第165話 西海便は、人を荷札に変えて運んだ
西海便。
その言葉は、ただの行き先ではなかった。
王都から西へ向かう商務便。
港町へ向かう荷馬車。
外客の荷をまとめる経路。
そして、商務評議会が表に出したくないものを、王宮の外へ遠ざけるための道。
月鹿亭の宿帳には、短く残っていた。
保護客一。若。声出し不可。朝前出立。西海便。
若い書類係。
発語避。
保護客。
朝前出立。
西海便。
その一行の中に、ハーゲン補助官の足取りがある可能性が高まっていた。
ミレーヌは、壁の札を見上げていた。
生きて歩いていた記録は、消えた人への道しるべになる。
「今日は、西海便ですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「月鹿亭から朝前に出た便を追います」
「ハーゲンさんが、そこに乗せられたかもしれない」
「ええ」
「でも、“保護客”って書かれているのが嫌です」
「はい」
クラリスは静かに答えた。
「保護という言葉は、本当に守る時にも使われます。ですが、人の自由を奪ったことを柔らかく見せるためにも使われます」
オスカーが資料を並べた。
月鹿亭の宿帳。
西海便の乗継控え。
グラン馬車組の朝便記録。
商務評議会の外客移送控え。
西海交易団の荷札控え。
そして、港町へ向かう途中宿の通過印。
イリスが茶を置きながら、そっと言った。
「人を荷の言葉で運ぶ時は、途中から名前が減ります」
「名前が減る?」
ミレーヌが尋ねる。
「はい。最初は“若い書類係”。次は“保護客”。その次は“同行者一”。最後には“荷添え”になる。そうして、誰だったかが消えていきます」
クラリスは頷いた。
「今日は、その名前の減り方を見ます」
最初に確認されたのは、グラン馬車組の朝便記録だった。
月鹿亭から西海方面へ向かう早朝便。
通常は商務書類、外客の荷、護衛付きの小型貨物を運ぶ。
その日の欄には、こうあった。
月鹿亭発。外客荷二、保護客一、護送二。西海筋。声扱注意。
声扱注意。
発語避と同じ流れだった。
ミレーヌの筆が止まりかける。
「声扱注意……」
「話させるな、という運用に見えます」
クラリスは答えた。
「ただし、病人という建前だった可能性もあります」
さらに右端。
医札なし。商務扱。
医札なし。
つまり、病人として運ぶなら必要なはずの医療札がない。
それなのに、声を出すと発作が出ると説明されていた。
実際の病人ではなく、商務扱いの保護客。
オスカーが記録する。
グラン馬車組朝便記録:月鹿亭発、外客荷二、保護客一、護送二、西海筋、声扱注意。医札なし、商務扱。
カレル調査官が低く言った。
「医札なしは重要だ」
「はい」
クラリスは頷いた。
「声を出させない理由が病状ではなく、商務側の都合だった可能性が高まります」
次に、月鹿亭から最初の中継宿までの通過控えが開かれた。
中継宿の名は、風待宿。
そこには、早朝の到着記録がある。
西海便。荷二、添二、若一。若、手負いなし。口数少。
手負いなし。
ミレーヌが小さく息を吐いた。
「怪我はなかった……?」
「少なくとも、風待宿の者にはそう見えた可能性があります」
クラリスは答える。
「ただ、詳しい診察ではありません」
口数少。
それは、話させるなという指示に従わされていたのか。
それとも、本人が警戒して口を閉ざしていたのか。
まだ分からない。
風待宿通過控え:西海便、荷二、添二、若一。若は手負いなし、口数少。
さらに、風待宿の当時の下働きが見つかった。
名はコリン。
彼は、王都から来た若い客をうっすら覚えていた。
「顔色の悪い若い人でした」
「話していましたか」
カレルが尋ねる。
「ほとんど。ただ、水を出した時、小さく“ここはどこですか”と聞かれた気がします」
ミレーヌの筆が止まった。
ここはどこですか。
つまり、本人は行き先を知らなかった可能性がある。
「あなたは何と?」
「風待宿です、と。そう言ったら、その人は黙りました」
「護送の者は?」
「二人いました。黒い頭巾ではありませんでしたが、顔をあまり見せない男たちでした。一人が、“話させるな。喉を痛めている”と言いました」
喉を痛めている。
発語避が、また別の説明に変わっている。
ミレーヌが記録する。
風待宿元下働きコリン証言:若い客は顔色が悪く、水を出した際“ここはどこですか”と小声で尋ねた記憶。護送者が“話させるな。喉を痛めている”と説明。
クラリスは胸の奥が冷えるのを感じた。
ハーゲンは、少なくとも風待宿までは意識があり、周囲を認識しようとしていた。
そして、自分がどこへ向かっているのか、知らなかった可能性がある。
午後、さらに西の宿場記録が確認された。
次の中継地、石橋宿。
ここでは、記録の呼び方が変わっていた。
外客荷二。荷添え一。護二。西海港へ。
若一が、荷添え一になっている。
名前が減った。
人が、荷に添う者になった。
ミレーヌは、イリスの朝の言葉を思い出したように顔を上げた。
「名前が減っています」
「はい」
クラリスは答えた。
「保護客から、荷添えになりました」
「本人が荷に添っていることにされた?」
「そう見えます」
石橋宿の備考欄には、さらにこうある。
声少。護送者曰く、契約書記。
契約書記。
ハーゲンは、どこかの契約書記として扱われ始めている。
財務院補助官ではなく。
保護客でもなく。
契約書記。
クラリスは白紙に書いた。
身分言い換え
定義。
本来の所属・氏名を出さず、保護客、荷添え、契約書記など用途に応じた呼称へ変えることで、本人確認と責任確認を困難にする状態。
ミレーヌは、悔しそうに書き写した。
西海港へ向かう最終便の記録は、さらに薄かった。
契書一、外客荷二、護二。西海交易団扱。
契書一。
契約書記一名の略か。
あるいは、契約書類一箱か。
人か紙かが、さらに曖昧になる。
カレルが顔をしかめた。
「契書一は、人か書類か」
「このままでは分かりません」
クラリスは言った。
「西海交易団側の受領控えを見ましょう」
西海交易団の受領控えは、商務評議会から取り寄せられたものだった。
そこには、同じ日の夕方。
王都発外客荷二、契書補一、護送引継ぎ。港宿へ。
契書補一。
契約書記補助一名とも読める。
ハーゲン補助官。
書類係。
契書補。
嫌な形で呼び方が合っていく。
受領印は、西海交易団の副使のもの。
その横に小さく。
発語控。王都事情。
発語控。
王都事情。
ミレーヌが唇を噛んだ。
「まだ話させない……」
「はい」
クラリスは頷いた。
「王都事情、という言葉で伏せています」
西海交易団受領控え:王都発外客荷二、契書補一、護送引継ぎ、港宿へ。備考“発語控。王都事情。”
夕方、当時の西海交易団副使への照会文が作られた。
今は王都にいないため、即時聴取はできない。
ただし、西海交易団の王都常駐連絡員が呼ばれた。
連絡員は、記録を見て困った顔をした。
「契書補一というのは、契約書記補助の略です。外客の契約書類を読む者、あるいは翻訳補助をする者をそう呼びます」
「王都から来た人物ですか」
「そうでしょう」
「本人名は?」
「この控えにはありません」
「なぜ名前を書かないのですか」
「臨時補助者の場合、商務評議会側の紹介名義で済ませることがあります」
「紹介名義は?」
連絡員は紙をめくる。
そして、少し顔を強張らせた。
「K筋紹介、とあります」
部屋の空気が沈む。
また、K筋。
クラリスは静かに言った。
「記録してください」
ミレーヌが、震える筆で書く。
西海交易団別控えに“契書補一 K筋紹介”。本人名なし。
「その人物は、どうなりましたか」
カレルが尋ねる。
連絡員は首を振る。
「私には分かりません。西海港の港宿で一度登録され、その後、交易団の船便か、陸路の分所へ移された可能性があります」
「西海港の港宿名は?」
「潮待館です」
潮待館。
次の場所が出た。
王宮から月鹿亭へ。
月鹿亭から風待宿へ。
石橋宿へ。
西海港へ。
潮待館へ。
ハーゲンは、遠ざけられている。
少しずつ名前を削られながら。
夜、顧問室で報告書がまとめられた。
表題。
西海便乗継および契書補一確認報告
主な内容。
一、グラン馬車組朝便記録に「月鹿亭発。外客荷二、保護客一、護送二。西海筋。声扱注意。医札なし。商務扱」。
二、風待宿通過控えに「西海便。荷二、添二、若一。若、手負いなし。口数少」。
三、風待宿元下働きコリン証言では、若い客は「ここはどこですか」と小声で尋ね、護送者は「話させるな。喉を痛めている」と説明。
四、石橋宿では「外客荷二。荷添え一。護二。西海港へ」。備考「声少。護送者曰く、契約書記」。
五、最終便記録では「契書一、外客荷二、護二」。人か書類か曖昧化。
六、西海交易団受領控えに「王都発外客荷二、契書補一、護送引継ぎ。港宿へ」。備考「発語控。王都事情」。
七、西海交易団連絡員によれば、契書補一は契約書記補助を指す可能性が高い。別控えに「契書補一 K筋紹介」。本人名なし。
八、呼称は、保護客一→若一→荷添え一→契書一→契書補一へ変化。本名・所属が消え、商務用途名へ置き換えられている。
九、医札がないにもかかわらず発語制限が継続しており、病状ではなく証言防止または身元隠しの可能性。
十、ハーゲン補助官に相当する若い書類係が、西海港の港宿・潮待館へ移された可能性が高まる。
十一、潮待館の宿帳、交易団船便・陸路分所記録、護送者ベリオ・カッツの所在確認が必要。
クラリスは最後に一文を書いた。
西海便は、ハーゲン補助官の名を保護客から荷添えへ、荷添えから契書補へ変えながら運んだ。人は生きていたが、紙の上では少しずつ荷札へ変えられていた。
ミレーヌは、壁の前で筆を取った。
怒りと悔しさを飲み込むように、一度深く息をした。
そして、こう書いた。
名前が減っていく記録ほど、最初の名前へ戻して読む。
イリスが、その札を壁へ貼った。
国際案件の箱に、また一枚、報告書が入る。
ハーゲンは、少なくとも西海便の途中まで生きていた可能性が高い。
怪我は見えず、歩けた。
水を飲み、ここはどこかと尋ねた。
話すことを禁じられていた。
そして、契約書記補助という別の名を与えられ、西海港へ向かった。
次に追うべきは、潮待館。
西海港の港宿。
そこで、彼はさらにどの名前に変えられたのか。
それとも、そこで初めて誰かが彼の本当の名を聞いたのか。
王宮の外へ伸びた道は、まだ続いていた。




