第170話 写字房のハルは、祈りではなく証言を書いていた
東丘修道院へ照会を出してから、返書が届くまで四日かかった。
遅いわけではない。
王都から東丘まで、早馬でも片道二日近くかかる。
山沿いの道は夜に飛ばせず、修道院側も古い帳簿を開き、写しを取り、院長印を押して返さなければならない。
だから、四日という時間は自然だった。
けれど、待つ側には長かった。
ミレーヌは、その四日の間、何度も壁の札を見上げた。
隠された名前が、守るためのものか消すためのものかを見分ける。
東丘修道院は、ハーゲンの名を内部に残していた。
外部名簿には「ハル」。
内部記録には「ハーゲン」。
それが彼を守るためだったのか、ただ隠すためだったのか。
そこを見分ける必要があった。
返書が届いたのは、雨上がりの朝だった。
王弟府の使いが濡れた外套を脱ぎながら、厚い封筒を差し出した。
封蝋には、東丘修道院の印。
葡萄の蔓と、小さな十字。
クラリスは封を切る前に、深く息を整えた。
ミレーヌが隣で小さく呟く。
「ここに、続きがあるんですね」
「はい」
クラリスは答えた。
「ただし、期待しすぎずに読みます」
そう言いながら、自分の指先にも力が入っているのが分かった。
封筒の中には、五種類の写しが入っていた。
東丘付属写字房名簿。
写字作業帳。
余紙管理簿。
写字房長の私的記録。
退房記録。
最初に開いたのは、写字房名簿だった。
日付は、東丘修道院へ移されて十日目の翌日。
ハル。王都静養者。内名ハーゲン。字よし。声あり。外部問合は院長へ。
ミレーヌの筆が止まった。
「声あり……」
「はい」
クラリスは静かに言った。
「この時点で、声は戻っています」
さらに次の行。
本人、写字を望む。紙筆を与える。ただし外部書簡は院長確認。
紙筆を与える。
その一文だけで、部屋の空気が変わった。
潮待館で紙を求めた。
北分所で筆を求めた。
内陸養静所で布端に書こうとした。
東丘修道院で祈祷書に小さく名を残した。
そして、ようやく写字房で紙と筆を与えられた。
ミレーヌは、少し震えた声で言った。
「やっと、書けたんですね」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「ここからが大事です」
写字作業帳には、最初の仕事が記録されていた。
祈祷文清書。短文より始む。
手、震えあり。字形整う。
王都式の帳簿字に近し。数字強い。
数字強い。
その言葉に、クラリスは目を留めた。
ハーゲンは財務院補助官だった。
ただ祈祷文を写すだけでなく、数字や帳簿の整理にも慣れていたのだろう。
作業帳の三日後。
寄進台帳の古写し補助。本人、数字の食い違いを指摘。
ミレーヌが思わず言った。
「ここでも見つけている……」
クラリスは小さく頷いた。
ハーゲンという人間が、記録の中で少しずつ立ち上がってくる。
どこへ行っても、紙を見る。
数字を見る。
食い違いを見つける。
だから、C-3正温の行き先にも気づいた。
そういう人だったのだ。
次に、余紙管理簿が開かれた。
写字房では、失敗した紙や余った紙を厳しく管理する。
紙は高い。
それに、外部へ勝手な文を出されることを防ぐ意味もあったのだろう。
その管理簿に、気になる記録があった。
ハル用練習紙、三枚。二枚回収。一枚所在未確認。
ミレーヌが顔を上げる。
「一枚、ない」
「はい」
クラリスは頷いた。
「書いたものが残っていない可能性があります」
だが、同じ封筒の中には、別の小さな写しが挟まれていた。
写字房長の私的記録だった。
シスター・マリアナという名がある。
そこには、こう書かれていた。
ハル、夜に紙を求む。王都へ真実を送ると言う。許せず。されど、彼の言葉を全て捨てるに忍びず、練習紙の一部を写し取る。
クラリスは、ページをめくった。
その下に、シスター・マリアナが写し取ったと見られる文章があった。
文字はハーゲン本人のものではない。
だが、内容は彼の言葉として記録されている。
私は財務院補助官ハーゲン。C-3正温八梱は南施療院へ届いていない。白鴎館、G札、K筋、外套地転、代布で数合わせ。数は合っても、病床は温まらない。
ミレーヌは、息を呑んだ。
部屋の中に、声が戻ったようだった。
ハーゲンの声。
紙を奪われても、場所を変えられても、名を変えられても、彼は同じことを言っていた。
数は合っても、病床は温まらない。
クラリスは、しばらくその文を見つめた。
そして静かに言った。
「これは、証言です」
オスカーが頷く。
「本人筆ではなく、写し取りですが、シスター・マリアナの記録として強い意味があります」
「はい」
クラリスは答えた。
「本人の言葉を修道女が写し取ったものとして扱います」
さらに続きがあった。
王都へ戻れば殺されるかもしれない。だが、戻らなければ南施療院の布は戻らない。私の名を消す者は、私の紙を恐れている。
ミレーヌは、もう筆を握る手を止めなかった。
そのまま、必死に書いた。
マリアナ記録:ハル=ハーゲンは、王都へ真実を送る意思を示し、C-3、白鴎館、G札、K筋、外套地転、代布で数合わせを明示。
クラリスは、次の紙を開いた。
退房記録。
ここが、今の所在につながる可能性がある。
写字房へ移されてから、日付は四十九日後。
つまり、およそ七週間。
ハーゲンは、少なくともその間、東丘付属写字房にいた。
記録には、こうある。
ハル。写字補助継続可。王都筋再照会あり。院長判断により、外部名簿より除く。内帳へ移す。
ミレーヌが眉を寄せた。
「外部名簿から除く……」
「危険を避けるためか、消すためか」
クラリスは答えた。
「次を読みます」
次の行。
本人、王都帰還を望むも、追手の懸念あり。しばらく東丘保護。書簡は王弟府または王妃執務院相当の安全窓口あれば送ると申す。
ミレーヌが顔を上げた。
「王弟府……」
「はい」
クラリスは、胸の奥が強く鳴るのを感じた。
ハーゲンは、王弟府という言葉を出していた。
当時、王弟府がこの件に関わっていたわけではない。
それでも、彼は財務院や商務評議会では駄目だと分かっていた。
上の、しかしK筋から離れた窓口を求めていた。
さらに続く。
以後、写字房内名簿では“ハーゲン”を保持。外部呼称“ハル”。
そして、最後。
現在所在:東丘写字房別棟、古台帳整理係。外部接触制限中。ただし本人、面談可能。
部屋の空気が止まった。
ミレーヌの筆が、紙の上で完全に止まる。
「現在所在……」
彼女の声は震えていた。
「別棟……古台帳整理係……」
クラリスも、すぐには言葉が出なかった。
現在所在。
つまり、東丘修道院は、今の所在を書いてきた。
ハーゲンは、生きている可能性が極めて高い。
しかも、面談可能。
ただし、外部接触制限中。
これは、守るための制限かもしれない。
消すためではなく。
少なくとも、修道院は王弟府からの正式照会に応じ、現在所在を開示している。
クラリスは、慎重に言った。
「まだ、直接会ったわけではありません」
ミレーヌは頷いた。
けれど、涙が目に浮かんでいた。
「でも、生きているかもしれない」
「はい」
クラリスは答えた。
「かなり高い可能性で」
その瞬間、顧問室の中にあった重い空気が、少しだけ動いた。
すべてが解決したわけではない。
むしろ、ここからが大変だ。
ハーゲン本人を王都へ戻すのか。
東丘で面談するのか。
彼の安全をどう守るのか。
K筋に知られた時、何が起きるのか。
だが、初めて、行き先が「墓」ではなく「面談」になった。
それだけで、物語は大きく変わった。
夕方、王弟府へ緊急報告が上げられた。
レオンハルトは、報告書の最後の行を読んで、短く息を吐いた。
「生きているのか」
「東丘修道院の返書では、現在所在が記されています」
クラリスは答えた。
「直接確認はこれからです」
「すぐに人を出す」
「はい。ただし、無造作に動けば、K筋側へ伝わる可能性があります」
レオンハルトの目が細くなる。
「秘密裏に行く」
「王弟府名の正式使節では目立ちます」
「なら、医療確認名目か」
「修道院側は面談可能としています。東丘院長宛てに、追加照会と面談希望を暗号化した正式書簡として送るのが安全です」
グレゴール参事官が低く言った。
「ケインには知らせるな」
レオンハルトが頷く。
「当然だ」
その場で、東丘修道院へ第二照会が作られた。
内容は簡潔。
一、ハルことハーゲン本人の現在健康状態確認。
二、本人意思による面談可否確認。
三、面談場所の安全確保。
四、王都側には王弟府直接窓口を用いること。
五、商務評議会・財務院・西海交易団を経由しないこと。
ミレーヌは、その文を見て静かに言った。
「今度は、ちゃんと安全な窓口ですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「彼が求めていたものです」
夜、顧問室で報告書がまとめられた。
表題。
東丘付属写字房記録およびハーゲン現在所在可能性確認報告
主な内容。
一、東丘付属写字房名簿に「ハル。王都静養者。内名ハーゲン。字よし。声あり。外部問合は院長へ」。
二、本人が写字を望み、紙筆を与えられた記録あり。
三、写字作業帳では、祈祷文清書、寄進台帳補助、数字の食い違い指摘など、財務実務官らしい能力が確認される。
四、余紙管理簿に「ハル用練習紙三枚。二枚回収。一枚所在未確認」。
五、写字房長シスター・マリアナ私的記録に、ハーゲンが王都へ真実を送る意思を示したこと、その言葉の一部を写し取ったことが記されている。
六、同記録には「C-3正温八梱は南施療院へ届いていない。白鴎館、G札、K筋、外套地転、代布で数合わせ。数は合っても、病床は温まらない」とある。
七、さらに「王都へ戻れば殺されるかもしれない。だが、戻らなければ南施療院の布は戻らない。私の名を消す者は、私の紙を恐れている」との記録あり。
八、退房記録では、王都筋再照会を受け、院長判断で外部名簿から除き、内帳へ移したとある。
九、本人は王都帰還を望む一方、追手を懸念し、王弟府または王妃執務院相当の安全窓口を求めていた。
十、現在所在として「東丘写字房別棟、古台帳整理係。外部接触制限中。ただし本人、面談可能」とある。
十一、ハーゲン補助官は現時点で生存している可能性が極めて高く、本人確認と安全確保が最優先。
クラリスは最後に一文を書いた。
ハーゲン補助官は、消えていなかった可能性が高い。彼は“ハル”として紙と筆を取り戻し、写字房の中でなお、C-3正温と南施療院の真実を書こうとしていた。
ミレーヌは、壁の前で筆を取った。
今度は、迷わなかった。
生きている可能性があるなら、紙より先に人を守る。
イリスが、その札を壁に貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
そして、初めて。
箱の中の空気が、少しだけ変わった気がした。
失踪者は、死者ではないかもしれない。
証言者は、戻ってくるかもしれない。
紙の中で追っていた名前が、東丘の写字房でまだ息をしているかもしれない。
次に必要なのは、ハーゲン本人との面談だった。
彼の声で、彼の言葉で、彼が何を見て、何を奪われ、誰を恐れていたのかを聞く。
ケインが一番恐れていた紙は、まだ東丘にある。
そして、その紙を書いた本人も、まだそこにいる可能性がある。




