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第163話 黒外套の男は、鍵を持っていた

黒外套の男。


 それは、灰色外套の男とは違う影だった。


 灰色外套の男――セヴラン・ドールは、B机の影を着せられた運び役だった。


 右足を引き、低い声で、旧礼拝堂へ布を運んだ。


 けれど、ハーゲン補助官が失踪した夜、旧礼拝堂道の奥で彼を引き継いだ人物は、灰色ではなかった。


 黒外套。

 黒手袋。

 細身。

 商務評議会の内側の者の立ち方。

 そして、礼拝堂裏の小屋に、あらかじめ紙箱を用意していた可能性。


 荷係ではない。


 単なる使丁でもない。


 鍵を持っている者だ。


 クラリスは、顧問室の机に三つの場所を書いた。


 K筋連絡卓。

 旧礼拝堂裏小屋。

 南倉一時保管庫。


 この三つすべてに触れられる人物。


 そこに、黒外套の男はいるかもしれない。


 ミレーヌは、前日の札を見上げていた。


 紙だけが運ばれたなら、紙を持っていた人はどこへ行ったのか。


「今日は、黒外套の男ですね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「ラザル様は、旧礼拝堂道の途中で黒外套の男へハーゲン補助官を引き継いだと証言しました」


「その人は商務評議会の内側の者のようだった」


「ええ」


「内側、というのは……鍵を持っている人?」


「可能性があります」


 オスカーが資料を並べた。


 商務評議会の鍵貸出控え。

 南倉一時保管庫の夜間開閉記録。

 旧礼拝堂裏小屋の古い管理簿。

 外部顧問控室の黒外套貸与控え。

 K筋連絡卓の使用簿。

 そして、失踪当日の出入り記録。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「鍵を持つ方は、手ぶらに見えても道を開けます」


「道を開ける……」


 ミレーヌが繰り返す。


「はい。荷を運ぶ方より、鍵を持つ方の方が、奥へ入れます」


 クラリスは、その言葉を白紙に書いた。


 荷を運ぶ手より、鍵を開ける手を見る。


 最初に確認したのは、旧礼拝堂裏小屋の鍵だった。


 旧礼拝堂は廃されて久しい。


 だが、完全に放置されていたわけではない。


 施設局の古い管理では、裏小屋は「臨時保管・修繕資材置き」として登録されていた。


 普段は使われない。


 しかし、白鴎館や商務評議会の臨時荷があふれた時、短時間の仮置き場所として使われることがあったらしい。


 その鍵は、施設局本庫に一本。


 そして、商務評議会の臨時施設手配係に一本。


 ミレーヌが顔を上げた。


「商務評議会にも鍵があったのですね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「ここが重要です」


 鍵貸出控えには、失踪当日の午後に記録があった。


 礼裏小屋鍵 臨時施設確認 N.S.


 N.S.


 オスカーが名簿を確認する。


「該当者が一人います。ノルベルト・サイス。商務評議会臨時施設手配主任補佐」


 新しい名。


 ミレーヌは慎重に書いた。


 礼拝堂裏小屋鍵貸出:失踪当日午後、N.S.。ノルベルト・サイスの可能性。


 クラリスは尋ねた。


「ノルベルト・サイスとは?」


 オスカーが読み上げる。


「商務評議会の臨時施設手配主任補佐。白鴎館、南倉一時保管庫、外客荷の調整を担当。ケイン元参事補佐の外部顧問就任後も、実務補佐として残っています」


 部屋の空気が変わる。


 白鴎館。

 南倉。

 外客荷。

 ケインの実務補佐。


 黒外套の男が通った場所に、すべて触れられる。


 だが、まだ名前が出ただけだ。


 次に南倉一時保管庫の夜間開閉記録を見る。


 失踪当日、夜半過ぎ。


 外客箱一 受。開閉:N.S.、L.M.立会。


 L.M.はラザル・メイ。


 N.S.は、おそらくノルベルト・サイス。


 ラザルは紙箱を南倉へ運んだと証言している。


 そこにN.S.が立ち会っていた。


 ミレーヌは、息を詰めて書いた。


 南倉夜間開閉記録:外客箱一受。開閉N.S.、L.M.立会。ラザル証言と整合。


 さらに、K筋連絡卓使用簿。


 失踪当日の夕方から夜にかけて、こうある。


 置:N.S. 取:V.R. H戸。

 置:N.S. 取:L.M. 礼道。白札。

 置:N.S. 取:N.S. 礼裏鍵。


 ミレーヌの筆が止まった。


 置いた者も、取った者も、N.S.


 自分で置き、自分で取っている。


 命令のようで、記録のようで、しかし結局同じ手の中にある。


 クラリスは静かに言った。


「これは強いです」


 オスカーが頷く。


「H戸は、ヴィクトルがハーゲン下宿へ赤茶小折紙を差し込んだ件と整合します。礼道・白札はラザルの旧礼拝堂道案内と整合。礼裏鍵は裏小屋鍵貸出と整合します」


「N.S.が、三つをつないでいます」


 ミレーヌが低く言った。


「はい」


 クラリスは答えた。


「ただし、本人確認が必要です」


 午前の終わりには、外部顧問控室の黒外套貸与控えも見つかった。


 商務評議会では、夜間外客対応用に濃色の外套が数着置かれていた。


 そのうち一着。


 黒外套一 N.S. 夜外。返却翌朝。裾土汚れ。


 日付は、失踪当日。


 黒外套。


 N.S.


 夜外。


 返却翌朝。


 ミレーヌの顔色が白くなる。


「かなり、重なります」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「それでも、まだ“可能性”です」


 午後、ノルベルト・サイスが呼び出された。


 彼は、予想より若かった。


 四十前後。


 背は高く、細身。


 髪は整えられ、顔立ちはやや神経質に見える。


 部屋に入る時、礼は丁寧だった。


 歩き方に癖はない。


 右足を引くこともない。


 黒手袋はしていなかったが、細い指をしていた。


 荷係ではなく、書類と鍵を扱う者の手だ。


 ミレーヌは、静かに記録した。


 ノルベルト・サイス。細身。歩行癖なし。商務評議会内務官風の立ち方。


 カレル調査官が確認する。


「ノルベルト・サイス。二年前、商務評議会臨時施設手配主任補佐でしたね」


「はい」


「白鴎館、南倉一時保管庫、旧礼拝堂裏小屋の臨時利用に関わっていましたか」


「職務上、関わることはありました」


「失踪当日、旧礼拝堂裏小屋の鍵を借りましたか」


 ノルベルトは、少しだけ眉を動かした。


「記録があるなら、そうなのでしょう」


「記憶は?」


「二年前の細かな鍵貸出を覚えている者はいません」


 ケインに似た答えだった。


 クラリスは紙を出した。


 礼裏小屋鍵 臨時施設確認 N.S.


「これはあなたですか」


「N.S.なら、私の可能性があります」


「可能性ではなく、あなたですか」


 ノルベルトは、軽く息を吐いた。


「私でしょう」


 認めた。


 だが、淡々としている。


「何のために借りましたか」


「臨時荷の確認です」


「何の荷ですか」


「分かりません」


「南倉記録では、同夜に外客箱一を受けています。開閉N.S.、L.M.立会」


「外客荷でしょう」


「中身は?」


「確認していません」


「なぜ」


「外客荷は封を尊重します」


 ミレーヌの筆が止まりかけた。


 封を尊重する。


 中身を見ない。


 また同じ構造だ。


 クラリスは尋ねる。


「旧礼拝堂道手前で、ハーゲン補助官をラザル・メイから引き継ぎましたか」


 ノルベルトは、初めて沈黙した。


 短くはない。


 部屋が静かになる。


「ハーゲン補助官という名は、当時知りませんでした」


「では、若い財務官を引き継ぎましたか」


「……会った可能性はあります」


「どこで」


「旧礼拝堂道の途中」


「ラザルから?」


「そうだったと思います」


 ミレーヌが、ゆっくり記録する。


 ノルベルト証言:ハーゲン名は知らなかったが、旧礼拝堂道途中で若い財務官と会った可能性を認める。ラザルからの引継ぎだったと思うと証言。


 カレルが問う。


「その人物は、小型鞄を持っていましたか」


「持っていたと思います」


「紙を持っていましたか」


「知りません」


「あなたは“先に紙を”と指示しましたか」


「それはラザルの役目です」


「では、あなたは何をしたのですか」


 ノルベルトは、細い指を組んだ。


「礼拝堂裏小屋へ案内しました」


「現物確認のため?」


「そう聞いていました」


「誰から」


「K筋連絡卓です」


「あなた自身が置いた札もあります」


 クラリスが、使用簿を出す。


 置:N.S. 取:L.M. 礼道。白札。

 置:N.S. 取:N.S. 礼裏鍵。


 ノルベルトは、それを見ても大きく表情を変えない。


「連絡卓の処理として書いたのでしょう」


「誰の指示で?」


「K筋です」


「K筋とは誰ですか」


「ケイン元参事補佐周辺です」


「あなたはその周辺の実務補佐でした」


「はい」


「つまり、あなた自身もK筋ですか」


 ノルベルトは、口を閉じた。


 それは今日一番の沈黙だった。


 クラリスは待った。


「職務上、そう見られていたかもしれません」


「そう見られていた、ではなく、あなたはK筋名義で札を置き、人を動かしましたか」


 ノルベルトは、視線を落とした。


「はい」


 ミレーヌの筆が止まり、また動いた。


「ケイン元参事補佐本人の指示ですか」


「直接の時も、間接の時もあります」


「この件は?」


「直接ではありません」


「では、誰から?」


「連絡卓にあった書き付けです」


「誰が置いた?」


「分かりません」


「あなたも同じことを言うのですね」


 グレゴール参事官が低く言った。


 ノルベルトは表情を変えない。


「それが連絡卓の運用でした」


 クラリスは静かに言った。


「運用ではなく、責任の隠し場所では?」


 ノルベルトは答えなかった。


 カレルが別の紙を出した。


 黒外套一 N.S. 夜外。返却翌朝。裾土汚れ。


「失踪当日、黒外套を借りています」


「夜間外出でしたので」


「茶売りエナ、ラザル両証言の黒外套男と整合します」


「私は、黒外套を着ていたでしょう」


「黒手袋は?」


「使ったと思います」


「ハーゲン補助官を礼拝堂裏小屋へ案内した後、どうしましたか」


 ノルベルトは、少しだけ視線を横に流した。


「そこで別の確認がありました」


「別の確認?」


「彼の紙を確認する必要があった」


「控三ですか」


 ノルベルトは、初めて明らかに反応した。


 指が動いた。


「その名を、どこで」


「こちらが確認しています」


 クラリスは答えた。


「あなたは控三を知っていたのですね」


 ノルベルトは、しばらく黙った後、言った。


「紙束が三つあると聞いていました」


「誰から」


「連絡卓です」


「ハーゲン補助官から紙を受け取りましたか」


「預かりました」


 部屋が静まり返る。


 ミレーヌの筆が震える。


「強奪ですか」


 カレルが尋ねる。


「違います。確認のために預かりました」


「彼は同意しましたか」


「渋っていました」


「何と言いましたか」


「現物と同時でなければ出せない、と」


「あなたは?」


「現物は小屋にある、と言いました」


「実際にありましたか」


 ノルベルトは黙った。


 長い沈黙。


「ありませんでした」


 ミレーヌの筆が止まった。


「現物はなかった?」


 クラリスが静かに確認する。


「少なくとも、私が案内した時点ではありませんでした」


「では、嘘をついた」


「私は、あると聞いていた」


「誰から?」


「連絡卓です」


「便利な机ですね」


 グレゴールの声は冷たかった。


 ノルベルトは何も言わない。


 クラリスは続けた。


「現物がないと分かった時、ハーゲン補助官は?」


「怒りました」


「何と?」


「約束が違う。これは照合ではなく、紙を奪う手順だ、と」


 ミレーヌは、息を呑んだ。


 ハーゲンは、気づいた。


 そこで、完全に気づいた。


 クラリスは、声を抑えた。


「その後?」


「彼は紙を取り戻そうとしました」


「あなたは?」


「止めました」


「どうやって」


「腕を掴みました」


「怪我を?」


「分かりません。強くは……」


「正確に」


 ノルベルトは、唇を噛んだ。


「強く掴みました」


 部屋の空気が凍る。


「その後、ハーゲン補助官はどうなりましたか」


 カレルが問う。


 ノルベルトは答えなかった。


 長い沈黙。


 沈黙が、痛いほど長い。


「答えなさい」


 レオンハルトの声が落ちた。


 静かだが、逃げ場のない声だった。


 ノルベルトは、喉を鳴らした。


「外に、もう一台の馬車がありました」


「白館札の小型馬車とは別ですか」


「はい」


「誰の馬車です」


「分かりません」


「ハーゲン補助官は、その馬車に?」


「乗せられました」


 ミレーヌの筆が止まった。


 今度はすぐに動かない。


 クラリスが静かに言った。


「書いてください」


 ミレーヌは、震える手で書いた。


 ノルベルト証言:控三を預かった後、ハーゲン補助官が紙を取り戻そうとし、ノルベルトが腕を強く掴んだ。その後、外にあった別の馬車へハーゲン補助官が乗せられたと証言。


「誰が乗せた」


 カレルが問う。


「黒い頭巾の男が二人」


「あなたは止めなかった」


「止められませんでした」


「なぜ」


「K筋の上の指示だと思った」


「誰が上ですか」


 ノルベルトは答えなかった。


「ケインか」


 グレゴールが言う。


 ノルベルトは、顔を上げなかった。


「私は、直接聞いていません」


「だが、そう思った」


「……はい」


 クラリスは、静かに尋ねた。


「控三はどうしましたか」


「紙箱へ入れました」


「南倉の外客箱一ですか」


「はい」


「西海筋へ出した」


「そう記録しました」


「ハーゲン補助官本人は?」


「別の馬車です」


「行き先は?」


 ノルベルトは、震える声で言った。


「知りません」


「本当に?」


「知りません」


 その顔に嘘がないとは言えない。


 だが、少なくとも彼は全てを知っている顔ではなかった。


 クラリスは、証言をここで一度切った。


 これ以上押せば、言葉が崩れる。


 今は、確定した範囲を残す方が重要だった。


 夜、顧問室は静まり返っていた。


 ミレーヌは、いつもより顔色が悪い。


 だが、報告書の清書を手伝っている。


 表題。


 ノルベルト・サイス聴取および黒外套男確認報告


 主な内容。


 一、ノルベルト・サイスは商務評議会臨時施設手配主任補佐。白鴎館、南倉一時保管庫、外客荷、ケイン周辺実務に関与。

 二、失踪当日、旧礼拝堂裏小屋鍵貸出記録「N.S.」、南倉外客箱一開閉記録「N.S.、L.M.立会」、K筋連絡卓使用簿「H戸」「礼道。白札」「礼裏鍵」にN.S.関連記録あり。

 三、黒外套貸与控えに「黒外套一 N.S. 夜外。返却翌朝。裾土汚れ」。

 四、ノルベルトは、失踪当日、旧礼拝堂道途中で若い財務官風人物をラザルから引き継いだことを認める。

 五、ノルベルトは、K筋名義で札を置き、人を動かしたことを認める。

 六、控三の存在を認識し、ハーゲン補助官から紙束を預かったと認める。

 七、現物は旧礼拝堂裏小屋にあると告げたが、実際には案内時点で現物はなかったと認める。

 八、ハーゲン補助官は「約束が違う。これは照合ではなく、紙を奪う手順だ」と抗議したとの証言。

 九、ハーゲン補助官が紙を取り戻そうとし、ノルベルトが腕を強く掴んだと認める。

 十、その後、白館札付き小型馬車とは別の馬車に、黒い頭巾の男二名によりハーゲン補助官が乗せられたと証言。

 十一、控三は紙箱へ入れ、南倉外客箱一として西海筋へ出したと認める。

 十二、ハーゲン補助官本人の馬車行き先は知らないと主張。

 十三、K筋の上の指示と思ったが、直接指示者は知らないと主張。ケインとの関係継続確認が必要。

 十四、別馬車、黒頭巾男二名、ハーゲン補助官の行き先を最優先で追跡する必要。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 黒外套の男は、ノルベルト・サイスだった。彼は現物のない場所へハーゲン補助官を案内し、控三を紙箱へ移し、本人を別の馬車へ渡した。


 ミレーヌは、壁の前で長く立っていた。


 筆を持つ手が、震えている。


 それでも、書いた。


 現物がない場所へ呼んだなら、それは確認ではなく奪うための道である。


 イリスが、その札を受け取った。


 貼る前に、ほんの少しだけ目を伏せた。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 ついに、ハーゲン失踪の夜の輪郭が見えた。


 彼は、現物と紙を合わせるつもりで向かった。

 道の手前で紙を先に求められた。

 拒んだ。

 礼拝堂へ案内された。

 そこに現物はなかった。

 控三は奪われ、外客箱として西海筋へ流された。

 本人は、別の馬車に乗せられた。


 次に追うべきは、その馬車だった。


 白館札ではない、別の馬車。


 黒い頭巾の男二名。


 そして、ケインが「知らない」と言い続けてきた、K筋のさらに奥。


 ハーゲンは、まだ紙の外にいた。


 だが、彼が消えた道は、ようやく地図の上に現れ始めていた。

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