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第168話 内陸養静所で、彼の声は戻っていた

内陸養静所。


 その名だけを見れば、穏やかな施設に思える。


 港の喧騒から離れた内陸の小さな療養所。

 声を痛めた者、旅で疲れた者、外客の随員、商務関係の病人を一時的に休ませる場所。


 だが、クラリスはその名前を信じなかった。


 名が柔らかい場所ほど、紙の中で硬いことを隠す時がある。


 保護。

 養静。

 声不調。

 発語控。

 会話禁。


 どれも、誰かを守るための言葉に見える。


 けれど、ハーゲン補助官の足取りの中では、逆だった。


 話させないため。

 名乗らせないため。

 書かせないため。

 戻らせないため。


 そのための言葉になっていた。


 ミレーヌは、壁の札を見上げていた。


 名前を書けないようにされた人ほど、書こうとした跡を探す。


「内陸養静所……名前が怖いです」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「穏やかな名ほど、実際の運用を見ます」


「ハーゲンさん、声が戻り始めたから移されたんですよね」


「記録上はそう読めます」


「なら、そこでは話せたかもしれない」


「ええ」


 クラリスは静かに言った。


「今日は、彼の声を探します」


 オスカーが資料を並べた。


 内陸養静所の入所記録。

 療養費控え。

 食事記録。

 見張り番日誌。

 薬房の記録。

 退所者一覧。

 そして、養静所の旧職員への聞き取り。


 イリスが茶を置きながら、声を落とした。


「声が戻った人を黙らせるには、薬か、恐怖か、紙を奪うかでございます」


 ミレーヌの顔がこわばる。


「薬……」


「確認しましょう」


 クラリスは答えた。


 最初に確認されたのは、内陸養静所の入所記録だった。


 日付は、北分所から移送された翌日。


 そこには、こうあった。


 契書補一。王都筋。声戻り。静養要。外談禁。筆具禁。K筋費。


 声戻り。


 外談禁。


 筆具禁。


 K筋費。


 ミレーヌの筆が、強く紙に触れた。


「外談禁……筆具禁……」


「外部との会話禁止、筆記具禁止でしょう」


 クラリスは答えた。


「声が戻っているのに、静養要。外談禁。筆具禁」


「もう病気の扱いではありませんね」


「はい」


 入所記録:契書補一、王都筋、声戻り、静養要、外談禁、筆具禁、K筋費。


 K筋費。


 費用までK筋で処理されている。


 クラリスは、その文字を見つめた。


 ケイン本人がどこまで知っていたかは、まだ詰める必要がある。


 だが、K筋はハーゲンを王宮外へ送り、名前を変え、声を禁じ、費用まで払っている。


 もはや「周辺の曖昧な運用」では済まない。


 療養費控えには、さらにこうあった。


 三日分前払。延長可。名記すな。王都戻し不可。


 名記すな。


 王都戻し不可。


 ミレーヌが、思わず低く言った。


「ひどい……」


 クラリスも、否定しなかった。


「はい」


 これは明確だった。


 名前を書くな。


 王都へ戻すな。


 誰かが、ハーゲンを王都から遠ざけ続けようとしている。


 食事記録には、最初の三日が残っていた。


 一日目。


 粥、湯。声あり。名乗ろうとする。静止。


 二日目。


 食少。紙求む。壁触る。


 三日目。


 夜、強く訴え。王都へ戻せ、と。


 ミレーヌは、顔を上げられなかった。


 ハーゲンの声は戻っていた。


 彼は名乗ろうとした。


 紙を求めた。


 王都へ戻せと訴えた。


 もう、記録の中の影ではない。


 人として、声を出していた。


 クラリスは、喉の奥にこみ上げるものを押さえながら言った。


「記録してください」


 ミレーヌは頷いた。


 食事記録:一日目“声あり。名乗ろうとする。静止”。二日目“紙求む”。三日目“王都へ戻せ”と強く訴え。


 薬房記録が開かれた。


 ここが重要だった。


 もし、声を止めるために薬が使われたなら。


 しかし、記録は意外な形だった。


 鎮静薬、使用せず。本人明瞭。薬拒否。


 ミレーヌが少し息を吐く。


「薬は……」


「少なくとも、この記録上は使用されていません」


 クラリスは答えた。


「本人明瞭。薬拒否」


 つまり、ハーゲンは意識が明瞭で、薬を拒む判断もできた。


 彼は壊れていなかった。


 黙らされていただけだった。


 午後、養静所の元洗濯係だった女性が呼ばれた。


 名はテレサ。


 彼女は王都まで来るのを嫌がっていたが、王弟府の正式照会でようやく応じた。


 部屋に入ると、彼女は落ち着かない様子で手を握っていた。


「若い書記のことですね」


 クラリスが尋ねる前に、テレサは言った。


「覚えていますか」


「忘れられません」


 テレサは目を伏せた。


「何日も、紙をくださいと言っていました」


 ミレーヌの筆が動く。


「話せたのですか」


「はい。小さな声でしたけど、はっきり。喉が悪い人の声ではありませんでした」


「名前は?」


「言おうとしていました。ハーゲン、と。私は聞きました」


 部屋の空気が止まった。


 ついに、名前。


 ハーゲン。


 誰かの記憶の中で、彼は名乗っていた。


 テレサは続けた。


「でも、看守みたいな男が、“その名を聞くな”と」


「看守?」


「養静所では見張り番と呼んでいました。療養所なのに、おかしいでしょう?」


 クラリスは頷いた。


「その通りに記録します」


 テレサは、少し震える声で続けた。


「彼は、洗濯物の布端に爪で文字をつけようとしていました。紙がないから。私は……一度だけ、古い包み紙を渡しました」


 ミレーヌが顔を上げる。


「渡せたのですか」


「はい。でも、すぐ見つかりました。包み紙は取り上げられました。私は叱られました」


「彼は何か書けましたか」


「一文字だけ」


「何を?」


「王、です」


 王。


 王都か。

 王弟府か。

 王宮か。

 王へ知らせるつもりだったのか。


 テレサは言った。


「その後、彼は私に言いました。“王都へ。クラ……いや、財務院へ。紙を”と」


 クラ。


 クラリスではない。


 当時、クラリスは関わっていない。


 もしかすると「倉」かもしれない。

 あるいは「クラリオン」など別の名かもしれない。

 だが、財務院へ、紙を。


 彼はまだ知らせようとしていた。


 クラリスは慎重に言った。


「その“クラ”は、何を指すか不明として記録してください」


 ミレーヌは頷く。


 元洗濯係テレサ証言:若い書記は“ハーゲン”と名乗った。紙を求め続け、布端に文字をつけようとした。テレサが包み紙を渡したが取り上げられ、一文字“王”を書いた記憶。 “王都へ。クラ…いや、財務院へ。紙を”と発言。


 次に、養静所の見張り番日誌が開かれた。


 そこには、今までで最も鋭い記録があった。


 三夜、対象叫ぶ。“私は財務院補助官ハーゲン。王都へ戻せ。これは保護ではない。” 以後、名乗り禁強化。


 ミレーヌの筆が完全に止まった。


 涙をこらえるように、彼女は少し上を見た。


 クラリスも、しばらく言葉が出なかった。


 ハーゲンは名乗っていた。


 財務院補助官ハーゲン。


 王都へ戻せ。


 これは保護ではない。


 彼は、すべて分かっていた。


 クラリスは、ゆっくり息を吸った。


「記録します」


 オスカーが、低く読み上げながら書いた。


 見張り番日誌:三夜、対象叫ぶ。“私は財務院補助官ハーゲン。王都へ戻せ。これは保護ではない。” 以後、名乗り禁強化。


 ミレーヌの頬を、一筋だけ涙が落ちた。


 彼女はすぐに袖で拭いた。


 誰も何も言わなかった。


 その涙は、報告書には書かれない。


 だが、この部屋にいる者は忘れない。


 夕方、退所者一覧が確認された。


 入所から五日目。


 契書補一。移送。東丘修道院預。声戻り過多。外談危。K筋延長不可につき別費。


 東丘修道院。


 また新しい場所。


 声戻り過多。


 外談危。


 K筋延長不可。


 別費。


 つまり、K筋費で養静所に置き続けることができなくなり、別の費用で東丘修道院へ移された。


 これは、追跡可能な線だった。


 修道院なら、記録が残る可能性が高い。


 祈祷名簿。

 寄付控え。

 保護者名簿。

 療養者記録。


 ハーゲンの声は、さらに先へ運ばれた。


 夜、顧問室で報告書がまとめられた。


 表題。


 内陸養静所入所記録およびハーゲン本人名乗り確認報告


 主な内容。


 一、内陸養静所入所記録に「契書補一。王都筋。声戻り。静養要。外談禁。筆具禁。K筋費」。

 二、療養費控えに「三日分前払。延長可。名記すな。王都戻し不可」。

 三、食事記録に、一日目「声あり。名乗ろうとする。静止」、二日目「紙求む」、三日目「王都へ戻せ」と強く訴え。

 四、薬房記録に「鎮静薬、使用せず。本人明瞭。薬拒否」。

 五、元洗濯係テレサ証言では、若い書記は“ハーゲン”と名乗り、紙を求め続け、布端に文字をつけようとした。

 六、テレサが渡した包み紙に一文字「王」を書いた記憶あり。

 七、見張り番日誌に「私は財務院補助官ハーゲン。王都へ戻せ。これは保護ではない」と叫んだ記録。その後、名乗り禁強化。

 八、以上により、内陸養静所の契書補一はハーゲン補助官本人である可能性が極めて高まる。

 九、退所者一覧に「東丘修道院預。声戻り過多。外談危。K筋延長不可につき別費」。

 十、次に東丘修道院の記録、別費支払者、移送経路を確認する必要。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 内陸養静所で、彼の声は戻っていた。ハーゲン補助官は、自分の名を叫び、王都へ戻せと訴え、これは保護ではないと記録に残していた。


 ミレーヌは、壁の前に立った。


 涙の跡はもう消えていた。


 けれど、目には強い光があった。


 彼女は札に書いた。


 これは保護ではない、と本人が言った記録を消してはいけない。


 イリスが、その札を壁へ貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 ハーゲンは生きていた。


 少なくとも、内陸養静所では。


 そして、声を取り戻していた。


 名前も、所属も、訴えも、自分で叫んでいた。


 次は東丘修道院。


 そこで彼は、また沈黙させられたのか。


 それとも、誰かが彼の声を聞いたのか。


 王宮から遠く離れた場所で、ようやく彼自身の言葉が記録に現れた。


 物語は、もう後戻りできなかった。

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