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第161話 道の手前で待っていたのは、現物ではなく条件だった

旧礼拝堂道手前。


 そこは、目的地ではない。


 まだ礼拝堂ではない。

 まだ人目のある道でもない。

 まだ完全に孤立した場所でもない。


 誰かと会うには、都合がよすぎる場所だった。


 馬車を降りることができる。

 歩いて礼拝堂へ向かうこともできる。

 引き返すこともできる。

 別の馬車へ乗り換えることもできる。


 そして、相手を試すこともできる。


 ハーゲン補助官は、そこへ向かった。


 逃げる荷物ではなく、三つの控えを持って。


 C-3払出。

 南施受領。

 白鴎館補充。


 三つ並べれば分かる。


 現物と紙が揃えば逃げられない。


 彼はそう考えていた可能性が高い。


 クラリスは、顧問室の机に前日の報告書を置いた。


 その最後の一文を、ミレーヌはずっと見ていた。


 彼は逃げたのではない。確かめに行った。そして、帰ってこなかった。


「今日は、道の手前ですね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「南門馬車場のユリス様は、ハーゲン補助官が旧礼拝堂道手前で降り、誰かを待つように立っていたと証言しています」


「待っていた人を探す」


「ええ。ただし、二年前の道です。人の記憶も薄い。だから、周辺の小さな記録を集めます」


 オスカーが資料を並べる。


 南門外の茶売り台帳。

 道標修繕記録。

 夜間馬車の待機控え。

 巡回兵の日誌。

 礼拝堂道脇の薪小屋の聞き取り。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「待ち合わせは、待っていた人より、待たされた人の仕草に残ります」


「仕草?」


 ミレーヌが尋ねる。


「はい。何度も道を見る。鞄を抱え直す。寒いのに手袋がない。そういうところでございます」


 ミレーヌは手帳に書いた。


 待ち合わせは、相手の顔より待つ人の仕草に残る。


 午前、旧礼拝堂道手前へ向かった。


 そこは、南門から少し離れた分かれ道だった。


 片方は旧礼拝堂へ続く細い道。

 もう片方は、港へ向かう荷馬車道。


 道標には苔がつき、文字の一部が削れている。


 冬なら、ここはかなり寒いだろう。


 周囲に建物は少ない。


 ただ、少し離れた場所に、茶売りの小屋があった。


 今は閉じられているが、当時は夕方まで温かい茶や薄い麦粥を売っていたという。


 茶売りの老女は、まだ近くに住んでいた。


 名はエナ。


 彼女は、ハーゲンの名は覚えていなかった。


 しかし、「手袋をしていない若い財務官風の男」と聞くと、目を細めた。


「ああ……寒そうな人なら、覚えております」


 ミレーヌの筆が止まる。


「どんな人でしたか」


 カレルが尋ねると、エナはゆっくり答えた。


「細い若い人で、外套は着ていましたが、手が赤くなっておりました。茶を勧めたら、“すぐ済むので”と断りました」


「何をしていましたか」


「道標の横で待っていました。何度も鞄の留め具を確かめていました」


 小型鞄。


 控三が入っていた可能性がある鞄。


「誰かと会いましたか」


 エナは少し考え込んだ。


「人は来ました。ただ……その人は、顔を見せませんでした」


「灰色外套ですか」


「いいえ。灰色ではなかったと思います。濃い青か、黒に近い外套でした」


 新しい色。


 灰色外套ではない。


「手袋は?」


「黒い手袋をしていたように見えました」


 黒い手袋。


 ヴィクトルか。


 しかし、前日の記録では、ヴィクトルは赤茶小折紙を下宿へ届けた後、財務院通りから戻っている。


 その後また出た可能性はあるが、出入り控えでは確認されていない。


「歩き方に癖は?」


「特には。普通に歩いていました」


 セヴランではない。


「声は聞こえましたか」


「少し。若い人が、“現物はどこですか”と言ったのは聞こえました」


 ミレーヌの筆が止まった。


 現物。


 ハーゲンの言葉だろう。


「相手は何と?」


 エナは眉を寄せる。


「“先に紙を”と」


 部屋ではない。


 外の道。


 それでも、空気が変わった。


 先に紙を。


 つまり、相手は現物を見せる前に、ハーゲンの控三を求めた可能性がある。


 クラリスは、慎重に言った。


「その言葉は確かですか」


「二年前のことです。確かとは言えません。でも、“先に紙を”という言い方は覚えています。若い人が少し強い声で、“それでは約束と違います”と返しましたから」


 約束と違います。


 ハーゲンは、何かの約束をしていた。


 現物と紙を合わせる。


 その約束だったのかもしれない。


 ミレーヌは、手を震わせながら書いた。


 茶売りエナ証言:手袋なしの若い財務官風の男が道標横で待つ。濃色外套・黒手袋らしき人物と会話。若い男が“現物はどこですか”、相手が“先に紙を”、若い男が“それでは約束と違います”と言った記憶。


 エナは続けた。


「その後、二人は礼拝堂道へ入りました」


「一緒に?」


「はい。ただ、若い人の方が少し後ろでした。迷っているように見えました」


「無理やりでは?」


「そこまでは見えません。ただ、嬉しそうではありませんでした」


 クラリスは頷いた。


「そのまま記録します」


 次に、道標修繕記録が確認された。


 旧礼拝堂道手前の石の道標には、二年前の冬の後、角が欠けたため修繕が入っていた。


 修繕係の記録には、奇妙なメモがあった。


 道標下、紙束押し跡。小金具落ち。


 小金具。


 鞄の留め具かもしれない。


 当時、修繕係が拾って保管していたという小さな金具が、施設局の雑品箱から見つかった。


 それは、小型鞄の留め金に使われる小さな部品だった。


 ミレーヌが小さく言う。


「ハーゲンさんの鞄の……」


「可能性です」


 クラリスは答えた。


「小型鞄の型と照合しましょう」


 ハーゲンの私物目録には、小型鞄そのものは見つかっていない。


 だが、同僚の証言では、彼の鞄は黒革で、留め金が少し緩んでいたという。


 金具は、その型に合う可能性があった。


 ヘレナではなく、革具修繕係が呼ばれた。


 彼は金具を見て言った。


「二年前頃の財務院職員が使う小型書類鞄の留め具に近いです。黒革の簡易鞄なら合うでしょう」


「落ちた理由は?」


「急に開け閉めしたか、引っ張られたか。古ければ自然に落ちることもあります」


 記録する。


 旧礼拝堂道手前の道標下から小型書類鞄用と思われる留め金が修繕時に保管されていた。ハーゲン使用鞄の型と整合可能。ただし同一断定不可。


 午後、巡回兵の日誌が確認された。


 失踪当日の夜、南門外の巡回兵は、旧礼拝堂道から荷馬車道へ出る小型馬車を見たと書いている。


 ただし、詳しくはない。


 夜半前、礼道より小型馬車一。灯一。御者二名か。荷あり。声なし。


 声なし。


 荷あり。


 御者二名か。


 人を乗せたのか、荷だけだったのかは分からない。


 巡回兵は、当時「白館関係の荷か」と思い、止めなかったという。


 なぜ白館関係と思ったのか。


 日誌の欄外にあった。


 黒手袋、白館札。


 黒手袋。


 白館札。


 また、白館。


 ミレーヌが低く言った。


「白館の札があれば、止めなかった……」


「そういう運用だったのでしょう」


 クラリスは答えた。


「そして、それが使われた」


 巡回兵の元上官への聞き取りでは、白鴎館関係の荷は当時、夜間でも優先通過扱いになることがあったという。


 白館札を見せられれば、細かく中身を確認しない。


 まして、K筋や商務評議会関係の気配があれば、なおさらだ。


 クラリスは白紙に書いた。


 白館札通過


 定義。


 白鴎館関係・外客対応・商務評議会関連を示す札により、夜間荷の確認が簡略化される状態。中身・同行者・返却先の確認が省かれやすい。


 ミレーヌは、静かに書き写した。


 夕方、ヴィクトル・レーンが再度確認された。


 黒手袋、白館札。


 旧礼拝堂道手前でハーゲンと会った人物について。


 ヴィクトルは、前より慎重だった。


「私は、下宿へ紙を届けた後、連絡卓へ戻りました」


「出入り控えでは、そうなっています」


 クラリスは言った。


「その後、旧礼拝堂道手前へ行きましたか」


「行っていません」


「濃色外套、黒手袋の人物が目撃されています」


「黒手袋の者は、私だけではありません」


「白館札を扱える者は?」


「商務評議会の使丁、白鴎館の荷係、施設局の一部」


「名前を挙げられますか」


 ヴィクトルは少し黙った。


「ラザル」


「ラザル?」


「ラザル・メイ。商務評議会の臨時荷係です。黒手袋を使い、白館札も扱えました」


 新しい名が出る。


 だが、クラリスはすぐ飛びつかなかった。


「ラザルはK筋連絡卓に出入りしていましたか」


「たまに」


「旧礼拝堂関係は?」


「分かりません」


 記録する。


 ヴィクトル証言:濃色外套・黒手袋・白館札を扱える人物としてラザル・メイ臨時荷係の名を挙げる。要確認。


 ラザル・メイ。


 これまで名前が出ていない人物だ。


 しかし、旧礼拝堂道手前の待ち合わせ相手は、ヴィクトルではなく、別の黒手袋の者だった可能性が出てきた。


 夜、顧問室で時系列が再構成された。


 失踪当日。


 K筋連絡卓から赤茶小折紙が出る。

 ヴィクトルが下宿戸口へ差し込む。

 ハーゲンが読む。

 控三を小型鞄へ入れる。

 旧礼拝堂道手前へ向かう。

 道標横で濃色外套・黒手袋の人物と会う。

 「現物はどこですか」

 「先に紙を」

 「それでは約束と違います」

 二人は礼拝堂道へ入る。

 夜半前、礼拝堂道から白館札を持つ小型馬車が出る。荷あり。声なし。

 以後、ハーゲンの足取り不明。


 ミレーヌは、その時系列を見て唇を結んだ。


「紙を出させようとしています」


「はい」


 クラリスは頷く。


「相手は現物を見せる約束をしていた。しかし、道の手前で先に控三を求めた」


「ハーゲンさんは拒んだ」


「約束と違う、と」


「その後、一緒に道へ入った」


「ええ」


 オスカーが低く言った。


「旧礼拝堂へ行けば現物がある、と言われた可能性がありますね」


「はい」


 クラリスは答えた。


「あるいは、そこで控三を奪うつもりだった」


 ミレーヌの顔が強張る。


「小型馬車の荷は……」


「まだ分かりません」


 クラリスは言った。


「ただ、夜半前に礼拝堂道から出た小型馬車は、重要です」


 報告書がまとめられた。


 表題。


 旧礼拝堂道手前待ち合わせおよび白館札通過確認報告


 主な内容。


 一、茶売りエナ証言では、手袋なしの若い財務官風の男が道標横で待っており、濃色外套・黒手袋らしき人物と会話。

 二、若い男が「現物はどこですか」、相手が「先に紙を」、若い男が「それでは約束と違います」と言った記憶。

 三、二人は旧礼拝堂道へ入った。若い男は少し迷うように後ろを歩いていた。

 四、道標修繕記録に「道標下、紙束押し跡。小金具落ち」。保管金具は小型書類鞄の留め具と整合可能。

 五、巡回兵日誌に「夜半前、礼道より小型馬車一。灯一。御者二名か。荷あり。声なし」。欄外に「黒手袋、白館札」。

 六、白館札により夜間荷確認が簡略化された可能性。

 七、ヴィクトルは、下宿配達後に旧礼拝堂道手前へは行っていないと主張。黒手袋・白館札を扱える者としてラザル・メイ臨時荷係の名を挙げる。

 八、待ち合わせ相手は、現物確認を約束しながら、道の手前で先に控三を出させようとした可能性。

 九、ハーゲンはその場で疑義を示したが、その後旧礼拝堂道へ同行した可能性。

 十、夜半前に旧礼拝堂道から出た白館札付き小型馬車の行き先・荷・御者の確認が必要。

 十一、ラザル・メイの所在および当日の出入り記録確認が必要。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 旧礼拝堂道手前で待っていた人物は、現物を見せるためではなく、まずハーゲンの控三を出させるために来ていた可能性がある。


 ミレーヌは、壁の前で筆を取った。


 少し迷ってから、こう書いた。


 約束と違う、と言った声を消してはいけない。


 イリスが、その札を貼った。


 国際案件の箱に、報告書が入る。


 ハーゲンは、道の手前で疑った。


 現物はどこですか。

 先に紙を。

 それでは約束と違います。


 その短いやり取りが、二年前の冷たい道に残っていた。


 次に追うべきは、ラザル・メイ。


 そして、夜半前に旧礼拝堂道から出た白館札付き小型馬車だった。


 ハーゲンがその馬車に乗っていたのか。


 それとも、彼の控三だけが荷として運ばれたのか。


 まだ分からない。


 だが、道の手前で待っていたのは、真実の現物ではなかった。


 条件だった。


 先に紙を出せ。


 その条件に、ハーゲンは一度、抗ったのだ。

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