第166話 潮待館で、若い書記は名前を尋ねられていた
潮待館は、西海港の古い港宿だった。
王都の宿とは違う。
壁には潮が染み、窓枠は少し歪み、廊下を歩けば床板が鳴る。
だが、商務関係者にとっては便利な宿だった。
港に近い。
船着き場に近い。
西海交易団の事務所にも近い。
そして、王都から来た外客荷を一晩置くには都合がよい。
記録の上で、ハーゲン補助官らしき人物は、そこへ運ばれていた。
保護客。
若。
荷添え。
契書補。
名前は少しずつ削られ、用途の言葉に変えられていた。
ミレーヌは、壁に貼られた札を見上げていた。
名前が減っていく記録ほど、最初の名前へ戻して読む。
「潮待館で、名前が残っているといいですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「ただ、期待しすぎずに見ます」
「名前がない可能性もありますよね」
「ええ。ですが、人が泊まれば、宿帳以外にも痕跡は残ります。食事、湯、薬、水、洗濯、部屋の鍵」
オスカーが資料を並べた。
西海交易団受領控え。
潮待館宿帳の写し。
港医の往診控え。
港荷役の引き継ぎ札。
潮待館の女中聞き取り記録。
そして、西海港の船便一覧。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「声を出せない客ほど、周りの者が覚えていることがございます」
「なぜですか?」
ミレーヌが尋ねる。
「困るからです。水が欲しいのか、痛いのか、怒っているのか。声で分からない客は、世話をする者の記憶に残ります」
クラリスは、白紙に書いた。
声を奪われた人は、周囲の手間として記憶に残る。
最初に開かれたのは、潮待館の宿帳だった。
西海交易団から取り寄せた写しではなく、宿そのものに残っていた原帳の写しである。
王都からの便が到着した日。
夜の欄に、こうある。
王都商務便。外客荷二。契書補一。護二。二階奥。発語控。
ここまでは、これまでの記録とほぼ同じだった。
だが、その横に、別の筆跡で小さく追記があった。
若き書記、名を言おうとする。護、制す。
ミレーヌの筆が止まった。
「名を言おうとする……」
「はい」
クラリスは静かに答えた。
「彼は、自分の名前を言おうとした」
それを、護送者が制した。
発語控。
声を出すな。
喉を痛めている。
声を出すと発作が出る。
そう説明されていた理由が、少しずつ見えてくる。
話せば、自分の名前を言えるからだ。
オスカーが記録する。
潮待館宿帳追記:若き書記、名を言おうとする。護、制す。
次に、部屋割り帳。
二階奥の部屋は、港側ではなく裏庭側だった。
窓から外へ声が届きにくい部屋である。
部屋割りには、こうある。
二階奥三。護二同廊。若、内。鍵外。
鍵外。
部屋の外から鍵をかける。
保護ではなく、監禁に近い扱いだった。
ミレーヌは、少し顔を青くしながら書いた。
二階奥三号室。護送者二名は同廊。若は室内。鍵は外。
カレル調査官が低く言った。
「保護客への扱いではない」
「はい」
クラリスは答えた。
「少なくとも、自由に動ける客ではありません」
港医の往診控えも見つかった。
潮待館の宿主が、若い書記の様子を不審に思い、港医を呼んだらしい。
往診控えには、こうある。
若年男。衰弱軽。打撲なし。手首赤み。声出し禁と護送者申すも、喉所見なし。本人、筆談求む。護送者拒む。
ミレーヌが、息を止めた。
「喉所見なし……」
「声を出せない病状ではなかった可能性が高いです」
クラリスは言った。
手首の赤み。
ノルベルトが腕を強く掴んだと証言していた。
革紐一本忘れ。
拘束かもしれない。
それらともつながる。
そして、筆談を求めた。
話せないなら、書こうとした。
それも拒まれた。
オスカーの筆が重く動く。
港医往診控え:若年男、衰弱軽、打撲なし、手首赤み。声出し禁と説明されたが喉所見なし。本人は筆談を求め、護送者が拒否。
クラリスは、しばらくその記録を見つめた。
ハーゲンは、まだ戦っていた。
声を封じられても、筆談を求めた。
書くことで、自分の名を戻そうとしていた。
ミレーヌは、小さく言った。
「書記だから……」
「はい」
クラリスは頷いた。
「彼は、書くことで戻ろうとしたのでしょう」
午後、潮待館で当時女中をしていた女性が見つかった。
名はベラ。
今は港の乾物屋で働いているという。
王弟府の照会に応じ、王都へ来ていた。
ベラは、最初、あまり話したがらなかった。
だが、クラリスが「責めるためではなく、若い書記の足取りを確認したい」と伝えると、少しずつ話し始めた。
「覚えています。声を出すなと言われていた若い人」
「どんな様子でしたか」
カレルが尋ねる。
「疲れていました。でも、目ははっきりしていました。怯えているというより、怒っているような……いえ、悔しそうでした」
「話しましたか」
「護送の人が近くにいる時は、話せませんでした。でも、水を置いた時、指で机を叩いて……紙を、と」
「紙を?」
「はい。紙と筆を欲しがっていました」
「渡しましたか」
ベラは唇を噛んだ。
「渡せませんでした。護送の一人が、筆記具は不要だと」
「護送者は二人?」
「はい。背の高い男と、顎に傷のある男」
ベリオとカッツかもしれない。
ミレーヌが書く。
ベラ証言:若い書記は紙と筆を求めた。護送者は二名。背の高い男、顎に傷のある男。
「その若い人は、名前を言いましたか」
クラリスが尋ねる。
ベラは、少し迷った。
「言いかけました」
「何と?」
「“ハ……”」
部屋の空気が止まった。
ベラは続ける。
「“ハー……”まで聞こえたと思います。その時、護送の男が机を叩いて、“喉を痛めていると言っただろう”と」
ミレーヌの筆が震える。
ハー。
ハーゲン。
まだ断定ではない。
だが、強い。
ベラ証言:若い書記は“ハー…”まで名乗りかけ、護送者に制止された記憶。
クラリスは静かに尋ねた。
「その後、その方はどうなりましたか」
「朝前に出されました。まだ暗い時間です」
「歩けましたか」
「歩けました。けれど、腕を掴まれていました」
「抵抗は?」
「大きくは。けれど、外へ出る前に振り返りました」
「どこを?」
「机の上を」
「なぜ?」
「分かりません。でも、そこに何かを置きたかったのか、取りたかったのか……」
机。
筆談を求めた机。
そこに、何かを残そうとしたのかもしれない。
潮待館の二階奥三号室は、すでに改装されていた。
だが、当時の机は倉庫に残っていた。
王弟府の依頼で、急ぎ確認された。
机の裏側。
引き出しの下。
そこに、かすかな引っかき傷があった。
文字と呼ぶには薄い。
しかし、ヘレナが写しを取り、光を当てて確認した。
読めるかもしれない文字。
Hgn
Hgn。
ハーゲンの略署名。
ミレーヌは、手で口元を押さえた。
クラリスも、一瞬だけ言葉を失った。
ヘレナは慎重だった。
「Hgnと読める可能性があります。ただし、傷が浅く、別の擦れの可能性もあります」
「それで構いません」
クラリスは言った。
潮待館旧二階奥三号室机裏に“Hgn”と読める可能性のある浅い引っかき傷。断定不可。
だが、そこに彼がいたことを示すには、十分すぎるほど重い手がかりだった。
さらに、机の引き出し奥から小さな紙片が見つかった。
古い紙の端。
ほとんど白紙だが、角に鉛筆のような薄い跡がある。
紙を
それだけ。
紙を。
筆談を求めた若い書記が、何とか書いたのかもしれない。
あるいは、別の時期の客の落書きかもしれない。
断定はできない。
だが、ベラの証言と合う。
クラリスは、目を伏せそうになる自分を抑えた。
報告書の言葉にしなければならない。
感情だけでは、届かない。
夕方、西海交易団連絡員が追加資料を持ってきた。
潮待館から次に出た便の控えだった。
契書補一。朝前、北桟橋へ。船便ではなく陸路分所へ変更。理由:声不調。
船ではなかった。
陸路分所へ変更。
ミレーヌが顔を上げる。
「船に乗っていない?」
「少なくとも、この記録では陸路分所へ変更されています」
クラリスは答えた。
「行き先は?」
オスカーが確認する。
「西海交易団の北分所。港から半日ほど内陸です」
また、道が続く。
だが、今回は希望もあった。
船に乗っていれば追跡は難しくなる。
陸路なら、宿場や分所の記録が残るかもしれない。
夜、顧問室で報告書がまとめられた。
表題。
潮待館宿泊記録および若い書記本人痕跡確認報告
主な内容。
一、潮待館宿帳に「王都商務便。外客荷二。契書補一。護二。二階奥。発語控」。
二、宿帳追記に「若き書記、名を言おうとする。護、制す」。
三、部屋割り帳に「二階奥三。護二同廊。若、内。鍵外」。若い書記は外から鍵をかけられた状態。
四、港医往診控えに「若年男。衰弱軽。打撲なし。手首赤み。声出し禁と護送者申すも、喉所見なし。本人、筆談求む。護送者拒む」。
五、潮待館元女中ベラ証言では、若い書記は紙と筆を求め、“ハー…”まで名乗りかけ、護送者に制止された記憶。
六、護送者は背の高い男と顎に傷のある男。ベリオ、カッツの可能性あり。
七、若い書記は朝前に出立。歩行可能だが腕を掴まれていた。
八、旧二階奥三号室の机裏に「Hgn」と読める可能性のある浅い引っかき傷。
九、机引き出し奥から「紙を」と読める可能性のある小紙片を発見。筆談要求証言と整合。
十、潮待館からの次便は船便ではなく、陸路分所へ変更。理由は「声不調」。行き先は西海交易団北分所。
十一、以上より、潮待館にいた契書補一はハーゲン補助官である可能性がさらに高まる。到着時点で意識・歩行能力があり、名乗り・筆談を試みていた可能性。
クラリスは最後に一文を書いた。
潮待館で、若い書記は自分の名を取り戻そうとしていた。声を止められても、紙を求め、机の裏にHgnと残そうとした可能性がある。
ミレーヌは、壁の前でしばらく動かなかった。
筆を持つ指が、少し白くなる。
やがて、彼女はこう書いた。
声を止められた人は、紙に名前を残そうとする。
イリスが、その札をそっと受け取った。
壁へ貼る時、いつもより少し丁寧だった。
国際案件の箱に、報告書が入る。
ハーゲンは、潮待館にいた可能性が高い。
名乗ろうとした。
紙を求めた。
筆談を拒まれた。
それでも、机の裏に自分の略名を刻もうとしたかもしれない。
そして、彼は船には乗らなかった。
陸路へ変えられた。
西海交易団北分所。
次に追うべき場所は、そこだった。
王宮から遠く離れた内陸の分所。
もしそこに記録が残っていれば、ハーゲンの足取りは、まだ続いている。
名前を奪われても、彼は完全には消えていなかった。
机の裏に、紙片に、そして人の記憶に。
小さく、しかし確かに残っていた。




