第202話 裁定の日
裁定の日の朝、王宮は妙に静かだった。
静かすぎる、と言ってもいい。
人がいないわけではない。
廊下には官吏がいる。
控室には記録官がいる。
中庭には伝令が走っている。
各院の代表者は、いつもより早く王宮中央棟へ入っていた。
それなのに、声が少ない。
誰もが、今日だけは余計な言葉を紙にされることを恐れているようだった。
王宮という場所は、普段から言葉に慎重だ。
けれど今日は、その慎重さに怯えが混じっていた。
問無禁止令の公開草案が出てから、王宮の空気は少し変わった。
良い方に変わった、とは言い切れない。
廊下の立ち話が減った。
「上で確認済みです」と軽く言う者が減った。
略号を書こうとして、筆を止める若手が増えた。
その一方で、仕事は遅くなった。
財務院の窓口では、支払い確認の列が伸びた。
商務評議会では、外客荷の札が山になった。
白鴎館では、現物確認のために倉庫係が走り回っている。
怒る者もいた。
笑う者もいた。
「あのハーゲン補助官のせいで、仕事が増えた」と陰で言う者もいる。
それを聞いたミレーヌは、一度だけ本気で怒り、クラリスに止められた。
ハーゲン本人は、その話を聞いてこう言った。
「仕事が増えたのは私のせいではありません。今まで誰かが問わずに済ませていたせいです」
もっともな言葉だった。
ただ、その後で彼は少し肩を落とし、
「でも、陰で言われるのは嫌です」
と付け足した。
それが、彼らしかった。
正しくても傷つかないわけではない。
正しいと分かっているから余計に腹が立つこともある。
王弟府の控室で、ハーゲンは今日も白紙の束を確認していた。
一枚目、出席確認。
二枚目、休止条件。
三枚目、本人発言予定なし。
四枚目、裁定後の面談可否。
五枚目、空白。
五枚目を見て、ミレーヌが首を傾げた。
「これは何ですか」
「空白です」
「それは見れば分かります」
「裁定を聞いて、何か書きたくなった時のためです」
「何か、とは」
「分かりません」
ハーゲンは真面目に答えた。
「怒りかもしれませんし、嫌味かもしれませんし、全然関係のない計算かもしれません」
エリオス医官が横から言う。
「計算なら、裁定後にしてください」
「なぜですか」
「逃避だからです」
「医官殿は、私の逃げ道に厳しい」
「逃げ道は否定しません。ただ、逃げている自覚は持ってください」
ハーゲンは少し不満そうに水を飲んだ。
ミレーヌはその様子を見ながら、今日の記録板を抱え直す。
「ハーゲン様は、本日の裁定を最後までお聞きになりますか」
「分かりません」
以前より、彼は「分かりません」と言えるようになっていた。
それは弱さではない。
むしろ、曖昧なことを曖昧なまま出せる強さだった。
「途中で退出してもよいと、クラリス様は言いました」
「はい」
「でも、出たい」
「はい」
「セラフィン書記長とダリオ、ケイン元参事補佐の裁定を、聞きたいです」
「理由を聞いてもよろしいですか」
ハーゲンは少し考えた。
「罰を見たいから、だけではないと思います」
「だけではない」
「はい。でも、罰を見たくないわけでもありません」
ミレーヌは黙った。
きれいな答えではない。
だが、正直だった。
ハーゲンは続けた。
「彼らが苦しめば気が済む、とは言いません。そんなに単純ではないです。でも、何も起きずに終わるのは嫌です。謝られて終わるのも嫌です。制度改革だけで、“前向きに進みましょう”と言われたら、たぶん怒ります」
「怒ってよいと思います」
「よいのでしょうか」
「はい」
ミレーヌは即答した。
「私は、怒ってよいと思います」
ハーゲンは彼女を見た。
「ミレーヌ様は、時々とても速く答えますね」
「速く答えたい時があります」
「今が?」
「はい」
ハーゲンは、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
その時、扉が叩かれた。
クラリスが入ってくる。
今日はいつもより装いが正式だ。
淡い青灰の衣に、王弟府顧問の徽章。
表情は静かだが、どこか張りつめている。
「そろそろです」
ハーゲンは白紙を揃え、立ち上がった。
少しふらついたが、自分で姿勢を戻す。
エリオスが尋ねる。
「腕は」
「今は大丈夫です」
「途中で必要になれば」
「お願いします」
「よろしい」
クラリスが扉を開ける。
ハーゲンは一度、控室を振り返った。
机。
水差し。
空白の紙。
窓。
戻る場所があることを確認してから、彼は廊下へ出た。
◇
裁定の間は、公開聴聞室よりさらに厳かな場所だった。
中央に国王席。
その左右に王弟レオンハルト、王宮法務院長、財務院監察官、慈善院代表。
正面には被裁定者席が三つ。
ケイン・アルグレスト。
セラフィン元書記長。
ダリオ・メルク。
その他、バルナス主任やローヴァン補佐官については別途処分審議となるが、参考出席を命じられている。
ハーゲンは証言者席ではなく、関係者席に座った。
その隣にエリオス。
少し後ろにミレーヌ。
ミケルとリディアも別席にいる。
南施療院からは、院長エルマーと看護長マリナ。
白鴎館の倉庫係ティムも、後方の端に座っていた。
誰もが、自分の関わった場所から裁定を見届ける。
国王が入室すると、全員が立ち上がった。
ケインも立った。
背筋はまだ伸びている。
老いた。
しかし、崩れてはいない。
セラフィンは、顔色が悪かった。
けれど目は妙に澄んでいた。
ダリオは、最初から俯いている。
木槌が鳴る。
国王はゆっくり口を開いた。
「本日、南施療院未着布、王妃基金用途逸脱、問無運用、ハーゲン補助官失踪および名簿取消に関する裁定を行う」
その声は、聴聞の時よりも低かった。
「最初に言う。これは、一人の悪人を見つけて終える裁定ではない」
誰も動かなかった。
「王宮の仕組みが、人の問いを止め、人の名を消した。その仕組みを作り、用い、見逃し、利益を得た者がいる。功績がある者もいる。恐れて従った者もいる。知らずに書いた者もいる。だが、事情が違えば責任も違う。責任が違うからこそ、誰の責任も消してはならぬ」
ミレーヌは、その言葉を一つ一つ記録した。
国王はまず、ダリオを見た。
「ダリオ・メルク」
ダリオは立ち上がった。
「はい」
「そなたは外客物資係として、問無札を若手書記へ下ろし、白鴎館および財務院への連絡を運び、H取消に関わった。自ら仕組みを作った中心ではないが、運び手として多くの紙を通した」
ダリオの肩が震える。
「一方で、聴聞においてセラフィンの指示経路を証言し、黒封筒およびH取消の経路解明に協力した」
国王は裁定書を読む。
「よって、ダリオ・メルクを外客物資係より免職。以後十年間、慈善物資、外客物資、財務連絡に関わる職務への就任を禁ずる。監督下において、問無運用全容調査への協力を命ずる。証言協力を考慮し、拘束処分は監督拘束に留める」
ダリオは、力が抜けたように頭を下げた。
「承知、いたしました」
その声に、安堵が混じっているのを、ミレーヌは聞き取った。
免職。
十年の職務禁止。
軽くはない。
だが、彼はもっと重い裁定を覚悟していたのだろう。
その安堵に、リディアの表情が一瞬だけ歪んだ。
ミレーヌは胸が痛んだ。
加害に加わった者が処分を受けてなお、どこかで「助かった」と感じる。
それを見る被害側の若手は、簡単に納得できない。
裁定とは、きれいに気持ちを終わらせるものではないのだ。
次に、セラフィンが呼ばれた。
「セラフィン」
彼は立ち上がった。
以前のように「書記長」とは呼ばれなかった。
その肩書きは、もうここにはない。
「そなたは、問無を非公式略語として統一し、現場へ下ろし、若手に意味を知らせず書かせ、拒否権を隠した。ケインの望みを実務処理へ変え、本人照会を健康・静養・混乱の名で止め、ハーゲン補助官の名をハルへ変え、帰還を妨げる黒封筒を送った」
セラフィンは、目を伏せたまま聞いていた。
「そなたは命令の被害者ではない。望みを刃にした職人である」
クラリスが以前言った言葉。
国王の口から、裁定文として読み上げられた。
セラフィンの指先が僅かに震える。
「一方で、隠し記録を提出し、問無運用の構造解明に協力する意思を示した。だが、それは責任を消すものではない」
国王は続ける。
「セラフィンを商務評議会書記長職より解任。王宮書記職の資格を剥奪する。ただし、問無運用および非公式意向処理の全容調査に協力する義務を課し、その期間、王弟府および法務院共同監督下に置く。調査協力を怠った場合、拘束処分へ移行する」
セラフィンは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
声は整っていた。
だが、その整い方が、以前とは違った。
勝つための整いではない。
崩れないために、かろうじて形を保っている声だった。
リディアが小さく息を吐く。
ミケルは拳を握っている。
ハーゲンは、セラフィンを見ていた。
顔には怒りも安堵も、はっきり出ていない。
ただ、目を逸らさなかった。
最後に、ケインが呼ばれた。
「ケイン・アルグレスト」
ケインは立ち上がった。
白髪の混じった髪。
整えられた衣服。
長年王宮を支えてきた男の立ち姿。
罪を問われてなお、彼が無能だったわけではないことは、誰の目にも明らかだった。
だからこそ、厄介だった。
国王は裁定文を読む前に言った。
「最終弁明を許す」
ケインは一礼した。
「陛下、王弟殿下、各院代表の皆様。まず、南施療院をはじめ、王妃基金により守られるべき方々に、結果として被害が及んだことを遺憾に思います」
ミレーヌの筆が止まりかけた。
遺憾。
その言葉は、謝罪に似ているが謝罪ではない。
ハーゲンの指が白紙の端を押さえた。
ケインは続けた。
「私は、王国の安定を第一に考えてきました。飢饉の年、交易危機、国境の緊張。王宮の信用が崩れれば、最も傷つくのは民です。外客信用を軽んじれば、遠方の村に届く麦も、薬も、布も失われる。私はその現実を見てきました」
声は落ち着いている。
前回のように荒げてはいない。
「王妃基金の理念は尊いものです。しかし、時に理念だけでは国は保てません。私は、その隙間を埋めようとした」
国王は黙って聞いている。
ケインは一度、王妃の直筆写しへ目をやった。
「ただし」
そこで、彼の声がわずかに変わった。
「私は、変えるべきものを、変えたと書かなかった。借りたものを、借りたと書かなかった。待たせた者へ、待たせると告げなかった。問われた時、答える代わりに静かにせよと望んだ」
聴聞室に、緊張が走った。
ケインは、少しだけ目を伏せる。
「それは、誤りでした」
その一言に、ダリオが顔を上げた。
セラフィンも、僅かにケインを見る。
ケインは続ける。
「私は命令書を出していません。ですが、私の望みが実務を動かすことを知っていました。止めなかった。むしろ、結果を利用した。南施療院の照会が止まり、外客礼が保たれた時、私はその静けさを都合よく受け取りました」
声は、まだ整っている。
だが、少しずつ老いが滲んでいた。
「ハーゲン補助官の名が消されるところまで、私が明確に命じたわけではありません」
ハーゲンの手が動く。
やはり、そこは譲らないのか。
ケインは、その動きに気づいたのかどうか、続けた。
「ですが、彼が戻れば混乱すると言った。戻らないことを望んだ。その望みが、彼の名を消す者たちに理由を与えた」
ハーゲンは、白紙の端を離した。
ケインは彼の方を向かなかった。
向けなかったのかもしれない。
「私は、王国を守りたかった。今も、その思いまで嘘だったとは思いません」
国王の表情は変わらない。
「しかし、私が守ろうとした王国の中から、病床の者、孤児、寡婦、名を消された補助官を、後回しにしたことは認めます」
重い沈黙。
ケインは深く頭を下げた。
「裁定を受けます」
ミレーヌは、筆を持つ手が震えるのを感じた。
認めた。
だが、すべてではない。
言い逃れも残している。
自分の功績も手放していない。
悔いているのか。
計算しているのか。
その両方なのか。
人は、こんなふうに面倒だ。
悪人として真っ黒に塗れれば楽なのに、彼は功績も持っている。
悔いも口にする。
同時に、自分が守ったものへの誇りも捨てない。
だからこそ、裁く側はもっと面倒な責任を負わなければならない。
国王は、しばらくケインを見ていた。
「そなたの功績は、消えぬ」
ケインの肩がわずかに動いた。
「飢饉の年、そなたの働きで救われた村がある。交易危機の時、そなたの交渉で保たれた道がある。辺境の兵糧を守った年もある。それは事実だ」
国王の声は冷静だった。
「だが、功績は、後の罪を消すための前払いではない」
ケインは目を閉じた。
「そなたは、王妃基金の理念を知りながら、それを変更手続きなく逸脱した。外客信用のために用途固定の財を流用し、返納を曖昧にし、照会を止める空気を生み、その結果を知りながら止めなかった。ハーゲン補助官の帰還を望まず、その望みが名簿取消と本人意思不確認の処理を支えた」
国王は裁定書を開いた。
「ケイン・アルグレストを、元参事補佐の称号を含む全王宮職より罷免する」
室内の空気が重く沈む。
「以後、王宮実務、財務、商務、慈善基金、外客礼に関わる全ての職務への就任を永久に禁ずる」
ケインは動かない。
「私財のうち、王妃基金から外客礼へ流用された額に相当する分、および利息相当を、王妃基金へ返納させる。額については法務院および財務院監察官が算定する」
財務院監察官が頷く。
「また、過去の功績に基づく年金待遇は最低限の生活保障を除き停止。王都中心部の官舎を退去し、監督下の郊外邸へ移ること」
ケインの従者が、後方席で小さく息を呑んだ。
「ただし」
国王は一拍置いた。
「過去の功績を理由に、名誉刑は科さぬ。公衆の前で晒すことはしない。王宮記録には功績と裁定をともに残す」
ケインは、そこで初めてわずかに表情を動かした。
名誉刑を免れたことへの安堵か。
功績と罪が同じ記録に残ることへの痛みか。
分からない。
国王は最後に言った。
「そなたが守った王国も、そなたが傷つけた王国も、同じ王国だ。どちらも記録する」
木槌が鳴った。
「裁定、以上」
長い沈黙の後、ケインは深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
その声は、これまでで最も小さかった。
◇
裁定の間を出た後、廊下では誰も大きな声を出さなかった。
歓声もない。
拍手もない。
ざまぁ、と笑えるような瞬間ではなかった。
それでも、空気は確かに変わっていた。
ケインが王宮実務から永久に退いた。
セラフィンは書記職を失った。
ダリオは免職された。
問無は、もう慣用句では済まない。
ハーゲンは廊下の途中で立ち止まった。
エリオスがすぐに尋ねる。
「気分が悪いですか」
「少し」
「座りますか」
「座る場所はありますか」
「壁際の長椅子があります」
「では、座ります」
彼は長椅子に腰を下ろした。
ミレーヌが水を持ってくる。
「飲めますか」
「少し」
ハーゲンは水を飲んだ。
しばらくして、ぽつりと言う。
「思ったより、すっきりしません」
ミレーヌは隣に立ったまま答えた。
「私もです」
「もっと、こう……終わった、と思うのかと」
「思いませんか」
「思いません」
ハーゲンは、裁定の間の扉を見た。
「ケイン元参事補佐が、最後に少し認めたせいかもしれません」
「認めたのが嫌でしたか」
「嫌、というより」
彼は言葉を探した。
「ずるいと思いました」
正直な言葉だった。
「あそこで少し認めると、少し人間らしく見えます」
「はい」
「すると、こちらも少し迷う。怒り続けてよいのか分からなくなる」
「怒ってよいと思います」
ミレーヌはまた即答した。
ハーゲンは彼女を見て、少し笑った。
「速いですね」
「速く答えたいので」
「ありがとうございます」
彼は水杯を膝の上で両手で包んだ。
「でも、私も少し思いました。ケイン元参事補佐は、最初から全部を壊そうとしたわけではないのだと」
「はい」
「だからこそ、腹が立ちます」
「なぜですか」
「途中で止まれたかもしれないからです」
ミレーヌは、その言葉に胸を突かれた。
悪意だけで進んだなら、ただ悪を裁けばいい。
けれど、最初は善意や責任感や誇りだったものが、少しずつ曲がり、戻れなくなり、他人の問いを止めるようになる。
その方が、ずっと怖い。
クラリスが近づいてきた。
「ハーゲン補助官。少しお話しできますか」
「今ですか」
「急ぎではありません。今日でなくても構いません」
ハーゲンは、すぐに警戒した顔をした。
「何の話ですか」
クラリスは、その警戒を当然のものとして受け止めた。
「財務院から、復帰に関する正式打診が来ています」
ハーゲンの手が止まった。
水杯の中の水が、わずかに揺れる。
「財務院へ」
「はい。元の補助官職への復帰、未払い給与の補填、名簿訂正、謝罪文の交付。それらを含む提案です」
ミレーヌは息を呑んだ。
財務院復帰。
いつか出る話だと分かっていた。
だが、裁定の直後に来ると、あまりにも重い。
ハーゲンは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く尋ねる。
「それは、名誉回復ですか」
「財務院は、そう書いています」
「私が戻らないと、名誉は回復しませんか」
「いいえ」
「戻らないと、財務院は困りますか」
「困るでしょう」
「それは、私の問題ですか」
クラリスは、少しだけ目を細めた。
「いいえ」
ハーゲンは、長く息を吐いた。
「よかった」
それから、疲れたように笑う。
「一瞬、戻らないと悪いのかと思いました」
「思わなくてよいです」
「でも、戻るべきだとも思います」
「なぜ」
「私の机があります。たぶん、もう別の人が使っているでしょうけど。財務院には、まだ私の仕事があります。C-3だけではない。戻って、帳簿を見るべきだと思う自分もいます」
「はい」
「でも、戻りたくない自分もいます」
「はい」
「廊下の音を聞くだけで、たぶん気分が悪くなる。誰かが“上で確認済み”と言えば、怒るかもしれない。親切にされても、腫れ物に触るみたいで嫌になるかもしれない」
「はい」
「それに」
ハーゲンは、ミレーヌとクラリスを見た。
「私は、問無禁止令の草案に関わりたいです」
クラリスは頷いた。
「財務院へ戻ることと、草案に関わることは、両立できます」
「できます。でも、元の机に戻ったら、私はまた財務院の人間として話すことになる」
「それが嫌ですか」
「嫌、というより、怖いです」
正直な言葉だった。
「私は、被害者として話したいわけではありません。でも、財務院の代弁者にもなりたくありません。私は……」
言葉を探す。
自分の立場を、まだうまく言えない。
以前なら、財務院補助官。
消された後は、ハル。
戻ってからは、保護対象、証言者、草案協力者。
どれも自分であり、どれも少し違う。
クラリスは静かに言った。
「戻ることと、同じ場所に座ることは違います」
ハーゲンは顔を上げた。
「同じ場所に座らなくても、戻れるのですか」
「はい」
「それは、どういう形ですか」
「たとえば」
クラリスは少し考えた。
「王弟府内に、新しい監査室を置く案があります。慈善物資、用途固定基金、本人名簿変更などを横断的に監査する部署です。問無禁止令が施行されれば、相談窓口や拒否記録の監査も必要になります」
ハーゲンは目を瞬いた。
「それは、財務院ではありませんね」
「財務院だけではありません。商務評議会、慈善院、白鴎館、軍務院とも関わります」
「私に、そこへ?」
「まだ提案です。正式打診ではありません」
「誰の案ですか」
クラリスは、少しだけ視線を逸らした。
「王弟殿下と私と、グレゴール記録官と、エリオス医官の雑談から出ました」
「医官殿も?」
ハーゲンはエリオスを見る。
エリオスは悪びれずに答えた。
「あなたを財務院へ丸ごと戻したら、三日で熱を出すと思いました」
「ひどい」
「医療的見解です」
「そこは、もう少し柔らかく」
「一週間かもしれません」
「そういう問題ではありません」
ミレーヌは、思わず笑ってしまった。
ハーゲンも少しだけ笑ったが、すぐ真面目な顔に戻る。
「私に、監査室が務まりますか」
クラリスは即答しなかった。
軽く「できます」と言えば、期待を押しつけることになる。
「分かりません」
ハーゲンは、少し驚いた顔をした。
「分からないのですか」
「はい。新しい部署ですから。あなたにも、私たちにも分かりません」
「では、なぜ」
「必要だからです」
「また、それですね」
「はい。面倒ですが、必要です」
ハーゲンは少し笑った。
「便利な言葉になっています」
「便利に使いすぎないよう注意します」
しばらく沈黙があった。
廊下の向こうで、裁定後の書類を運ぶ足音がする。
ハーゲンは、その足音を聞きながら、もう一度水を飲んだ。
「今日、決めなくてよいですか」
「もちろんです」
「財務院への返事も?」
「期限を延ばせます」
「延ばす理由は」
「本人判断に時間を要するため」
「弱くありませんか」
「では、本人の意思確認を急がせないため」
「そちらの方が好きです」
ミレーヌがすぐに手帳へ書いた。
本人の意思確認を急がせない。
ハーゲンが気づく。
「また書いていますね」
「大事なので」
「では、私も書きます」
彼は五枚目の空白を取り出した。
裁定を聞いて、何かを書きたくなった時のために持ってきた紙。
そこに、ゆっくり書いた。
戻る場所は、選び直す。
書いてから、自分で少し驚いた顔をした。
「今、そう思っただけです」
クラリスが頷く。
「それで十分です」
「正式な答えではありません」
「はい」
「でも、今はこれです」
ハーゲンは紙をミレーヌへ見せた。
ミレーヌは、その文字を見て、胸が熱くなった。
戻る。
けれど、元の場所にそのまま座るとは限らない。
失われた時間は返らない。
それでも、これからの場所は選び直せる。
「記録してよろしいですか」
ミレーヌが尋ねると、ハーゲンは少し考えた。
「はい。ただし、決定ではなく、本人メモとして」
「はい」
ミレーヌは記録した。
裁定後、ハーゲン補助官本人メモ。“戻る場所は、選び直す”。現時点で進路決定ではない。
クラリスは、それを見て静かに言った。
「よい記録です」
ハーゲンは、少し疲れた顔で笑った。
「今日は、これで戻りたいです」
エリオスが頷く。
「自分の足で戻る目標は達成できますか」
「たぶん」
「腕は」
「少しだけ、貸してください」
ハーゲンは、自分からそう言った。
エリオスは、当然のように腕を差し出す。
「どうぞ」
ハーゲンはその腕を借り、立ち上がった。
裁定の間から、控室へ。
長い廊下を、ゆっくり歩く。
完全に一人ではない。
けれど、運ばれているのでもない。
自分で歩き、必要な分だけ支えを借りる。
それもまた、戻り方の一つだった。




