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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第204話 消された名前を戻すために

 総括記録の題名を決めるだけで、半日が潰れた。


 王弟府の記録室には、朝から何度も溜息が落ちている。


 紙束は机の上に積まれていた。


 南施療院未着布。

 問無運用。

 王妃基金用途逸脱。

 H取消。

 東丘への黒封筒。

 ケイン裁定。

 セラフィンの隠し記録。

 問無禁止令。

 照会監査室。


 それらを一つに束ねる記録である。


 だから、題名はただの飾りではなかった。


 題名を間違えると、事件の中心がずれる。


 短すぎれば、人が消える。

 長すぎれば、誰も読まない。

 美しすぎれば、苦しさが薄まる。

 硬すぎれば、病床の寒さが消える。


 ミレーヌは、何枚目か分からない題名案を読み上げた。


「『南施療院未着布事件および王妃基金関連不正に関する総括記録』」


 グレゴール記録官が頷く。


「正式です」


 オスカーも頷く。


「問題はありません」


 ハーゲンは少し首を傾げた。


「問題はないですが、何も残りませんね」


 ミレーヌは机に額をつけたくなった。


「またですか」


「すみません」


「いえ、言ってください。言われないと分かりません」


 ハーゲンは、題名案を指で押さえた。


「未着布事件、という言い方は正しいです。ですが、布が主役に見えます」


「布が発端です」


「はい。でも、布が歩いて白鴎館へ行ったわけではありません」


「それはそうです」


「王妃基金関連不正、という言い方も正しいです。ですが、帳簿の不正に見えます」


「実際、帳簿の不正もあります」


「はい。でも、帳簿が私の名前を消したわけではありません」


 ミレーヌは、黙った。


 ハーゲンの言葉はいつも少し面倒だ。


 けれど、その面倒さは必要だった。


 正式な記録ほど、人を物や制度の後ろへ隠しやすい。


 未着布。

 不正。

 運用。

 処理。


 どれも正しい。


 しかし、その言葉だけだと、エダの首の寒さも、リディアの震えた手も、ミケルが覚えていた言葉も、ハーゲンが「私はハーゲンです」と言った声も、遠くなる。


 クラリスは、これまでの題名案を一枚ずつ並べた。


「では、何を中心に置くべきでしょう」


 ミレーヌは答えようとして、止まった。


 記録官補になったからといって、何でも自分が答えなければいけないわけではない。


 彼女は、ハーゲンを見る。


「ハーゲン様は、どう思われますか」


 ハーゲンは嫌そうな顔をした。


「私に聞くと、長くなります」


「もう半日潰れています。長くなっても大丈夫です」


「大丈夫でしょうか」


 オスカーが疲れた顔で言った。


「大丈夫ではありませんが、ここまで来たら同じです」


 ハーゲンは少し笑い、紙の余白へいくつか言葉を書いた。


 布。

 問い。

 名前。

 戻す。


「この事件で、何が消されたのかと考えると、布だけではありません」


「はい」


「問いも消されました。南施療院の問い。財務院の問い。ミケルの迷い。リディアの不安。東丘からの帰還照会」


「はい」


「でも、最後に一番はっきり消されたのは、名前です」


 ハーゲンは、自分の名を口にしなかった。


 けれど、誰のことかは分かる。


「名前が消えると、問いも戻れなくなります。誰が聞いたのか分からない。誰へ返せばよいか分からない。だから、記録の題名には、名前を戻すことを入れてほしいです」


 ミレーヌは、ゆっくり筆を取った。


「『消された名前を戻すために』」


 ハーゲンは頷いた。


「はい」


 グレゴールが少し考える。


「副題としてなら、正式記録にも置けます」


 クラリスが紙を引き寄せ、静かに書いた。


 南施療院未着布および問無運用に関する記録――消された名前を戻すために


 ミレーヌは、その題名を声に出して読んだ。


「『南施療院未着布および問無運用に関する記録――消された名前を戻すために』」


 部屋が静かになった。


 長い。


 けれど、長すぎるとは思わなかった。


 布もある。

 問無もある。

 そして、名前がある。


 ハーゲンは、しばらくその文字を見ていた。


「私の名前だけではありませんね」


 クラリスが頷く。


「はい」


「エダ氏の名前も。リディア様の名前も。ミケルの名前も。南市場の洗濯女は匿名ですが、それでも声は戻っています」


「ええ」


「なら、よいと思います」


 ミレーヌは、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 題名が決まった。


 ただそれだけなのに、ようやく記録が立ち上がった気がした。


 オスカーが小さく息を吐く。


「では、題名決定ですね」


 グレゴールが頷く。


「決定です」


 ミレーヌは確認のために尋ねた。


「本当に、もう変えませんか」


 全員が一瞬、黙った。


 クラリスが言う。


「誤字がなければ」


「誤字は確認します」


「三回」


「五回します」


 ハーゲンが真面目に言った。


 ミレーヌは少し睨む。


「五回も見なくても」


「題名の誤字は、一生残ります」


「……五回見ます」


 部屋に、疲れた笑いが広がった。


     ◇


 総括記録の確認署名は、想像以上に時間がかかった。


 署名というものは、ただ名前を書く行為ではない。


 その記録に、自分がどう残るのか。


 自分の言葉が、どこまで正確に置かれているのか。


 自分の過ちが、どんな形で書かれているのか。


 そこへ向き合う作業だった。


 最初に来たのは、南施療院の院長エルマーと看護長マリナだった。


 エダ本人は体調の都合で王宮へ来られないため、事前に病室で本人確認を行った記録が添えられている。


 マリナは確認用の写しを読みながら、途中で何度も止まった。


「ここ、“患者エダ氏、補填布の使用後、首が寒くないと発言”とありますが」


 ミレーヌは身を乗り出す。


「表現に問題がありますか」


「問題というほどではありません。でも、あの人はもう少し腹立たしそうに言っていました」


「腹立たしそうに?」


「ええ。“今さらだけど、首が寒くないね”って」


 ハーゲンが静かに顔を上げた。


 マリナは苦笑する。


「エダさん、王宮の人がいるから少し上品に言ったんです。本当は、“二年遅いよ、でも寒くないのはありがたいね”くらいの人です」


 ミレーヌは、筆を止めた。


 正式記録に、どこまで入れるべきか。


 クラリスが尋ねる。


「本人は、その言い直しを望んでいますか」


「望んでいるというか……たぶん、あの人なら“きれいな患者にしないでおくれ”と言います」


 マリナの声には、少し笑いと、少し涙が混じっていた。


 院長エルマーが頷く。


「病人は、常に感謝だけしているわけではありません。怒りますし、文句も言います」


「それは、とても大事です」


 クラリスは言った。


 ミレーヌは表現を修正した。


 患者エダ氏は、補填布使用後、「首が寒くない」と発言。後日確認において、「今さらだが、寒くないのはありがたい。二年遅い」との趣旨を追加確認。


 マリナはそれを読んで、深く頷いた。


「はい。エダさんらしいです」


 ミレーヌは、胸の奥が温かくなった。


 きれいな患者にしない。


 被害者を、感謝だけする人にしない。


 それも、名前を戻すことなのだ。


 マリナは署名した。


 院長エルマーも署名した。


 その後、マリナはハーゲンの前に立った。


「ハーゲン補助官」


「はい」


「エダさんから伝言です」


 ハーゲンの背筋が少し伸びる。


「何でしょう」


「“あんたも温かくして寝な”」


 ハーゲンは、返事に詰まった。


 それから、少しだけ目元を緩めた。


「……はい。そうします」


「あと、“王宮の布は信用ならないから、自分で一枚いいのを買いな”だそうです」


 エリオスがすかさず言った。


「実に適切な助言です」


 ハーゲンは困った顔をした。


「では、未払い給与で毛布を買います」


 マリナは笑った。


「それがいいです」


     ◇


 次に来たのは、ミケルとリディアだった。


 二人は並んで座ったが、どちらも落ち着かなかった。


 署名欄には、それぞれの証言引用が添えられている。


 ミケルの欄には、あの言葉があった。


 数が合うことを盾にしてはいけない。布は人を温めるためにある。数字を温めるためではない。


 ミケルは、それを見て長く黙った。


「これ、本当に載せるんですね」


 ハーゲンが少し首を傾げる。


「嫌ですか」


「嫌というか、重いです」


「私も、言った時はそこまで名言のつもりではありませんでした」


「名言ですよ、これ」


「やめてください。恥ずかしい」


 ミケルは少し笑った。


 だが、すぐ表情を戻す。


「俺は、この言葉を覚えていました。でも、札も書きました」


「はい」


「記録には、両方ありますか」


 ミレーヌが確認用の頁を示す。


「はい。ミケル・ロウ書記はハーゲン補助官の言葉を記憶していた。一方で、K筋連絡札および問無関連札の作成に関与した。その後、公開聴聞において自らの関与と記憶を証言した、と記載しています」


 ミケルは頷いた。


「なら、署名します」


 リディアは、自分の頁を読んでいた。


 そこには、彼女の証言が書かれている。


 問無という札は、便利だった。怖かった。そして、人を消した。


 リディアは、その一文を指で押さえた。


「私、これを言ったんですね」


 ミレーヌは頷く。


「はい」


「強いことを言っていますね」


「はい」


「今なら、少し言い直したいです」


「どのように」


 リディアは考えた。


「便利だった、は本当です。怖かった、も本当です。でも、“人を消した”は……私一人が消したみたいで」


「修正しますか」


「いいえ。消したのは事実です。私一人ではないだけで」


 彼女は唇を噛んだ。


「“私たちの手で人を消す紙を書いた”と入れてください。私だけではない。でも、私も入っています」


 ミレーヌは、確認した。


「その表現でよろしいですか」


「はい」


「かなり重くなります」


「軽くされたくありません」


 リディアは、少し震える声で言った。


「軽くされたら、また同じことをするかもしれないから」


 ミレーヌは静かに頷き、記録を修正した。


 リディア・ファン書記は、問無札について「便利だった。怖かった。そして、私たちの手で人を消す紙を書いた」と後日確認において補足した。


 リディアは、その文章を読んだ。


 そして、署名した。


 署名した後、彼女は小さく泣いた。


 大声ではない。


 ぽろぽろと、悔しそうに泣いた。


 ミケルが慌てて布を差し出す。


「これ、使って」


「ありがとう。でも、私、泣く資格あるのかな」


 ミケルが困った顔をした。


「泣く資格って何だよ」


「だって、私が泣いたら、私がかわいそうみたいになるでしょう」


 ミケルは少し考えた。


「かわいそうなところも、あるだろ」


 リディアは顔を上げた。


「何それ」


「いや、全部かわいそうとは言わないよ。俺たち、やった側でもあるし。でも、怖かったのは本当だろ。知らなかったのも本当だろ。だったら、その分はかわいそうでいいんじゃないか」


「そんな雑な」


「俺、記録官じゃないから」


 リディアは、泣きながら少し笑った。


「雑すぎる」


「でも、泣いていいと思う」


 ミレーヌは、その会話を本記録には入れなかった。


 けれど、胸に残した。


 加害に関わった若い人間が、自分の怖さをどう扱えばいいのか。


 それは、制度の条文だけでは整理できない。


 泣く資格があるのか。


 許されたいのか。


 許されるべきではないのか。


 そのぐちゃぐちゃした感情の中で、それでも署名する。


 その面倒さも、事件の一部だった。


     ◇


 ハーゲンの署名は、最後に回された。


 本人が希望したのだ。


「先に皆の確認を見たいです」


 そう言った時、グレゴールは少し眉を上げた。


「自分の頁を先に確認したくないのですか」


「怖いので、後にしたいです」


「怖い」


「はい。私の名前がどう書かれているか見るのは、まだ怖いです」


 それを聞いて、誰も急かさなかった。


 最後に差し出された頁には、こう書かれていた。


 財務院補助官ハーゲン。C-3正温八梱の南施療院未着に疑義を呈し、現物確認を求めた。その後、旧礼拝堂から複数経路を経て東丘修道院へ移され、本人意思確認なく「ハル」として扱われた。H取消により財務院名簿上の存在を取り消されたが、公開聴聞において本人は「私はハーゲンです」と証言した。


 ハーゲンは、その一文を長く読んだ。


 何度も、何度も。


 ミレーヌは不安になって尋ねた。


「直すところがありますか」


「あります」


 すぐに返ってきた。


 ミレーヌは筆を構える。


「どこですか」


「“存在を取り消された”という言い方です」


「強すぎますか」


「いいえ。正しいです。ただ、名簿上と入れてください。実際の私は、存在していました」


 その場にいた全員が、一瞬だけ黙った。


 ミレーヌはゆっくり頷き、修正する。


 財務院名簿上の存在を取り消された。


「ほかには」


「“ハルとして扱われた”の前に、“東丘修道院内部では保護のため、外部名として”と入れてください。東丘の方々が、私を消したわけではありません」


「はい」


 ミレーヌは修正した。


 東丘修道院内部では保護のため外部名として「ハル」が用いられたが、その外部名は王宮側の処理により本人名を奪う形で固定された。


 ハーゲンは、少し考える。


「難しいですね」


「分かりにくいですか」


「いいえ。難しいことを、難しいまま書いているのでよいと思います」


 クラリスが頷いた。


「東丘は保護した。しかし王宮側は名を奪った。その区別は必要です」


 ハーゲンは、最後にもう一度文を読んだ。


 そして、署名した。


 ハーゲン。


 筆の線は、少し震えていた。


 だが、最後まで途切れなかった。


 署名欄の横に、ミレーヌは本人確認済みの印を押す。


 それを見て、ハーゲンが小さく言った。


「本当に戻ったのですね」


 クラリスが答える。


「はい」


「でも、全部ではありません」


「はい」


「それでも、戻った部分はあります」


「はい」


 ハーゲンは、自分の署名を見つめた。


「今日は、それで十分です」


     ◇


 東丘修道院への礼状を書き始めたのは、その日の夕方だった。


 ハーゲンは王弟府の客室に戻り、机に向かった。


 ミレーヌは同席しない予定だったが、ハーゲンから「最初の一文だけ見てほしい」と頼まれた。


 クラリスは同行せず、エリオス医官だけが部屋の隅にいる。


 礼状は、王弟府の正式文書ではない。


 ハーゲン個人の手紙だ。


 だから、文面に決まりはない。


 それが、逆に難しかった。


 ハーゲンは筆を持ったまま、十分ほど動かなかった。


 ミレーヌは尋ねる。


「書き出しが難しいですか」


「はい」


「“拝啓”から」


「それは分かります」


「では」


「拝啓の後が難しいです」


 ハーゲンは困った顔で紙を見る。


「東丘の方々には感謝しています。でも、私は東丘にいた間、ずっと苦しかった。その両方をどう書けばいいのか」


 ミレーヌは、すぐには答えられなかった。


 東丘修道院は彼を守った。


 けれど、彼がそこにいること自体、王宮による強制の結果だった。


 助けてくれた場所。


 閉じ込められていた場所。


 その二つが、同じ場所にある。


 簡単に「お世話になりました」と書くには、重すぎる。


 エリオスが静かに言った。


「両方書けばよいのでは」


「礼状なのに?」


「礼状は、感謝だけを書く紙ではありません」


「そうなのですか」


「少なくとも、あなたの礼状はそうでよいでしょう」


 ハーゲンは少し考えた。


 そして筆を置いた。


 最初の一文を書く。


 拝啓 東丘修道院、マザー・アデラ様、シスター・マリアナ様、ならびに私をハルとして守ってくださった皆様へ。


 そこで止まる。


「“ハルとして守ってくださった”は、おかしいでしょうか」


 ミレーヌは首を横に振った。


「おかしくありません」


「でも、私はハルではありません」


「だから、“守ってくださった”の前に“私を”があります。ハルという名で守られたのは、ハーゲン様です」


 ハーゲンは、その説明を聞いて少し安心したようだった。


 続けて書く。


 私は王都に戻り、正式に財務院補助官ハーゲンとして記録されました。


 筆が止まる。


 少し息を整え、さらに書いた。


 皆様が私を隠してくださったこと、食事を出してくださったこと、夜に廊下の足音を小さくしてくださったこと、紙片を捨てずに残してくださったことを、私は忘れません。


 ミレーヌは、胸が詰まった。


 廊下の足音を小さくする。


 そんな細かい優しさがあったのだ。


 ハーゲンは、少し苦笑する。


「シスター・マリアナは、廊下で怒鳴る巡礼者に本気で怒っていました」


「怒ったのですか」


「はい。“病人より声の大きい信仰は、神様も耳を塞ぎます”と」


 エリオスが小さく笑った。


「よい方ですね」


「はい。とても怖い方でした」


 ハーゲンは続けて書く。


 東丘で過ごした時間は、私にとって穏やかなものだけではありませんでした。私は自分の名で呼ばれないことに苦しみ、王都へ戻れないことに怯え、皆様の親切にさえ苛立つ日がありました。


 ミレーヌは、息を止めた。


 礼状に、そこまで書くのか。


 けれど、ハーゲンは迷わなかった。


 それでも、皆様の親切が偽物だったとは思いません。私をハルにしたのは王宮の紙でした。皆様は、その紙の中で私を生かそうとしてくださいました。


 筆先が少し震える。


 ハーゲンは一度、手を止めた。


 エリオスが言う。


「休みますか」


「いえ。ここまでは、今日書きたいです」


「はい」


 水を一口飲み、また続ける。


 私はまだ完全には戻っていません。戻るという言葉が何を意味するのかも、毎日少しずつ違います。ですが、今、紙と筆は手元にあります。私の名前も、手元にあります。


 ミレーヌは、涙が出そうになった。


 だが、泣くと本人が困る。


 必死にこらえる。


 ハーゲンは最後に書いた。


 いつか、私の名前で東丘へ伺います。その時は、ハルではなく、ハーゲンとして、お礼を申し上げます。


 そこまで書くと、彼は筆を置いた。


「ここで止めます」


 ミレーヌは頷いた。


「よいと思います」


「長すぎませんか」


「長いです」


「やはり」


「でも、必要な長さです」


 ハーゲンは少し笑った。


「便利な言葉ですね」


「はい。面倒ですが必要です」


 二人は、同じ言葉で少しだけ笑った。


     ◇


 数日後、東丘修道院から返事が届いた。


 マザー・アデラの字は大きく、まっすぐだった。


 ハーゲン様へ。


 それだけで、ハーゲンはしばらく動けなかった。


 封筒の宛名も、本文の冒頭も、ハーゲン様。


 ハルではない。


 ミレーヌは、読まない方がよいか迷ったが、ハーゲンが自分から差し出した。


「一緒に読んでもらえますか」


「よろしいのですか」


「はい。途中で止まるかもしれないので」


 ミレーヌは頷き、隣に座った。


 手紙には、こうあった。


 東丘では、あなたをハルと呼びました。

 それは、外からの目から守るためでした。

 けれど、その名であなたが苦しんだことを、私たちは十分に分かっていなかったかもしれません。

 守ることと、本人の名を呼ぶことは、両方必要でした。

 私たちも学びます。


 シスター・マリアナは、追伸を書いていた。


 廊下で怒鳴る者は、今も叱っています。あなたがいなくても、うるさいものはうるさいからです。


 ハーゲンは、そこで笑った。


 笑いながら、少し泣いた。


「マリアナ様らしいです」


「はい」


「うるさいものはうるさい」


「よい言葉です」


「記録しますか」


「私的手帳に」


「お願いします」


 ミレーヌは手帳へ書いた。


 うるさいものはうるさい。


 その言葉が妙に好きだった。


     ◇


 問無禁止令は、修正を重ねた後、王宮内規として正式施行された。


 最初の掲示は、王弟府、財務院、商務評議会、慈善院、白鴎館、南施療院へ同時に出された。


 掲示文の一番上には、こうある。


 責任者不明、理由不明、期限不明の照会停止を禁ずる。


 その下。


 問うことを止めるな。止めるなら、誰が、なぜ、いつまで止めるのかを書け。


 さらに、若手書記向けの別紙には、もっと短く書かれていた。


 分からない札は、聞いてよい。

 聞いたことで罰してはならない。


 リディアは、その掲示を見て泣きそうになった。


 ミケルは隣で言った。


「泣く?」


「泣かない」


「泣いてもいいけど」


「今日は泣かない」


「そっか」


「今日は、覚える」


 リディアは掲示をじっと見た。


「次に誰かが変な札を持ってきたら、これを見せる」


「強いな」


「強くない。紙を味方にするだけ」


 ミケルは頷いた。


「それ、いいな」


 一方、南施療院では、正温布の追加配布が完了していた。


 エダは新しい布を肩まで引き上げ、マリナに文句を言った。


「今度のは少し重いね」


「薄かったら薄いで怒るでしょう」


「怒るよ。病人は忙しいんだ」


「はいはい」


 マリナは布の端を直した。


「首は?」


 エダは、少しだけ口を尖らせた。


「寒くない」


「よかったです」


「二年遅いけどね」


「それも記録に入りました」


 エダは目を丸くした。


「本当に?」


「本当に」


「王宮も変なところで律儀だね」


「少しは変わったのかもしれません」


「全部じゃないだろ」


「全部ではありません」


「なら、まあ、いいよ」


 エダは目を閉じた。


「全部変わりました、なんて言う王宮よりは信用できる」


 マリナは、静かに笑った。


     ◇


 王弟府の記録室では、総括記録の最終頁が閉じられた。


 表紙には、決まった題名が入っている。


 南施療院未着布および問無運用に関する記録

 ――消された名前を戻すために――


 ミレーヌは、その表紙を何度も見た。


 誤字はない。


 五回確認した。


 ハーゲンも確認した。


 グレゴールも確認した。


 それでも、閉じる瞬間は怖かった。


「閉じます」


 ミレーヌが言うと、クラリスが頷いた。


「はい」


 表紙を閉じる。


 革紐を結ぶ。


 封印紙を貼る。


 王弟府記録官補として、ミレーヌは初めて正式記録の封印補助印を押した。


 手は少し震えた。


 でも、印はずれなかった。


 クラリスが言う。


「よい印です」


「震えました」


「確認しました」


「はい」


「なら、よい印です」


 ミレーヌは、息を吐いた。


 その時、ハーゲンが部屋へ入ってきた。


 まだ半日勤務の準備協力者としてだが、最近は照会監査室の設置準備でよく記録室へ顔を出す。


 手には、小さな新しい札を持っていた。


 ミレーヌが尋ねる。


「それは?」


「照会監査室の試作札です」


「見せてください」


 札には、短く一文字。


 問え


 ミレーヌは、思わず笑った。


「直球ですね」


「問無の反対です」


「分かりやすいです」


「ただ、少し命令形が強すぎるかもしれません」


 クラリスが札を受け取る。


「強くてよいでしょう」


「よいのですか」


「問う権利は、弱いとすぐ負けます」


 ハーゲンは少し考え、頷いた。


「では、これで」


 クラリスは、記録室の仮掲示板へその札を留めた。


 問え。


 たった二文字。


 問無より一文字少ない。


 けれど、その重さはまるで違う。


 ミレーヌは、その札を見つめながら思った。


 これで終わりではない。


 王妃基金の奥には、まだ未確認の支出がある。

 西北領トルナ村の薬の行方も調べなければならない。

 辺境兵の冬靴も、未亡人基金も、これからだ。


 記録は閉じた。


 だが、問いは閉じない。


 消された名前を戻すために作った記録は、次の消された声を探すための始まりにもなる。


 ハーゲンが、ぽつりと言った。


「また、仕事が増えますね」


 ミレーヌも頷いた。


「はい」


「嫌ですか」


「嫌です」


「私もです」


「でも」


「必要です」


 二人は同時に言って、少し笑った。


 クラリスも、ほんの少しだけ笑った。


 記録室の窓の外では、夕暮れの光が王宮の石壁を淡く染めている。


 病床の布は戻った。

 名前も、戻り始めた。

 問いも、戻った。


 そして王宮の奥には、まだ戻るべきものが残っていた。

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