第206話 消えた薬種組合
北風薬種組合の所在地は、王都北門を出て半刻ほど歩いた先にあった。
古い薬種商通り。
名前だけ聞けば、乾燥薬草の匂いが漂い、軒先に束ねた根や葉が吊るされ、薬師や行商人が声を交わしているような場所を想像する。
だが、実際の通りは、思ったより静かだった。
いや、静かというより、少し痩せていた。
昔は店だったのだろう建物が、今は倉庫になっている。
看板だけ残して、扉に板を打ちつけた家もある。
薬種商の看板の隣に、安酒場の赤い布が揺れていたりする。
カレル調査官は、通りの入口で足を止めた。
「いい匂いがしないな」
同行していた若い調査官が、鼻をひくつかせる。
「少し、乾いた葉の匂いはしますが」
「本当に薬を扱っている場所は、もっと混ざった匂いがする。乾草、土、油、黴、煙、汗。ここは薄い」
「薄い、ですか」
「商売が薄い」
若い調査官は、返事に困った。
財務院から同行した監察補佐クライブが、小さく咳払いした。
「調査官殿、比喩が多いと記録に困ります」
「では、こう書け。現地の商業活動は、登録資料に記載された規模と比して低調」
「最初からそう言ってください」
「嫌だ」
「なぜですか」
「つまらん」
クライブは眉間に皺を寄せた。
その表情を見て、若い調査官が少しだけ笑いかけ、慌てて顔を引き締める。
カレルは気づいていたが、何も言わなかった。
調査は、最初から重くしすぎると足が鈍る。
少し軽口があるくらいでいい。
ただし、目だけは笑っていない。
目的の建物は、通りの奥にあった。
古い木造二階建て。
軒先に、かろうじて読める看板が掛かっている。
北風薬種組合
文字は風雨で薄れ、端が割れていた。
扉には鍵がかかっている。
窓の内側には埃。
店先に薬草の束はない。
人の出入りの気配もない。
若い調査官が呟いた。
「本当に空き家ですね」
「だから言った」
カレルは扉の周囲を確認した。
鍵は古い。
だが、最近まで誰かが開け閉めした痕がある。
完全な廃屋ではない。
誰かが、時々来ている。
「クライブ」
「はい」
「財務院の登録では、ここが三年前に薬草費を受け取った組合の所在地で間違いないな」
「はい。登録紙、支払票、受領印、すべて同じ住所です」
「代表者名は」
「ギュンター・ロウズ。薬種仲介人」
「生きているか」
「登録上は不明です」
「登録上は便利だな。死んでも生きても、紙が動く」
クライブは、少しだけ唇を噛んだ。
財務院の人間として、その言葉は痛いのだろう。
だが、彼は反論しなかった。
「近隣聞き取りから始める」
カレルが言うと、若い調査官が頷いた。
「はい」
しかし、最初の三軒では成果がなかった。
一軒目の古道具屋は、北風薬種組合の名を聞くと肩をすくめた。
「昔はあったよ。昔はね」
「三年前は?」
「さあね。看板はあった」
「人は」
「看板が人の代わりになるなら、いたんじゃないかい」
二軒目の安酒場の主人は、露骨に面倒そうな顔をした。
「王宮の調査? うちは税も払ってるし、酒も薄めてないよ」
「酒の話はしていない」
「じゃあ何だ」
「北風薬種組合」
「ああ、あの幽霊看板」
「幽霊?」
「昼はいない。夜もいない。でもたまに役人みたいなのが来る。幽霊より嫌だね」
三軒目の古い薬師は、耳が遠かった。
「北風?」
「北風薬種組合です」
「北風が強い日は膝が痛む」
「組合の話です」
「薬なら湿布を出すよ」
若い調査官が困り果てた顔でカレルを見る。
カレルは首を横に振った。
「長くなる。次だ」
四軒目で、ようやく話が動いた。
店とは呼べないほど小さな乾物屋だった。
店先には豆と乾燥茸が並び、奥には灰色の髪をした老人が座っていた。
老人は北風薬種組合の名を聞くと、片目を細めた。
「ああ、帳簿屋か」
カレルが足を止める。
「帳簿屋?」
「薬種屋じゃないよ。あれは帳簿屋だ」
「詳しく聞かせてくれ」
老人は、手元の豆を木皿へ移しながら言った。
「詳しくったって、見たままだ。昔は確かに薬種を扱ってた。ギュンターって男がいて、馬車で根っこや葉っぱを運んでたよ。腕は悪くなかった。だが十年くらい前に腰を悪くしてね。仕入れも配達もできなくなった」
「その後は」
「看板だけ残った」
「三年前にも、組合は動いていたか」
老人は鼻で笑った。
「人は動いてない。紙は動いてたかもな」
クライブが硬い声で尋ねる。
「どういう意味ですか」
「たまに若い男が来るんだよ。店を開けるわけじゃない。中へ入って、箱を出して、紙を持って帰る。薬草の匂いはしない。荷車も来ない。なのに、北風薬種組合は王都の紙では生きてるらしい」
「その若い男の名は」
「知らん」
「顔は覚えているか」
「金を払えば思い出すかもしれん」
若い調査官がむっとした顔をした。
カレルは平然と財布を出す。
「情報料として記録する。銀小貨二枚」
「三枚」
「二枚」
「王宮はけちだね」
「けちだから調べに来ている」
老人は少し笑った。
「その返しは嫌いじゃない」
カレルは銀小貨を二枚置いた。
老人はそれを懐へしまい、店の奥から小さな布袋を持ってきた。
中には、粗い紙片がいくつか入っている。
「何だこれは」
「うちの孫が落書きに拾ってきた紙だ。あの組合の裏口に落ちてた。薬種の紙かと思ったが、数字ばかりだったから取っておいた」
「なぜ取っておいた」
「紙は包みに使える」
あまりにも生活臭のある理由だった。
カレルは布袋から紙片を取り出した。
古い帳簿の切れ端。
そこには、金額と略号が残っている。
村医補 三件
王妃調 二十
白館礼 別
D.R. 受
カレルの目が鋭くなった。
「D.R.」
クライブも覗き込む。
「受領者略号でしょうか」
「ダルマス・レン」
カレルが低く言った。
若い調査官が聞き返す。
「誰ですか」
「外客商人だ。白鴎館の件で名前が出た」
クライブの顔色が変わった。
「白鴎館と同じ外客筋」
「ああ」
老人が興味深そうに二人を見る。
「何だ、やっぱり面倒な紙だったのか」
「この紙片を正式に預かる」
「返すのかい」
「必要なら写しを返す」
「包みに使えないなら、いらん」
老人はあっさり言った。
カレルは紙片を封袋に入れ、証拠番号を振った。
それから老人へ尋ねる。
「ギュンター・ロウズはどこにいる」
「墓の下だよ」
「いつ死んだ」
「五年前」
若い調査官が思わず声を上げた。
「五年前?」
クライブの顔が青くなる。
「しかし、三年前の支出では代表者として」
「だから、帳簿屋だと言ったろう」
老人は豆を小皿へ移しながら、呆れたように言った。
「死んだ男の看板で、誰かが金を受けてたんだよ。王宮ってのは、死人にまで仕事をさせるのかい」
誰も笑わなかった。
その言葉は、あまりにもきつかった。
死人の名で金を受ける。
消された名前。
使われ続ける名前。
名前は、消されても利用されても人を傷つける。
カレルは老人へ深く頷いた。
「協力感謝する」
「感謝より、あの家をどうにかしておくれ。夜に知らん男が出入りすると、孫が怖がる」
「調べる」
「それと」
老人はカレルの顔をじっと見た。
「王宮の人間が来ると、皆、紙ばかり見る。あの村に薬が届かなかったなら、紙じゃなくて墓も見に行け」
カレルは、少しだけ目を細めた。
「覚えておく」
◇
北風薬種組合の建物は、王弟府の立会いで開封された。
中は、店ではなかった。
少なくとも、薬種組合として動いていたとは言えない。
棚はある。
だが、薬草はない。
古い壺もあるが、中は空。
作業台には埃が積もっている。
唯一、奥の小部屋だけは最近使われた痕跡があった。
机。
椅子。
小さな金庫。
印箱。
乾いたインク壺。
薬を扱う場所ではない。
紙を扱う場所だった。
若い調査官が金庫を開けると、中から数冊の帳簿と印章が出た。
北風薬種組合の印。
代理受領用の小印。
そして、見覚えのある外客用封蝋印。
クライブが震える声で言った。
「これは……白鴎館の外客商人登録印です」
カレルは帳簿をめくる。
そこには、王妃基金村落医療補助、孤児院薬草費、辺境小診療所への油薬費などが並んでいた。
支出先は北風薬種組合。
受領者欄には、複数の略号。
その中に、何度も出てくる名があった。
ダルマス・レン代理受領
若い調査官が息を呑む。
「外客商人が、村の薬草費を受け取っていた?」
「そういう紙になっている」
カレルは帳簿を閉じた。
「紙になっていることと、実際に受け取ったことは別だ。だが、これで線は繋がった」
「ダルマスを呼びますか」
「呼ぶ前に押さえる」
クライブが尋ねる。
「逃げると?」
「逃げる商人は、呼ぶと逃げる。押さえると喋る」
「随分乱暴な」
「丁寧に逃げられるよりいい」
カレルは証拠を封印し、建物を一時封鎖した。
扉に王弟府の封印紙が貼られる。
古い看板の下で、真新しい封印が風に揺れた。
北風薬種組合。
死んだ男の看板。
帳簿だけの組合。
そこで、村へ行くはずの薬草費が、外客商人へ流れていた。
◇
王弟府へ戻ったカレルは、証拠品を大記録室へ運び込んだ。
その時、ミレーヌは返書の控えを整理していた。
ハーゲンは半日勤務の終わり際だったが、帳簿が届いたと聞いて席を立った。
エリオス医官が、背後から低い声で言う。
「残り時間は」
「少しです」
「少しとは」
「少し」
「数字で」
「……半刻」
「四分の一刻で終わらせてください」
「半刻」
「四分の一刻」
ハーゲンはカレルを見る。
「調査官殿、帳簿は四分の一刻で読めますか」
「無理だ」
「では半刻で」
エリオスは天井を見た。
「あなた方は共犯です」
カレルは涼しい顔で言う。
「帳簿の共犯なら悪くない」
「医療的には悪い」
結局、折衷案として、ハーゲンは最初の帳簿一冊だけを見ることになった。
しかも、椅子に座り、水を置き、ミレーヌが時間を測る。
ハーゲンは不満そうだったが、従った。
帳簿の最初の頁を開いた瞬間、彼の顔が変わった。
「これは、正規の商業帳簿ではありません」
ミレーヌが尋ねる。
「どこで分かるのですか」
「品名の欄が雑です。薬草を扱う者なら、ミルガ草とだけ書きません。乾燥等級、束数、採取地を書きます」
「ここには?」
「“村医補・春”」
「雑ですね」
「雑すぎます」
ハーゲンは頁をめくる。
「でも、金額欄は細かい」
「どういうことですか」
「物には興味がない。金には興味がある帳簿です」
カレルが小さく頷いた。
「帳簿屋だな」
「はい。薬種商の帳簿ではありません」
ハーゲンはさらに頁を進め、ある欄で止まった。
「ここ」
ミレーヌが覗き込む。
トルナ村 王妃調二十 D.R.
「王妃調」
「王妃基金調整費でしょう」
「D.R.は」
「ダルマス・レン」
カレルが答えた。
「外客商人です」
ハーゲンの眉がわずかに寄る。
「白鴎館の布でも名前が出た方ですね」
「ああ」
「薬草を扱う商人ではないはずです」
「本人は、何でも扱うと言うだろうな」
ハーゲンは帳簿を見つめた。
「この調整費二十枚は、薬草費本体とは別に抜かれています」
「抜かれた?」
「はい。薬草本体九十、運搬十、調整二十。合計百二十。しかし、この帳簿だと調整二十だけがD.R.へ別送されています」
ミレーヌは混乱した。
「つまり、北風薬種組合が全部受け取ったのではなく?」
「表の支払票では、北風薬種組合が一括受領したように見えます。でも裏帳簿では、調整費だけダルマスへ流れている」
「薬草本体は?」
「そこが問題です」
ハーゲンは頁をさらにめくる。
「薬草本体九十の出庫記録がありません」
「買っていない?」
「少なくとも、この帳簿には買った記録がありません。金だけ受け、調整費を分け、残りをどうしたか不明です」
カレルが低く言う。
「ダルマスを押さえる」
クラリスが部屋に入ってきた。
ちょうどその言葉を聞いたらしい。
「すぐに?」
「はい」
「逃亡の兆候は」
「外客商人は、兆候が出てからでは港にいます」
「分かりました。王弟府名で出頭命令。同時に屋敷と倉庫へ調査官を」
「逃がさないためには、出頭命令より先に倉庫です」
クラリスは一瞬考え、頷いた。
「許可します」
カレルはすぐに動いた。
若い調査官たちが帳簿の写しを取り、封印箱へ入れる。
部屋の空気が慌ただしくなる。
ハーゲンは帳簿から目を離さない。
エリオスが言った。
「四分の一刻は過ぎました」
「あと一頁」
「その言葉は信用しません」
「本当に一頁です」
「あなたの一頁は、時々十頁に増えます」
ミレーヌが間に入る。
「ハーゲン様。ここで止めましょう」
「でも」
「止めた場所を記録します。次にそこから読めます」
ハーゲンは反論しかけて、止まった。
それは、自分が言ってきたことでもある。
止めるなら、再開条件を書く。
「分かりました」
ミレーヌは紙へ書いた。
北風薬種組合帳簿第一冊、トルナ村項目確認中。ハーゲン協力者、体調管理のため本頁で一時停止。再開箇所、第一冊十二頁下段、D.R.別送記録の次頁。
ハーゲンはそれを読んで頷いた。
「再開箇所があると、止めやすいですね」
「はい」
「良い制度です」
「自分で作りました」
「そうでした」
彼は少し笑い、席を立った。
その顔色は悪い。
だが、目ははっきりしていた。
◇
ダルマス・レンは、王都南区の外客商館にいた。
少なくとも、出頭命令が届いた時には。
細身の男で、濃い香油の匂いをまとい、指には大きな青石の指輪をはめている。
白鴎館に出入りしていた外客商人らしく、王宮式の礼もそれなりに身についていた。
彼は王弟府へ連れてこられても、最初は笑っていた。
「いやはや、何かの行き違いでしょう。私は王宮と正式に取引をしてきた商人です。薬草でも布でも、求められれば手配する。王宮の皆様のお役に立つのが商人の誇りでして」
カレルは机の上に北風薬種組合の帳簿写しを置いた。
「トルナ村薬草費。王妃基金調整費二十枚。D.R.」
ダルマスは笑顔を保った。
「D.R.とは、私のことでしょうか。似た略号の者は多くおりますよ」
「ダルマス・レン代理受領印がある」
「代理受領なら、王宮から正式に受けた仲介料でしょう」
「薬草は買ったのか」
「手配は部下が」
「買ったのか」
「私は大きな商いを多く抱えております。三年前の小さな村の薬草まで、いちいち」
「買っていないな」
ダルマスの笑顔が少し固まった。
「調査官殿、商売には手配、紹介、調整、保証、さまざまな働きがあります。物を自分で担ぐだけが仕事ではありません」
「では、何を調整した」
「王宮の支出が滞らぬよう、地方薬種の経路を」
「北風薬種組合の代表者は、五年前に死んでいる」
ダルマスの指が止まった。
青石の指輪が、灯りを受けて光る。
「……それは、知りませんでした」
「死んだ男の組合印で、三年前に受け取っている」
「印の管理までは」
「お前の代理受領印もある」
「だから、それは仲介料で」
「薬は届いていない」
カレルの声が低くなった。
「トルナ村で、春の熱病が出た。子どもが三人死んだ。村医者は、薬があれば全員助かったとは断言していない。だが、薬がなかったことで治療の選択肢が狭まったと書いている」
ダルマスは黙った。
初めて、笑顔が消えた。
「私は医者ではありません」
「商人だろう」
「はい」
「なら、物を届けろ」
短い言葉だった。
ダルマスは、少し苛立ったように息を吐いた。
「私は王宮から正式に受けた金を処理しただけです」
「誰から」
「それは、商取引上の」
「誰から」
「……白鴎館外客礼調整卓です」
「担当者名」
「覚えておりません」
「便利な記憶だな」
ダルマスの口元が歪む。
「王宮の方々が、私に何を求めているのか分かりません。王宮内で通った紙に従い、王宮が認めた名目で受け取り、王宮が望む相手に回した。商人とは、そういうものです」
「望む相手?」
カレルの目が鋭くなる。
ダルマスは、しまったという顔をした。
「言葉の綾です」
「誰が望んだ」
「私は、そこまでは」
「王妃基金調整費は、どこへ行った」
ダルマスは沈黙した。
その沈黙は、長かった。
カレルは、帳簿写しの次の頁を出した。
そこには、いくつかの支出先がある。
王妃調 白館礼別
王妃調 救済別
王妃調 贈答
王妃調 D.R.留
カレルは最後の行を指した。
「D.R.留。お前の取り分だな」
ダルマスは唇を結んだ。
「調整費には、商人の危険負担も含まれます」
「薬草を買わない危険か」
「調査官殿」
ダルマスの声から、ようやく余裕が消えた。
「王宮の皆様は、今になって急に綺麗な顔をなさる。ですが、私は求められた隙間を埋めただけです。外客礼へ物が必要だ、慈善費の名目が余っている、地方にはすぐ照会が戻らない。誰もはっきり命じない。だが、皆、分かっていた」
「誰が」
「それを話すには、条件があります」
カレルは、ゆっくり椅子にもたれた。
「条件を出せる立場だと思っているのか」
「思っています」
ダルマスは青石の指輪を撫でた。
「私は王宮の外の人間です。ですが、王宮の中で誰が受け取ったか、誰が黙ったか、誰が“調整費”という甘い穴を使ったかは知っています」
カレルは何も言わない。
ダルマスは、少し笑みを戻した。
ただし、先ほどの余裕ある笑みではない。
追い詰められた商人の、値を吊り上げる笑みだった。
「私一人を切っても、穴は残りますよ」
カレルは静かに答えた。
「だから、穴ごと掘る」
ダルマスの笑みが止まった。
その時、取調室の外で足音がした。
クラリスが入ってくる。
彼女はダルマスを見て、机上の帳簿写しを見る。
そして、カレルに確認した。
「王妃基金調整費の流れは」
「一部、ダルマス。残りは白鴎館、救済別、贈答。詳細不明」
「薬草購入記録は」
「なし」
クラリスは、ダルマスへ視線を戻した。
「ダルマス・レン。あなたは、王宮から正式に受けた仲介料だと主張しましたね」
「はい」
「では、正式な仲介なら、帳簿を全て出してください」
「商人の帳簿には、他取引も」
「王妃基金に触れた分です」
「それには、王宮内の方々の名も」
「だから出すのです」
ダルマスは、初めて完全に黙った。
クラリスの声は静かだった。
「善意に流れたものも、私腹に消えたものも、同じ調整費の穴から出ています。あなたが話さなくても調べます。ただし、話せば、あなたが何を売ったのかは明確になる」
「何を、とは」
「薬ではありません」
クラリスは言った。
「問いを止める便利さです」
ダルマスの顔から、血の気が引いた。
◇
その夜、王弟府の記録室では、北風薬種組合から押収した帳簿の封印確認が行われた。
ミレーヌは証拠目録を書きながら、何度も手を止めそうになった。
薬草はなかった。
組合は死んだ男の看板だった。
金は流れた。
調整費という名で、どこかへ消えた。
そして、ダルマスは言った。
誰もはっきり命じない。
だが、皆、分かっていた。
まただ。
命令書のない望み。
問無と同じ空気。
ただ、今度はさらに嫌な匂いがする。
完全な悪意だけではない。
調整費の一部は、救済別と書かれていた。
誰かを助けた可能性がある。
だからこそ、もっと厄介になる。
ハーゲンは、半日勤務を終えて帰る前、封印箱の前に立った。
「調整費という言葉は、甘いですね」
ミレーヌは顔を上げる。
「甘い?」
「はい。横領とは書いていない。流用とも書いていない。調整。何かをうまく整えたように見えます」
「実際には」
「薬が消えています」
短い言葉だった。
ミレーヌは、証拠目録の最後にこう書いた。
調整費の実態について、未確認。薬草購入記録なし。
その横に、私的手帳を開き、別の言葉を書く。
小さいから盗まれたのではなく、小さいから気づかれなかった。
まだ本記録には入れない。
けれど、忘れてはいけない気がした。
王妃基金横領の本丸は、ようやく姿を見せ始めていた。
それは大きな悪人が一度に奪ったものではない。
少しずつ。
名目を変え。
調整と呼び。
問いを止め。
誰かの善意と、誰かの欲を同じ穴へ流し込んだものだった。
ミレーヌは、封印箱を見つめながら思った。
次に開けるのは、帳簿だけではない。
人間の言い訳も、開けることになる。




