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第174話 東丘修道院は、静かすぎる砦だった

 東丘修道院へ向かう道は、馬車が一台通るのがやっとだった。


 丘陵地の斜面に沿って、細い道が曲がりくねっている。


 片側には古い石垣。

 もう片側には、冬枯れの葡萄畑。

 ところどころに小さな祠があり、風に揺れる木札が乾いた音を立てていた。


 王都の石畳とは違う。


 西海港の潮の匂いとも違う。


 ここは、静かだった。


 だが、その静けさは、ただ穏やかなだけではなかった。


 見張られている。


 クラリスは、馬車の窓から外を見ながらそう感じた。


 道の脇に修道服の者が立っている。


 一見、畑仕事をしている修道士か修道女に見える。


 けれど、こちらの馬車が近づくと、作業の手を止めずに視線だけを動かす。


 石垣の上には、鳩小屋のような小さな見張り台がある。


 葡萄畑の柵には、風除けの布に見せかけた合図布が結ばれている。


 修道院は、王宮のような兵を置いていない。


 剣を光らせてもいない。


 それでも、外から来る者を見ている。


 静かすぎる砦。


 そう呼ぶのが、一番近かった。


 シスター・ロザリーは、前を行く小さな荷馬車の御者台から、時折振り返った。


 そのたび、馬車の速度は少し落ちる。


 急いでいる。


 だが、急ぎすぎない。


 それもまた、外から見て不自然にならないためだろう。


 ミレーヌは膝の上で筆箱を抱えていた。


 何度も開けそうになっては、閉じる。


 中には、ハーゲンのための紙と筆とは別に、自分の記録用の筆が入っている。


 赤茶の紙帯は外してある。


 黒い革紐も使っていない。


 束ねるための紐は、淡い生成りの麻紐だった。


「修道院って、もっと……」


 ミレーヌが小さく言った。


「もっと?」


 クラリスが尋ねる。


「静かで、祈っているだけの場所だと思っていました」


 カレルが向かいの席で短く笑った。


「祈りだけで人は守れません」


 ミレーヌは顔を上げた。


 カレルは窓の外を見ながら続ける。


「祈る場所だからこそ、守る仕組みが必要になる。王宮の兵とは違う形で」


 クラリスは頷いた。


「東丘は、ハーゲン補助官をただ隠したのではないのでしょう。少なくとも、外から来る手を警戒していた」


「だから、偽名を……」


「はい。外部名簿の“ハル”は、消すためではなく守るためだった可能性が高い」


 ミレーヌは少しだけ目を伏せた。


「でも、ハーゲンさんから見れば、また名前を変えられたことになりますよね」


「その通りです」


 クラリスは静かに答えた。


「だから、私たちは東丘を無条件に正しいとは見ません。守るための偽名だったとしても、本人がどう受け取ったかは別です」


 ミレーヌは、はっとしたように顔を上げた。


「守った側の都合と、守られた側の傷は同じではない」


「ええ」


 その言葉を聞いて、ミレーヌは手帳にそっと書き込んだ。


 守るための名でも、本人には奪われた名かもしれない。


 クラリスはそれを見て、何も言わなかった。


 ただ、小さく頷いた。


 やがて、葡萄畑の向こうに石造りの建物が見えた。


 東丘修道院。


 高い尖塔も、華やかな窓もない。


 低く広がる石壁と、古い赤瓦の屋根。


 敷地の中央に小さな礼拝堂があり、その奥に居住棟、さらに北側に別棟がある。


 あれが写字房だろうか。


 ミレーヌは思わず窓へ近づいた。


 その時、シスター・ロザリーが荷馬車を止めた。


 正門ではない。


 修道院の少し手前、石垣に囲まれた小さな脇門だった。


 門の内側には、二人の修道女が立っている。


 一人は年配。

 一人は若い。


 だが、二人とも手には祈祷書ではなく、木の杖を持っていた。


 飾りではない。


 足元の砂利には、踏み荒らされた跡がある。


 ここを通る者は、正門より少ない。


 つまり、東丘は王弟府の一行を表玄関から入れないつもりだ。


 目立たせないために。


 あるいは、ハーゲンに王都の馬車を見せないために。


 カレルが先に降りた。


 続いてクラリス。


 ミレーヌは一瞬だけ息を整え、イリスに手を添えられて馬車を降りた。


 シスター・ロザリーが年配の修道女へ近づき、低い声で報告する。


「偽の迎えが出ました。合言葉不一致。古い配置図を所持」


 年配の修道女は、目を閉じた。


「やはり、来ましたか」


 そして、クラリスたちへ向き直る。


「東丘修道院院長、マザー・アデラです」


 その声は静かだった。


 しかし、弱くはない。


 むしろ、王宮の大臣たちよりも、ずっと真っ直ぐに人を見る目をしていた。


 クラリスは深く礼をした。


「クラリス・フォン・エルディアです。王弟府顧問として参りました。ただし、表向きは古文書保存調査団です」


「承知しています」


 マザー・アデラは、そう言ってから一呼吸置いた。


「ですが、王弟府の印があるからといって、すぐに信じるわけにはまいりません」


 カレルの眉が少し動いた。


 だが、クラリスは表情を変えなかった。


「当然です」


 マザー・アデラの目が、ほんのわずかに細くなる。


「怒らないのですね」


「ハーゲン補助官は、王都の紙で名を奪われ、王都の札で運ばれ、王都の言葉で“保護”されました。王都から来た私たちを、あなた方が疑うのは当然です」


 ミレーヌは、その言葉を聞いて胸が詰まった。


 王弟府の顧問として来た。


 だが、それを盾に押し通してはいけない。


 ここは、ハーゲンを守ってきた場所だ。


 少なくとも、そうであろうとしてきた場所だ。


 マザー・アデラは、しばらくクラリスを見ていた。


「では、最初に確認します」


「はい」


「あなた方は、ハーゲン様を王都へ連れ戻すために来たのですか」


「いいえ」


 クラリスは即答した。


 ミレーヌは少し驚いた。


 いいえ、と言い切った。


「本人の意思を確認するために来ました。王都へ戻るか、東丘に残るか、別の保護場所へ移るか。その選択は、本人が決めるべきです」


 マザー・アデラはさらに問う。


「王弟府が必要だと判断しても?」


「本人保護上、緊急避難が必要な場合は別です。ですが、証言のためだけに本人を王都へ戻すことはしません」


「証言が必要ではないと?」


「必要です」


 クラリスはまっすぐ答えた。


「ですが、証言者を壊して得た証言は、また同じ罪を重ねます」


 マザー・アデラの表情が、ほんの少し変わった。


 硬さが消えたわけではない。


 けれど、聞く姿勢になった。


「紙と筆は?」


 突然、院長が尋ねた。


 クラリスは、ミレーヌへ視線を送った。


 ミレーヌは慌てず、一歩前へ出る。


 両手で小さな布包みを差し出した。


「こちらです。赤茶の紙は使っていません。黒い革紐も使っていません。白紙と、生成りの麻紐です。筆は二本。一つはハーゲン様の手元に置くもの。もう一つは、交換が必要な場合の予備です」


 マザー・アデラは、ミレーヌを見た。


「あなたは?」


「ミレーヌ・フォン・エルディアです。記録補助として同行しました」


「記録を取る方ですか」


「はい」


 ミレーヌは一度、唇を結んだ。


 そして、逃げずに言った。


「でも、今日は記録を取る前に、ハーゲン様が何を書きたいかを待ちます」


 マザー・アデラは少し黙った。


 それから、布包みを受け取った。


「先に、本人の部屋へ届けます」


「お願いします」


 クラリスが頭を下げる。


 院長は若い修道女へ布包みを渡した。


「シスター・ルチア。別棟へ。ハル様の机に置いてください。開封は本人の前で」


「はい」


 シスター・ルチアは急ぎ足ではなく、しかし迷いのない足取りで奥へ向かった。


 クラリスはその背中を見送った。


 面談の前に、紙と筆を本人の手元へ。


 それは、ハーゲンが求めた条件だった。


 まず条件を守る。


 救出はそこから始まる。


 院長は、クラリスたちを脇門の内側へ招き入れた。


 修道院の敷地に入った瞬間、ミレーヌは不思議な感覚を覚えた。


 外よりも静かだ。


 だが、空っぽではない。


 誰かが祈っている声。

 遠くで紙をめくる音。

 井戸から水を汲む音。

 鳥の羽ばたき。

 木靴が石床を叩く音。


 それらが、低く、深く、重なっている。


 東丘修道院は眠っていない。


 静かに起きている。


 院長は歩きながら言った。


「昨夜、ハル様は眠れませんでした」


 ミレーヌの手が、筆箱の上で止まった。


「王都の足音が近い、と?」


「ええ。シスター・ロザリーから聞きましたね」


「はい」


「王都という言葉そのものが、あの方にはまだ痛みを持ちます。ですが、王都へ戻る望みも捨ててはいない。その二つが、いつも同じ胸の中にあります」


 クラリスは静かに聞いていた。


 院長は続ける。


「あなた方が来ることは、本人に伝えてあります。王弟府の直轄窓口であることも。商務評議会を経由していないことも。赤茶紙を使わないことも」


「反応は?」


「最初に、三度確認されました」


「何をですか」


「K筋ではないか、と」


 ミレーヌの胸が痛んだ。


 ハーゲンはまだ、そこを恐れている。


 当然だ。


 何度も、K筋の紙で運ばれた。


 K筋の費用で閉じ込められた。


 K筋の名で王都へ戻されなかった。


 簡単に信じられるはずがない。


 院長は礼拝堂の横を通り過ぎ、低い石造りの建物へ向かった。


 そこが客間棟らしい。


 中に通されると、小さな応接室に椅子が用意されていた。


 窓は中庭に面している。


 扉は二つ。


 一つは廊下へ。


 もう一つは隣の小部屋へ。


 院長は言った。


「こちらで、まずお話をします。面談室は別に準備しています」


「面談室は、どのように?」


 クラリスが尋ねる。


「ハル様の希望に合わせました。扉は一つ。窓は開けられる。黒手袋の者は入れない。机の上には紙と筆を先に置く。面談者は、彼が入室してから近づかない。退路を塞がない」


 カレルが低く言った。


「よく整っています」


「何度も確認しましたから」


 院長の声には、少しだけ疲れが混じった。


「ハル様は、部屋の中で誰がどこに立つかを気にします。背後に立たれることを嫌います。扉の外に足音があると、話が止まります」


 ミレーヌは、小さく息を呑んだ。


 紙の中で追っていた恐怖が、具体的な仕草になって現れる。


 扉の外の足音。


 背後に立つ人。


 黒い手袋。


 赤茶の紙。


 白館札。


 それらは、ただの単語ではない。


 ハーゲンの身体に残っているものだ。


 院長は、テーブルの上に一冊の薄い帳面を置いた。


「これは、ハル様ご本人が面談前に出した希望です」


 クラリスは、手袋を外していない指で帳面を開いた。


 丁寧だが、ところどころ震えた字。


 そこには、短く条件が並んでいた。


 一、赤茶紙不可。

 二、黒手袋不可。

 三、白館札不可。

 四、K筋経由不可。

 五、先に紙と筆。

 六、私の言葉を混乱と記さないこと。

 七、途中で休む権利。

 八、王都帰還を即決しないこと。

 九、南施療院の布の件を先に忘れないこと。


 最後の一行に、ミレーヌは目を止めた。


 私だけを救って終わらせないこと。


 息が詰まった。


 ハーゲンは、自分が救われることだけを望んでいない。


 南施療院の布。


 C-3正温。


 代布で数合わせされた病床。


 そこへ戻らなければ、彼にとって終わりではない。


 クラリスも、その一行をしばらく見つめていた。


「この条件を守ります」


 クラリスは言った。


「紙に書いて、本人の前で確認します」


 院長は頷いた。


「では、こちらも一つ申し上げます」


「はい」


「ハル様は、あなた方を見て逃げる可能性があります」


 室内が静まった。


 プロットの中で聞いていた言葉。


 だが、実際に言われると重い。


「逃げる……」


 ミレーヌが小さく言う。


 院長は彼女へ視線を向けた。


「逃げたいからではありません。身体が先に動くのです。王都から来た者が、もう一度連れに来たと思えば」


 クラリスは頷いた。


「理解しています」


「追わないでください」


 院長の声が強くなった。


「もし面談室から出てしまっても、追わないでください。追えば、彼はまた捕まったと思います」


 カレルが一瞬だけ眉を動かした。


 調査官としては、保護対象を見失うリスクを考えるのが当然だ。


 だが、クラリスはすぐに答えた。


「追いません」


 カレルがクラリスを見た。


 クラリスは続ける。


「修道院側の方が、彼の動く場所を知っているはずです。もし出た場合は、東丘の方々に任せます」


 院長は、ゆっくり頷いた。


「その言葉を、本人へ伝えます」


 ミレーヌは、膝の上で手を握った。


 追わない。


 捕まえない。


 逃げても、待つ。


 救出とは、連れて帰ることだけではない。


 相手が逃げてもいいと思える場所を作ることなのかもしれない。


 それは、今まで読んできたどの王宮実務より難しい。


 しばらくして、シスター・ルチアが戻ってきた。


 布包みは持っていない。


 つまり、紙と筆はハーゲンの手元へ届いた。


 彼女は院長へ小さく頷く。


「机に置きました。ハル様は、ご自分で包みを開けられました。紙の色と紐を確認し、筆を一本持っています」


 クラリスは静かに息を吐いた。


 第一条件は守れた。


「反応は?」


 院長が尋ねる。


 シスター・ルチアは少し迷った。


「泣いてはおられません。ただ……長く、筆を握っておられます」


 ミレーヌは、目を伏せた。


 紙と筆を握る。


 それだけのことが、どれほど大きいのか。


 潮待館でも、北分所でも、内陸養静所でも、彼はそれを求め続けた。


 ようやく、王都から来た者が持ってきた紙と筆を、自分の手で確認した。


 院長は立ち上がった。


「面談室へご案内します。ただし、入るのは最初、クラリス様とミレーヌ様のお二人だけにしてください」


 カレルが顔を上げた。


「私は?」


「扉の外に」


 院長はきっぱり言った。


「剣を持つ男性が最初からいると、ハル様は話せません」


 カレルは少しだけ沈黙した。


 だが、すぐに頷いた。


「分かりました」


「王弟府医官も、後から。必要になった時に」


 エリオス医官も頷く。


「承知しました」


 ミレーヌは驚いた顔でクラリスを見た。


「私も、ですか?」


 院長は静かに言った。


「ハル様が、記録を見たいと」


「記録?」


「王都で、自分が逃亡者にされなかったかを確認したいと仰っています。あなたが記録補助なら、その記録を持っているのでしょう」


 ミレーヌの胸が強く鳴った。


 自分が書いた札。


 戻るつもりで出た人を、逃げたことにしてはいけない。


 あれを見せる時が来るのかもしれない。


 手が震えそうになった。


 しかし、ここで震えてはいけない。


 いいや、震えてもいい。


 震えても、落とさなければいい。


 ミレーヌは筆箱を持ち直した。


「はい。持っています」


 院長は頷いた。


「では、参りましょう」


 廊下を歩く。


 石床に足音が響く。


 クラリスは、それに気づいて少し歩調を落とした。


 ミレーヌも真似をする。


 ハーゲンは扉の外の足音に敏感だと言っていた。


 なら、近づく音にも気を遣うべきだった。


 面談室は、中庭に面した小さな部屋だった。


 扉の前には、シスター・ロザリーが立っている。


 彼女は小さく言った。


「中におられます」


 ミレーヌは息を止めた。


 クラリスは、扉を叩く前に、院長へ確認する。


「入室しても?」


 院長は中へ声をかけた。


「ハル様。王都からのお二人です。紙と筆を持ち、条件を守ると書面で確認する方々です。入ってもよろしいですか」


 中から、しばらく返事はなかった。


 長い沈黙。


 ミレーヌは、自分の心臓の音が聞こえた。


 やがて、かすれた声が聞こえた。


「……紙は、机に」


 院長が答える。


「はい。机にあります」


「赤茶ではない」


「はい」


「黒手袋は」


「おりません」


「白館札は」


「持ち込んでいません」


 また、沈黙。


 それから。


「……入ってください」


 クラリスは、ゆっくり扉を開けた。


 部屋の中には、小さな机があった。


 机の上には、白い紙と筆。


 窓は開いている。


 椅子は三つ。


 奥の椅子に、一人の青年が座っていた。


 痩せている。


 頬はこけ、髪は少し伸びている。


 服は修道院の簡素な灰色の上着。


 けれど、背筋だけは不自然なほどまっすぐだった。


 逃げる準備をしている人の背筋ではない。


 崩れないように、自分で支えている人の背筋だった。


 彼は、クラリスたちをすぐには見なかった。


 まず、机の上の紙を見た。


 次に、筆を見た。


 それから、クラリスの手元、ミレーヌの筆箱、扉の外、窓の位置を順番に確認した。


 最後に、ようやく顔を上げる。


 目は鋭かった。


 疲れているのに、濁っていない。


 彼は、かすれた声で言った。


「……赤茶の紙では、ありませんね」


 クラリスは、ゆっくり頷いた。


「はい。赤茶の紙は使いません」


 ミレーヌは、息を吸った。


 目の前にいる。


 紙の中で追ってきた名前が。


 ハーゲン補助官が。


 彼はまだ、こちらを信じてはいない。


 それでいい。


 信じろと言う方が間違っている。


 まず、条件を守る。


 まず、紙を置く。


 まず、彼が書けるようにする。


 クラリスは、彼に近づかない距離で立ち止まり、静かに名乗った。


「クラリス・フォン・エルディアです。王弟府顧問として、あなたの意思を聞きに来ました」


 青年は、すぐには答えなかった。


 ただ、筆を握る指に力を込めた。


 そして、紙の上に一行を書いた。


 少し震えた字。


 けれど、確かな字。


 あなた方は、K筋ではありませんか。


 面談は、そこから始まった。

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