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第160話 彼が鞄に入れたのは、逃げる荷物ではなかった

紙包み。


 それは、下宿主人マルタの記憶の中にだけ残っていた。


 ハーゲン補助官は、赤茶の小折紙を読んだ後、部屋へ上がった。


 そして、小型鞄を持って降りてきた。


 旅支度ではない。


 替えの服もない。


 冬用手袋も置いたまま。


 ただ、小型鞄の中に、手のひらより少し大きい紙包みを入れていたかもしれない。


 それが何だったのか。


 そこを見なければ、彼がなぜ旧礼拝堂道へ向かったのかは分からない。


 クラリスは、顧問室の机に新しい見出しを書いた。


 ハーゲン補助官携行紙包み内容推定


 ミレーヌは、前日の札を見上げていた。


 手渡せない紙ほど、誰が渡したくなかったのかを見る。


「紙包みが分かれば、呼び出しの意味も分かるかもしれないんですね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「彼は赤茶の紙を読んで顔色を変えた。その後、何かを持って出た。つまり、呼び出し文には“何かを持ってこい”という内容があった可能性があります」


「証拠を?」


「その可能性があります」


 オスカーが資料を並べた。


 ハーゲンの机の私物目録。

 下書き箱の欠番控え。

 財務院写し取り申請簿。

 下宿部屋の机写真。

 ハーゲンの未投函書簡。

 そして、彼が関わったと思われる南施療院関連の草案束。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「逃げる荷物と、戻るつもりで持つ荷物は違います」


「今日は、それを見るのですね」


 ミレーヌが言うと、イリスは頷いた。


「はい。紙包みは、逃げる人の荷ではなく、見せに行く人の荷だったのかもしれません」


 クラリスは、その言葉を白紙に書いた。


 見せに行く荷


 午前、ハーゲンの下宿部屋が再確認された。


 部屋は今も保全されていた。


 質素な寝台。

 小さな机。

 壁際の棚。

 筆記具を置く皿。

 窓辺の薄い布カーテン。


 ここで、彼は赤茶の紙を読んだ後、小型鞄を取った。


 小型鞄は、まだ見つかっていない。


 だから、部屋に残ったものを見るしかない。


 ヘレナ修復記録官が、机の上の敷き紙を確認した。


 薄い敷き紙の下には、古い書き跡が残っている。


 直接文字ではない。


 上に置いた紙へ強く書いた時、下の紙に残る圧痕だ。


 ヘレナは、斜めから光を当てた。


「少し読めます」


 部屋の空気が変わる。


 ミレーヌが息を止めた。


 ヘレナは慎重に、読める部分だけを口にする。


「……C-3……白館裏……G……」


 クラリスは、静かに目を閉じそうになった。


 C-3。

 白館裏。

 G。


 ハーゲンは、机でその言葉を書いていた。


 さらに光の角度を変える。


「……南……外套……保温扱……」


 南。


 外套。


 保温扱。


 南施療院へ外套地転を保温扱いで送った記録とつながる。


 ミレーヌの筆が震えながら動く。


 下宿机敷き紙圧痕:“C-3…白館裏…G…”、“南…外套…保温扱…”と読める可能性。


 ヘレナは、さらに慎重に見た。


「もう一行あります」


「読めますか」


「断片ですが……“Hへ出すな……写し持……”」


 Hへ出すな。

 写し持。


 意味は揺れる。


 Hへ出すな、なのか。

 Bへ出すな、なのか。

 あるいは、どこかの略字なのか。


 ヘレナはすぐに言った。


「これは不確かです。HかBかも断定できません」


「そのまま記録します」


 クラリスは答えた。


 ミレーヌは丁寧に書いた。


 同圧痕に“HまたはBへ出すな…写し持…”と読める可能性。不確実。


 机の引き出しには、空の紙帯が残っていた。


 薄い紙束を巻いて留めるための帯。


 帯には、ハーゲンの字で小さく書かれている。


 控三


 控え三つ。


 ミレーヌが呟く。


「三つの控え……」


 クラリスは頷いた。


「紙包みは、三つの控えを束ねたものだった可能性があります」


 次に確認されたのは、財務院写し取り申請簿だった。


 ハーゲンは失踪の数日前、いくつかの文書について「控え確認」を申請していた。


 申請名は曖昧だ。


 だが、三件が同じ日に並んでいる。


 一、C区第三棚夜間払出控え。

 二、南施療院保温布受領補足。

 三、白鴎館臨時寝具補充照会。


 申請欄の横には、許可ではなく、短くこう書かれていた。


 閲覧のみ。写し不可。


 ミレーヌが顔を上げた。


「写し不可……」


「はい」


「でも、机の圧痕には写したような文字があります」


「つまり、彼は正式な写しを取れず、自分で要点を書き写した可能性があります」


 オスカーが記録する。


 ハーゲンはC-3払出、南施受領、白鴎館寝具補充の三件を閲覧申請。写し不可。下宿机圧痕から、要点を私的に書き写した可能性。


 これで、「控三」の意味が少し見えた。


 三つの控え。


 C-3が白館裏へG札で動いた控え。

 南施療院へ外套地転が保温扱いで出た控え。

 白鴎館が臨時寝具補充を受けた控え。


 これらを並べれば、C-3正温が南施療院へ行っていないことを示せる。


 ハーゲンは、それを持って誰かに会いに行ったのか。


 あるいは、呼び出した相手に「写しを持ってこい」と求められたのか。


 午後、ミケル・ロウが再び呼ばれた。


 証言者保全手順のもと、強制ではなく確認として。


 クラリスは最初に言った。


「答えたくない場合は、そのまま言ってください」


「大丈夫です」


 ミケルは、前より少し落ち着いていた。


 ただ、目は緊張している。


 彼に机の圧痕の写しを見せると、彼はすぐに顔を曇らせた。


「見覚えがありますか」


 カレルが尋ねる。


 ミケルは頷いた。


「ハーゲンが、三つ並べれば分かると言っていました」


「三つ?」


「C-3の払出、南施の受領、白鴎館の補充。どれか一つだけでは偶然にされる。でも、三つ並べれば同じ夜の同じ八梱だと見える、と」


 部屋が静かになる。


 ミレーヌが、ゆっくり書く。


 ミケル証言:ハーゲンは“C-3払出、南施受領、白鴎館補充を三つ並べれば分かる”と言っていた。


「彼は、その写しを持っていましたか」


「正式な写しはありません。取れなかったはずです。でも、自分の控えを作っていたと思います」


「控三」


 クラリスが言うと、ミケルは目を見開いた。


「その言葉を?」


「下宿に紙帯が残っていました」


 ミケルは、少し口元を押さえた。


「彼は、その束を“控三”と呼んでいました」


「内容は、その三つ?」


「はい。おそらく」


「なぜ旧礼拝堂へ持っていったのでしょう」


 ミケルは、しばらく黙った。


「呼ばれたからだと思います」


「誰に?」


「分かりません。ただ、彼は一度言っていました。“向こうが現物を出すなら、こちらも紙を出す”と」


 ミレーヌの筆が止まった。


 向こうが現物を出すなら、こちらも紙を出す。


 現物。


 旧礼拝堂で開かれたC-3正温一梱か。

 布見本か。

 端印のある布か。


 クラリスは尋ねた。


「向こう、とは誰のことですか」


「分かりません。K筋か、B机か、G席か……彼もはっきり言っていなかった」


「現物とは?」


「布です。たぶん、正温の布」


 ミケルは言葉を選びながら続けた。


「彼は、現物と紙が揃えば逃げられない、と言っていました」


 部屋が静まり返る。


 ハーゲンは、旧礼拝堂で何かを確認するつもりだった。


 相手が布の現物を出す。


 彼は三つの控えを出す。


 現物と紙を合わせる。


 そうすれば、C-3正温が南施療院へ行っていないことを示せる。


 ミレーヌは、手帳に書いた。


 現物と紙が揃えば逃げられない。


 ハーゲンは、逃げようとしていたのではない。


 追い詰めようとしていたのでもないかもしれない。


 確認しようとしていた。


 紙と現物を合わせるために。


 カレルが尋ねた。


「ミケル様。ハーゲン補助官は、誰かと会う予定をあなたに話しましたか」


「いいえ。ただ、赤茶札には気をつけろ、と言っていました」


「なぜ」


「赤茶札は、責任者がいない紙だから、と」


 クラリスは、心の中でその言葉を受け止めた。


 ハーゲンは赤茶札の危うさにも気づいていた。


 それでも、赤茶の紙で呼び出された。


 顔色を変えたのは、恐れだけではないのかもしれない。


 「ついに来た」と思ったのかもしれない。


 夕方、下宿の敷き紙から読めた圧痕をヘレナがさらに確認した。


 最後に一つ、小さな単語が浮いた。


 完全ではない。


 だが、読めた。


 礼道手前


 礼拝堂道手前。


 南門馬車場のユリス証言と合う。


 ハーゲンは、旧礼拝堂そのものではなく、手前の道で誰かと会うつもりだった可能性がある。


 敷き紙圧痕に“礼道手前”と読める可能性。南門馬車場証言と整合。


 では、赤茶の小折紙には何が書かれていたのか。


 原本はない。


 だが、圧痕、証言、行動から、文面の骨格は見えてくる。


 クラリスは白紙に推定要素を書いた。


 一、Hへ。

 二、礼拝堂道手前。

 三、短時間確認。

 四、現物または布の確認。

 五、控三を持参。

 六、手渡しではなく戸口差し込み。

 七、K筋連絡卓経由。


 ミレーヌがそれを見て、静かに言った。


「罠、だったのでしょうか」


「可能性はあります」


 クラリスは答えた。


「ただ、ハーゲン本人は確認の機会だと思ったのかもしれません」


「相手が現物を出すなら、こちらも紙を出す」


「ええ」


「だから、小型鞄に紙包みを入れた」


「その可能性が高いです」


 夜、報告書がまとめられた。


 表題。


 ハーゲン補助官携行紙包み内容推定および“控三”確認報告


 主な内容。


 一、下宿机敷き紙圧痕より「C-3…白館裏…G…」「南…外套…保温扱…」と読める可能性。

 二、同圧痕に「HまたはBへ出すな…写し持…」と読める可能性。不確実。

 三、机引き出しより紙帯「控三」を確認。

 四、財務院写し取り申請簿では、ハーゲンがC区第三棚夜間払出控え、南施療院保温布受領補足、白鴎館臨時寝具補充照会の三件を閲覧申請。写し不可。

 五、ハーゲンは正式写しを取れず、要点を私的に書き写していた可能性。

 六、ミケル・ロウ証言では、ハーゲンは「C-3払出、南施受領、白鴎館補充を三つ並べれば分かる」と述べ、“控三”と呼んでいた。

 七、ミケル証言では、ハーゲンは「向こうが現物を出すなら、こちらも紙を出す」「現物と紙が揃えば逃げられない」と述べていた。

 八、敷き紙圧痕に「礼道手前」と読める可能性があり、南門馬車場の旧礼拝堂道手前降車証言と整合。

 九、ハーゲンは逃亡準備ではなく、三つの控えを持って、現物確認または照合のため呼び出しに応じた可能性が高まる。

 十、赤茶小折紙本文は失われているが、「Hへ」「礼拝堂道手前」「控三持参」「現物確認」等を含んでいた可能性がある。断定不可。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 ハーゲン補助官が鞄に入れた紙包みは、逃げる荷物ではなかった。彼は、三つの控えを持って、現物と紙を合わせに行った可能性が高い。


 ミレーヌは、壁の前で筆を取った。


 少し考え、こう書いた。


 戻るつもりの鞄には、逃げる荷物ではなく、確かめる紙が入っている。


 イリスが、その札を貼る。


 国際案件の箱に、また報告書が入った。


 ハーゲンの姿は、また少し近づいた。


 手袋を置き、母への手紙を置き、銅貨袋を置いたまま。


 小型鞄に三つの控えを入れて。


 旧礼拝堂道手前へ。


 現物と紙を合わせるために。


 次に必要なのは、旧礼拝堂道手前で彼を待っていた人物だった。


 彼は誰と合流したのか。


 その人物は、現物を出すつもりだったのか。


 それとも、ハーゲンの「控三」を奪うために待っていたのか。


 紙包みの中身が見えたことで、失踪当日の意味が変わり始めていた。


 彼は逃げたのではない。


 確かめに行った。


 そして、帰ってこなかった。

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