます」


 ジュリアスは黙った。


 今度の沈黙は、反発ではなく考えるためのものだった。


「謝罪は、屈服ではないのだな」


「はい」


「だが、逃げてもいけない」


「はい」


「難しいな」


「難しいです」


 クラリスがそう答えると、ジュリアスは少し驚いたような顔をした。


「君でも、そう思うのか」


「もちろんです」


「君は、何でも簡単にやっているように見えた」


「簡単に見えるようにしていただけです」


 部屋が静かになった。


 オスカーが書き留める手を止める。


 イリスが目を伏せる。


 ジュリアスは紙を見たまま、低く言った。


「……そうか」


 それだけだった。


 だが、その一言は以前より重かった。


 草案の確認は、半刻ほど続いた。


 クラリスは全文を書き直さなかった。


 大きな方向を示し、危険な表現に線を引き、代案をいくつか出す。


 最後の文章は、ジュリアス自身が選んだ。


 謝罪文は、まだ少し硬い。


 けれど、王太子の言葉として読めるものになった。


 オスカーが控えを作りながら言う。


「これなら、明日の協議に出せます」


「大使館へは?」


「正式書簡ではなく、晩餐会当日の口頭謝罪の下書きとして扱います。文書として提出するのは、国王陛下名のものだけです」


 ジュリアスは頷いた。


「分かった」


 そして、少し迷ったようにクラリスを見た。


「クラリス」


「はい」


「この文は、私の言葉に見えるか」


 その問いは、不器用だった。


 でも、逃げていなかった。


 クラリスは紙をもう一度見る。


「はい」


 短く答える。


「まだ整えられます。ですが、少なくとも、以前より殿下ご自身の目で相手を見ようとしている文です」


 ジュリアスは、深く息を吐いた。


「そうか」


 それ以上は言わなかった。


 だが、彼の顔には、ほんの少しだけ安堵があった。


 謝罪草案の確認が終わると、ジュリアスはオスカーと共に退出した。


 扉が閉まった後、クラリスは椅子の背に少しだけ体を預ける。


 思ったより疲れた。


 帳簿を読む疲れとは違う。


 相手が変わろうとする場に立ち会う疲れだった。


「疲れた顔をしている」


 レオンハルトが言った。


「はい。少し」


「少し?」


 イリスの声が飛ぶ。


「かなり」


「正直でよろしいです」


 最近、これを何度も言われている気がする。


 クラリスは苦笑した。


「王太子殿下は、変わられようとしているのですね」


「ようやく、な」


 レオンハルトは窓の外を見る。


 その横顔には、複雑な感情があった。


 兄への苛立ち。

 王族としての責任。

 そして、完全には捨てきれない身内への情。


「殿下は、嬉しいのですか」


 クラリスが尋ねると、レオンハルトは少し考えた。


「嬉しい、とは違う」


「では?」


「少し、安心した」


 彼は静かに言った。


「兄上がこのまま何も見ないままなら、いずれ王国にとって大きな傷になる。今なら、まだ間に合うかもしれない」


「厳しいですね」


「弟だからな」


「弟だから厳しいのですか」


「兄を甘やかす弟は、王宮に二人もいらない」


 クラリスは、思わず小さく笑ってしまった。


 レオンハルトも、少しだけ笑う。


 けれど、その時間は長く続かなかった。


 扉の外から足音が聞こえる。


 今度は軽く、少し急いでいる。


「クラリス顧問」


 入ってきたのは、王妃執務院の若手女官リーナだった。


 次の外交晩餐会で、儀礼補佐官として同行する予定の女性である。


 二十歳前後。

 栗色の髪をきっちりまとめ、手には分厚い資料束を抱えていた。


 緊張しているが、目はしっかりしている。


「どうしました」


「ノルヴァルト大使館から、晩餐会の席次案が届きました」


 クラリスは、手を伸ばした。


 だが、その途中でイリスと目が合う。


 先に担当者に読ませるべきだ。


 クラリスは手を止めた。


「リーナ、まずあなたの見解を聞かせてください」


 リーナは、一瞬驚いた顔をした。


「私の、ですか」


「あなたは今回の儀礼補佐官です」


「はい」


「なら、席次案を見て気づいた点を報告してください」


 リーナは緊張したように頷き、資料を開いた。


「まず、大使館側は王太子殿下を主賓格として扱っています。ただし、セルゲイ大使の正面ではなく、斜め向かいです」


「意味は?」


「正面に置けば完全な歓迎。斜め向かいは、敬意は払うが距離を取る配置かと」


 クラリスは頷いた。


「続けて」


「クラリス顧問は、セルゲイ大使夫人エリナ様の隣席です。これは、先方が顧問を対話の窓口として見ているということだと思います」


「ええ」


「王弟殿下は、セルゲイ大使の隣席です。政治的な話を受ける位置です」


 レオンハルトが頷く。


「悪くない読みだ」


 リーナの頬がわずかに赤くなった。


 だが、すぐに表情を戻す。


「問題は、こちらです」


 彼女は一箇所を示した。


「料理の前菜に、白魚の冷製があります」


 クラリスは目を細めた。


「白魚」


「はい。ノルヴァルトでは歓迎の料理ですが、アルヴィア王国の一部地域では弔事にも使われます。こちらが気にしすぎる必要はないかもしれませんが、王太子殿下が先日の件を踏まえて過敏に反応される可能性があります」


 部屋が静かになる。


 クラリスはリーナを見た。


「よく気づきました」


 リーナの背筋が伸びる。


「ありがとうございます」


「では、対応案は?」


「王太子殿下の事前資料に、ノルヴァルトでは歓迎料理であると明記します。さらに、食事前の説明としてセルゲイ大使夫人が触れられるよう、先方へ確認できれば安全かと」


「よい案です」


 クラリスは、リーナの資料に確認印を押した。


 自分が先に読んでいたら、この気づきを奪っていたかもしれない。


 そう思うと、少し冷やりとした。


 任せるとは、こういうことだ。


 相手が気づく機会を残すことでもある。


 レオンハルトが横で静かに言った。


「儀礼補佐官制度は、機能し始めているな」


「はい」


 クラリスは頷いた。


 その声には、自分でも分かるほど安堵があった。


 夕方、ミレーヌが顧問室へやってきた。


 手には禁忌一覧の写しと、先日の失敗に関する反省記録。


 以前のように姉へ甘えるためではない。


 仕事を提出するための訪問だった。


「クラリス顧問。ノルヴァルト公国関連の禁忌一覧、第一写しです」


「確認します」


 クラリスは受け取った。


 文字は丁寧だ。


 ところどころ、少し力が入りすぎている。


 だが、内容は整理されている。


 蜂蜜菓子。

 長舟形焼き菓子。

 白薔薇。

 葬送香。

 冬蜜に関する注意。

 歓迎料理と弔事料理の違い。


 そして最後に、ミレーヌ自身の字で小さく書かれていた。


 知らないことは、必ず確認する。知ったつもりで進めない。


 クラリスは、その一文で手を止めた。


 ミレーヌが不安そうに尋ねる。


「どこか間違っていますか」


「いいえ」


 クラリスは顔を上げた。


「この最後の一文が、とても大事です」


 ミレーヌの目が揺れる。


「私が、一番できていなかったことです」


「今、書けたなら前進です」


「……はい」


 ミレーヌは小さく頷いた。


 それから少し迷い、声を落とす。


「あの、外交晩餐会には行けませんが」


「ええ」


「行かないから関係ない、とは思わないようにします」


 クラリスは、妹を見た。


 ミレーヌは目を逸らさなかった。


「私の失敗から始まったことでもあるので。準備だけでも、ちゃんとしたいです」


 クラリスの胸の奥が、少しだけ熱くなる。


 だが、抱きしめたりはしない。


 今のミレーヌに必要なのは、慰めより仕事を認めることだ。


「では、第二写しもお願いします。リーナへ渡す分です」


「はい」


 ミレーヌは、ほんの少し嬉しそうに礼をした。


「承ります」


 その夜、クラリスは顧問室で最後の確認をしていた。


 イリスが時計を見る。


「お嬢様」


「終業時刻ね」


「はい」


「今日は終わります」


 クラリスがそう言うと、イリスは一瞬だけ止まった。


「……私が言う前に?」


「ええ」


「お嬢様」


「何?」


「本当に成長なさいました」


「その言い方は少し恥ずかしいわ」


「では、記録しておきます」


「しなくていいわ」


 そこへ、レオンハルトが入ってきた。


 手には、小さな紙箱を持っている。


 クラリスは少し警戒した。


「殿下。また何か実用品ですか」


「今日は違う」


 レオンハルトは紙箱を机に置いた。


 開けると、中には小さな焼き菓子が入っていた。


 薄く焼いた、王都風の林檎菓子。


「これは」


「厨房で試作していた。ノルヴァルト向けではなく、君の休憩用だ」


 クラリスは瞬きをした。


「休憩用」


「ああ。外交資料ではない。帳簿でもない。分類札も必要ない」


 イリスが横から覗き込む。


「毒味いたします」


「イリス」


「侍女ですので」


 レオンハルトは真面目に頷いた。


「頼む」


 イリスは一つ食べた。


 そして、ほんの少しだけ目を細める。


「合格でございます」


「それはよかった」


 クラリスは菓子を一つ手に取った。


 林檎の香りがする。


 蜂蜜ではない、やさしい甘さ。


「殿下」


「何だ」


「ありがとうございます」


「仕事を減らすほどではないが」


「いいえ」


 クラリスは小さく笑った。


「たぶん、こういうものも必要なのだと思います」


 レオンハルトは、少しだけ驚いた顔をした。


 それから、静かに笑った。


「そうか」


 顧問室の外では、夜の王宮が静かに動いている。


 ジュリアスは謝罪の言葉を書き直し、ミレーヌは禁忌一覧を写し、リーナは席次と料理の意味を確認している。


 誰か一人の仕事ではない。


 外交晩餐会は、少しずつ多くの手で準備されていた。


 クラリスは林檎菓子を口に入れる。


 温かい茶と、ささやかな甘さ。


 その味を、仕事の途中ではなく、休憩として味わう。


 それもまた、彼女にとっては新しい訓練だった。

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