第173話 宿場の紙片は、東丘ではなく王都から来ていた
夜が明ける前から、宿場町は水の匂いに包まれていた。
昨夜、細く雨が降ったらしい。
軒先から落ちる雫が、まだ石畳の端を濡らしている。
王都の東にあるその宿場は、朝が早い。
荷馬車の車輪がきしみ、馬丁が馬の脚を確かめ、旅人たちが眠そうな顔で湯気の立つ粥をすすっている。
古文書保存調査団を装ったクラリスたちは、まだ宿を出ていなかった。
予定では、朝食後に出発し、丘陵地手前の小宿まで進む。
ただし、その前にやるべきことがあった。
昨夜、部屋の水差しの下に置かれていた白い紙片。
ハルは自分で残った。王都へ戻すな。
そして、夜の通りを走り抜けた黒い幌馬車。
白館札に似た札を揺らしながら、東へ向かったように見せた馬車。
あれが何を意味するのか。
出発前に、最低限の確認を済ませなければならない。
クラリスは、宿の二階の小部屋で二枚の紙を並べていた。
一枚目。
王弟府裏門に差し込まれていた紙。
東へ行くな。写字房は空だ。
二枚目。
宿場の水差しの下に置かれていた紙。
ハルは自分で残った。王都へ戻すな。
どちらも白い紙。
赤茶紙ではない。
けれど、折り方が似ている。
細く、小さく、隙間へ差し込みやすい折り方。
K筋連絡卓で見た紙の扱いに近かった。
ミレーヌは、慎重に覗き込んだ。
「字は似ていますか?」
「完全には分かりません」
クラリスは答えた。
「ただ、“東”の払いと、“戻”のしんにょうに癖があります。K筋連絡卓の白い書き付けと比較する価値があります」
カレル調査官は、宿の帳場から借りた宿帳を机に置いた。
「昨日、この宿へ来た商務関係者風の男について、主人から聞きました」
「名乗りは?」
「なし。ただ、王都訛りだったそうです」
「服装は?」
「旅商人に見える地味な外套。ただ、靴がよすぎたと」
ミレーヌが顔を上げる。
「靴?」
「宿の主人は、旅人の足元を見る癖があります。泥道を歩いてきた者の靴ではなく、王都の舗装路を歩く者の靴だったと」
クラリスは頷いた。
「つまり、宿場町に長くいた旅人ではなく、王都から来て用だけ済ませた可能性」
「はい」
カレルは続けた。
「その男は、“古文書調査団の方々は静かな部屋を好む”と言った。それから奥の二部屋を勧めた。主人は、こちらの予約に関係する者だと思い込んだようです」
「偽装名目を知っていた」
「その可能性が高い」
ミレーヌは、手帳に書きながら眉を寄せた。
「東丘の人ではなく、王都の人……」
「ええ」
クラリスは二枚目の紙を指で示した。
「内容は東丘の内部記録を知っているように見えます。でも、紙と運び方は王都側に近い」
「では、東丘から漏れたのではなく、王都側が東丘からの返書を読んだ?」
「全部ではないでしょう」
クラリスは静かに言った。
「もし全文を読んでいれば、“ハルは自分で残った”だけでは済まないはずです。彼が王都帰還も望んでいること、王弟府窓口との面談を望んでいることも知るはずです」
「都合のいい半分だけ」
ミレーヌが低く呟いた。
「はい」
クラリスは頷いた。
「誰かが、東丘の記録の一部だけを知っている。そして、それをこちらの判断を揺らすために使っている」
カレルが宿帳を開いた。
「もう一つ。昨夜の黒幌馬車を追わせた部下が戻りました」
クラリスとミレーヌが顔を上げる。
「深追いはさせていません。宿場を出た後、馬車は東街道へ入りましたが、一里ほど先で北の脇道へ逸れました」
「やはり、東丘へは向かっていない」
「ええ。後部の札は、白館札に似せた木札でした。形は似ていますが、刻印が違う。暗がりでは白館札に見えるでしょうが、近くで見れば偽物です」
ミレーヌは、小さく息を吐いた。
「囮……」
「そう見てよいでしょう」
カレルは淡々と言った。
「こちらに追わせて、本隊を遅らせるためのものかと」
クラリスは紙片を閉じた。
「相手は、私たちを止めたい。迷わせたい。分けたい。つまり、東丘へ到着されると困る」
「ハーゲン様が、まだそこにいる可能性が高いということですね」
ミレーヌが言った。
クラリスは、少しだけ目を細めた。
「そう考える材料にはなります」
断定はしない。
でも、希望を消す必要もない。
少なくとも、敵は「空だ」と言いながら、「戻すな」とも言っている。
空なら、戻すなとは言わない。
矛盾は、焦りの匂いを持っていた。
朝食の席で、宿の主人は何度も頭を下げた。
「まさか、そのような紙が置かれていたとは……」
「あなたを責めてはいません」
クラリスは言った。
「ただ、昨日の男がまた来る可能性があります。もし来たら、王都の古文書組合へ連絡を送ったという名目で、この札を宿場役所へ渡してください」
そう言って、カレルが用意した別名義の連絡札を渡す。
もちろん、本当の連絡先は王弟府の別働だ。
主人は札を受け取り、真剣な顔で頷いた。
「承知しました」
ミレーヌは、そのやり取りを横で見ていた。
以前なら、こうした偽装と連絡の重なりは、ただ複雑に見えただろう。
今は違う。
人を守るための嘘と、人を消すための嘘がある。
同じように見えて、向いている先が違う。
そこを見分けなければならない。
宿を出たのは、朝の鐘が二つ鳴った後だった。
予定より少し遅れたが、旅程としては不自然ではない。
街道は、しばらく緩い上り坂が続いた。
王都周辺の石畳はすぐに途切れ、土の道になる。
雨上がりで轍には水が溜まり、馬車は時々ゆっくり進まなければならなかった。
焦ってはいけない。
古文書保存調査団の馬車が、泥を跳ね上げて爆走するわけにはいかない。
ミレーヌは窓の外を見ていた。
畑の向こうに、小さな村が見える。
煙突から薄い煙が上がり、子供が犬を追いかけて走っている。
その平和な景色の中を、自分たちは失踪者に会いに行く。
しかも、その人は生きているかもしれない。
そう思うと、胸の奥が熱くなったり冷たくなったりした。
「ミレーヌ様」
クラリスが声をかける。
「はい」
「昨夜の紙について、何か気づいたことはありますか」
突然聞かれ、ミレーヌは少し戸惑った。
「ええと……内容が、変だと思いました」
「どのあたりが?」
「一枚目は“写字房は空だ”と言っています。二枚目は“ハルは自分で残った”と言っています」
「はい」
「空なら、残っていないはずです。残ったなら、空ではないはずです」
クラリスは頷いた。
「ほかには?」
「二枚目は、ハーゲンさんではなく“ハル”と書いています」
「それが意味することは?」
「外部名簿の名前を使っている。内部名のハーゲンではなく。だから、東丘の内部記録全部ではなく、外部に出る記録か、途中で盗み見た情報を使っているのかもしれません」
クラリスは、ほんのわずかに笑った。
「よく見ています」
ミレーヌは少し頬を赤らめた。
「まだ、外れているかもしれません」
「外れても構いません。大切なのは、紙をそのまま信じないことです」
カレルが向かいの席で低く言った。
「その観点は使えます。東丘内部すべてが割れているとは限らない」
ミレーヌは、少しだけ背筋を伸ばした。
役に立った。
そう思うことが、今は嬉しいというより、責任として重かった。
昼過ぎ、一行は小さな茶屋で馬を休ませた。
周囲に怪しい動きはない。
昨夜の黒幌馬車を追った部下からの追加報告によると、北へ逸れた馬車は途中の農道で空になっていたという。
馬車には古い木箱が一つ。
中身は、石と乾いた藁。
人も、書類も、布もない。
完全な囮だった。
「白館札に似せた偽札は?」
クラリスが尋ねる。
「馬車と共に残されていました。別働が保全しています」
カレルが答えた。
「作りは粗い。ただ、暗がりで遠目に見せるなら十分です」
「つまり、追わせることだけが目的」
「はい」
ミレーヌは、手帳に書いた。
偽札は通すためではなく、追わせるためにも使える。
その一文を見て、クラリスは頷いた。
「よい視点です」
夕刻、一行は予定通り丘陵地手前の小宿に入った。
前夜のことがあったため、部屋はその場で選んだ。
事前に指定されていた部屋は使わない。
食事も、水差しも、持ち込まれる前に確認する。
宿の主人は少し驚いていたが、古文書保存調査団は紙や薬品に神経質だという説明で通した。
その夜は、何も起きなかった。
何も起きないことが、逆に不気味だった。
ミレーヌは寝台に横になっても、なかなか眠れなかった。
東丘は、もう近い。
明日の昼前には修道院へ着く予定だ。
ハーゲンは本当にいるのか。
面談を望んでいるのか。
自分たちを見て、逃げるのか。
怒るのか。
泣くのか。
それとも、ただ紙と筆を見て、黙って書き始めるのか。
考えるほど、胸が苦しくなる。
隣の簡易寝台で、イリスが小さく言った。
「眠れませんか」
「……はい」
「目を閉じるだけでも違います」
「イリスさんは、怖くないのですか」
「怖いですよ」
即答だった。
ミレーヌは驚いて横を向く。
イリスは天井を見たまま、穏やかに続けた。
「怖くない人間だけが動けるわけではございません。怖くても、支度をして、朝に起きる。それだけで進める日もございます」
ミレーヌは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「はい」
その夜、彼女は浅く眠った。
何度も目が覚めた。
だが、朝は来た。
翌朝、空は薄曇りだった。
雨は降っていない。
丘陵地へ入る道は、王都周辺とはまるで違った。
畑は少なくなり、石垣と低い木々が増える。
道は蛇行し、馬車は速度を落とす。
東丘修道院へ向かうには、丘陵地の入口で迎えの者と合流する予定だった。
合言葉も決めてある。
王弟府からの第二照会に対する返答で、東丘院長が指定した言葉だ。
「古い葡萄は、冬を越して甘くなる」
迎えが本物なら、こう返す。
「けれど、腐った樽には入れません」
修道院らしくない合言葉だと、ミレーヌは最初思った。
だが、今なら分かる。
東丘修道院は、ただ穏やかな祈りの場所ではない。
腐った樽に、良い葡萄を入れない場所なのだ。
丘陵地の入口に、修道士らしき男が立っていた。
黒い簡素な修道服。
首から小さな木の十字架。
頭巾を深くかぶり、手には杖を持っている。
彼は馬車を見ると、ゆっくり近づいてきた。
「古文書保存の方々ですね」
声は落ち着いている。
だが、クラリスは馬車の中でカレルと目を合わせた。
修道士は、こちらが名乗る前にそう言った。
知っていて当然とも言える。
だが、油断はできない。
クラリスは窓越しに、静かに言った。
「東丘の葡萄畑は、今年もよい実をつけましたか」
男は一瞬、間を置いた。
ほんのわずか。
普通なら気づかないほどの間だった。
だが、カレルの目が鋭くなる。
クラリスは続けた。
「古い葡萄は、冬を越して甘くなると聞きました」
合言葉。
男は微笑んだ。
「はい。神の恵みでございます」
ミレーヌの背筋が冷えた。
違う。
返答が違う。
正しい返しは、「けれど、腐った樽には入れません」。
男は知らない。
クラリスの声は変わらなかった。
「そうですか。では、修道院まで案内をお願いします」
ミレーヌは思わずクラリスを見た。
なぜ、偽物だと分かっているのに。
カレルも動かない。
男は馬車の前へ回ろうとした。
その瞬間、カレルが扉を開けた。
「少し待て」
男が振り向く。
カレルは馬車から降り、穏やかな声で言った。
「修道院へ入る前に、院長への荷を確認したい。あなたの受領札は?」
「受領札?」
男の目が揺れた。
カレルは一歩近づく。
「東丘の迎えなら、院長印の小札を持っているはずだ」
「それは……」
男は後退した。
次の瞬間、身を翻して走った。
護衛が追う。
男は丘陵地の脇道へ駆け込んだ。
石の多い細道。
馬では入りにくい。
カレルもすぐに追ったが、深追いはしなかった。
数分後、戻ってくる。
「逃げられました」
「怪我は?」
「ありません。向こうは道を知っていた」
ミレーヌは息を吐いた。
胸の鼓動がうるさい。
「偽物……ですよね」
「はい」
クラリスは答えた。
「合言葉を知らなかった」
「でも、どうしてすぐ捕まえなかったのですか?」
「周囲に仲間がいる可能性があったからです」
カレルが答えた。
「馬車から全員を下ろさせ、混乱させる罠かもしれなかった。まず動きを見た」
クラリスは、男が立っていた場所へ向かった。
そこには、足跡が残っている。
そして、低い石の裏に、小さな革袋が置かれていた。
護衛が慎重に開く。
中には、古い配置図が入っていた。
東丘修道院の地図。
だが、写字房別棟の位置が古い。
現在の別棟は、東側ではなく北側に移っていると、院長の返書にあった。
クラリスは地図を見て、静かに言った。
「古い情報です」
「敵は、東丘の最新構造までは知らない」
カレルが続ける。
「はい」
クラリスは頷いた。
「東丘は、まだ完全には割れていません」
ミレーヌは、その言葉に少しだけ救われた気がした。
偽の迎えが出た。
だが、相手は合言葉を知らなかった。
最新の写字房の位置も知らない。
つまり、東丘修道院の中枢までは届いていない可能性がある。
その時、別の脇道から鈴の音がした。
小さな荷馬車が、ゆっくり近づいてくる。
御者台に座っているのは、年配の修道女だった。
灰色の修道服に、白い頭巾。
彼女は馬車を止めると、クラリスたちを見て言った。
「古い葡萄は、冬を越して甘くなります」
クラリスが答える。
「けれど、腐った樽には入れません」
修道女は、初めてほっとしたように息を吐いた。
「東丘修道院のシスター・ロザリーです。遅れて申し訳ありません。道に倒木があり、迂回しておりました」
彼女は周囲を見回し、すぐに顔を曇らせた。
「偽者が、来ましたか」
「はい」
カレルが答える。
シスター・ロザリーは唇を引き結んだ。
「急ぎましょう」
その声には、祈りの静けさではなく、切迫した現実があった。
「ハル様が、昨夜から眠っておられません」
ミレーヌの胸が締めつけられる。
シスターは続けた。
「王都の足音が近い、と」
クラリスは、馬車へ戻る前に丘の上を見た。
東丘修道院は、まだ見えない。
だが、そこにいる人が、王都の足音を聞いて眠れずにいる。
王都から来た自分たちは、救いにもなり得る。
恐怖にもなり得る。
その両方を抱えたまま、東丘へ入らなければならない。
クラリスは、ミレーヌに言った。
「ここから先は、もっと慎重に」
ミレーヌは、強く頷いた。
「はい」
馬車は再び動き出した。
今度こそ、本物の修道女の案内で。
丘陵地の道は細く、静かだった。
だが、その静けさの奥に、誰かが待っている。
ハルと呼ばれ、ハーゲンと名を残し、紙と筆を求め続けた若い補助官が。
そして、その彼をもう一度消したい者たちもまた、王都から手を伸ばしていた。




