第171話 東丘からの返書には、震える署名があった
東丘修道院へ第二照会を送った後、王弟府は静かになった。
何も起きなかったわけではない。
むしろ、内側では慌ただしかった。
東丘へ向かう使者の経路を変える。
商務評議会を通さない。
西海交易団を通さない。
財務院にも詳細を知らせない。
王弟府直轄の封蝋を使う。
返書は通常便ではなく、巡礼医師の薬箱に紛れさせる。
それでも、表向きには何も起きていないように見せなければならなかった。
ハーゲン補助官が生きているかもしれない。
その事実は、希望であると同時に危険だった。
生きているなら、彼は証言できる。
証言できるなら、彼を黙らせたい者がいる。
クラリスは、そのことを誰よりも分かっていた。
ミレーヌは、顧問室の壁に貼られた札を見上げていた。
生きている可能性があるなら、紙より先に人を守る。
「この札、今までで一番怖いです」
ぽつりと、ミレーヌが言った。
「怖い?」
「はい。生きているって分かったら、嬉しいだけじゃないんですね。守らないといけない」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「死者の名誉を戻すより、生きている証言者を守る方が難しいこともあります」
「でも、守らないと」
「はい」
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「生きている方は、今も寒さや恐れを感じますから」
その一言で、部屋の空気が少し沈んだ。
紙の上にいるハーゲンではない。
東丘の写字房別棟で、今も息をしているかもしれない一人の人間。
それを忘れた瞬間、また同じ過ちをする。
第二照会の返書が届いたのは、六日目の夕方だった。
王弟府の裏門から入ってきたのは、薬草の匂いをまとった巡礼医師だった。
腰の薬箱の底板が二重になっており、その中に薄い封筒が隠されていた。
封蝋は、東丘修道院のもの。
だが、表には何も書かれていない。
レオンハルト、クラリス、カレル、オスカー、ミレーヌ、イリスだけが顧問室に集められた。
グレゴール参事官には別室待機が命じられている。
財務院側の者を完全に外すためだった。
封を切る前、レオンハルトが短く言った。
「ここから先は、本人保護を最優先とする。証拠のために本人を危険へ戻すことはしない」
クラリスは頷いた。
「はい」
ミレーヌも、少し遅れて頷く。
封筒の中には、三枚の紙が入っていた。
一枚目は、東丘修道院院長からの返答。
二枚目は、写字房長シスター・マリアナの補足。
三枚目は、小さく折られた薄紙だった。
薄紙は最後に回し、まず院長の返答を読む。
王弟府直轄照会、確かに受領。
外部名ハル、内名ハーゲンなる者、現在も東丘付属写字房別棟にて古台帳整理に従事。
健康状態はおおむね安定。長距離移動には慎重を要す。
本人、王弟府直轄窓口との面談を望む。
ただし、商務評議会、西海交易団、財務院旧主任机関係者を経由せぬことを条件とする。
本人は、王都帰還を望む一方、帰還後の再拘束を強く恐れている。
ミレーヌが、息を止めた。
「本人、面談を望む……」
「はい」
クラリスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼は生きている。
少なくとも、この返書が書かれた時点では。
そして、自分の意思を示している。
王都へ戻りたい。
けれど、再拘束を恐れている。
その恐れは当然だった。
王都は彼にとって、職場であり、故郷へつながる場所であり、同時に奪われた場所でもある。
カレルが低く言った。
「健康状態は安定。長距離移動には慎重」
「すぐ王都へ連れ戻すべきではありません」
クラリスは答えた。
「まず、東丘周辺の安全な場所で面談を行うべきです」
レオンハルトは頷いた。
「現地面談だ」
二枚目。
シスター・マリアナの補足。
そこには、さらに細かな状態が書かれていた。
ハーゲン殿は、時折夜間に強い不安を訴える。扉の外の足音に敏感。黒い手袋、赤茶の紙、白館の札という語に反応あり。
しかし、写字作業中は落ち着く。数字、台帳、払出控えの整合確認に優れる。
本人は、王都へ戻るならば、自分の言葉が“混乱”として処理されない保証を求めている。
面談時には、紙と筆を本人の手元へ置くこと。これを強く望んでいる。
紙と筆。
ミレーヌが、そっと唇を押さえた。
潮待館で求めた。
北分所で求めた。
内陸養静所で求めた。
東丘でようやく与えられた。
そして、面談にも紙と筆を求めている。
クラリスは静かに言った。
「彼にとって、紙と筆は身を守る道具です」
「声だけでは、また混乱にされるから……」
ミレーヌが言う。
「はい」
クラリスは頷いた。
「だから、必ず用意します」
そして、三枚目。
小さく折られた薄紙。
院長の返書には、こう添えられていた。
本人確認のため、ハーゲン殿自身の手による短文を同封する。筆圧弱く、震えあり。
顧問室の全員が、ほとんど同時に黙った。
クラリスは、ゆっくり薄紙を開いた。
字は小さく、少し震えていた。
だが、読めた。
私は財務院補助官ハーゲン。
数が合うことを盾にしてはいけない。布は人を温めるためにある。数字を温めるためではない。
この言葉を覚えている者が王都にいるなら、私は話す。
ただし、K筋を通すな。白館札を近づけるな。赤茶の紙を使うな。
紙と筆を、私の手元に置いてほしい。
ミレーヌの目から、涙がこぼれた。
今度は誰も、気づかないふりをしなかった。
彼女は涙を拭きながら、震える声で言った。
「同じ言葉です」
ミケルが証言した言葉。
数が合うことを盾にしてはいけない。
布は人を温めるためにある。
数字を温めるためではない。
本人しか、あるいは本人から直接聞いた者しか分からない言葉。
本人証明として、これ以上ないほど強かった。
クラリスは、薄紙から目を離せなかった。
ハーゲンの字は、確かに震えている。
けれど、内容は揺れていない。
K筋を通すな。
白館札を近づけるな。
赤茶の紙を使うな。
紙と筆を手元に。
これは怯えではない。
経験から来る条件だった。
もう同じ手順に引っかからないための、実務官の防御だった。
レオンハルトが、低く言った。
「生存確認として扱う」
カレルが頷く。
「本人筆の正式照合が必要ですが、内容は既存証言と強く一致します」
オスカーがすぐに書き始める。
ミレーヌも、涙を拭いて筆を取った。
クラリスは薄紙を丁寧に置いた。
「この薄紙は証拠である前に、本人の意思表示です」
「どう扱う」
レオンハルトが尋ねる。
「写しを取ります。原本は封じ、本人保護資料として別保管。調査資料箱とは分けます」
レオンハルトは即座に頷いた。
「そうしろ」
その判断は重要だった。
ハーゲンの言葉は、ケインを追い詰める証拠になる。
だが、証拠として乱暴に扱えば、また彼を紙の中へ閉じ込めることになる。
まず人を守る。
その方針を崩してはいけない。
その日のうちに、面談計画が作られた。
王弟府から派遣するのは、表向き「修道院古文書保存調査団」。
同行者は三名。
カレル調査官。
クラリス。
そして、医師身分で同行する王弟府医官。
ミレーヌは同行を願い出た。
「私も行きたいです」
クラリスは、すぐには答えなかった。
ミレーヌは慌てて続ける。
「もちろん、足手まといになるなら残ります。でも、私……ずっと記録してきました。ハーゲンさんの言葉も、札も、紙も。本人に会えるなら、ちゃんと、同じ人間として聞きたいです」
その言葉は、幼さではなかった。
彼女なりの責任だった。
クラリスはレオンハルトを見た。
レオンハルトは少し考え、言った。
「記録補助として同行を許す。ただし、危険があれば即時退避」
ミレーヌは、深く頭を下げた。
「はい」
イリスが穏やかに言った。
「では、筆記具を二組ご用意いたします。一組は記録用。一組は、ハーゲン様の手元へ」
ミレーヌは、また泣きそうな顔になったが、今度は泣かなかった。
「お願いします」
出発は二日後と決まった。
すぐ出ないのは、自然な移動日程と偽装を整えるためだ。
東丘へは馬車で二日半。
途中で一泊し、二日目は丘陵地手前の小宿に泊まる。
王弟府の紋章は出さない。
荷には古文書保存道具を積む。
連絡は東丘修道院との直通暗号だけ。
商務評議会には何も知らせない。
財務院にも知らせない。
西海交易団にも知らせない。
クラリスは計画書に最後の一行を書いた。
赤茶紙、白館札、K筋連絡卓経路は一切使用しない。
それは、ハーゲンの条件をそのまま守るという意味だった。
夜、顧問室で報告書がまとめられた。
表題。
東丘修道院第二返書およびハーゲン本人意思確認報告
主な内容。
一、東丘修道院より第二返書到着。外部名ハル、内名ハーゲンは現在も東丘付属写字房別棟にて古台帳整理に従事。
二、健康状態はおおむね安定。ただし長距離移動には慎重を要する。
三、本人は王弟府直轄窓口との面談を望む。条件として、商務評議会、西海交易団、財務院旧主任机関係者を経由しないこと。
四、本人は王都帰還を望む一方、帰還後の再拘束を強く恐れている。
五、シスター・マリアナ補足では、ハーゲンは黒い手袋、赤茶の紙、白館札という語に強く反応する。一方、写字作業中は安定。
六、本人は、自分の言葉が“混乱”として処理されない保証を求め、面談時に紙と筆を手元へ置くことを強く望んでいる。
七、本人筆と思われる短文が同封され、「数が合うことを盾にしてはいけない。布は人を温めるためにある。数字を温めるためではない」と記されていた。ミケル証言と一致。
八、同短文には「K筋を通すな。白館札を近づけるな。赤茶の紙を使うな。紙と筆を、私の手元に置いてほしい」とあり、本人意思と安全条件を示す。
九、薄紙原本は本人保護資料として別保管。写しを調査資料に添付する。
十、王弟府は古文書保存調査団を装い、東丘修道院での秘密面談を準備する。赤茶紙、白館札、K筋連絡卓経路は一切使用しない。
クラリスは最後に一文を書いた。
ハーゲン補助官は、紙越しに戻ってきた。彼はまだ恐れている。だが、話す意思を持ち、条件を示し、紙と筆を求めている。
ミレーヌは、壁の前に立った。
今日の札を書く手は、驚くほど落ち着いていた。
本人が条件を出せるなら、その条件を守ることから救出は始まる。
イリスが、その札を壁へ貼った。
国際案件の箱とは別に、薄紙の原本が封じられた。
箱に入れるのではなく、王弟府の保護封筒へ。
紙ではある。
だが、ただの証拠ではない。
それは、東丘の写字房から届いた、ひとりの生存者の声だった。
次は、東丘へ向かう。
ようやく、紙の中ではなく、人のいる場所へ。




