第201話 問いは、王宮の外から戻ってきた
問無禁止令の公開草案が王宮前広場へ掲示された朝、最初に集まったのは官吏でも記者でもなかった。
洗濯籠を抱えた女だった。
彼女は広場の端で一度立ち止まり、掲示板の前にできた人だかりを見て、露骨に嫌そうな顔をした。
「なんだい、また税の話かい」
隣を歩いていた八歳ほどの少女が、女の袖を引く。
「お母さん、早く。遅れるよ」
「分かってるよ。でも、こういう紙は見ておかないと、後で“掲示してありました”って言われるんだ」
「字、多い」
「役人はね、都合が悪くなると字を増やすんだよ」
広場の巡回役人が、聞こえているのかいないのか、少しだけ顔を背けた。
女は籠を地面へ置き、掲示板の下へ寄った。
正式名称は長い。
照会停止および非公式略語使用に関する臨時規程・公開草案。
その下に、少し大きな文字で書かれている。
通称・問無禁止令。
さらに、その下。
王宮および王国各院において、責任者名・理由・期限を記さず、照会や確認を停止する処理を禁ずる。
女は、冒頭を声に出して読んだ。
「せきにんしゃめい……りゆう……きげん……」
少女が欠伸をする。
「分かんない」
「お母さんにも半分しか分かんないよ」
女は草案の横に掲げられた、平易な説明文へ目を移した。
そこには、難しい言葉を避けて書かれていた。
役所が「もう聞くな」と処理する場合、誰が止めたのか、なぜ止めたのか、いつまで止めるのかを必ず記します。
名前、命、病床や孤児院へ届ける品については、役所の中だけで処理を終わらせません。
書記や補助官は、責任者の分からない命令を断ることができます。
女の目が、最後の一文で止まった。
「断っていいんだってさ」
「何を?」
「さあね。役所の人が、役所の人に嫌なことを言われた時じゃないかい」
少女は興味を失ったらしく、籠の取っ手を足で揺らした。
「お母さん、早く」
「はいはい」
女は籠を持ち上げようとして、もう一度掲示を見た。
「本当に断れるなら、今まで断らなかった人はどうなるんだろうね」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
けれど、その近くで掲示を監視していたミレーヌの耳には届いた。
彼女は手帳へ書きかけて、やめた。
公開草案への反応は記録する。
だが、通りすがりの親子の会話を、本人に断りなく正式記録へ入れるべきではない。
迷った末、私的な覚えとして、短く書いた。
本当に断れるなら、今まで断らなかった人はどうなるのか。
痛い問いだった。
新しい規程を作ると、過去に従った者が責められることがある。
断る権利があったと書けば、なぜ断らなかったのかと言われる。
けれど、リディアたちは、その権利を教えられていなかった。
規程の文字だけでは、人は断れない。
上役に嫌われる。
仕事を外される。
同僚に迷惑をかける。
出世できなくなる。
自分の代わりに、もっと若い誰かが書かされる。
そういう、紙に書きにくい恐れがある。
「ミレーヌ様」
呼ばれて顔を上げると、王弟府の若い事務官が立っていた。
両腕に、木箱を抱えている。
「意見書の第一便です」
「もう来たのですか」
「掲示から一刻も経っていません」
「早いですね」
「抗議は早いものです」
箱の横には、財務院・緊急意見と書かれていた。
ミレーヌは苦笑する。
「賛成意見ではないのですね」
「表紙だけで分かります」
「中を読むまでは、決めつけてはいけません」
「では、表紙が少し怒っている、と記録してください」
ミレーヌは、思わず笑った。
「紙は怒りませんよ」
「この箱は怒っています。重いですし」
事務官は腕を震わせた。
ミレーヌは慌てて片側を持つ。
「二人で運びましょう」
「助かります」
二人が広場から王弟府へ戻ろうとした時、背後から声が飛んだ。
「王弟府の人かい!」
振り返ると、先ほどの洗濯籠の女が戻ってきていた。
少女は不満そうに母親の手を引いている。
「はい」
ミレーヌが答えると、女は掲示板を指差した。
「これ、意見を出していいんだろう?」
「はい。広場の投函箱か、王弟府の受付へ」
「字が書けない人は?」
ミレーヌは、答えに詰まった。
掲示の下には、確かに意見提出方法が書かれている。
だが、どれも書面だ。
投函。
郵送。
各院窓口への提出。
「代筆受付を……」
言いながら、ないことに気づいた。
「ありませんね」
「ないのかい」
「はい。申し訳ありません」
女は呆れた顔をした。
「書記が断れるようにする紙なのに、字が書けない人の話は聞かないのかい」
少女が母親の袖を強く引いた。
「お母さん、ほんとに遅れるってば」
「分かってるよ」
女はミレーヌを見る。
「悪いね。あんたを責めたって仕方ないんだけどさ」
「いいえ」
「でも、こういうのは、だいたい“意見を聞きました”って形だけ作るんだ。出せる人からだけ聞いてね」
ミレーヌは、抱えていた箱を隣の事務官へ預けた。
手帳を開く。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「名前?」
「今のご意見を、公開草案の改善意見として記録したいです」
女は急に警戒した。
「名前を書いたら、後で役所から何か来るのかい」
「来ません」
言い切ってから、ミレーヌは少し迷う。
「……来ないようにします。匿名でも構いません」
「そこは最初から匿名でいいって言いなよ」
「すみません」
「若いねえ、あんた」
「よく言われます」
女は少し笑った。
「じゃあ、南市場の洗濯女って書いといておくれ。名前まで出すほど立派なことは言ってない」
「立派である必要はありません」
「そういうことを真面目な顔で言うと、逆に恥ずかしいよ」
「すみません」
「謝らなくていいって」
女は娘に引っ張られながら去っていった。
ミレーヌは手帳へ書いた。
意見提出に読み書きを前提としている。口頭受付および匿名代筆窓口が必要。
その下へ、もう一行。
制度は、意見を出せる人だけのために作らない。
若い事務官が箱を抱え直しながら言う。
「また仕事が増えましたね」
「はい」
「嫌ですか」
「嫌です」
ミレーヌは即答した。
「でも、必要です」
「皆、最近その言い方をしますね」
「誰がですか」
「クラリス顧問も、ハーゲン補助官も。“面倒ですが必要です”と」
「よい言葉でしょう」
「仕事を増やす側には、便利な言葉です」
ミレーヌは反論できなかった。
「それも記録しておきます」
「やめてください。上役に読まれます」
「匿名にします」
「匿名でも、私だと分かります」
二人は木箱を運びながら、少し笑った。
正しい制度を作る仕事でも、運ぶ箱は重い。
働く者は疲れる。
文句も言う。
そういうことまで、なかったことにしてはいけないのだと思った。
◇
公開草案への意見書は、その日のうちに二百通を超えた。
翌日には六百通。
三日目には、王都外からの早馬便まで届き始めた。
賛成だけではない。
反対。
不安。
罵倒。
自慢。
見当違いの陳情。
事件と関係のない隣人への悪口。
王弟府の大記録室は、紙で埋まった。
ミレーヌは、届いた意見を大きく分類した。
制度内容への意見。
実務負担への意見。
過去の類似被害。
個人への非難。
判読不能。
本件外。
だが、分類できないものも多い。
ある手紙は、問無禁止令に賛成すると書いた後、財務院官吏への長い恨みが続いている。
別の手紙は、実務が遅くなると反対しながら、最後には「だが、うちの兄の退役金も三年止まっている」と書かれていた。
人の意見は、きれいに賛成と反対へ分かれない。
自分が困る改革には反対する。
でも、自分が救われる部分は欲しい。
他人の被害には厳格な証拠を求めるのに、自分の被害はすぐ信じてほしい。
ミレーヌは、一通の手紙を読みながら眉を寄せた。
「これは、どちらでしょう」
隣で資料を整理しているオスカーが尋ねる。
「何と書いてありますか」
「“問無を禁ずることには賛成する。しかし、ハーゲン補助官なる者が王弟府で地位を得るため事件を大きくした疑いも調べるべきである”」
少し離れた机にいたハーゲンの手が止まった。
ミレーヌは、読んでから気づいた。
本人がいる。
「申し訳ありません」
「いえ」
ハーゲンは、手元の紙から顔を上げなかった。
「公開意見ですから、読みます」
「でも」
「私に都合の悪い意見だけ読まないなら、問無と似ています」
ミレーヌは黙った。
理屈ではそうだ。
だが、目の前で読む必要があったのか。
もう少し配慮できたのではないか。
ハーゲンは、しばらくして尋ねた。
「その手紙には、根拠が書いてありますか」
「王弟府で草案作成へ参加していること。財務院復帰の可能性があること。公開聴聞で本人質問を許されたことです」
「なるほど」
声は平静だった。
だが、紙を持つ指が少し強くなっている。
オスカーが言う。
「個人への非難へ分類しますか」
ハーゲンは顔を上げた。
「いえ。制度内容への意見にも入れてください」
ミレーヌが驚く。
「なぜですか」
「草案作成者に利害関係者がいる、という指摘です。私が参加していることで草案が偏る可能性はあります」
「でも、ハーゲン様は被害当事者です」
「だからです」
「被害当事者が制度作りへ参加するのは、必要です」
「必要であることと、偏らないことは同じではありません」
ミレーヌは、少し苛立った。
「では、被害を受けた人は、制度に口を出さない方がよいのですか」
「そうは言っていません」
「でも、今の言い方では」
「ミレーヌ様」
クラリスの声が、部屋の奥から飛んだ。
強くはない。
けれど、止める声だった。
ミレーヌは口を閉じた。
クラリスが近づく。
「今、ハーゲン補助官の意見を代わりに守ろうとしましたね」
「……はい」
「ご本人は、守ってほしいと頼みましたか」
ミレーヌはハーゲンを見る。
彼は困ったような顔をしていた。
「頼んでいません」
「すみません」
「ただ」
ハーゲンが続ける。
「少し、助かりました」
ミレーヌは目を瞬いた。
「助かった?」
「腹が立っていたので」
ハーゲンは、ようやく手紙を見た。
「私は地位を得るために消されたわけではありません。戻りたくて戻った。問いたくて問うた。それを、出世のためだと言われるのは腹が立ちます」
「はい」
「でも、腹が立つことと、指摘を調べないことは別です」
クラリスが頷く。
「では、草案作成者の利害公開を追加しましょう」
「利害公開」
「誰が草案へ関わり、どのような立場かを明記します。被害当事者、元所属、現在の保護関係。隠さない」
ハーゲンは少し考えた。
「私の健康状態まで出しますか」
「出しません。必要な範囲だけです」
「財務院へ戻るか未定であることは?」
「記しますか」
ハーゲンは、迷った末に頷いた。
「お願いします」
ミレーヌが新しい修正項目を書く。
草案作成参加者の所属・利害関係を公開する。ハーゲン補助官は被害当事者であり、財務院への復帰は未定。王弟府での恒久職は現時点で決定していない。
書き終えた後、ミレーヌは小さく言った。
「私は、あの手紙を書いた人が嫌いです」
クラリスが少し眉を上げる。
「正直ですね」
「はい。ハーゲン様が出世のために事件を大きくしたなんて」
ハーゲンが言う。
「私も嫌いです」
ミレーヌは、思わず彼を見る。
ハーゲンは真面目な顔だった。
「嫌いでも、読むことはできます」
「そうですね」
「ただ、返事は書かない方がよいと思います」
「なぜですか」
「私が書くと、かなり嫌な文章になります」
オスカーが小さく笑った。
「見てみたい気もします」
「公開草案への回答として不適切です」
「私信なら?」
「もっと不適切です」
ハーゲンの口元にも、ごく薄い笑いが浮かんだ。
怒っている。
傷ついている。
それでも、冗談を言える。
ミレーヌは少し安心した。
同時に、自分が安心したことを恥ずかしく思った。
傷ついた本人に、こちらが安心させてもらってどうするのだろう。
人を支えるつもりで、支えられる。
その面倒さも、人間関係なのだと思った。
◇
王都外から届いた意見の中に、短いものがあった。
紙は粗い。
字も不揃い。
村の代書人が、聞き取った言葉を書いたらしい。
差出人欄には、西北領トルナ村・薬草番の妻とある。
ミレーヌは声に出して読んだ。
「“うちの村の薬も、紙では届いたことになっていました”」
記録室が静かになった。
続きがある。
「“春の熱病で、子どもが三人死にました。薬が来なかったせいだけとは言えないと村医者は言います。でも、届いたと書いてあった薬がどこへ行ったかは聞きたいです”」
ミレーヌの声が少し震えた。
「“王都の人は、聞くのに許可が要るのでしょうか。村では、子どもが死んだ母親は、許可がなくても聞きます”」
誰もすぐには話さなかった。
ハーゲンが、ゆっくり手を伸ばした。
「見せてもらえますか」
ミレーヌは手紙を渡した。
彼は何度も読む。
「薬草費の件と同じでしょうか」
クラリスが答える。
「分かりません。地名と年度を照合します」
「調査対象に?」
「はい。ただし、公開草案への意見と、正式な被害申立ては分けます。本人へ確認し、同意を得てから調査記録へ移します」
ハーゲンは頷いた。
「また、矢印が増えますね」
「ええ」
ミレーヌが言う。
「地図へ書きますか」
クラリスは少し考えた。
「まだ書きません」
「なぜですか」
「母親の言葉を、すぐ事件の材料にしないためです」
ミレーヌは、はっとした。
届いた手紙を見つけると、調査の線へ加えたくなる。
証拠へしたくなる。
だが、手紙を書いた人は、王弟府の事件を強くするために子どもの死を書いたわけではない。
自分の問いを届けたのだ。
「まず、返事を書きます」
クラリスは言った。
「何と」
「聞くために王都の許可はいらない、と」
ハーゲンが静かに言う。
「でも、答える義務は王都にある」
クラリスは彼を見る。
「その一文を入れましょう」
ミレーヌが返書の下書きを始める。
あなたが聞くために、王都の許可は要りません。届いたことになっていた薬の行方を、王都が答える義務があります。正式な調査を望む場合は、代書人を通じた同意確認をお願いします。調査を望まない場合でも、あなたの意見は公開草案の記録に残します。
書き終えた後、ミレーヌは読み返した。
「冷たくありませんか」
ハーゲンが言う。
「少し」
「どこが」
「“正式な調査を望む場合”が役所の言葉です」
「では、どうすれば」
「“薬の行方を調べてよいか、もう一度あなたに聞きます”」
ミレーヌは書き換えた。
「こちらの方が分かりやすいですね」
「はい」
オスカーが横から言う。
「ですが、法的には同意確認と書いた方が」
ミレーヌは睨みそうになった。
オスカーは両手を上げる。
「本文は分かりやすく、控えへ法的表現を書きましょう」
「それなら」
クラリスが頷く。
「両方必要です。相手へ届く言葉と、王宮が逃げられない記録」
返書一枚を書くのに、四人で何度も言い直した。
時間がかかった。
以前なら、定型文で済ませたかもしれない。
けれど、その定型文が問いを遠ざける。
だから、面倒でも直す。
この面倒を、誰か一人の善意だけに頼らない制度が必要だった。
◇
公開草案の五日目、王宮内の反発はさらに強くなった。
商務評議会からは、公開意見書が出た。
責任者名の過度な公開は、官吏個人への攻撃を招く。
軍務院からは、
緊急時に一日期限で正式承認を求めることは、辺境伝達の事情に合わない。
慈善院からは、
実受領確認の負担を現場へ押しつければ、看護係や孤児院職員の記録業務が増える。
どれも、ただの抵抗とは言い切れない。
実際に問題がある。
正しい規程でも、現場を疲弊させれば、別の歪みが生まれる。
顧問室で意見を読み終えたミレーヌは、頭を抱えた。
「全部、もっともらしく見えます」
グレゴールが言う。
「もっともな部分があるから、議論になります」
「全部受け入れたら、問無禁止令がなくなりませんか」
「全部拒めば、誰も守らなくなります」
「面倒ですね」
ハーゲンが、隣から言った。
「制度は、人より面倒です」
「人も十分面倒です」
「そうですね」
二人は同時にため息をついた。
クラリスが、少しだけ笑う。
「では、一つずつ分けます」
軍務院の意見には、通信日数に応じた期限延長。
ただし、緊急処理をした者の仮名ではなく正式名を残す。
慈善院の負担には、受領確認を看護係一人へ押しつけず、配送側も共同署名する方式。
官吏個人への攻撃については、一般公開する氏名と、監査機関だけが保管する氏名を分ける。
だが、完全匿名は認めない。
誰かが責任を負う。
外には役職名。
監査記録には本人名。
議論は、夜まで続いた。
途中、レオンハルトが苛立ったように言った。
「全て、面倒だな」
部屋が静まる。
王弟が言ってはいけないことを言ったような空気になった。
レオンハルトは、周囲の顔を見た。
「何だ」
クラリスが答える。
「皆、思っていましたが、殿下が最初に言われるとは思いませんでした」
「面倒なものは面倒だ」
「はい」
「だが、問無と書けば一瞬だった。その一瞬で二年を奪った」
レオンハルトは修正案を手に取った。
「なら、この面倒は払うべき代価だ」
ハーゲンが、少しだけ目を伏せた。
「私の二年の代価としては、安いと思います」
レオンハルトが彼を見る。
「そう言わせるために作るのではない」
「分かっています」
「そなたの二年は、規程では返らん」
ハーゲンは、しばらく黙った。
「はい」
その返事は、少し痛かった。
制度ができても、過去は戻らない。
問無が禁止されても、ハーゲンが失った二年は埋まらない。
南施療院で寒さに耐えた夜も。
薬が届かなかった村の子どもも。
冬靴が遅れた兵の凍傷も。
帳簿を直せば、なかったことになるわけではない。
クラリスは、修正紙を置いた。
「制度改革は、償いではありません」
ミレーヌが顔を上げる。
「では、何ですか」
「同じことを繰り返さないための最低限です」
「最低限」
「はい。これを作ったから、王宮が善くなったと思ってはいけません」
ハーゲンが静かに言う。
「思いたくなりますね」
「なぜですか」
「苦労したからです」
誰も反論できなかった。
人は苦労して作ったものを、実際以上に価値があると思いたくなる。
自分たちが夜まで議論した。
怒られた。
傷ついた。
何度も書き直した。
だから、よい制度に違いない。
そう思いたくなる。
だが、使うのは別の人たちだ。
穴も見つかる。
悪用もされる。
また直さなければならない。
「公開草案にした意味は、そこにもあります」
クラリスは言った。
「私たちが苦労したことを、価値の証明にしないためです」
ミレーヌは、修正履歴の一番上へ新しい文を加えた。
本草案は完成ではない。施行後も、現場からの照会および異議により改定する。
ハーゲンが読む。
「“異議”だけでは、少し強いですね」
「では、“異議および困りごと”」
「規程に、困りごとと書くのですか」
グレゴールが眉を寄せる。
ミレーヌは負けずに言う。
「困っていても、異議とまでは言えない人がいます」
クラリスが頷いた。
「入れましょう。正式文では“運用上の支障”とし、案内文では“困りごと”とします」
グレゴールが諦めたように筆を動かした。
「規程文と案内文が、どんどん別物になりますね」
「同じ意味ならよいのです」
ハーゲンが言う。
「同じ意味だと確認する人も必要です」
「また仕事が増えました」
オスカーが呟いた。
「文句は大事です」
ミレーヌが返す。
少し遅れて、部屋に笑いが起きた。
疲れているからこその、妙な笑いだった。
◇
公開草案から七日後、国王は問無禁止令を正式な審議案へ移すと決定した。
同時に、ケイン、セラフィン、ダリオらへの最終裁定日も告示された。
三日後。
国王、王弟、王宮法務院長、財務院監察官、慈善院代表が立ち会う。
最終弁明の機会は、全員に与えられる。
その知らせを受けた夜、ケインは王宮内の監督居室で、一人の来訪者を待っていた。
来たのは、長年仕えた従者だった。
聴聞後も解任されず、身の回りの最低限を許されている老人である。
従者は温かい茶を置き、何も言わず下がろうとした。
「座れ」
ケインが言った。
従者は戸惑った。
「私は使用人です」
「今さらだ」
「では、失礼いたします」
向かいへ座る。
長い間、二人とも茶を飲まなかった。
先に口を開いたのは従者だった。
「最終弁明では、何をお話しになりますか」
「功績を話す」
「それだけですか」
「それだけではない」
ケインは窓の外を見る。
「問無禁止令は、王宮の権威を傷つける」
従者の顔が僅かに曇った。
「まだ、そのように」
「まだ、とは何だ」
「申し訳ありません」
「言え」
従者は膝の上で手を握った。
「私には、もう王宮の権威が傷ついているように見えます」
ケインの目が向く。
「誰のおかげで、これまで王宮が保たれたと思う」
「ケイン様のお働きは存じております」
「ならば」
「ですが、功績があれば、後の誤りは誤りでなくなるのでしょうか」
ケインの顔が硬くなった。
従者は怯えた。
それでも、続けた。
「私は、長くお仕えしました。ケイン様が夜を徹して交易帳簿を読み、飢饉の時には私財を出されたことも知っております。辺境から届いた嘆願書を、誰より先に読まれた時期も」
「何が言いたい」
「変わられました」
その一言を言った後、従者は目を伏せた。
ケインは長く黙った。
「いつからだ」
従者は驚いて顔を上げる。
「何がですか」
「余が変わったのは、いつからだ」
先日の国王の問いと似ていた。
いつから、守る王国の中に病床の者が入らなくなった。
従者は、簡単には答えなかった。
長く仕えた者にしか言えないことがある。
長く仕えたからこそ、言えば裏切りになることもある。
「王妃陛下が亡くなられてから、と申し上げれば、きれいに聞こえるでしょう」
「違うのか」
「少しずつです」
従者は言った。
「最初は、返すおつもりでした。慈善費を外客礼へ借りても、翌年には戻すと。二度目も、次には戻すと。戻せなくなった時、帳簿の言葉を変えられた」
「王国に必要だった」
「はい。必要なこともあったのでしょう」
「ならば」
「でも、必要だったことと、問いを止めたことは別です」
ケインは、茶器へ手を伸ばした。
既に冷めている。
「お前まで、王弟府と同じことを言うのか」
「私は、ケイン様の側におります」
「側にいる者が、その言葉を言うのか」
「側にいるからです」
従者の声は震えていた。
「ずっと、何も言いませんでした。ケイン様が不機嫌になると怖かった。役目を失うのも嫌でした。家族もおります。だから、私も同じです。命じられなくても、望みを読んで動いた」
「お前は何もしていない」
「何もしませんでした」
従者は苦く笑った。
「それが、私のしたことです」
ケインは茶を飲んだ。
冷たい。
顔をしかめる。
「茶が冷えている」
「申し訳ありません」
「謝るな。今は、そういう話ではない」
「はい」
「だが、冷たいものは冷たい」
従者が、ほんの少しだけ笑った。
「ケイン様は、昔から熱い茶がお好きでした」
「今もだ」
「では、入れ直します」
立ち上がろうとした従者を、ケインは止めなかった。
新しい茶が来るまで、一人で座っていた。
最終弁明で、王宮の権威を語る。
自分の功績を語る。
時代が変わったことを語る。
そのつもりは、まだ変わっていない。
だが、冷えた茶を飲んだ舌には、王妃の言葉が残っていた。
王宮の温かさは、宴席ではなく病床で測りなさい。
そして、長く仕えた従者の言葉。
何もしませんでした。
それが、私のしたことです。
ケインは、自分が何をしたのかより、自分が何をしなかったのかを、初めて考えようとしていた。
だが、それで裁定が軽くなるわけではない。
問いはもう、王宮の外からも戻ってきている。
村の薬。
兵の冬靴。
寡婦の支給。
病床の布。
それらを、再び一枚の美しい言葉で覆うことはできなかった。




