第164話 別の馬車は、白館札ではなく護送札で出た
馬車は、嘘をつきにくい。
人は名を隠せる。
札は名義をぼかせる。
机は責任を吸い込める。
けれど、馬車は道を通る。
車輪は土を踏む。
馬は餌を食べる。
御者は交代する。
厩舎には出入りの記録が残る。
夜に出れば、門番や巡回兵の目に触れる。
ハーゲン補助官は、旧礼拝堂裏から別の馬車に乗せられた。
ノルベルト・サイスはそう証言した。
白館札付きの小型馬車ではない。
控三を積んで南倉へ向かった外客箱の馬車とは別。
黒い頭巾の男二名。
別の馬車。
行き先不明。
クラリスは、顧問室の机にその三つを書いた。
別馬車。
黒頭巾二名。
行き先不明。
ミレーヌは、前日の札を見上げていた。
現物がない場所へ呼んだなら、それは確認ではなく奪うための道である。
「怖いですね」
ミレーヌは小さく言った。
「はい」
クラリスは否定しなかった。
「ですが、怖いからこそ分けて見ます」
「控三は南倉へ。ハーゲンさん本人は別馬車へ」
「ええ」
「その別馬車を探す」
「はい」
オスカーが資料を並べた。
南門外の夜間馬車控え。
旧礼拝堂道周辺の巡回日誌。
王宮厩舎の臨時貸出簿。
商務評議会の外客馬車手配控え。
港湾側の夜間護送札記録。
そして、黒頭巾に関する過去の雑記録。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「馬車が人を運ぶ時、荷よりも気を遣います」
「どうしてですか?」
「荷は文句を言いません。人は声を出すかもしれません。だから、人を静かに運びたい時ほど、御者や馬車の選び方が変わります」
クラリスは頷いた。
「今日は、声を出させないための馬車を見ます」
まず確認されたのは、旧礼拝堂道の巡回兵日誌だった。
前日に見た記録。
夜半前、礼道より小型馬車一。灯一。御者二名か。荷あり。声なし。黒手袋、白館札。
これは、控三の入った外客箱を運んだ可能性が高い。
だが、同じ日誌のさらに後ろ。
別の巡回兵が、別の道で記録を残していた。
夜半後、礼裏林道より覆い馬車一。灯消し。南門を避け西柵道へ。黒頭二。札見えず。馬速遅。
ミレーヌの筆が止まった。
「覆い馬車……」
「はい」
クラリスは静かに言った。
「これが別馬車かもしれません」
灯を消している。
南門を避け、西柵道へ。
黒頭二。
札は見えず。
馬速遅。
声の記録はない。
だが、静かに何かを運んでいる。
オスカーが記録する。
巡回兵日誌別記:夜半後、旧礼拝堂裏林道より覆い馬車一。灯消し。南門を避け西柵道へ。黒頭巾二名らしき記述。札見えず。馬速遅。
カレル調査官が低く言った。
「南門を避けた」
「はい」
クラリスは答えた。
「白館札や外客札で通す馬車なら、南門を通ってもよかったはずです」
「では、見せられない札だったか、札そのものがなかった」
「あるいは、別の門を使う理由があった」
次に確認されたのは、西柵道の小門記録だった。
王宮南西の外柵には、普段は閉じられている小さな通用門がある。
正式な門ではない。
施設局や夜間警備、厩舎の緊急移動で使われることがある。
その夜の記録には、短くこうあった。
夜半後、護送札一。西柵通過。行先:西外宿。
護送札。
これまでの白館札でもG札でもない。
新しい札。
ミレーヌが顔を上げた。
「護送札?」
「人を護送する時に使う札です」
カレルが答えた。
「通常は、病人、保護対象者、拘束者、あるいは機密関係者を移す時に使われます」
「ハーゲンさん……」
「まだ断定しません」
クラリスは言った。
「ですが、別馬車が人を運んだ可能性は高まります」
記録には、札の発行元があった。
発:商務評議会臨時保護係
オスカーが眉を寄せる。
「商務評議会に臨時保護係などありましたか?」
グレゴール参事官が資料をめくり、低く言った。
「正式な係ではありません。外客の酔客、病人、夜間保護を扱う便宜名です。白鴎館で問題を起こした者を、表沙汰にしないために使うことがあった」
ミレーヌの顔が強張る。
「表沙汰にしない……」
「ええ」
クラリスは答えた。
「また、正式ではないが動く名前です」
西柵小門記録:夜半後、護送札一、西柵通過。行先西外宿。発行元は商務評議会臨時保護係。正式係ではなく便宜名の可能性。
次は、護送札の発行控えだった。
商務評議会の奥に、護送札の控えが残っていた。
そこには、二年前の失踪当日と同じ夜。
保護対象一。若。書類係。発語避。西外宿へ一時。N.S.確認。
部屋の空気が凍った。
若。
書類係。
発語避。
西外宿へ一時。
N.S.確認。
若い書類係。
ハーゲン補助官と合う。
発語避。
声を出させるな、という意味にも見える。
あるいは、本人が話せない状態だったのか。
ミレーヌの筆が震える。
クラリスは、あえてゆっくり言った。
「断定はしません」
その声は、自分自身にも言い聞かせるためだった。
「ただし、非常に重要です」
オスカーが記録する。
護送札控え:保護対象一、若、書類係、発語避、西外宿へ一時、N.S.確認。ハーゲン補助官を指す可能性。
カレルが言った。
「N.S.確認」
「ノルベルトです」
ミレーヌが低く言った。
「また、ノルベルトさん」
「はい」
クラリスは頷いた。
「彼は、控三を紙箱へ移しただけでなく、本人の護送札にも関わっていた可能性があります」
午後、ノルベルト・サイスが再度呼び出された。
彼は昨日よりも顔色が悪かった。
椅子に座ると、すぐに手を組む。
クラリスは、護送札控えを出した。
保護対象一。若。書類係。発語避。西外宿へ一時。N.S.確認。
「これは何ですか」
ノルベルトは紙を見たまま、しばらく答えなかった。
「答えてください」
カレルの声は静かだが硬い。
「護送札です」
「誰の?」
「分かりません」
「N.S.確認とあります」
「私が形式確認をしたのでしょう」
「保護対象一、若、書類係。ハーゲン補助官ですか」
ノルベルトは黙った。
沈黙。
ミレーヌが筆を構えたまま待つ。
やがて、ノルベルトは低く言った。
「その可能性があります」
「可能性ではなく、あなたは見たのですか」
「見ました」
部屋の空気がさらに重くなる。
「ハーゲン補助官を?」
「名は知りませんでした。若い財務官です」
「状態は?」
ノルベルトは目を伏せた。
「意識はありました」
ミレーヌが、ほんの少し息を吐いた。
「では、“発語避”とは?」
「話させるな、という意味です」
クラリスは、胸の奥が冷えるのを感じた。
「誰の指示ですか」
「護送札に書かれていました」
「誰が書いた?」
「分かりません」
「また分からない」
グレゴールの声が低く落ちる。
ノルベルトは黙ったままだ。
クラリスは問いを変えた。
「なぜ話させてはいけなかったのですか」
「彼が騒げば、巡回兵や門番に聞かれる」
「彼は騒いでいたのですか」
「騒いではいません。ただ、強く抗議していました」
「何と?」
「紙を返せ。現物を見せろ。これは不正だ、と」
ミレーヌの筆が震えた。
ハーゲンは、最後まで言っていた。
紙を返せ。
現物を見せろ。
これは不正だ。
「黒頭巾二名は誰ですか」
カレルが尋ねる。
「護送人です」
「名前を」
「記録には……」
「今、名前を」
ノルベルトは唇を噛んだ。
「ベリオとカッツ」
「所属は?」
「商務評議会の臨時保護係に出入りしていた者です。外部雇い」
「現在は?」
「分かりません」
クラリスは記録させた。
ノルベルト証言:黒頭巾二名はベリオ、カッツ。商務評議会臨時保護係出入りの外部雇い。現在所在不明。
「西外宿とはどこですか」
ノルベルトは、目を伏せた。
「西外れの宿です。正式名は、月鹿亭」
「なぜそこへ?」
「一時的に落ち着かせるため、と聞いています」
「落ち着かせる?」
「……外へ出すためです」
「どこへ」
「知りません」
また、そこで切れる。
西外宿、月鹿亭。
次の場所が見えた。
クラリスは、護送札の発行元を指した。
「商務評議会臨時保護係。この便宜係を実質的に管理していたのは誰ですか」
「臨時施設手配側です」
「つまり、あなたの部署」
「はい」
「上は?」
ノルベルトは答えなかった。
クラリスは静かに言った。
「ケイン元参事補佐ですか」
「外部顧問として、助言はしていました」
「助言ではなく、指示ですか」
「私は直接、この護送についてケイン様から聞いていません」
「では、誰から?」
「連絡卓です」
何度も出てくる答えだった。
だが、もうそれは逃げ道であると同時に証拠でもある。
連絡卓が動けば、人が消える。
その構造が明らかになっている。
ノルベルトの確認後、王宮厩舎の貸出簿が調べられた。
該当する覆い馬車は、王宮厩舎ではなく、商務評議会の契約馬車だった。
契約先は、グラン馬車組。
その夜の記録。
覆い馬車一。西柵。護送。月鹿亭。戻り翌朝。清掃要。
清掃要。
ミレーヌの顔が強張る。
「清掃……」
「血痕とは限りません」
クラリスはすぐに言った。
「泥、嘔吐、酒、汚れ、いろいろあります」
だが、確認は必要だった。
馬車組の古い清掃控えには、こうあった。
後部座席、紙片多。床泥。革紐一本忘れ。血なし。
血なし。
その二文字で、部屋の空気がわずかに変わった。
少なくとも、車内に明らかな血はなかった。
革紐一本忘れ。
これは拘束具か、鞄の紐か、荷紐か。
保全されていればよかったが、古い清掃控えでは、紐は廃棄とされていた。
紙片多。
ハーゲンの控三の一部か。
あるいは、別の書類か。
これも残っていない。
ミレーヌは、悔しそうに唇を噛んだ。
「また捨てられている……」
「はい」
クラリスは答えた。
「それでも、血なしは重要です」
グラン馬車組清掃控え:後部座席に紙片多、床泥、革紐一本忘れ。血なし。紙片・革紐は廃棄済み。
次に、月鹿亭の記録が確認された。
西外れの宿。
王宮関係者が表に出せない客や外部商人を一時的に泊めることがあった場所。
宿帳には、失踪当日深夜に記録がある。
保護客一。若。声出し不可。朝前出立。西海便。
ミレーヌの筆が止まった。
朝前出立。
西海便。
ハーゲン本人も、西海へ向かった可能性。
控三だけではなく。
部屋が重く沈む。
クラリスは、声を保った。
「宿帳の筆跡と記録者を確認します」
宿帳には署名はない。
ただ、宿主の印がある。
月鹿亭の当時の宿主はすでに亡くなっていたが、息子が帳簿を保管していた。
息子は、父から聞いた話としてこう言った。
「若い男が、夜中に連れてこられたことがあると聞いたことはあります。病人だと言われた、と」
「病人?」
「声を出すと発作が出るから話させるな、と。父は、そう聞いたそうです」
ミレーヌの顔色が変わる。
「発語避」は、そう説明されたのか。
話させるな、を病気に偽装する。
「その人は翌朝?」
「朝前に出たと。西の商務便に乗せる、と聞いたそうです」
「本人の意思で?」
息子は首を振った。
「父は、分からないと言っていました。ただ、若い男は歩けたそうです」
歩けた。
生きていた。
少なくとも、月鹿亭に着いた時点では。
ミレーヌの目に、少しだけ光が戻る。
クラリスも、胸の奥で静かに息をした。
夜、顧問室へ戻った時、全員が疲れていた。
それでも報告書はまとめられる。
表題。
別馬車・護送札・月鹿亭経由確認報告
主な内容。
一、巡回兵日誌別記に「夜半後、礼裏林道より覆い馬車一。灯消し。南門を避け西柵道へ。黒頭二。札見えず。馬速遅」。
二、西柵小門記録に「夜半後、護送札一。西柵通過。行先:西外宿」。発行元は商務評議会臨時保護係。
三、護送札控えに「保護対象一。若。書類係。発語避。西外宿へ一時。N.S.確認」。
四、ノルベルトは、若い財務官風人物を見たこと、意識はあったこと、話させるなという意味で“発語避”が使われたことを認める。
五、当該人物は「紙を返せ。現物を見せろ。これは不正だ」と抗議していたとのノルベルト証言。
六、黒頭巾二名はベリオ、カッツという外部雇いの護送人と証言。所在不明。
七、行き先は西外れの宿・月鹿亭。
八、グラン馬車組記録に「覆い馬車一。西柵。護送。月鹿亭。戻り翌朝。清掃要」。清掃控えに「後部座席、紙片多。床泥。革紐一本忘れ。血なし」。
九、月鹿亭宿帳に「保護客一。若。声出し不可。朝前出立。西海便」。
十、宿主遺族証言では、若い男は病人扱いで、声を出すと発作が出ると説明されていた。到着時点では歩行可能だったと聞いている。
十一、以上より、ハーゲン補助官は旧礼拝堂裏から別馬車で月鹿亭へ護送され、翌朝前に西海便へ移された可能性が高まる。
十二、ベリオ、カッツ、月鹿亭から西海便への乗継記録、西海便の行き先確認が最優先。
クラリスは最後に一文を書いた。
別の馬車は、ハーゲン補助官を沈黙させたまま殺した馬車ではなく、彼を王宮の外へ運ぶための護送馬車だった可能性が高い。彼は月鹿亭までは生きて歩いていた。
ミレーヌは、壁の前に立った。
筆を持つ手は震えていたが、昨日までとは違う震えだった。
恐怖だけではない。
希望に似たものも混じっていた。
彼女は書いた。
生きて歩いていた記録は、消えた人への道しるべになる。
イリスが、その札を貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
ハーゲンは、旧礼拝堂で終わっていなかった。
月鹿亭までは、生きていた。
歩けた。
抗議していた。
紙を返せ。
現物を見せろ。
これは不正だ。
その声は、発語避という言葉で封じられた。
だが、完全には消えなかった。
次に追うべきは、西海便。
朝前に月鹿亭を出たその便が、どこへ向かったのか。
ハーゲン補助官は、まだどこかで生きているのか。
それとも、西海筋のさらに先で、また別の名前を与えられて消されたのか。
道は、王宮の外へ伸びていた。




