第172話 王弟府の馬車は、紋章を隠して東へ向かった
出発の朝、王弟府の馬車から紋章が外された。
いつもなら扉の横に掲げられている銀の紋章は、布に包まれ、別の荷箱へ収められた。
代わりに掛けられたのは、古文書保存調査団の小さな札だった。
目立たない木札。
古い蔵書を調べに行く学者や修復職人が使うような、誰も振り返らない札だ。
王弟府の馬車ではなく、古文書保存調査団の馬車。
王弟の命令ではなく、修道院古文書の保存確認。
それが、今回の表向きだった。
だが、その荷箱の中に入っているのは、筆記具と保存布だけではない。
ハーゲン補助官本人との面談記録用紙。
王弟府医官の診察道具。
護衛用の短剣。
そして、赤茶ではない白い紙と、黒ではない革紐で束ねられた筆。
ハーゲンが求めた条件を、ひとつずつ守るための荷だった。
顧問室の壁には、昨夜貼られた札が残っている。
本人が条件を出せるなら、その条件を守ることから救出は始まる。
ミレーヌは、その札を見上げてから、静かに筆箱を閉じた。
彼女の筆箱には、いつも淡い花柄の紙帯が巻かれていた。
だが、今日は外してある。
赤茶色ではない。
それでも、紙帯というだけで、ハーゲンを不安にさせるかもしれない。
そう言って、彼女は自分で外したのだ。
クラリスは、その様子を見ていた。
「本当に同行しますか」
ミレーヌは振り返った。
旅装は整っている。
派手な飾りは外し、外套も目立たない色に替えていた。
それでも、緊張しているのは分かる。
指先が、筆箱の角を何度も撫でていた。
「怖くないと言ったら、嘘になります」
「なら、残る選択もあります」
「いいえ」
ミレーヌは小さく首を振った。
「私は、ずっと書いてきました。ハーゲンさんが何を見たのか。何を奪われたのか。どんな紙を求めていたのか」
そこで、少し言葉を切る。
「会える可能性があるなら、ちゃんと……紙の向こうの人として会いたいです。記録の中の“対象”ではなくて」
クラリスは、しばらく彼女を見つめた。
以前のミレーヌなら、きっと「役に立ちたい」と言っただろう。
今は違う。
証言者の前に立つということが、どれほど重いかを分かった上で、それでも行くと言っている。
「分かりました」
クラリスは頷いた。
「ただし、危険があれば、あなたは即時退避です」
「はい」
「その時に、悔しい顔をしないこと」
「……それは少し難しいかもしれません」
「難しくても、してください」
ミレーヌは、ほんの少しだけ笑った。
「努力します」
その笑いは、強がりではあった。
けれど、震えだけではなかった。
人は、少しずつ変わる。
紙に向き合うことで。
人の声を聞くことで。
自分が何を書き残すかを考えることで。
王弟府の裏門には、カレル調査官が先に来ていた。
いつもの黒い外套ではなく、旅の学者にも見える灰茶の上着を着ている。
ただし、腰の位置と歩き方だけは隠しようがない。
いつでも動ける者の立ち方だった。
王弟府医官のエリオスは、薬箱を二つ持っていた。
一つは普通の医療道具。
もう一つは、紙を傷めずに保全するための道具が入っている。
医官なのか修復係なのか分からない格好だ。
今回の偽装には、ちょうどよかった。
「出発は予定通りです」
カレルが言った。
「王都東の宿場まで一日。そこで一泊。翌日は丘陵地手前の小宿まで。三日目の昼前に東丘修道院へ入る予定です」
無理に飛ばせば二日で届く。
だが、それでは目立つ。
古文書保存調査団が、夜通し馬を替えて走る理由などない。
自然な速度で行く。
それが、今回は安全につながる。
レオンハルトは裏門まで出てきていた。
王弟としての正装ではない。
だが、そこにいるだけで、門番の背筋が伸びる。
彼はクラリスに一通の封書を渡した。
「東丘院長宛ての追加書簡だ。封を切るのは院長の前だけにしろ」
「承知しました」
「もう一通は、必要になった時だけ使え」
そう言って、薄い黒封筒を差し出す。
クラリスは、受け取った瞬間に重みを感じた。
紙の厚みではない。
命令の重みだ。
「これは?」
「東丘に対する王弟府の直接保護命令だ。ハーゲン補助官を王弟府保護対象とする。だが、出すタイミングを誤るな」
「修道院がすでに保護している場合、こちらが奪う形になってはいけませんね」
「そうだ」
レオンハルトは短く頷いた。
「彼は、また“保護”という言葉を疑うかもしれない。こちらの保護を押しつけるな。まず本人に選ばせろ」
「はい」
ミレーヌは、そのやり取りを黙って聞いていた。
以前なら、王弟がこう言えば、それで全てが決まると思っていたかもしれない。
けれど、今は違う。
保護という言葉で人を閉じ込めることもできる。
だからこそ、本人の条件を守る。
本人に選ばせる。
それが、王弟府の力を正しく使うということだった。
出発直前、裏門の方で小さな騒ぎが起きた。
門番の一人が、足元から何かを拾い上げたのだ。
「殿下」
門番は顔色を変えて近づいてきた。
「これが、門の隙間に」
差し出されたのは、小さく折られた紙だった。
赤茶ではない。
白い紙。
だが、折り方は見覚えがあった。
小さく、細く、隙間に差し込みやすい形。
K筋連絡卓で何度も見た運用の癖に似ている。
カレルが手袋をはめ、紙を開いた。
そこには、短く書かれていた。
東へ行くな。写字房は空だ。
ミレーヌが息を呑んだ。
クラリスは、すぐには紙に触れなかった。
文字を見る。
紙を見る。
折り目を見る。
脅しとしては単純だ。
けれど、内容は鋭い。
東へ行くな。
写字房は空だ。
こちらが東丘写字房へ向かうことを知っている者の言葉。
しかも、出発直前に王弟府裏門へ差し込まれている。
情報が漏れている。
そう考えるのが自然だった。
ミレーヌは青ざめた顔で言った。
「写字房が空ということは……ハーゲンさんが、もう……」
「まだ決めてはいけません」
クラリスは静かに遮った。
「これは、私たちの足を止める紙です。事実を知らせるための紙とは限りません」
「でも、もし本当に……」
「本当に空なら、なおさら行かなければなりません」
ミレーヌは口を閉じた。
カレルが紙を光に透かす。
「赤茶紙ではない。王都の一般書記紙に近い。ただし、折り方は連絡卓の札と似ています」
「筆跡は?」
「即断はできません。だが、“東”の払いがK筋連絡卓の白い書き付けに似ている」
レオンハルトの目が冷えた。
「こちらの出発を知る者は限られている」
「はい」
クラリスは頷いた。
「ただし、東丘照会の存在を完全に隠せたとは限りません。偽装調査団の準備、馬車の手配、医官の同行。断片から推測した可能性もあります」
「出発を止めるか」
カレルが問う。
クラリスは首を横に振った。
「止まりません」
迷いはなかった。
「ここで止まれば、相手に“紙一枚で王弟府の足を止められる”と教えることになります」
ミレーヌが顔を上げた。
その表情にはまだ不安がある。
だが、クラリスの言葉を聞いて、少しだけ目が落ち着いた。
「進むのですね」
「進みます」
クラリスは言った。
「ただし、予定は一部変えます。東へ向かう本隊は予定通り。王都には別働を残し、この紙の出所を追います」
カレルがすぐに頷く。
「部下二名を残します。門番、馬車手配係、封書管理係を静かに確認させます」
レオンハルトは白紙の警告文を見つめた。
「セラフィンか」
「まだ分かりません」
クラリスは答えた。
「ですが、K筋系統の誰かが、王弟府の動きを見ています」
レオンハルトは短く息を吐いた。
「なら、王都は私が見る」
その声は低い。
怒鳴らない。
だが、背筋が冷えるほどの圧があった。
「ケインにも、商務評議会にも、こちらが動揺したとは思わせない」
「お願いいたします」
クラリスは頭を下げた。
警告紙は証拠封筒へ入れられた。
赤茶ではない。
だが、白紙でも十分に不吉だった。
馬車が動き出したのは、予定より少し遅れた朝の二刻だった。
王弟府の裏門を出る時、ミレーヌは一度だけ振り返った。
門は静かに閉まっていく。
その隙間に、先ほどまで白い紙が差し込まれていたと思うと、胸の奥がざわついた。
「ミレーヌ様」
向かいの席のクラリスが声をかける。
「はい」
「怖い時は、外を見てください」
「外、ですか?」
「紙ばかり見ていると、紙の中に閉じ込められます。道を見る。馬を見る。人を見る。そうすれば、今ここにいると分かります」
ミレーヌは、少し驚いた顔をした。
それから、そっと窓の外を見る。
王都の東門へ向かう道は、朝の人通りで賑わっていた。
野菜を積んだ荷車。
洗濯物を抱えた女。
眠そうな顔の見習い職人。
パン屋の前に並ぶ子供たち。
ハーゲンが戻りたいと願った王都は、今日も普通に動いている。
その普通の下で、どれだけの紙が人を動かし、人を消してきたのか。
ミレーヌは膝の上の筆箱をそっと押さえた。
「クラリス様」
「はい」
「ハーゲンさん、怒るでしょうか」
「私たちに?」
「はい。遅かった、と」
クラリスは少し考えた。
「怒る権利はあります」
ミレーヌは俯いた。
「そうですよね」
「でも、怒りを受け止めることも、面談の一部です」
「謝ればいいのでしょうか」
「謝るだけでは足りません」
クラリスは静かに言った。
「彼が何を望むかを聞きます。戻りたいのか、残りたいのか。誰に話したいのか。何を公にしたいのか。何をまだ出したくないのか」
「証言を取るのではなく」
「まず、本人の意思を聞くのです」
ミレーヌは、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
王都東門を出る頃には、空は薄く晴れていた。
初日は、東街道沿いの宿場町まで進むだけだ。
途中で昼食を取り、馬を休ませ、日暮れ前には宿に入る。
古文書保存調査団としては、ごく自然な移動だった。
だが、カレルは何度も後方を確認していた。
護衛も、旅人に紛れながら一定の距離を保っている。
何も起きていないように見えて、全員が警戒していた。
昼過ぎ、一行は街道沿いの茶屋で休んだ。
クラリスは温かい茶を少しだけ口にして、警告紙の写しをもう一度見た。
東へ行くな。写字房は空だ。
ミレーヌが隣から覗き込む。
「本当に空だと思いますか」
「分かりません」
「でも、東丘から返書が来たのは六日前です。そこから移された可能性も……」
「あります」
クラリスは否定しなかった。
「ただ、相手が本当に移したなら、私たちを止める紙を出すより、黙って移した方が安全です」
「では、これは脅し?」
「脅し、または焦りです」
「焦り……」
「私たちが東丘へ着けば困る。だから、足を止めたい。そう考える方が自然です」
ミレーヌは少しだけ息を吐いた。
「なら、やっぱり行かないと」
「はい」
茶屋を出てからの道は、緩やかな丘へ続いていた。
王都の城壁はもう見えない。
夕方近く、予定通り最初の宿場町に入った。
宿は、事前に王弟府の別名義で取ってある。
古文書保存調査団が泊まっても不自然ではない、静かな宿だった。
帳場の主人は、クラリスたちを見ると、丁寧に頭を下げた。
「古文書調査の皆様ですね。奥の二部屋をご用意しております」
クラリスは一瞬、目を細めた。
こちらから宿には、古文書保存調査団という名義で予約している。
だから、主人が知っているのは当然だ。
だが、言葉が少し早かった。
待っていたような言い方だった。
カレルも気づいたらしい。
「部屋は誰が指定しましたか」
主人は首を傾げた。
「指定、と申しますと?」
「奥の二部屋と今言いましたね」
「ええ。昨日、商務関係の方がいらして、静かな部屋がよろしかろうと」
空気が冷えた。
ミレーヌが、筆箱を握る。
クラリスは表情を変えずに尋ねた。
「その方の名は?」
「いえ、名乗りは……ただ、古文書調査団の方々は静かな部屋を好むと」
偽装名目を知っている。
そして、先回りして部屋を指定している。
カレルが短く言った。
「部屋を変える」
主人は慌てた。
「何か不都合が?」
「こちらの荷は湿気を嫌う。奥部屋は庭に近い。二階の表側に変更を」
自然な理由だった。
主人は少し戸惑ったが、拒む理由はない。
部屋は変えられた。
その後、カレルの部下が奥部屋を確認した。
しばらくして、戻ってくる。
「水差しの下に紙片がありました」
差し出された紙は、白かった。
赤茶ではない。
だが、折り目はまた細い。
クラリスは手袋越しに開いた。
そこには、こう書かれていた。
ハルは自分で残った。王都へ戻すな。
ミレーヌの顔が青くなった。
ハル。
外部名簿の名。
東丘修道院の内部を知っている者でなければ、簡単には出せない名前だった。
クラリスは、静かに紙を見つめた。
東へ行くな。
写字房は空だ。
ハルは自分で残った。
王都へ戻すな。
相手は、言葉を変えている。
最初は「いない」と言った。
次は「本人の意思で残った」と言った。
矛盾している。
だから、これは事実を伝える紙ではない。
こちらの判断を揺らす紙だ。
クラリスは、ゆっくり息を吐いた。
「この紙も保全します」
「東丘の内部が漏れているのでしょうか」
ミレーヌが尋ねる。
「可能性はあります」
クラリスは答えた。
「ですが、東丘からの返書を王都側が部分的に把握している可能性もあります」
「王都側が……」
「はい。ハルという外部名を知り、本人が残留を望んだ記録を知っている。しかし、それを都合よく切り取っている」
ミレーヌの表情が変わった。
「本人は王都帰還も望んでいました」
「ええ」
「でも、この紙は“自分で残った”だけを書いている」
「そうです」
クラリスは頷いた。
「都合のいい半分だけです」
ミレーヌは、紙を睨むように見た。
「ずるいです」
「はい」
クラリスは静かに答えた。
「だから、全部を聞きに行くのです」
その夜、宿の部屋では灯りを最小限にした。
予定より警戒を強め、見張りを交代で立てる。
ミレーヌは眠れず、窓の外を見ていた。
宿場町の夜は、王都より早い。
通りの店はほとんど閉まり、遠くで馬が鼻を鳴らす音だけが聞こえる。
クラリスは机に向かい、二枚の警告紙の写しを並べていた。
一枚目。
東へ行くな。写字房は空だ。
二枚目。
ハルは自分で残った。王都へ戻すな。
ミレーヌは小さく言った。
「相手は、私たちを迷わせたいんですね」
「はい」
「ハーゲンさんがいないかもしれないと思わせる。いたとしても、本人が戻りたくないと思わせる」
「ええ」
「でも、本人の薄紙には、王都へ戻りたいともありました」
「ありました」
「なら、本人に聞くしかない」
クラリスは顔を上げた。
ミレーヌの声は、少し震えていた。
けれど、迷いは薄れている。
「そうです」
クラリスは言った。
「本人に聞く。それが、どんな紙より強い」
その時、宿の外で馬の蹄音が聞こえた。
深夜にはまだ早い。
だが、宿場の通りを一台の馬車が通り過ぎていく。
カレルが窓の隙間から外を見た。
黒い幌馬車だった。
灯りは小さい。
急いでいるようで、しかし大きな音を立てないように走っている。
後部に、小さな札が揺れていた。
白館札に似た形。
ミレーヌが息を呑む。
「あれ……」
カレルは低く言った。
「追うな」
護衛の一人が反射的に動きかけたが、止まる。
クラリスも立ち上がった。
「東へ?」
「いえ」
カレルは窓の外を見たまま答える。
「一度、東へ向かう道に入った。だが、この先で北の脇道へ逸れる可能性がある」
「囮ですか」
「おそらく」
クラリスは頷いた。
「本隊は追いません」
ミレーヌが振り返る。
「でも、白館札が……」
「似せた札かもしれません」
クラリスは言った。
「それに、今の最優先は東丘です。全部を追えば、一番大事なものを取り逃がします」
その言葉に、ミレーヌは黙った。
昨日までなら、追うべきだと言ったかもしれない。
けれど今は、分かる。
相手は足を止めたい。
迷わせたい。
分散させたい。
なら、進むべき時に進まなければならない。
カレルは部下に短い指示を出した。
「別働一名だけ、距離を取って確認。深追い不要。札と行き先だけを見る」
「了解」
黒い幌馬車の音は、やがて遠ざかった。
宿場町は、また静かになる。
だが、その静けさは、もうただの夜ではなかった。
誰かが先回りしている。
誰かがこちらの言葉を読んでいる。
誰かが、ハーゲンと王弟府の間に紙を差し込もうとしている。
クラリスは机に戻り、三枚目の白紙を取り出した。
そして、今日の記録を書き始めた。
第一日移動記録。王都より東宿場まで、予定通り。警告紙二件。宿部屋先回り。黒幌馬車一台。白館札類似札。
ミレーヌも、自分の帳面を開く。
少し迷った後、こう書いた。
相手の紙は、私たちを迷わせるために半分だけ本当を書く。だから、本人から全部を聞く。
クラリスは、その文をちらりと見て、静かに頷いた。
「よい記録です」
ミレーヌは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
翌朝、一行は予定通り出発する。
東丘までは、まだ一日半。
道は伸びている。
そして、敵もまた動いている。
だが、馬車の中には、赤茶ではない紙と、ハーゲンのための筆がある。
それだけは、絶対に守らなければならなかった。




