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第167話 北分所で、彼はまだ書こうとしていた

西海交易団北分所。


 その名は、王宮の書類では小さく扱われていた。


 西海港から半日ほど内陸へ入った場所。

 交易品の仮置き。

 契約書類の整理。

 外客の一時滞在。

 港が荒れた時の避難先。


 王都から見れば、地図の端にある小さな点だった。


 だが、ハーゲン補助官の足取りは、そこへ向かっていた。


 潮待館で彼は名乗ろうとした。


 紙を求めた。


 筆談を拒まれた。


 そして、船ではなく陸路へ変更され、西海交易団北分所へ送られた。


 クラリスは、顧問室の机に北分所関連資料を並べた。


 北分所の到着記録。

 滞在部屋帳。

 食事控え。

 分所書庫の閲覧記録。

 療養扱いの雑費帳。

 そして、分所からさらに出た人員移動控え。


 ミレーヌは、壁の札を見上げていた。


 声を止められた人は、紙に名前を残そうとする。


「北分所でも、何か残しているでしょうか」


「残そうとした可能性は高いです」


 クラリスは答えた。


「潮待館で紙を求めた人です。北分所でも、書く機会を探したはずです」


「でも、向こうもそれを警戒していた」


「ええ」


 オスカーが北分所の到着記録を開いた。


 日付は、潮待館を出た日の午後。


 そこには、こうあった。


 王都契書補一。声不調。保護扱。北書庫裏へ。護二引継。


 王都契書補一。


 ハーゲンの名は、まだない。


 だが、潮待館の記録とつながる。


 ミレーヌが書く。


 北分所到着記録:王都契書補一、声不調、保護扱、北書庫裏へ、護二引継。


 クラリスは、声不調という言葉を見つめた。


 声を奪う言い訳が、まだ続いている。


 喉所見なし。


 筆談拒否。


 発語控。


 声扱注意。


 そして、声不調。


 体の不調ではなく、話させないための名札だった可能性が高い。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「声を失わせる方は、たいてい筆も嫌います」


「筆も?」


「はい。声を止めても、筆があれば話せますから」


 クラリスは頷いた。


「今日は、筆を探します」


 北分所の滞在部屋帳には、部屋の割り当てがあった。


 北書庫裏小室。窓高。外鍵。筆具置くな。


 ミレーヌの筆が止まる。


「筆具置くな……」


「はい」


 クラリスは答えた。


「最初から、書かせないつもりです」


 外鍵。


 潮待館と同じ。


 窓高。


 外へ声も紙も出しにくい。


 北書庫裏小室。


 書庫の近くなのに、筆具を置かない。


 これは偶然ではなかった。


 滞在部屋帳:北書庫裏小室。窓高。外鍵。筆具置くな。


 カレル調査官が低く言った。


「保護ではないな」


「はい」


 クラリスは静かに答えた。


「監視です」


 食事控えには、さらに細かい記録が残っていた。


 一日目夜。


 粥、湯。若、食少。水多。


 二日目朝。


 粥、卵。筆求む。護拒。


 二日目昼。


 湯、パン。机爪傷。


 三日目朝。


 声戻り気味。護、会話禁。


 ミレーヌは、そこを読む手を止めた。


「声、戻っている……」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「声不調という説明は、少なくとも三日目には崩れています」


「それでも会話禁」


「ええ」


 食事控えの小さな記録は、重い。


 若い男は食が細く、水を多く飲み、筆を求め、拒まれ、机に爪傷を残し、三日目には声が戻りかけていた。


 それでも話すことを禁じられた。


 ミレーヌは慎重に書いた。


 食事控え:二日目朝に筆を求め護送者が拒否。三日目朝に声戻り気味、護送者が会話禁。


 次に、北分所の当時の炊事女が呼ばれた。


 名はローザ。


 西海港から王都へ出てきており、照会に応じたのだという。


 彼女は最初、緊張していた。


 だが、クラリスが「若い書記の様子を知りたい」と言うと、ゆっくり記憶をたどり始めた。


「声を出すなと言われていた方ですね」


「覚えていますか」


「はい。あまりに不自然でしたから」


「どのように?」


「喉が悪いと言われていたのに、咳も熱もないんです。ただ、見張りの人がいる時だけ黙っている。水を渡した時、唇だけで“紙”と言いました」


 ミレーヌが、唇を噛みながら書く。


「紙を渡しましたか」


 カレルが尋ねる。


 ローザは首を振った。


「渡せませんでした。でも、次の日、パンを包んでいた薄紙を少しだけ残しておいたんです。皿の下に」


 部屋の空気が変わった。


「彼は気づきましたか」


「気づきました。ですが、見張りがすぐ皿を下げてしまって……たぶん、書けなかったと思います」


「その薄紙は?」


「見張りが捨てました」


 ローザは悔しそうに目を伏せた。


「すみません。私、怖くて何もできませんでした」


「あなたは薄紙を置きました」


 クラリスは静かに言った。


「そのことを記録します」


 ローザは驚いたように顔を上げた。


「そんなことを?」


「はい。彼が紙を求めていたことを示す大事な証言です」


 ローザの目に、少しだけ涙が浮かんだ。


「彼、机の端を指で何度もなぞっていました。何か書けないか探していたんだと思います」


 ミレーヌが書く。


 炊事女ローザ証言:若い書記は唇だけで“紙”と求めた。ローザはパン包み薄紙を皿下に残したが、見張りに下げられた。若い書記は机の端を何度も指でなぞり、書く場所を探していた様子。


 北書庫裏小室の机は、北分所から送られてきた写しで確認された。


 古い机は、今も残っている。


 机の右端。


 食事控えにあった「机爪傷」と思われる浅い線がある。


 写しでは読み取りにくい。


 ヘレナが、送られてきた拓本を見た。


「線が短く、文字には見えません。ただ、繰り返し引っかいた跡があります」


「意味は?」


「筆がなく、爪や硬いもので痕をつけようとした可能性はあります」


 さらに、机の裏の小さな欠けから、黒い煤のようなものが見つかっていた。


 北分所の管理人が保全して送ってきたという。


 ヘレナは、それを見て言った。


「煤または焦げた木片です。文字を書くために使おうとした可能性があります」


「炭の代わりに?」


「はい。ただ、実際に書けたかは不明です」


 ミレーヌが記録する。


 北書庫裏小室机に爪傷複数。机裏から煤状片。筆具がない状況で、爪や煤を使って書こうとした可能性。


 次に、分所書庫の閲覧記録が開かれた。


 不思議なことに、ハーゲンらしき人物は書庫裏小室に閉じられていたのに、二日目の夜に書庫の出入り記録があった。


 契書補、夜間確認。護立会。古契束三。


 古契束三。


 なぜ、閉じ込められた若い書記に書庫を見せるのか。


 クラリスは資料を見つめた。


「契約書記補助として働かせようとした?」


「あるいは、そういう名目を作った」


 オスカーが答える。


 ミレーヌが言う。


「三つの控えを奪った後、今度は古い契約書を見せた……」


「何かを読ませようとした可能性があります」


 クラリスは頷いた。


 北分所書庫の古契束三は、王都と西海交易団の外客荷引継ぎに関する古い契約束だった。


 つまり、人や書類を「契書補」として扱うための前例を探していたのかもしれない。


 あるいは、ハーゲンに何かを書かせようとした。


 だが、筆具置くな。


 会話禁。


 矛盾している。


 書かせたくないのか。

 読ませたいのか。

 名目だけ必要なのか。


 その疑問は、次の記録で少し形を持った。


 書庫番の備忘録。


 若書記、古契読める。王都式の癖あり。護、記名させず。


 王都式の癖。


 書類の読み方か、用語の理解か。


 ハーゲンは、やはり実務官だった。


 古い契約束を読めた。


 だが、記名はさせなかった。


 名前を書かせない。


 また、その構造だ。


 ミレーヌは、眉を寄せて書く。


 書庫番備忘録:若書記、古契読める。王都式の癖あり。護送者、記名させず。


 午後、北分所の元書庫番への遠隔照会記録が届いた。


 名はパウル。


 高齢のため王都には来られないが、文書で証言を出した。


 その証言には、こうあった。


 若い男は、契約書の用語をよく理解していた。西海側の書記ではなく、王都の財務か商務の者だと思った。名前を尋ねると、護送者が“契書補で足りる”と言った。


 契書補で足りる。


 筋で足りる。


 似ている。


 名前を消すための言葉は、場所が変わっても形が似る。


 パウルの証言は続く。


 若い男は、私が目を離した隙に、古契束の余白を指で押さえた。後で見ると、そこに薄く“Hgn”らしき圧痕があった気がする。ただ、当時は怖くて何も言えなかった。


 ミレーヌは、完全に筆を止めた。


 Hgn。


 また、彼の略名。


 潮待館の机裏に続いて、北分所の古契束にも。


 北分所から送られてきた古契束の該当部分は、保存状態が悪かった。


 だが、ヘレナが拓本を確認する。


 「Hgn」と断定はできない。


 けれど、Hの縦線らしき圧痕と、gのような丸い跡がある。


 ヘレナは慎重に言った。


「Hgnと読める可能性があります。ただし非常に弱い」


「弱い証拠として扱います」


 クラリスは答えた。


 北分所古契束余白に“Hgn”と読める可能性のある弱い圧痕。書庫番パウル証言と整合可能。


 夕方、北分所からの人員移動控えが確認された。


 ハーゲンらしき若い書記は、北分所に長く留め置かれてはいなかった。


 滞在三日目の夜。


 記録。


 契書補一。内陸養静所へ。声戻りにつき移送早め。K筋照会済。


 声戻りにつき移送早め。


 ミレーヌが、強く唇を噛んだ。


「声が戻ったから、早めた……」


「はい」


 クラリスは答えた。


「話せるようになると困る。そう読めます」


 内陸養静所。


 また、新しい場所。


 療養施設のような名だが、本当に療養所なのかは分からない。


 K筋照会済。


 また、K筋。


 この線は、どこまでも消えない。


 オスカーが記録する。


 北分所人員移動控え:契書補一、内陸養静所へ。声戻りにつき移送早め。K筋照会済。


 クラリスは、しばらくその紙を見つめた。


 ハーゲンは北分所にいた。


 紙を求めた。

 机を引っかいた。

 煤で書こうとしたかもしれない。

 古契束にHgnを残そうとした。

 声が戻り始めた。


 だから、移された。


 話せるようになる前に。


 夜、顧問室で報告書がまとめられた。


 表題。


 西海交易団北分所滞在記録および契書補一追加痕跡確認報告


 主な内容。


 一、北分所到着記録に「王都契書補一。声不調。保護扱。北書庫裏へ。護二引継」。

 二、滞在部屋帳に「北書庫裏小室。窓高。外鍵。筆具置くな」。

 三、食事控えに、二日目朝「筆求む。護拒」、二日目昼「机爪傷」、三日目朝「声戻り気味。護、会話禁」。

 四、炊事女ローザ証言では、若い書記は唇だけで“紙”と求めた。ローザが皿下に薄紙を残したが、見張りに下げられた。

 五、北書庫裏小室の机に爪傷複数、机裏に煤状片。筆具がない状況で書こうとした可能性。

 六、書庫閲覧記録に「契書補、夜間確認。護立会。古契束三」。

 七、書庫番備忘録に「若書記、古契読める。王都式の癖あり。護、記名させず」。

 八、元書庫番パウル証言では、若い男は王都の財務または商務の者のようで、名前を尋ねると護送者が「契書補で足りる」と制した。

 九、古契束余白に「Hgn」と読める可能性のある弱い圧痕。

 十、北分所人員移動控えに「契書補一。内陸養静所へ。声戻りにつき移送早め。K筋照会済」。

 十一、以上より、契書補一は北分所で数日間留め置かれ、筆記・発話・記名を制限されていた。声が戻り始めたため、内陸養静所へ移送された可能性が高い。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 北分所で、彼はまだ書こうとしていた。紙を奪われ、筆を奪われ、名前を奪われても、机の傷と古契束の余白に自分の痕跡を残そうとしていた。


 ミレーヌは、壁の前に立った。


 筆を持つ手は、もう震えていなかった。


 怒っていた。


 静かに、はっきりと。


 彼女は札に書いた。


 名前を書けないようにされた人ほど、書こうとした跡を探す。


 イリスが、その札を壁に貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 ハーゲンは、北分所にもいた。


 生きていた。

 読めた。

 書こうとした。

 声が戻り始めた。


 そして、それゆえに、さらに奥へ送られた。


 内陸養静所。


 療養の名を借りた、沈黙の場所かもしれない。


 次に追うべきは、そこだった。


 彼の声が戻る前に移されたという記録があるなら。


 その先には、まだ彼の声が残っている可能性がある。

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