第200話 止まるべき仕事もあります
セラフィン書記長公舎の床下文庫は、秘密の部屋と呼ぶには狭すぎた。
寝台脇に置かれた書棚を動かし、敷板を三枚外す。
その下に、成人一人がどうにか身体を入れられる程度の空間がある。
灯りもない。
窓もない。
土と古い紙の匂いがこもった穴の中に、黒い鉄箱が三つ並んでいた。
カレル調査官は、穴へ下りる前にセラフィンから預かった鍵を確認した。
長さの違う三本。
それぞれの柄に、一本、二本、三本の細い傷が刻まれている。
オスカーが書棚の前で記録する。
「第一箱、一本傷鍵。第二箱、二本傷鍵。第三箱、三本傷鍵。鍵はセラフィン書記長本人より提出」
カレルが一本傷の鍵を差し込む。
鍵は回った。
だが、蓋は開かなかった。
「もう一つ仕掛けがあるな」
公舎の隅に立たされていたセラフィンが答えた。
「箱の右側面を三度押してください」
「三度?」
「はい。一度目と二度目は間を空けず、三度目だけ少し待ってから」
カレルの目が細くなる。
「随分と手の込んだことをしたな」
「見つかりたくありませんでしたから」
「誰に」
セラフィンは、少し間を置いた。
「ケイン元参事補佐にも。私の部下にも。いずれは、私自身にも」
カレルは何も返さず、言われた通り側面を押した。
一度。
二度。
少し待つ。
三度目。
内部で金属の留め具が外れる音がした。
蓋を開くと、薄い紙束が幾つも紐で分けられていた。
外から見れば、ただの私的備忘録だ。
だが、束の表には日付と短い分類がある。
外客筋・南施療院
白館分・慈善枠
H照会
東丘
K老意向
最後の文字を見たカレルの表情が変わった。
「そのまま触れるな」
同行していた王弟府記録官へ命じる。
「箱ごと封印室へ運ぶ。中身の確認は複数立会いで行う」
若い記録官が頷く。
「はい」
セラフィンが静かに言った。
「第三箱から確認した方が早いでしょう」
カレルは振り返った。
「なぜだ」
「問無の作り方が入っています」
公舎の中が静まり返った。
オスカーの筆が一瞬止まる。
「作り方?」
「はい」
「問無は慣用句ではなかったのか」
カレルの問いに、セラフィンは目を伏せた。
「慣用句にしました」
「誰が」
「私がです」
その言葉を、オスカーが記録した。
セラフィンは続ける。
「最初から王宮にあった言葉ではありません。似た処理はありました。照会省略、再確認不要、既済扱い。部署ごとに別々の言葉が使われていた」
「それを、問無に統一した」
「はい」
「なぜ」
「短かったからです」
カレルの顔に、露骨な嫌悪が浮かんだ。
「それだけか」
「短い言葉は広がります。札の端に書ける。口頭でも伝えやすい。意味を説明しなくてよい。若手が覚えやすい」
「問いを止めるために便利だった」
「はい」
セラフィンは、もう言い訳をしなかった。
それがかえって不気味だった。
「第三箱には、最初に問無を使った案件、部署ごとの反応、戻ってきた照会の数、誰が拒んだか、誰が従ったかを記録しています」
「実験でもしていたつもりか」
「実務改善のつもりでした」
「人の名前を消しておいてか」
カレルの声が低くなる。
セラフィンは顔を上げなかった。
「その時には、改善とは思っていませんでした」
「では、何だと思っていた」
「戻れなくなっていました」
カレルは数秒、黙って彼を見た。
「その言葉で自分を被害者にするな」
「しません」
「した瞬間、聴取を止める」
「承知しています」
三つの鉄箱が運び出される。
セラフィンは、それを見送った。
長い間、自分を守るために隠した紙。
同時に、自分が何をしたかを忘れないために残した紙。
それが今、王弟府へ向かう。
彼はほっとしたようにも、すべてを失ったようにも見えた。
◇
封印箱の確認は、翌朝から始まった。
場所は王弟府の大記録室。
立会人はクラリス、カレル、グレゴール、オスカー、ミレーヌ。
商務評議会からは、セラフィン本人と、利害関係の薄い監査官が一名。
若手書記側からは、リディアとミケルが本人同意の上で同席した。
ハーゲンは隣室で待機している。
セラフィンと同室にいる負担を考え、最初から無理に参加させなかった。
ただし、資料の要約や本人に関する部分は、その都度確認される。
第一箱から出てきたのは、ケインの私的会合記録だった。
正式な議事録ではない。
日付、場所、同席者、ケインが使った言葉。
その下に、セラフィン自身が推測した「実務上の意味」が書かれている。
たとえば、ある日の記録。
K発言:白鴎館の信用が傷つかなければよいが。
その下。
実務意:白館分を優先。慈善枠から一時補填可。承認書は後回し。
別の日。
K発言:若い補助官は数字に正直すぎる。戻る照会を少なくできぬか。
その下。
実務意:H照会を正規経路から外す。本人への直接回答不要。
また別の日。
K発言:東で静かにしているなら、王都へ戻す理由はない。
その下。
実務意:帰還照会停止。静養費継続。本人名を外部へ出さず。
ミレーヌは、一枚読むごとに胸の奥が冷えていくのを感じた。
ケインは命じていない。
確かに、どこにも「やれ」とは書かれていない。
だが、その言葉の下にセラフィンが「実務上の意味」を書いている。
望み。
解釈。
実務。
その三段階で、命令書を使わずに人が動く。
クラリスがセラフィンへ問う。
「この“実務意”は、あなた自身が考えたものですね」
「はい」
「ケイン元参事補佐へ確認しましたか」
「直接には、ほとんどしていません」
「なぜ」
「確認すれば、ケイン様は答えないからです」
「答えない?」
「“私は何も命じていない。あなたが最善と思うことをすればよい”と仰る」
リディアが、小さく息を呑んだ。
聞き覚えがあるのだろう。
セラフィンは続けた。
「ですから、意図を読みました」
「誤って読む可能性は考えなかったのですか」
「ありました」
「それでも?」
「意図通りに処理した時、次の会合で評価されたからです」
「どのように」
「“よく整えた”“余計な騒ぎにならず助かった”“やはり君は分かっている”と」
クラリスは、紙の束を見つめた。
「それが、あなたにとって命令確認になった」
「はい」
「失敗した時は?」
「何も言われません」
「処分は?」
「周囲が先に責任者を外します」
ミケルの顔が強張った。
「周囲が」
「はい」
セラフィンはミケルを見なかった。
「ケイン様が不快そうにする。すると側近が、担当者の配置を変える。会議から外す。照会を通しにくくする。誰も、処分命令を見たことはない。しかし、次から皆、同じ失敗を避けます」
ミレーヌは記録しながら思った。
命令がないから、責任者がいない。
責任者がいないから、誰も止められない。
だが、従わなければ人は外される。
これは、命令より柔らかい。
そして、命令より深く染み込む。
カレルが問う。
「この記録を、何のために残した」
「私がケイン様の意図を誤読していないか確認するためです」
「自分を守るためでもあるな」
「はい」
「ケインに見せたことは?」
「ありません」
「なら、彼はこの紙の存在を知らない」
「知らないでしょう」
「都合がよいな。お前が勝手に書いたと主張できる」
「そう主張すると思います」
セラフィンの返事は淡々としていた。
クラリスが言う。
「この資料だけで、ケイン元参事補佐の直接命令を証明することはできません」
ミレーヌは少し驚いて彼女を見た。
これほどの紙が出ても、断定しない。
クラリスは続ける。
「ただし、ケイン元参事補佐の発言が、セラフィン書記長によってどのように実務化されたかは示せます。そして、その処理が繰り返し評価され、修正されなかったことも」
グレゴールが頷く。
「継続的な認容ですね」
「はい。明示命令ではなくとも、結果を知り、利益を受け、止めなかった可能性を調べます」
セラフィンが小さく言った。
「止めなかったのではありません」
クラリスが見る。
「何ですか」
「止める気がなかった」
記録室が静まった。
「ケイン様は、細部を知りたがりませんでした。だが、結果は知っていました。白鴎館が外客布を確保した。南施療院の照会が止まった。ハーゲンの名が表から消えた。東丘から戻ってこない。その結果を、喜んではいない。ですが、不快にも思っていなかった」
「あなたは、そう判断した」
「はい」
「そして続けた」
「はい」
クラリスは一度目を伏せ、次の箱を開けるよう指示した。
第二箱には、実務へ下ろした紙の控えが入っていた。
問無札。
照会停止票。
H取消の下書き。
白館分の再札指示。
東丘への黒封筒案。
どの紙にも、直接の責任者名はない。
代わりに略号がある。
K意。
S整。
D持。
問無。
確済。
短い。
書いた者以外には意味が分かりにくい。
分かっても、誰が決めたかまでは辿れない。
リディアが、ある札の写しを見て顔を青くした。
「これ……私が書きました」
ミレーヌが隣へ座る。
「どれですか」
「白館分の問無札です。字が、私の字です」
「覚えていますか」
リディアは長く紙を見た。
「書いた日は覚えています。ダリオ係長に、今日中に六枚必要だと言われました。でも、何に使うかまでは」
セラフィンが言った。
「若手には、全体を知らせませんでした」
リディアが顔を上げる。
「なぜですか」
声が震えている。
セラフィンは初めて、若手書記を正面から見た。
「知らせれば、拒む者が出るからです」
「では、私たちが何も知らずに書くことを、分かっていて」
「はい」
「怖いと思わなかったのですか」
セラフィンは、すぐに答えなかった。
「最初は、若手を守るつもりでもありました」
「守る?」
リディアの声が強くなる。
「何も知らなければ、責任を問われにくい。上の判断に従っただけだと言える。そう思っていました」
「私は、そんなふうに守ってほしいと言っていません」
「知っています」
「いいえ、知っていません」
リディアは立ち上がりかけた。
椅子が鳴る。
カレルが動こうとしたが、クラリスが小さく手で止めた。
リディアは座ったまま、セラフィンを睨んでいる。
「知らないまま書いたから、私は二年も自分が何をしたのか分からなかった。分からないから、ずっと怖かった。どこまで人を傷つけたのか、今も全部は分からない」
「その通りです」
「また、それだけですか」
セラフィンは唇を結んだ。
リディアは涙をこらえながら言った。
「あなたは、認めれば終わると思っていませんか」
セラフィンの眉がわずかに動く。
「“はい”“その通りです”“私がやりました”。そう言えば、正直に罪を認めた人になれる。でも、私たちはあなたの返事を聞きたいだけじゃない」
「では、何を聞きたいのですか」
「なぜ、私たちなら使っていいと思ったのですか」
記録室の誰も動かなかった。
リディアの問いは、事件の仕組みより、もっと個人的だった。
「なぜ、若い書記なら、意味を知らせずに札を書かせていいと思ったのですか。なぜ、断れないと分かっている人に渡したのですか。なぜ、あなた自身の字で書かなかったのですか」
セラフィンは、長く黙った。
ミレーヌは、その沈黙を記録した。
やがて彼は言った。
「私の字なら、私へ戻るからです」
リディアの顔が歪んだ。
「私たちの字なら、私たちに戻るのに」
「はい」
「それで、守ったつもりだったのですか」
「途中からは、違います」
「いつから違ったのですか」
「ハーゲン補助官の照会を止めた時です」
セラフィンは、机の上のH取消下書きを見た。
「彼が諦めないと分かった。問無を返しても、別経路から問い直す。現物を見に行く。書面が止まれば口頭で聞く。口頭が止まれば現場へ行く」
ミケルが小さく頷いた。
「ハーゲンさんは、そういう人です」
「知っています」
セラフィンの声に、かすかな疲れが混じった。
「だから、問いではなく人を止めるしかないと思った」
ミレーヌの手が止まりそうになる。
しかし、書いた。
問いではなく、人を止めるしかないと思った。
クラリスの目が冷える。
「それがH取消ですか」
「はい」
「ハルという名ですか」
「はい」
「東丘への黒封筒ですか」
「はい」
「その判断をした時、あなたは実務を守っていたつもりでしたか」
セラフィンは、少し考えた。
「いいえ」
「では、何を守っていたのですか」
「それまでの自分の処理です」
静かな答えだった。
「ハーゲン補助官が戻れば、問無で止めたものが全て戻る。若手に書かせた札も、白鴎館への布も、財務院の取消も。最初の一枚を誤りだったと認めれば、次の百枚も誤りになる」
「だから、百一枚目を書いた」
「はい」
「百二枚目も」
「はい」
「人の名前を消してでも」
「はい」
リディアは顔を伏せた。
怒りきれないほど、答えが醜かった。
ミケルが、今度は口を開いた。
「俺たちに、断る権利はなかったのですか」
セラフィンは彼を見る。
「規程上は、ありました」
「規程上?」
「不明な札は上役へ照会できる。違法の疑いがあれば記載を拒否できる」
ミケルは笑った。
乾いた笑いだった。
「そんな規程、教わっていません」
「教えませんでした」
「なぜ」
「使われれば、実務が止まるからです」
ミケルは机を見つめた。
そして、低く言った。
「止まるべきだった」
誰に聞かせるでもない声だった。
けれど、記録室全体に届いた。
「止まるべきだったんです。あの札は」
セラフィンは答えなかった。
◇
第三箱には、一冊の薄い冊子が入っていた。
表紙には何も書かれていない。
中を開くと、問無運用を広げるための覚書だった。
対象部署。
適用案件。
札の位置。
使用する筆記色。
若手へ伝える説明。
照会が戻った場合の返答。
そこには、信じがたいほど細かい指示が並んでいた。
若手へは「上で確認済み」とのみ伝える。
責任者名を問われた場合、「評議会調整」と答える。
問無札を拒んだ者は、急ぎ案件から外す。
二度拒否した者は、外客記録補助へ配置転換。
照会が戻った場合、「既済」「再確認不要」「本人保護」を案件に応じて使い分ける。
人に関する照会は、健康・静養・混乱を理由とする。
ミレーヌは読み進めるうちに、気分が悪くなった。
ただの思いつきではない。
仕組みだった。
若手が拒めないようにする仕組み。
責任者へ辿れないようにする仕組み。
人の言葉を、健康や混乱の名で消す仕組み。
「これは……」
オスカーも言葉を失っている。
クラリスがセラフィンを見た。
「あなたが作ったのですね」
「はい」
「ケイン元参事補佐は、この冊子を知っていますか」
「冊子そのものは知りません」
「内容は?」
「結果としては、知っていた部分があります」
「どの部分ですか」
「照会を戻さない。責任者名を表に出さない。若手を急ぎ案件から外す。人に関する照会を静養扱いで止める」
「それをケインへ報告した?」
「すべてではありません。しかし、“余計な問いが戻らない仕組みに整えた”とは伝えました」
「ケインは何と」
セラフィンは、一枚の記録を差し出した。
そこには短く書かれている。
K発言:それでよい。実務は、善意より静かであるべきだ。
クラリスの目が細くなった。
「本人筆ですか」
「いいえ。私の会合控えです」
「他の同席者は?」
「ローヴァン補佐官。外客礼担当のヴァイス参事補佐。当時の財務連絡官」
カレルがすぐに名を書き留める。
「全員聴取する」
セラフィンは頷いた。
ミレーヌは冊子を見つめたまま言った。
「この仕組みが分かれば……」
言葉を続けられなかった。
怒りで喉が詰まる。
クラリスが静かに引き取った。
「止める場所を作れます」
その言葉を聞いた時、隣室の扉が軽く叩かれた。
ハーゲンからの合図だった。
資料要約の受け取りを希望する合図。
クラリスは、本人に見せる範囲を確認し、冊子の写しのうち、若手拒否権に関する箇所と、人の照会停止に関する箇所を選んだ。
ミレーヌが隣室へ運ぶ。
ハーゲンは窓際の机で待っていた。
紙を受け取る前に尋ねる。
「セラフィン書記長は、認めましたか」
「はい」
「どこまで」
「問無を統一したこと。若手へ意味を知らせず書かせたこと。拒否権を教えなかったこと。ハーゲン様の問いを止められず、人を止める判断をしたこと」
ハーゲンは目を閉じた。
痛みを受ける準備をするように。
「人を止める」
「はい」
「私を」
「はい」
短い答えを重ねる。
曖昧にしない。
ハーゲンは写しを受け取った。
問無運用覚書。
若手へは上で確認済みとのみ伝える。
拒否した者を急ぎ案件から外す。
人に関する照会は、健康、静養、混乱を理由とする。
一行ずつ読む。
途中で手が震え始めた。
ミレーヌは休止札を指す。
「止めますか」
「もう少し」
「はい」
ハーゲンは、最後まで読んだ。
紙を机に置き、長く息を吐く。
「私が、特別に嫌われたからではなかったのですね」
ミレーヌは、その言葉に驚いた。
「嫌われた?」
「そう思うことがありました。私が面倒だから。数字にこだわるから。人の顔色が分からないから。だから、私だけが止められたのではないかと」
「違います」
「はい。違いました」
ハーゲンは覚書を指した。
「誰でも止められる仕組みだった。拒む人。問い直す人。分からないと言う人。そういう人を外す仕組みだった」
「はい」
「なら」
ハーゲンは白紙を引き寄せた。
少し考え、書く。
仕組みが分かれば、止められます。
ミレーヌは、その文字を見つめた。
「そう思いますか」
「思いたいです」
「思いたい」
「まだ、止められると断言するのは怖いです。王宮は、人より長く仕組みを覚えますから」
「では、どうしますか」
「別の仕組みを作ります」
ハーゲンは、覚書の「若手へ拒否権を教えない」という箇所を指した。
「まず、拒否権を教えます」
「はい」
「問無のような略語を禁止する」
「はい」
「照会を止めるなら、誰が、なぜ、いつまで止めるかを書く」
「再開条件も必要ですね」
ミレーヌが言う。
「はい。止めっぱなしにしないために」
「本人に関する照会は?」
ハーゲンの表情が硬くなる。
「本人へ知らせず、健康や静養だけで止めてはいけない。医官の確認と、本人の意思確認を分けるべきです」
「本人が話せない状態なら」
「後で確認する期限を書く。本人の代わりに誰が判断したかも」
ミレーヌは、急いで別紙へ書き始めた。
「ハーゲン様」
「はい」
「これ、改革案になります」
ハーゲンは少し困ったような顔をした。
「私は今、思いついたことを言っているだけです」
「思いつきも、書けば草案になります」
「危険な言葉ですね」
「問無とは逆の意味で使います」
ハーゲンは、ほんの少し笑った。
「では、書いてください」
◇
その日の夕方、王弟府顧問室には、最初の改革草案が並んでいた。
正式名称はまだない。
紙の上には、仮にこう書かれている。
照会停止および非公式略語使用に関する臨時規程案
レオンハルトは題を見て、眉を寄せた。
「長い」
グレゴールが言う。
「正式規程ですので」
「読まれない」
「では、通称を付けますか」
ミレーヌが小さく手を挙げた。
「問無禁止令、では」
部屋の全員が彼女を見る。
ミレーヌは少し不安になる。
「分かりやすすぎますか」
レオンハルトは首を横に振った。
「それでいい」
クラリスが付け加える。
「正式名称は長いままにします。王宮内への掲示では、“問無禁止令”を併記しましょう」
オスカーが題を書き直した。
照会停止および非公式略語使用に関する臨時規程案
通称・問無禁止令
条文案は、六項目から始まった。
一、問無および同様の非公式略語により、照会を停止してはならない。
二、照会停止には、責任者の氏名、所属、停止理由、停止期間、再開条件を明記する。
三、停止期間満了時には、自動的に照会を再開する。継続停止には再承認を要する。
四、書記および補助官は、責任者不明、理由不明、本人意思未確認の札について、記載および処理を拒否できる。
五、拒否を理由とした配置転換、評価低下、急ぎ案件からの除外を禁ずる。
六、本人に関する異動、静養、保護、名簿変更には、本人意思確認記録を必要とする。確認不能の場合は、代行判断者と再確認期限を明記する。
リディアとミケルも、草案確認のため呼ばれた。
リディアは第四項を何度も読んだ。
「本当に、拒否してよいのですか」
クラリスが答える。
「規程が成立すれば」
「上役に書けと言われても?」
「理由と責任者名がなければ、拒否できます」
「でも、後で嫌われます」
あまりに率直な言葉だった。
部屋が少し静かになる。
ミケルも頷いた。
「規程があっても、上役は覚えています。誰が面倒だったか」
ハーゲンは窓際の椅子から言った。
「だから、第五項があります」
リディアは読み上げる。
「拒否を理由とした配置転換、評価低下、急ぎ案件からの除外を禁ずる」
「はい」
「でも、別の理由にされたら?」
ミレーヌの筆が止まる。
確かにそうだ。
仕事が遅い。
協調性がない。
態度が悪い。
拒否したことを直接理由にしなくても、人を外す理由はいくらでも作れる。
クラリスは、すぐに答えなかった。
考える。
「拒否記録を、本人の上役だけでなく、独立した相談窓口へ同時提出する必要があります」
グレゴールが頷く。
「拒否後、一定期間内の配置転換や評価変更は、自動監査対象にする」
「誰が監査しますか」
リディアが尋ねる。
レオンハルトが答えた。
「当面は王弟府だ」
「王弟府が、ずっと?」
「ずっとではない。恒久的な監査室を作る」
ハーゲンが、小さく顔を上げた。
「監査室」
クラリスは彼を見た。
「何か」
「監査室を作るなら、現物確認を入れてください」
「現物確認」
「紙だけでは、同じことが起きます」
ハーゲンの声は静かだ。
「布が届いたと書かれていても、病床にはなかった。薬草を買ったと書かれていても、孤児院にあるとは限らない。冬靴を納入したと書かれていても、兵が履いているとは限らない」
「実受領確認ですね」
「はい。倉庫へ入っただけではなく、使う場所まで」
ミレーヌが思い出す。
南施療院で、病棟配布まで確認した。
倉庫受領で終わらせなかった。
「慈善物資については、現場受領者の署名と、抜き打ち確認を必要にする」
クラリスが草案へ追加する。
七、慈善物資および用途固定物資は、最終使用場所での実受領確認を要する。倉庫受領のみを完了扱いとしてはならない。
リディアは条文を見つめた。
「こんなに増やして、実務は回るでしょうか」
その問いに、部屋の空気が少し変わった。
誰もが考えていたことだ。
確認を増やす。
署名を増やす。
監査を増やす。
問無のような短い札を禁止すれば、仕事は遅くなる。
ハーゲンは、すぐには答えなかった。
やがて言った。
「遅くなります」
ミレーヌが彼を見る。
「やはり?」
「はい。今まで問わずに流していたものを問うのですから、遅くなります」
「では、反発されます」
「されます」
ハーゲンは、少し疲れた顔で笑った。
「財務院は、すごく嫌がると思います」
「ハーゲン様の元の職場ですよね」
「だから分かります」
ミケルが苦笑した。
「商務評議会も嫌がります」
「それも分かります」
リディアは草案を見ながら言った。
「でも、遅くなっても必要です」
ハーゲンは頷いた。
「はい。ただし、何でも同じ重さで確認すると、本当に必要な仕事まで止まります」
「では、優先順位を?」
クラリスが尋ねる。
「人命、本人の身分、用途固定物資。この三つは、早さより確認を優先する。一般事務は簡略手順を作る」
「全てを重くしない」
「はい。問無をなくすことと、全ての紙を重くすることは同じではありません」
レオンハルトは、ハーゲンを見て言った。
「草案作成に加われ」
ハーゲンの表情が固まった。
「私が、ですか」
「ああ」
「財務院補助官として?」
「今は王弟府保護下の協力者としてだ」
「しかし、私は」
「嫌なら断れ」
あまりにも短い言い方だった。
ハーゲンは少し黙った。
「考える時間をください」
「よい」
それで話は終わった。
無理に名誉な役目として押しつけない。
断ってもよい。
そのことが、ハーゲンにはかえって重かった。
◇
草案が各部署へ内示されると、予想通り反発は早かった。
最初に来たのは財務院だった。
翌朝、バルナス主任を含む三名の財務官が、王弟府顧問室を訪れた。
先頭に立つのは、財務院次席監督官アーヴェル。
五十代の細身の男で、帳簿の誤差を一桁でも見逃さないことで知られている。
彼は着席すると、挨拶もそこそこに草案を机へ置いた。
「この規程では、財務実務が止まります」
クラリスは穏やかに答えた。
「どの条項ですか」
「ほぼ全てです」
「それでは修正できません。具体的にお願いします」
アーヴェルは不満そうに眉を寄せた。
「照会停止ごとに責任者名、理由、期間、再開条件。そんなものを毎回書いていたら、通常の支払処理が倍になります」
「通常支払処理にも、問無を使っているのですか」
「類似の略語はあります」
「責任者名を残さない略語ですか」
「責任者は部署として明らかです」
「個人は?」
「部署判断です」
「誰も責任を負わないという意味ですか」
「そうは申しておりません」
アーヴェルの声が少し強くなる。
「王宮の業務は、個人の署名だけで動いているのではない。部署全体の継続性があります。一件ごとに個人名を出せば、担当者が責任を恐れて判断しなくなる」
クラリスは問う。
「現在は、責任を恐れず判断できているのですか」
「少なくとも、滞りなく処理しています」
「南施療院の布も?」
アーヴェルの口が止まった。
「一件の不正を理由に、全実務へ重い確認を課すのは」
「一件ではありません」
クラリスは、孤児院、辺境冬靴、未亡人基金の資料を机に置いた。
「現在確認されているだけで、同様の処理が複数あります」
「まだ調査中でしょう」
「はい。だからこそ、臨時規程です」
アーヴェルはバルナスを一度見た。
バルナスは俯いている。
以前なら、彼も「実務が止まる」と強く主張したかもしれない。
だが、H取消を通した机の記憶がある。
アーヴェルが続ける。
「若手書記へ拒否権を与える条項も危険です。命令系統が崩れます」
同席していたミレーヌが、思わず顔を上げた。
「理由不明の札を拒否する権利です」
「若手に、何が適法で何が不適切か判断できるのですか」
「分からないから、確認するのでは?」
「その確認が戻る度に、仕事が止まると言っているのです」
「分からないまま進める方がよいのですか」
「現実の実務では、全てを理解してから動くことなどできません」
アーヴェルの言葉にも、理屈はあった。
若手が全体を知らないのは、必ずしも隠蔽だけが理由ではない。
仕事を分け、限られた情報で動かさなければ、巨大な王宮機構は回らない。
問題は、どこまで知らなくてよいのか。
何を知らされなければ、拒否すべきなのか。
クラリスはすぐには反論せず、尋ねた。
「では、財務院として代案がありますか」
アーヴェルは少し意外そうな顔をした。
「代案?」
「実務を止めず、問無の再発を防ぐ案です」
「問無を禁止すること自体には反対しておりません」
「では、どう防ぎますか」
「各部署の責任者が、略号一覧を事前承認する。承認済み略号なら、個別の責任者名は不要。若手は不明な略号だけを照会する」
グレゴールがすぐにメモを取る。
クラリスは尋ねる。
「略号一覧の監査は」
「財務院内部で」
「内部だけですか」
「外部が財務実務を全て理解できるとは思えません」
その時、部屋の隅で資料を読んでいたハーゲンが顔を上げた。
今日は正式な会議出席者ではない。
草案協力者として、発言するかどうかは本人に任されている。
彼は少し迷った後、机に置かれた発言札を手に取った。
発言希望
ミレーヌが気づき、クラリスへ伝える。
クラリスは頷いた。
「ハーゲン補助官。発言をどうぞ」
アーヴェルの顔が強張った。
かつて財務院にいた補助官。
名簿から取り消された男。
その本人が、財務院の次席監督官へ意見を言う。
ハーゲンは、ゆっくり口を開いた。
「アーヴェル次席監督官」
「はい」
「財務院内部だけで略号一覧を管理する案は、早いと思います」
「そうでしょう」
「ですが、同じことが起きます」
アーヴェルの眉が寄る。
「何を根拠に」
「H取消は、財務院内部で通りました」
バルナスの肩が小さく動いた。
ハーゲンは続ける。
「問無そのものは商務評議会から来た。しかし、H取消を名簿へ書いたのは財務院です。訂正票の理由を確認せず、内部処理として通した」
「それはバルナス主任の」
「個人の失敗ですか」
アーヴェルは言葉を止めた。
ハーゲンの声は穏やかだった。
「それなら、次も別の個人が失敗します。内部だけで確認すれば、部署を守る判断が優先される。商務評議会も、白鴎館も、同じでした」
「では、全て外部へ見せろと?」
「全てではありません」
「どこを分けるのです」
「人の名前を消す処理。用途固定の金や物資を別用途へ動かす処理。現場受領なしに完了とする処理。この三つは、内部だけで決めてはいけないと思います」
アーヴェルは腕を組んだ。
「それでは遅くなる」
「はい」
「支払いが止まる」
「止まるものもあります」
「それが問題だと言っているのです」
ハーゲンは、少しだけ息を吸った。
以前なら、次席監督官の強い口調に、言葉を引っ込めたかもしれない。
だが今は、机の上に紙がある。
発言を許可されている。
休止札もある。
「止まるべき仕事もあります」
部屋が静かになった。
アーヴェルは、ハーゲンを見た。
「何ですと」
「人の名前を消す仕事は、止まるべきです」
ハーゲンは言った。
「病床へ行く布を、外客用へ変える仕事も。本人に知らせず静養扱いにする仕事も。理由が書けないなら、止まるべきです」
「実務は、後から理由を整えることもあります」
「それを二年続けました」
「全てが本件と同じではない」
「はい。同じではありません。だから、同じ確認を全てにしなくてよいと言いました」
ハーゲンは草案の七項を指した。
「人命、本人の身分、用途固定物資。この三つは、早さより確認を優先する。それ以外は、財務院の代案を使えます」
アーヴェルは少し黙った。
単なる反発ではない。
ハーゲンは財務実務を知っている。
全部を重くしろとは言っていない。
止めるべきところを分けろと言っている。
「あなたは、財務院へ戻るつもりですか」
アーヴェルが突然尋ねた。
部屋の空気が変わった。
クラリスが口を挟もうとしたが、ハーゲンが小さく首を振った。
自分で答える。
「まだ決めていません」
「戻るなら、こういう規程が現場をどれほど疲弊させるか分かるでしょう」
「戻らなくても、分かります」
「外から言うのは簡単です」
ハーゲンの顔が僅かに強張った。
その一言は痛かった。
財務院から消された。
今は王弟府の保護下。
元の机には座っていない。
外から口を出していると言われれば、否定しにくい。
ミレーヌは、思わずアーヴェルを睨みそうになった。
だが、ハーゲンは休止札に触れなかった。
「私は、外へ出たくて出たのではありません」
静かな声だった。
「財務院から外されたことを、私の選択のように言わないでください」
アーヴェルの顔から、少し色が引いた。
「そのつもりでは」
「では、言い直してください」
誰も動かなかった。
ハーゲンが、上位の財務官へ言い直しを求めた。
怒鳴らない。
責め立てない。
ただ、自分の意思ではなかったことを曖昧にさせない。
アーヴェルは、しばらく口を閉じていた。
やがて姿勢を正す。
「失言でした」
ハーゲンは待った。
それだけでは足りないという顔をしていた。
アーヴェルは、少し苦しそうに続ける。
「ハーゲン補助官が財務院の外にいることは、本人の意思によるものではありません。その状況をもって、外部からの無責任な意見と扱ったことを撤回します」
ハーゲンは頷いた。
「ありがとうございます」
ミレーヌは、そのやり取りを記録した。
アーヴェル次席監督官、ハーゲン補助官の現在の立場を本人選択によるもののように扱った発言を撤回。
アーヴェルは、草案をもう一度見た。
「三つに限定するなら、検討の余地はあります」
クラリスが問う。
「人命、本人身分、用途固定物資」
「はい。ただし、緊急時の仮処理は認めていただきたい」
「条件は?」
「責任者名を残す。期限は一日。翌日までに正式承認がなければ、自動的に元処理へ戻す」
グレゴールがすぐに書く。
オスカーが言う。
「仮処理中、現物移動は禁止すべきです。書類上だけ止めても、布が動けば戻せません」
「では、現物保全も」
アーヴェルが答える。
議論が始まった。
反対していた者が、代案を出す。
王弟府が修正する。
財務院が現場上の問題を指摘する。
一つずつ、規程が形になる。
それは速くはない。
問無札なら、一文字で終わったかもしれない。
だが、時間をかけて問い、責任者を決め、再開条件を書く。
止まる。
考える。
また進む。
その遅さこそ、今まで失われていたものだった。
◇
財務院との協議が終わった後、ハーゲンは疲れ切った顔で椅子にもたれていた。
エリオス医官が水を渡す。
「今日は、よく話しましたね」
「話しすぎました」
「では、次は休みます」
「草案が」
「あなたが休んでも、紙は逃げません」
ハーゲンは杯を受け取った。
「紙は逃げませんが、誰かが書き換えるかもしれません」
「原本はミレーヌ様が抱えています」
部屋の反対側で、ミレーヌは本当に草案を胸に抱えていた。
「抱えています」
ハーゲンは、少し笑った。
「では、安心です」
クラリスが近づく。
「ハーゲン補助官」
「はい」
「草案作成への正式参加について、まだ考える時間が必要ですか」
ハーゲンは窓の外を見た。
王宮の中庭。
職員たちが行き交っている。
財務院の建物も、遠くに見える。
戻りたいのか。
戻りたくないのか。
まだ分からない。
元の机へ座れば、自分を取り戻せる気もする。
同じ廊下を歩けば、また消される気もする。
「財務院へ戻ることとは、分けて考えてもよいですか」
「もちろんです」
「草案には、加わりたいです」
クラリスは頷いた。
「分かりました」
「ただし、毎日は無理です」
「医官と相談して日程を組みます」
「私の意見が採用されないこともありますか」
「あります」
「それを先に言うのですね」
「共同草案ですから」
ハーゲンは、少し安心した顔になった。
「なら、参加します」
ミレーヌが新しい参加者欄へ記す。
草案協力者――財務院補助官ハーゲン。本人同意済み。勤務復帰とは別判断。
ハーゲンはその文を確認した。
「最後の一文が大事です」
「はい」
「戻ることと、同じ場所に座ることは、まだ別です」
クラリスが、静かに彼を見た。
「覚えておきます」
夕刻までに、問無禁止令の第一次草案は十一項目になった。
非公式略語の禁止。
照会停止責任者の明記。
停止期限と再開条件。
若手書記の拒否権。
拒否後の不利益変更に対する自動監査。
本人意思確認。
慈善物資の実受領確認。
緊急仮処理の一日期限。
仮処理中の現物保全。
独立相談窓口。
人命、身分、用途固定物資への外部確認。
完全ではない。
穴もある。
実務負担も増える。
反対者は、これからさらに出るだろう。
それでも、一文字の問無よりは重かった。
責任者の名がある。
理由がある。
期限がある。
拒否する権利がある。
そして、止まるべき仕事は止めると書かれている。
ミレーヌは、草案の最後に作成経緯を記した。
本草案は、南施療院未着布、問無運用、H取消およびハーゲン補助官本人意思不確認の事実を受けて作成する。実務の速さのみを目的とせず、問いを戻せる仕組みを目的とする。
ハーゲンが、その一文を読んだ。
「問いを戻せる仕組み」
「はい」
「よいと思います」
ミレーヌは嬉しくなりかけたが、ハーゲンが続ける。
「ただ、“目的とする”が二回続いています」
「……直します」
「すみません」
「いえ。草案協力者ですから」
文句を言いながら、紙を直す。
その様子を見て、クラリスがほんの少し笑った。
問無の仕組みは、人に考えさせないために作られた。
新しい仕組みは、人が問い、直し、言い直すために作られている。
遅い。
面倒だ。
文句も出る。
けれど、その面倒の中にしか、人の名前を守る道はないのかもしれなかった。
その夜、問無禁止令の第一次草案は、国王と各院の長へ送られた。
翌朝には、反対意見が束になって戻ってくるだろう。
だが、もう一文字では止められない。
問いは、紙の上へ戻っていた。




