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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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207/208

第207話 善意であっても、薬は消えた

ダルマス・レンの帳簿は、読めば読むほど腹立たしい帳簿だった。


 汚い字ではない。


 むしろ、妙に整っている。


 金額の桁は揃っている。

 略号の位置も揃っている。

 月ごとの締めも丁寧だ。


 ただ、何を買ったのかが分からない。


 誰に届けたのかも分からない。


 分かるのは、金がどこから入り、どこで薄く切り分けられ、どこかへ消えたかだけ。


 帳簿というより、川の流れを描いた地図のようだった。


 水源は王妃基金。


 その途中に「調整費」という名の小さな横穴がいくつもある。


 そこへ少しずつ、少しずつ、水が抜かれていく。


 王弟府の大記録室で、ミレーヌはその横穴を赤い小札で示していた。


 南施療院の布の時に作った大紙とは、別の新しい紙だ。


 今回は布ではなく、薬草費。

 しかし、王妃基金の旧印が同じ。

 既済扱、再照会不要という言葉がある。

 調整費という名目がある。

 北風薬種組合という空の器がある。

 そして、外客商人ダルマス・レンがいる。


 ハーゲンは、机の端に座り、帳簿写しを一頁ずつ確認していた。


 半日勤務の上、エリオス医官から「眉間に皺が寄ったら休む」という妙な条件を出されている。


 そのため、彼の前には小さな鏡が置かれていた。


 本人はかなり不満そうだった。


「鏡は必要でしょうか」


 ハーゲンが言うと、ミレーヌは紙から目を離さず答えた。


「必要だと思います」


「なぜですか」


「眉間の皺は、自分では見えません」


「見えなくてよいものもあります」


「見えないものを放置して問題になった話を、私たちは今しているのでは?」


 ハーゲンは、言い返しかけて止まった。


「……今のは、強いですね」


「自分でも少し思いました」


 オスカーが横から言った。


「記録官補殿、最近、返しが鋭くなりましたね」


「誰のせいでしょう」


「こちらを見ないでください」


 少しだけ笑いが起きる。


 けれど、大紙の上に並ぶ赤い小札を見ると、笑いはすぐに消えた。


 調整費。


 トルナ村だけではない。


 西北領の三村。

 東丘周辺の小診療所。

 南の孤児院。

 辺境の冬支度費。

 寡婦給付の遅延分。


 それぞれに、少額の調整費が付いている。


 一件だけなら、見過ごされる。


 銀貨十枚。

 二十枚。

 十五枚。

 三十二枚。


 帳簿全体から見れば、小さい。


 だから、気づかれなかった。


 いや、気づいても、追わなかったのかもしれない。


 ミレーヌは、私的手帳に書いた言葉を思い出した。


 小さいから盗まれたのではなく、小さいから気づかれなかった。


 だが、ハーゲンはその言葉を見て、少しだけ直した。


「“盗まれた”と決めるのは、まだ早いです」


「では」


「“小さいから動かされ、小さいから見過ごされた”」


 ミレーヌは、少し唇を尖らせた。


「弱くなりませんか」


「弱くなります。でも、今はその方が正確です」


「悔しいです」


「私もです」


 ハーゲンは、帳簿へ視線を戻した。


「たぶん、盗まれたものもあります。でも、全部を盗まれたと言うと、別の流れが見えなくなります」


「別の流れ?」


「ここです」


 彼は、ダルマス帳簿の一行を指した。


 王妃調 救済別 E館


「E館?」


 ミレーヌが覗き込む。


「救済別。これは、私腹ではない可能性があります」


 クラリスが近づいてきた。


「どこへ流れたと見ますか」


「E館が何を指すかによります」


 オスカーが王宮施設一覧をめくる。


「E館、E館……外客施設には該当なし。慈善院にも正式にはありません」


 グレゴールが古い別冊を取り出した。


「王宮外郭の女性救済施設に、旧名“エルナ館”があります。現在は“南小路救済院”」


「女性救済施設?」


 ミレーヌが尋ねると、クラリスが答えた。


「夫を失った女性、家から追われた女性、子を抱えて身寄りのない女性などを一時的に保護する施設です」


「王妃基金の対象ですか」


「本来は寡婦給付や孤児支援と隣接していますが、正式な基金対象ではありません。別の慈善枠です」


 ハーゲンは帳簿を見つめる。


「調整費の一部が、そこへ流れている」


「善意の可能性がありますね」


 オスカーが言うと、部屋の空気が少し重くなった。


 善意。


 この事件で、一番扱いづらい言葉だった。


 ダルマスのように、取り分を抜いた商人なら分かりやすい。


 責めればいい。


 調べればいい。


 返させればいい。


 だが、消えた薬草費の一部が、別の困った誰かを救っていたとしたら。


 その誰かもまた、本当に困っていたとしたら。


 ミレーヌは、思わず言った。


「でも、トルナ村の薬です」


 クラリスが頷く。


「はい」


「子どもが亡くなっています」


「はい」


「それを、別の人を救うために使ったと言われたら……私は、嫌です」


「嫌でよいです」


 クラリスの返事は短かった。


「善意でも、誰かの薬を黙って奪えば横領です」


 その言葉が、大記録室に静かに落ちた。


 ハーゲンが低く繰り返す。


「善意でも、誰かの薬を黙って奪えば横領」


「はい」


「では、記録しますか」


 ミレーヌが尋ねると、クラリスは少し考えた。


「本記録では、まだ“疑い”とします。私の今の言葉は、判断方針として別記してください」


 ミレーヌは頷き、書いた。


 クラリス顧問判断方針:調整費が他の救済に用いられた場合でも、元の用途対象者への説明・承認・補填なく動かしたなら不正である。善意は動機として確認するが、事実を消さない。


 書いてから、少しだけため息をつく。


「長いですね」


 ハーゲンが言った。


「でも、必要です」


「言われると思いました」


     ◇


 南小路救済院は、王宮外郭の古い住宅街にあった。


 白い壁の小さな建物で、庭には洗濯物が干されている。


 入口には花が植えられていたが、花壇は少し荒れていた。


 手入れをする人手が足りないのだろう。


 調査に向かったのは、クラリス、カレル、ミレーヌ。


 ハーゲンは同行しなかった。


 薬草費の帳簿確認で疲労が出たため、エリオス医官から外出禁止を言い渡されていた。


 本人はかなり不満だったが、最終的にはこう言った。


「行けないことを、置いていかれたと感じる自分がいます」


 ミレーヌは返答に迷った。


 クラリスが静かに答えた。


「では、置いていくのではなく、役割を分けます」


「役割」


「現地で見たことを持ち帰ります。あなたは帳簿で照合する。どちらも必要です」


 ハーゲンは少し考えた。


「では、現地で“E館”の古い記録名を確認してください」


「分かりました」


「あと、調整費が現物で入ったのか、銀貨で入ったのか」


「はい」


「あと、受領者が誰か」


「はい」


「あと」


 エリオスが遮った。


「あと、休む」


「それは現地調査項目ではありません」


「あなたの調査項目です」


 結局、ハーゲンは不満そうに休むことになった。


 南小路救済院へ着くと、入口で迎えたのは、背の曲がった老女だった。


 灰色の髪をきちんと結い、古びてはいるが清潔な濃紺の服を着ている。


 目が鋭い。


 杖を持っているが、頼りない印象はなかった。


「王弟府の方々ですね」


 クラリスが礼をする。


「クラリス・フォン・エルディアです。こちらはカレル調査官、記録官補ミレーヌ」


「エレナと申します」


 老女は静かに頭を下げた。


「この施設の責任者です」


 ミレーヌは、胸の奥で小さく反応した。


 エレナ。


 プロットにあった名。


 亡き王妃の侍女。


 だが、まだそれを知っているのは調査側だけではない。


 クラリスが尋ねる。


「以前、王宮にお仕えでしたか」


「はい。王妃陛下の侍女をしておりました」


 エレナはあっさり認めた。


 隠すつもりはないらしい。


「王妃基金についても、ご存じですね」


「もちろんです」


「調整費という名目で、この施設へ資金または物資が流れていた記録があります」


 エレナの表情は変わらなかった。


「あるでしょうね」


 ミレーヌは思わず顔を上げた。


「ご存じだったのですか」


 エレナは、彼女を見た。


 鋭いが、冷たい目ではない。


「ご存じなかった、という顔をするほど、私は若くありません」


 カレルが短く言う。


「認めるのか」


「認めます。ただし、盗んだとは言われたくありません」


「では、何と」


「融通しました」


 その言葉に、カレルの目が細くなった。


「便利な言葉だな」


「便利だから使っているのではありません。現場では、時々それしかできないのです」


 エレナは背を向け、施設の中へ案内した。


 廊下には、幼い子どもの声がする。


 奥の部屋では、若い女性が赤ん坊を抱いていた。


 別の部屋では、十代半ばの少女が縫い物をしている。


 皆、調査官を見ると警戒した。


 エレナは静かに言った。


「怖がらなくてよろしい。王宮の方です」


 すると、縫い物をしていた少女がぼそっと言った。


「王宮の人だから怖いんじゃないですか」


 ミレーヌは胸を刺されたような気がした。


 エレナは叱らなかった。


「それもそうですね」


「エレナ様」


 少女は驚いたように顔を上げる。


 エレナは少し笑った。


「正直でよろしい。ただし、お客様の前で針を握ったまま睨むのはおやめなさい。刺す気がないなら失礼ですし、刺す気があるなら危険です」


 少女は慌てて針を置いた。


 カレルが小さく呟く。


「強いな」


 クラリスも小さく答える。


「ええ」


 施設の奥の事務室へ通されると、エレナは古い帳簿を出した。


「こちらが受領記録です」


 ミレーヌは受け取り、頁を開いた。


 そこには確かに、数年前から不定期に物資や銀貨が入っている。


 名目は、救済補助。

 臨時支援。

 外部寄付。

 そして、一部に「調整」とだけ書かれた項目。


 日付を照合すると、ダルマス帳簿の「王妃調 救済別 E館」と近い。


 クラリスが尋ねる。


「この調整費が、どこから来ているか知っていましたか」


「王妃基金の周辺から、とだけ」


「周辺」


「正式支給ではありませんでした」


「ならば、疑うべきでした」


「疑いました」


 エレナは淡々と答えた。


「疑った上で、受け取りました」


 ミレーヌは、思わず口を挟んだ。


「なぜですか」


 エレナは彼女を見る。


「その時、ここの暖炉には薪が二日分しかありませんでした。赤子が三人いました。肺を病んだ母親が一人。外は雪でした」


「でも」


「あなたが“でも”と言うのは正しい」


 エレナは、ミレーヌの言葉を遮らなかった。


 むしろ促すように言った。


「続けてください」


 ミレーヌは唇を噛んだ。


「でも、そのお金は、別の人の薬だったかもしれません」


「そうです」


「実際、トルナ村の薬草費が流れていた可能性があります。薬が届かず、子どもが亡くなっています」


「はい」


「それでも、受け取ったのですか」


 エレナは、少しだけ目を閉じた。


 そして答えた。


「はい」


 その一言に、ミレーヌの胸の中で何かが燃えた。


 怒りだ。


 けれど同時に、目の前の施設の寒さや、赤ん坊の声や、縫い物をする少女の手も見えている。


 怒りだけでは足りない。


 でも、同情だけでも許せない。


 エレナは言った。


「私は王妃陛下にお仕えしていました。王妃陛下なら、目の前の母子を見捨てなかった」


 その言葉に、クラリスの表情が変わった。


 静かだが、鋭い変化だった。


「王妃陛下の名を、そこで使いますか」


「使います」


「なぜ」


「私は、あの方を知っているからです」


「知っているからこそ、規程も知っていたはずです」


「知っています」


「病床・孤児・寡婦のものを、外客礼に用いるな」


「ええ。何度も聞きました」


「では、村の薬草費を、この施設へ黙って用いることも、王妃陛下は認めなかったのではありませんか」


 エレナは、すぐには答えなかった。


 窓の外で、誰かが洗濯物を取り込む音がする。


 遠くで赤ん坊が泣き出した。


 エレナは、その声へ一瞬だけ顔を向けた。


「クラリス顧問」


「はい」


「あなたは、寒い夜に赤子を抱いたことがありますか」


 クラリスは答えた。


「ありません」


「では、記録官補殿は」


 ミレーヌは首を横に振る。


「ありません」


「調査官殿は」


 カレルは少し嫌そうな顔をした。


「ない」


「私はあります」


 エレナの声は、誇るでも責めるでもなかった。


「薪がない。母親の乳が出ない。赤子は泣く。薬も足りない。その時、王宮の正式支給は三週間後でした」


「だから、他の用途から動かした」


「はい」


「説明しましたか。元の用途先へ」


「できませんでした」


「返納計画は」


「ありません」


「記録は」


「この帳簿に」


「王弟府や財務院へ報告は」


「していません」


「それを、融通と呼びますか」


 エレナは、唇を引き結んだ。


「あなたは、横領と呼ぶのでしょうね」


「はい」


 クラリスは一切ためらわなかった。


「善意でも、誰かの薬を黙って奪えば横領です」


 エレナの顔が、初めてわずかに歪んだ。


「奪ったつもりはありませんでした」


「しかし、薬は届かなかった」


「私の受け取った金が、直接その薬草費かどうかは」


「調べます」


「ええ。調べてください」


 エレナは背筋を伸ばした。


「私は逃げません」


 カレルが短く問う。


「ダルマス・レンを知っているか」


「知っています」


「調整費を運んだ男だ」


「ええ」


「私腹を肥やしている」


「でしょうね」


「分かっていたのか」


「分かっていました」


 ミレーヌは思わず声を上げた。


「なら、なぜ」


 エレナは彼女を見た。


「彼の手が汚れていても、持ってくる薪は燃えます」


 その言葉に、ミレーヌは何も言えなくなった。


 最低の理屈だと思った。


 でも、寒い部屋で赤子が泣いていたら。


 薪が燃えれば助かる命があるなら。


 その時、自分はきれいな理屈だけを言えるのか。


 言いたい。


 言うべきだ。


 けれど、言えるかどうかは分からない。


 クラリスは言った。


「薪が燃えても、薬を失った村は寒くなります」


「知っています」


「ならば」


「知っていて、受け取りました」


 エレナは、初めて少し声を荒らげた。


「では、どうすればよかったのですか。王宮へ正式請求を出しました。慈善院へも出しました。財務院へも出しました。戻ってきた返事は、“既済扱”“枠不足”“次期再申請”。その間に、赤子は待ってくれません」


「だから、黙って受け取った」


「はい」


「その黙った分を、トルナ村の母親が背負った」


 エレナの顔が固まった。


 ミレーヌは、マーヤ・ベンテの震えた署名を思い出した。


 薬の行方を、死ぬ前に知りたい。


「エレナ様」


 ミレーヌは、気づけば口を開いていた。


「あなたが救った母子は、実在します」


「はい」


「でも、トルナ村の母親も実在します」


「……はい」


「王妃様なら目の前の母子を見捨てなかった、というのは、たぶん本当かもしれません。でも、目の前にいない母子の薬を黙って使うことも、しなかったのではありませんか」


 エレナは、ミレーヌを見つめた。


 その目には、怒りがあった。


 悲しみもあった。


 そして、少しだけ疲れた笑みもあった。


「若い方は、痛いところを真っ直ぐ刺しますね」


「すみません」


「謝らないでください。謝ると、こちらが情けなくなります」


 ミレーヌは黙った。


 エレナは椅子へ深く座り直した。


「王妃陛下なら、帳簿に書いたでしょうね」


 クラリスの目が動いた。


「それは、あなたの言葉ですか」


「いいえ」


 エレナは机の引き出しに手をかけた。


「昔、王妃陛下ご自身が仰ったことです」


 引き出しの奥から、小さな鍵を取り出す。


 その鍵には、古い王妃の紋章が刻まれていた。


「私は、あの方から預かったものがあります」


 カレルが警戒する。


「何を」


「私的な書簡箱です」


 クラリスが息を止めた。


「王妃陛下の?」


「はい」


「なぜ今まで出さなかったのですか」


 エレナは鍵を机に置いた。


「王妃陛下の私的なお悩みが書かれています。誰かを裁くための紙ではありません」


「では、なぜ今」


「私が、王妃陛下の名を使ってしまったからです」


 その声は、先ほどまでより少し弱かった。


「私が“王妃様なら”と言うなら、あの方が実際に何を書いておられたかも差し出さなければ、不公平でしょう」


 ミレーヌは、その言葉を聞いて胸が詰まった。


 エレナは逃げていない。


 だが、正しいわけでもない。


 彼女は善意で規程を破り、誰かを救い、誰かの薬を奪った可能性がある。


 そして今、自分の支えにしてきた王妃の名すら、調査の場へ差し出そうとしている。


 人は、本当に面倒だ。


 悪人なら、もっと簡単だったのに。


 クラリスは静かに言った。


「書簡箱を確認します。ただし、王妃陛下の私的文面については、必要箇所のみ、慎重に扱います」


「お願いします」


「エレナ様」


「はい」


「あなたの善意は記録します」


 エレナは顔を上げた。


「ですが、不正も記録します」


「……はい」


「どちらも消しません」


 エレナは、長い沈黙の後、深く頭を下げた。


「それが一番、王妃陛下に叱られずに済むかもしれません」


     ◇


 王弟府へ戻る馬車の中、ミレーヌはしばらく黙っていた。


 膝の上には、エレナから預かった書簡箱の受領記録がある。


 箱そのものは、カレルが封印して別馬車で運んでいる。


 クラリスは窓の外を見ていた。


 夕方の王都は、人の声が多い。


 屋台の呼び声。

 子どもの走る声。

 荷車の軋む音。


 その一つ一つに、生活がある。


 生活には、どうしても金がいる。


 薪がいる。

 薬がいる。

 食べ物がいる。

 紙が届くまで待てない夜がある。


 ミレーヌは、ぽつりと言った。


「私は、エレナ様が嫌いです」


 クラリスは驚かなかった。


「はい」


「でも、嫌いだけではありません」


「はい」


「分かる気もしてしまいました」


「はい」


「それが嫌です」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


「分かることと、許すことは違います」


「はい」


「許せないことと、切り捨てることも違います」


「難しいです」


「ええ」


 クラリスは、少しだけ疲れた声で言った。


「今回は、前より難しいでしょうね」


「なぜですか」


「前は、問いを止めた仕組みを暴きました。今回は、問いを止めた穴の中に、善意と慣行と私腹が混ざっています」


「混ざっていると、どうなるのですか」


「皆、自分に都合のよい部分だけを持ち出します」


 クラリスは窓の外を見たまま続けた。


「私腹を肥やした者は、“救済にも使われた”と言うでしょう。善意で使った者は、“私腹とは違う”と言うでしょう。黙っていた者は、“当時は慣行だった”と言うでしょう。被害を受けた者は、“善意など知らない”と言うでしょう」


「全部、言いそうです」


「そして、全部に一部の事実があります」


 ミレーヌは、膝の上の受領記録を握った。


「記録官補って、嫌な仕事ですね」


「今ごろ気づきましたか」


「はい」


「辞めますか」


 クラリスは冗談のように言ったが、声は本気でもあった。


 ミレーヌは少し考えた。


「辞めません」


「理由は」


「嫌だからです」


「嫌だから?」


「嫌なことを、嫌なまま書く人が必要だと思います」


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「よい理由です」


 ミレーヌは、窓の外を見た。


 王宮の塔が見える。


 その石壁の奥で、また新しい箱が開かれようとしている。


 王妃の書簡箱。


 亡き王妃が、規程と慈善の狭間で何を悩み、何を残そうとしたのか。


 そして、その名を使って人を救い、人を傷つけた者たちを、どう記録するのか。


 答えはまだない。


 ただ、一つだけ分かっている。


 善意であっても、薬は消えた。


 そして、消えた薬を待っていた母親がいる。


 そこから目を逸らしてはいけない。

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