第169話 東丘修道院で、彼は祈りの本に名前を隠した
東丘修道院は、地図の上では小さな点だった。
西海交易団北分所から、さらに丘陵地を越えた先。
街道から外れ、葡萄畑と古い石垣の間を抜けたところにある、静かな修道院。
病人を預かることもある。
身寄りのない旅人を休ませることもある。
商務関係者の「静養先」として使われることもある。
だが、クラリスはもう、静養という言葉をそのまま信じなかった。
保護。
養静。
契書補。
声不調。
外談禁。
筆具禁。
柔らかい言葉ほど、何かを包んでいる。
そして、包まれたまま消えていく人がいる。
ミレーヌは、壁の札を見上げていた。
これは保護ではない、と本人が言った記録を消してはいけない。
「東丘修道院では、どう扱われていたのでしょう」
「そこを見ます」
クラリスは答えた。
「内陸養静所では、本人がハーゲンと名乗っています。財務院補助官であることも、王都へ戻せという訴えも残っています」
「なら、修道院にも本名が……」
「残っていればよいのですが」
オスカーが資料を並べる。
東丘修道院の受け入れ帳。
寄進控え。
療養者名簿。
祈祷名簿。
食事記録。
そして、修道院から王弟府へ届いた古い照会返答。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「修道院は、王宮よりも人の言葉を残すことがございます」
「なぜですか?」
ミレーヌが尋ねる。
「人を罪や役職ではなく、祈る人として見るからです。もちろん、すべての修道院が清いとは申しませんが」
クラリスは頷いた。
「今日は、役職ではなく、人としての記録を探します」
最初に開かれたのは、受け入れ帳だった。
内陸養静所を出た翌日の夕刻。
そこには、こう書かれていた。
王都筋より静養者一。若年男。名記すなとの添状あり。声戻り、興奮強し。東小室へ。費用別納。
名記すな。
また、その言葉。
けれど、修道院の受け入れ係は、その横に別の筆で追記していた。
本人、名をハーゲンと申す。
部屋の空気が変わった。
ミレーヌの筆が止まる。
「残っていました……」
「はい」
クラリスは、静かに息を吐いた。
東丘修道院では、彼の名が消されきっていなかった。
名記すな、という添状があった。
それでも、受け入れ係は本人の名を横に残した。
小さな追記。
だが、とても大きな一行だった。
東丘修道院受け入れ帳:王都筋より静養者一。名記すなとの添状あり。本人、名をハーゲンと申す。
ミレーヌは、その一文を何度も見た。
「この人、書いてくれたんですね」
「ええ」
「名記すなと言われても」
「はい」
クラリスは頷いた。
「誰かが、消さなかった」
次に、寄進控え。
費用は誰が払ったのか。
内陸養静所では「K筋延長不可につき別費」とあった。
東丘修道院の寄進控えには、こうある。
静養者費、十日分。黒封筒。名なし。受取人:門番。
黒封筒。
名なし。
K筋の文字はない。
だが、名を残さない支払いであることは変わらない。
寄進控えの隅に、修道女らしい筆跡で追記があった。
名なき金は、名なき人を作る。注意。
ミレーヌが、小さく呟いた。
「すごい言葉……」
「はい」
クラリスは答えた。
「この修道院には、見ていた人がいます」
寄進控え:静養者費十日分、黒封筒、名なし。追記“名なき金は、名なき人を作る。注意。”
午前のうちに、東丘修道院の現院長から届いた返答書も読まれた。
当時の受け入れ係はすでに亡くなっていたが、記録を残した修道女の名は分かっている。
シスター・エレナ。
彼女は、当時の私的な祈祷帳も修道院に残していた。
その写しに、さらに重要な記録があった。
王都より来た若き男、己をハーゲンと名乗る。筆を求む。護送の者、拒む。彼、祈祷書の余白を指し、ここに書かせてくれと乞う。
祈祷書の余白。
潮待館では机の裏。
北分所では机の爪傷と古契束。
内陸養静所では布端と包み紙。
そして、東丘修道院では祈祷書。
ハーゲンは、どこへ行っても書こうとしていた。
声を封じられても。
紙を奪われても。
名前を書く場所を探していた。
ミレーヌは、目を伏せながら書いた。
シスター・エレナ祈祷帳:ハーゲンは筆を求め、祈祷書の余白に書かせてほしいと乞うた。
午後、修道院から届けられた古い祈祷書の写しが確認された。
原本は修道院から出せないため、精密写しだった。
革表紙の古い祈祷書。
頁の下隅。
非常に小さな文字で、こうある。
Hgn 財務院 保護ニ非ズ
ミレーヌの頬に、また涙が浮かんだ。
今度は、こぼれる前に拭かなかった。
クラリスも、すぐには言葉を出せなかった。
保護ニ非ズ。
これは保護ではない。
内陸養静所で叫んだ言葉と同じ。
ハーゲンは、修道院でもそれを書いた。
短く。
小さく。
けれど、確かに。
オスカーが、少し震える声で読み上げた。
「Hgn、財務院、保護ニ非ズ」
クラリスは静かに言った。
「記録してください」
ミレーヌは、頷いて書いた。
東丘修道院祈祷書余白に“Hgn 財務院 保護ニ非ズ”の小書き。本人筆の可能性。照合要。
ヘレナ修復記録官が筆跡を確認した。
ハーゲンの外出札署名、机裏のHgn、古契束圧痕と並べる。
彼女は慎重だった。
「筆記条件が違います。小さく、急いで書かれた字です。ただ、Hの縦線、gの丸め方は、ハーゲン補助官の署名癖と近い」
「本人筆の可能性は?」
「あります。十分に検討に値します」
クラリスは頷いた。
「その表現で」
次に、修道院の食事記録。
一日目。
粥、湯。話す。王都へ文を、と。
二日目。
祈祷室へ。落ち着く。名を記すことを望む。
三日目。
護送者、退去。代わりに修道院預かり。本人、初めて眠る。
ミレーヌが顔を上げた。
「護送者が退去しています」
「はい」
クラリスの声も、少し変わった。
「修道院預かりになっています」
これは大きい。
東丘修道院では、少なくとも三日目以降、護送者の直接監視から離れた可能性がある。
だから祈祷書に書けたのかもしれない。
だから眠れたのかもしれない。
さらに五日目の記録。
本人、詳述望む。院長、王都宛の文を禁じられている添状を確認。返答保留。
王都宛の文を禁じる添状。
添状がある。
どこかに残っているかもしれない。
オスカーが資料を確認する。
修道院の添状控えに、その写しがあった。
静養者について。王都への文通不可。名乗りは混乱によるもの。外部照会あれば西海交易団経由へ。K筋了解。
ミレーヌの表情が変わった。
「名乗りは混乱……」
「彼の名前を、混乱として処理しています」
クラリスは答えた。
「王都へ文通不可。外部照会は西海交易団経由。K筋了解」
ここでもK筋。
東丘修道院にまで、K筋の影が届いている。
だが、修道院は完全には従わなかった。
祈祷帳に名を残した。
受け入れ帳に本人名を書いた。
祈祷書の余白を消さなかった。
そのことが、今、道を開いている。
夕方、東丘修道院からの最後の移動記録が開かれた。
クラリスは、そこを読む前に一度手を止めた。
ミレーヌも息を詰めている。
記録には、こうあった。
十日目。王都筋より引取なし。本人、修道院残留望む。院長判断により、東丘付属写字房へ移す。名:ハーゲン。ただし外部名簿にはハルと記す。
ハル。
ハーゲンではなく、ハル。
だが、修道院内部には「名:ハーゲン」と残っている。
外部名簿にはハル。
これは隠したのか。
守ったのか。
クラリスは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
もしかすると。
もしかすると、東丘修道院は彼を消したのではない。
隠して守ったのかもしれない。
ミレーヌが震える声で言った。
「残留……望む」
「はい」
クラリスは頷いた。
「十日目に、彼は修道院に残ることを望んでいます」
「生きて……」
「この記録の時点では、生きています」
しかも、自分で望んでいる。
王都へ戻す道が塞がれていたからかもしれない。
外へ出ればまた連れ戻されるからかもしれない。
だが、彼は東丘付属写字房へ移された。
写字房。
書く場所だ。
紙と筆のある場所。
あれほど紙を求めていた彼が、ようやく書ける場所へ移された。
夜、顧問室は静かだった。
誰も急いで話さなかった。
ただ、報告書を丁寧にまとめた。
表題。
東丘修道院受け入れ記録およびハーゲン名残存確認報告
主な内容。
一、東丘修道院受け入れ帳に「王都筋より静養者一。若年男。名記すなとの添状あり」。追記に「本人、名をハーゲンと申す」。
二、寄進控えに「静養者費十日分。黒封筒。名なし」。追記に「名なき金は、名なき人を作る。注意」。
三、シスター・エレナ祈祷帳に、若き男が己をハーゲンと名乗り、筆と祈祷書余白への記入を求めた記録。
四、東丘修道院祈祷書余白に「Hgn 財務院 保護ニ非ズ」と小書き。本人筆の可能性あり。
五、食事記録では、一日目に「王都へ文を」と求め、三日目に護送者が退去し、修道院預かりとなる。
六、添状控えに「王都への文通不可。名乗りは混乱によるもの。外部照会あれば西海交易団経由へ。K筋了解」。
七、十日目の記録に「王都筋より引取なし。本人、修道院残留望む。院長判断により、東丘付属写字房へ移す。名:ハーゲン。ただし外部名簿にはハルと記す」。
八、東丘修道院は外部名簿では別名化しつつ、内部記録にハーゲン名を残していた。保護か隠匿か、院長判断の詳細確認が必要。
九、ハーゲン補助官は東丘修道院十日目時点で生存し、本人意思を示し、写字房へ移された可能性が高い。
十、東丘付属写字房の名簿、写字記録、現在所在を最優先で確認する必要。
クラリスは最後に一文を書いた。
東丘修道院で、ハーゲン補助官の名は消されなかった。外には“ハル”と隠され、内には“ハーゲン”と残された。彼は少なくとも十日目まで生き、紙と筆のある写字房へ移されていた。
ミレーヌは、壁の前に立った。
今度は泣いていなかった。
ただ、まっすぐな目で札を書いた。
隠された名前が、守るためのものか消すためのものかを見分ける。
イリスが、それを壁へ貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
ハーゲンは、東丘修道院にいた。
そして、写字房へ移された。
つまり。
彼は、まだ生きている可能性がある。
王宮から遠く離れ、名を変えられ、外部名簿ではハルとされながら。
紙と筆のある場所で。
次に追うべきは、東丘付属写字房。
そこで彼は、何を書いたのか。
そして、今もそこにいるのか。
物語の中で初めて、失踪者の足取りは「死」ではなく「生存」の方向へはっきり傾き始めていた。




