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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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203/208

第203話 同じ机には戻らない

財務院からの復帰打診書は、妙に立派な紙に書かれていた。


 厚みのある白紙。


 縁には財務院の透かし。


 署名欄には財務院長代理と、次席監督官アーヴェルの名。


 文面は丁寧だった。


 謝罪もある。


 名簿取消の撤回もある。


 未払い給与の補填もある。


 元の職位への復帰。

 必要であれば別室勤務。

 希望すれば休養期間を設ける。

 財務院として、今後同様のことが起きないよう努める。


 どれも、紙の上では正しい。


 ただ、ハーゲンはその紙を読むたび、妙な疲れを感じた。


 復帰。


 その言葉は、思ったより重い。


 彼は王弟府の小さな相談室で、復帰打診書を机に置いたまま、もう半刻ほど黙っていた。


 窓の外では、中庭の木が風に揺れている。


 向かいにはクラリス。


 少し離れて、エリオス医官。


 ミレーヌは記録補助として同席しているが、今日は発言を控えるよう言われていた。


 本人の選択に、周囲の期待を混ぜないためだ。


 ハーゲンは、書面の一文を指で押さえた。


「“元の職位への復帰”」


 それだけ言って、また黙る。


 クラリスは急かさない。


 エリオスは時計を見ない。


 ミレーヌは筆を持っているが、まだ何も書いていない。


 沈黙にも、本人の時間がある。


 以前なら、沈黙は都合よく解釈された。


 混乱している。

 判断できない。

 保護が必要。

 静養が必要。


 けれど今は違う。


 沈黙は、考えている時間として扱われている。


 ハーゲンは、ようやく口を開いた。


「元の机に戻れば、分かりやすいですね」


 クラリスが頷く。


「はい」


「財務院は謝罪した。私は名誉回復された。元の仕事へ戻る。物語としては、きれいです」


「ええ」


「でも、私はたぶん、きれいには戻れません」


 その声は落ち着いていた。


 諦めではなく、確認する声だった。


「財務院の廊下を歩けば、誰かが私を見ます。かわいそうな人として見る人もいる。面倒な人として見る人もいる。英雄みたいに見る人もいるかもしれない。全部、嫌です」


 ミレーヌは筆を握る手に力を込めた。


 分かる、と言いたくなった。


 だが、黙った。


 ハーゲンは続ける。


「でも、それだけなら我慢すればいいと思いました。廊下の視線は、私の問題です」


 エリオスが小さく首を横に振る。


「視線で体調を崩すなら、あなた一人の問題ではありません」


「そう言ってくださるのはありがたいです。でも、そこはまだ、私が慣れるべきことかもしれません」


「慣れなくていいものもあります」


「医官殿は、優しいのか厳しいのか分かりません」


「優しく厳しいのです」


「便利ですね」


 少しだけ笑いが起きた。


 その短いやり取りで、張りつめていた空気が緩む。


 ハーゲンは復帰打診書をもう一度見た。


「問題は、元の机に座ると、私が“戻った証拠”にされることです」


 クラリスの目が少し動いた。


「続けてください」


「財務院は、私を戻したと言えます。名簿を直した。給与を払った。席を用意した。だから、財務院は変わった、と言える」


「そう言うでしょうね」


「でも、私はまだ、財務院が変わったか分かりません」


「はい」


「変わる途中かもしれない。変わりたくない人もいる。変わったふりをしたい人もいる。私が戻れば、その途中を終わったことにされる気がします」


 ミレーヌは、その言葉を聞いて胸の奥が熱くなった。


 戻った人を、組織の免罪符にする。


 確かにあり得る。


 財務院に悪意がなくても、周囲はそう受け取るかもしれない。


 ハーゲンが戻ったのだから、もうよいではないか。


 ハーゲン本人が納得したのだから、許されたのではないか。


 そういう空気は、きっと生まれる。


 クラリスは静かに尋ねた。


「では、財務院へは戻らない?」


 ハーゲンはすぐに答えなかった。


 復帰打診書を指でなぞる。


「財務院を嫌いになりたいのですが」


 ぽつりと言った。


「完全には、嫌いになれません」


 その声には、人間くさい未練があった。


「私を消した場所です。でも、私が仕事を覚えた場所でもあります。数字の見方を教えてくれた先輩もいた。昼食を一緒に食べた人もいた。私が細かすぎると文句を言いながら、最後には確認してくれた人もいました」


「はい」


「だから、財務院には戻りたくない。でも、財務院を捨てると言うのも嫌です」


 エリオスが言う。


「好きなものに傷つけられると、厄介ですね」


「本当に」


 ハーゲンは苦笑した。


「嫌いなら、簡単だったのに」


 ミレーヌは、つい小さく頷いてしまった。


 ハーゲンが気づく。


「ミレーヌ様も、ありますか」


「え?」


「嫌いなら簡単だったのに、と思うもの」


 突然振られて、ミレーヌは困った。


 記録補助として黙っているはずだったのに。


 クラリスが何も言わないので、答えてよいらしい。


「私は……王宮です」


 口に出してから、自分で少し驚いた。


「王宮は嫌です。紙が多いですし、言葉は遠回しですし、偉い人は急に難しいことを言いますし、誰もが責任を避けようとします」


 クラリスが軽く眉を上げる。


「偉い人とは」


「一般論です」


「なるほど」


 ハーゲンが少し笑った。


 ミレーヌは続ける。


「でも、王宮でしか届かない紙もあります。王宮が動かないと、南施療院にも、孤児院にも、村にも届かないものがある。嫌いになれたら楽なのに、と思います」


 ハーゲンは静かに頷いた。


「似ていますね」


「はい」


「では、私は財務院を嫌いになれないまま、別の場所へ行くことにします」


 クラリスが、ようやく筆を取った。


「別の場所とは」


「王弟府の監査室です」


 言った瞬間、ハーゲン自身が少し息を止めた。


 言葉にして、初めてそれが決定に近づく。


「まだ、監査室はありません」


 クラリスが言う。


「作るなら、そこに関わりたいです」


「財務院復帰は」


「今は受けません」


 部屋が静まった。


 ハーゲンは復帰打診書を見つめる。


「ただし、拒絶ではなく、保留にしてください」


「理由は」


「本人は財務院の謝罪と名簿訂正を受け入れる。ただし、元職位への復帰は、本人の心身状態および制度改革の進行を踏まえ、現時点では保留。本人は王弟府内に設置予定の慈善物資・用途固定基金監査室の準備協力を希望する」


 ミレーヌは、反射的に書き取りそうになった。


 クラリスの筆も動いている。


 エリオスが感心したように言う。


「ずいぶん整った文章ですね」


「三日考えました」


「寝てください」


「考えていたら寝られませんでした」


「最悪です」


「医官殿に言われると思いました」


 ハーゲンは、少し肩を落とした。


「でも、これが今の答えです」


 クラリスは記録を読み上げた。


「財務院の謝罪と名簿訂正は受け入れる。元職位復帰は現時点で保留。王弟府内に設置予定の慈善物資・用途固定基金監査室の準備協力を希望」


「はい」


「未払い給与については」


 ハーゲンは、少し嫌そうな顔をした。


「受け取ります」


 その言い方に、ミレーヌは少し笑いそうになった。


 ハーゲンは真面目に続ける。


「本当は、受け取るのが怖いです」


「なぜですか」


「お金を受け取ると、終わったことにされそうで」


 クラリスが頷く。


「では、補填金の受領は、被害回復の一部であり、事件の終結や責任免除を意味しないと明記します」


「お願いします」


「使い道は自由です」


「それは、言われなくても自由であってほしいです」


「失礼しました」


「いえ」


 ハーゲンは少し考えた。


「でも、一部は南施療院へ寄付した方がよいでしょうか」


 ミレーヌは、反射的に言いかけた。


 立派です、と。


 けれどクラリスが先に言った。


「寄付しなくてよいです」


 はっきりした声だった。


 ハーゲンは驚いた。


「しなくてよい、ですか」


「はい。あなたの未払い給与です。南施療院へ返すべきものは、ケイン元参事補佐や関係機関から返させます」


「でも、私が何もしないのは」


「あなたは、すでに多くのものを出しています」


 クラリスの声は静かだった。


「時間、証言、記憶、名前、恐怖。それでもなお、さらに自分の給与を出さなければならないと思うなら、それは善意ではなく、罪悪感です」


 ハーゲンは言葉を失った。


 エリオスも頷く。


「医療的にも、まず自分の生活を整えてください」


「医療的に?」


「はい。食事、住居、服、暖房。全部必要です」


「暖房まで」


「寒さは身体に悪い」


 南施療院の事件を思えば、妙に重い冗談だった。


 ハーゲンは、少しだけ笑ってから頷いた。


「では、寄付はしません。少なくとも、今は」


「それでよいです」


 ミレーヌは、胸の奥でほっとした。


 被害を受けた人が、さらに善人であることを求められる。


 それは、とても残酷だ。


 怒ってもいい。

 お金を受け取ってもいい。

 寄付しなくてもいい。

 戻る場所を選び直してもいい。


 その一つ一つを、紙に書いて確認しなければ、人はすぐ「立派な被害者」を求めてしまうのかもしれない。


     ◇


 慈善物資・用途固定基金監査室。


 仮称だけで、まだ長かった。


 グレゴールはその名前を聞いた瞬間、眉間に皺を寄せた。


「長すぎます」


 レオンハルトも同意した。


「読んでいる間に不正が逃げる」


「では、通称を」


 ミレーヌが言うと、全員が一瞬だけ彼女を見た。


 問無禁止令の命名以降、なぜか通称担当のようになっている。


「ええと……戻り矢印監査室」


「却下」


 レオンハルトが即答した。


 ミレーヌは少しむっとする。


「まだ一案目です」


「一案目で却下だ」


 ハーゲンが控えめに言う。


「戻り矢印は、私的な図の言葉ですから、部署名には向かないと思います」


「ハーゲン様まで」


「すみません」


 オスカーが別案を出す。


「用途監査室」


 グレゴールが頷く。


「簡潔です」


 クラリスは少し考えた。


「用途だけでは、本人名簿変更の監査が抜けます」


「慈善監査室」


「慈善だけでは、冬靴や本人身分が抜けます」


「固定用途監査室」


「硬いですね」


「硬い部署です」


 全員が疲れた顔になる。


 名前一つ決めるだけで、面倒だ。


 だが、名前は大事だった。


 狭すぎれば、扱えない案件が出る。

 広すぎれば、何をする部署か分からなくなる。


 ハーゲンは白紙に幾つか言葉を書いていた。


 用途。

 受領。

 本人。

 照会。

 監査。

 戻す。

 問う。


 しばらくして、ぽつりと言った。


「照会監査室、ではどうでしょう」


 クラリスが見る。


「理由は」


「物資でも、基金でも、本人名簿でも、問題は“照会が止まったこと”にあります。何かがおかしい時、問えるか。止められた照会を戻せるか。そこを見る部署なら、照会監査室」


 グレゴールが少し頷く。


「用途固定基金も含められます」


 オスカーも言う。


「本人名簿変更についても、照会停止や意思確認の監査として扱える」


 レオンハルトは短く言った。


「それでいく」


 ミレーヌは悔しそうに呟いた。


「戻り矢印監査室も悪くなかったと思います」


 ハーゲンが困った顔で言う。


「悪くはありませんが、掲示されたら恥ずかしいです」


「それは、確かに」


 少し笑いが起きた。


 新部署の仮称は、照会監査室となった。


 設置準備は王弟府主導。


 対象は三つ。


 人命に関わる物資。

 用途固定基金・慈善物資。

 本人の身分、名簿、静養、保護に関わる処理。


 そして、問無禁止令に基づく拒否記録と相談窓口の監査。


 ハーゲンは、正式職員ではなく準備協力者。


 勤務時間は半日から。


 医官による体調確認付き。


 本人の意思により、週ごとに継続可否を確認する。


 ミレーヌはそれを書きながら、少し笑ってしまった。


 ハーゲンが見る。


「何か」


「とても細かいです」


「大事です」


「はい。ハーゲン様らしいです」


「褒めていますか」


「半分は」


「残り半分は?」


「面倒だなと」


 ハーゲンは真顔で頷いた。


「正しい感想です」


 クラリスが、二人を見ながら言った。


「では、面倒なまま進めましょう」


     ◇


 ミレーヌに記録官補任命の話が来たのは、その翌日の夕方だった。


 彼女は最初、聞き間違いだと思った。


 王弟府の小会議室。


 机の上には、照会監査室設置準備書と、問無禁止令の修正草案が積まれている。


 クラリスがあまりにも普通の顔で言ったので、なおさら現実味がなかった。


「ミレーヌ様。王弟府記録官補として、正式任命の内示が出ています」


「はい?」


「王弟府記録官補です」


「誰がですか」


「あなたがです」


「私が?」


「はい」


 ミレーヌは、手元の筆を落としかけた。


 オスカーが横から小声で言う。


「そこは“謹んでお受けします”では」


「無理です」


「無理?」


「無理です」


 二度言った。


 クラリスは、少しも驚かなかった。


「理由をどうぞ」


「私は、まだ補助です」


「補が付きます」


「そういう意味ではなく」


「はい」


「私は、まだ震えます」


 ミレーヌは自分の手を見た。


 聴聞でケインが声を荒らげた時。


 ハーゲンが「私はハーゲンです」と言った時。


 南市場の洗濯女に指摘された時。


 セラフィンの覚書を読んだ時。


 何度も手が震えた。


「記録官は、もっと落ち着いている人がなるものです」


 オスカーが視線を逸らした。


 グレゴールも咳払いした。


 クラリスが静かに言う。


「誰のことを想像していますか」


「グレゴール様とか」


 グレゴールが真面目に答える。


「私も震えますよ」


 ミレーヌは目を丸くした。


「え」


「若い頃、初めて国王陛下の前で記録した時など、筆先が踊って文字が読めなくなりました」


「本当ですか」


「ええ。上司に“踊る筆は宴席で使え”と叱られました」


 オスカーが笑いをこらえる。


 ミレーヌは少し安心したような、逆に不安になったような顔をした。


「でも、私は感情が入りすぎます」


 クラリスが頷く。


「入りますね」


「そこは否定してください」


「事実ですから」


「ひどい」


「ただし、感情が入ることと、記録を歪めることは別です」


 ミレーヌは黙った。


 クラリスは続ける。


「あなたは、怒ります。悔しがります。被害者の側へ寄りすぎそうになることもあります。実際、何度か止めました」


「はい……」


「ですが、止められた時に聞きます。書き直します。本人確認を取ります。自分が言いたいことと、相手が言ったことを分けようとします」


「できているでしょうか」


「完璧ではありません」


「うっ」


「でも、記録官補に完璧は求めていません。求めているのは、直せることです」


 その言葉に、ミレーヌは顔を上げた。


「直せること」


「はい」


 クラリスの声は穏やかだった。


「震える手で書いた記録が、人を救うこともあります」


 ミレーヌの胸が、ぎゅっと詰まった。


 クラリスはさらに言う。


「もちろん、震えたまま提出してよいという意味ではありません。確認し、読み返し、本人に見せ、必要なら訂正する。その手続きを怠らないなら、震えること自体は欠点ではありません」


 オスカーが頷く。


「震えない人は、たまに怖いです」


「私を見ながら言いましたか」


 クラリスが尋ねると、オスカーは即座に首を横に振った。


「一般論です」


「便利な言葉ですね」


「はい」


 ミレーヌは笑いそうになったが、まだ心臓が落ち着かない。


「でも、なぜ今なのですか」


 クラリスは机の上の書類を一枚取った。


「あなたに、ハーゲン事件の総括記録編纂補助を任せたいからです」


「総括記録」


「南施療院未着布、問無運用、王妃基金用途逸脱、H取消、照会監査室設置までをまとめる正式記録です」


「私が、ですか」


「主編纂はグレゴール記録官。私は監修。あなたは記録官補として編纂補助」


 グレゴールが言う。


「量が多いですよ」


「脅さないでください」


「事実です」


 オスカーも紙束を持ち上げる。


「箱で三つはあります」


「やめてください」


 ミレーヌは頭を抱えた。


 だが、その奥で、何かが静かに灯るのを感じた。


 総括記録。


 消された名前を戻すための記録。


 ハーゲンが「財務院補助官ハーゲン」として出席確認に答えたこと。


 エダが「首が寒くない」と言ったこと。


 リディアが怖かったと証言したこと。


 ミケルが札を止めたいと言ったこと。


 ケインが功績と罪を同じ記録に残されること。


 セラフィンが望みを刃にしたと認めたこと。


 それらを、散らばったままにしない。


 もう一度消されないように、編む。


 怖い。


 でも、やりたい。


 ミレーヌは、恐る恐る尋ねた。


「断ることはできますか」


「できます」


 クラリスはすぐ答えた。


「受けるまで帰れない雰囲気を作るのは、問無の親戚ですから」


「問無の親戚」


 ハーゲンなら嫌がりそうな表現だと思い、少し笑ってしまった。


「考える時間は」


「必要ですか」


「少し」


「では、明日の夕刻まで」


「短くありませんか」


「長くすると、あなたは寝ません」


「……なぜ分かるのですか」


「分かります」


 ミレーヌは反論できなかった。


 たぶん、寝ない。


 受けるべきか、断るべきか、朝まで考えて、文字の練習まで始める気がする。


「分かりました。明日の夕刻までに」


「はい」


 クラリスは任命内示書を差し出した。


「これは持ち帰って構いません。ただし、枕元には置かないこと」


「なぜですか」


「眠れなくなります」


「もう、皆さん私を何だと思っているのですか」


 オスカーが小声で言う。


「寝ない人」


 ミレーヌは睨んだ。


「聞こえています」


「記録しないでください」


     ◇


 その夜、ミレーヌは任命内示書を机の上に置き、何度も読んだ。


 王弟府記録官補。


 字面が重い。


 補が付いているのに重い。


 自分には早い気がする。


 でも、早いと言い続けていたら、いつならよいのだろう。


 完璧に震えなくなったら?


 感情を入れずに記録できるようになったら?


 ハーゲンが目の前で傷ついても、リディアが泣いても、南施療院の手紙を読んでも、心が揺れなくなったら?


 それは、本当に良い記録官なのだろうか。


 分からない。


 ミレーヌは自分の手帳を開いた。


 これまでの私的メモが、ぎっしり詰まっている。


 首が寒くない。


 覚えていてくれてありがとう。


 続けることも、止まることも。


 戻る矢印。


 文句は大事。


 声を借りることもできる。


 本人の意思確認を急がせない。


 戻る場所は、選び直す。


 どれも、本記録にはそのまま入らないかもしれない。


 でも、この手帳がなければ、本記録の温度は失われる気がした。


 ミレーヌは、最後の頁に新しく書いた。


 私はまだ震える。だから、確認する。


 書いてから、少しだけ楽になった。


 震えない人になるのではなく、震えるから確認する人になればいい。


 その夜、彼女は任命内示書を枕元に置かなかった。


 机の引き出しへ入れた。


 それでも少し眠れなかったが、朝までは起きていなかった。


 翌日の夕刻、ミレーヌはクラリスの前に立った。


「お受けします」


 声は、思ったより落ち着いていた。


「王弟府記録官補の任命を、お受けします」


 クラリスは、いつものように静かに頷いた。


「分かりました」


「ただし」


「はい」


「震えたら、確認します」


 クラリスの口元が、ほんの少し緩んだ。


「それが仕事です」


「あと、総括記録の題名を、少し考えたいです」


「もう考えているのですね」


「はい」


「では、それも仕事です」


 ミレーヌは深く頭を下げた。


 補助ではなく、補。


 まだ一人前ではない。


 でも、ただ隣で筆を持つだけではない。


 震える手で、確認しながら書く。


 消された名前を戻すために。


 王宮の紙が、もう一度誰かを消さないように。

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