第159話 赤茶の紙は、下宿の戸口まで来ていた
紙は、なくなっても完全には消えないことがある。
端の粉。
折り癖。
差し込まれた隙間の汚れ。
触れた指の脂。
同じ束から切られた紙の色。
原本がなくても、紙が通った跡は残る。
ハーゲン補助官を呼び出したと見られる小折紙は、もう手元になかった。
下宿主人マルタは、表に小さくHへと書かれていたと証言した。
紙の色は、白ではない。
少し赤茶けた古い紙。
ハーゲンはそれを読み、顔色を変え、小型鞄を持って外へ出た。
手袋も持たずに。
「すぐ戻ります」と言って。
クラリスは、顧問室の机に失踪当日の時系列を置いた。
その中央に、一行だけ大きく書く。
赤茶小折紙「Hへ」
ミレーヌは、その文字を見て小さく息を吐いた。
「原本がないのが、悔しいですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「でも、原本がなくても調べられることはあります」
「紙粉、折り方、差し込み跡……」
「ええ」
オスカーが資料を並べた。
G席の赤茶札。
K筋連絡卓の赤茶札。
乾き場の札片。
旧礼拝堂で見つかった紙片。
ハーゲン下宿の玄関扉の写真写し。
そして、下宿周辺の聞き取り記録。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「手紙を差し込む人は、戸を叩かずに済ませたい人でございます」
「なぜですか」
ミレーヌが尋ねる。
「会いたくないからです。あるいは、顔を見られたくないから」
クラリスは頷いた。
「今日は、そこも見ます」
午前、ハーゲンの下宿が再確認された。
マルタは、調査官たちを玄関へ案内した。
古い木の扉。
郵便用の小さな隙間はない。
ただし、扉と枠の間に少し広い箇所があり、薄い紙なら差し込める。
「ここです」
マルタは、扉の右側を指した。
「その日、ここに挟まっていました」
カレル調査官が膝をつき、隙間を確認する。
ヘレナ修復記録官も同行していた。
彼女は細い道具で、木枠の内側を丁寧に撫でた。
すると、ほんのわずかに赤茶色の粉が取れた。
ミレーヌが息を止める。
ヘレナは慎重に言った。
「紙粉の可能性があります。ただし、古い扉の汚れも混じっています」
「G札の紙粉と比べられますか」
クラリスが尋ねる。
「色味と繊維の粗さは比較できます。正式な同一性までは難しいですが、近いかどうかは見ます」
記録する。
下宿玄関扉右枠内側より赤茶色粉末を採取。紙粉の可能性。G席・K筋赤茶札紙粉と照合要。
さらに、扉の内側下部に小さな擦れがあった。
紙を折って差し込んだ時、角が当たったような跡。
ヘレナは言った。
「小折紙を二つ折り、あるいは三つ折りにして差し込んだ可能性があります」
「折り方は分かりますか」
「原本がないので推定です。ただ、厚みのある紙を無理に入れた跡ではありません。薄い札紙を小さく折ったものに近い」
ミレーヌは書いた。
差し込み跡は、厚い封書ではなく薄い札紙を小さく折ったものと整合。
マルタは、その様子を不安そうに見ていた。
「もっと早く、気づいていれば……」
「当時、誰もあなたにそれを求めていませんでした」
クラリスは言った。
「責めるために来たのではありません」
マルタは、少しだけ目を伏せた。
「あの子、紙を読んだ後、しばらく動かなかったんです」
「どのくらいですか」
「ほんの少し。けれど、顔が白くなって……それから部屋へ上がりました」
「部屋で何を?」
「小型鞄を取ってきました」
「その鞄には何が入っていましたか」
「分かりません。ただ、いつも書類を持ち歩く時のものです」
「ほかに何か持ちましたか」
マルタは考え込む。
「小さな包みを入れていたかもしれません」
「包み?」
「布ではありません。紙の包み。あの子が大事そうにしていた……」
部屋の空気が少し変わる。
「どのような紙包みですか」
「手のひらより少し大きいくらい。薄い紙を重ねたような。もしかしたら、控え書類だったのかもしれません」
ミレーヌが書く。
マルタ追加証言:ハーゲンは小型鞄に小さな紙包みを入れていた可能性。内容不明。
紙包み。
ハーゲンは、何かを持って旧礼拝堂方面へ向かった可能性がある。
布見本か。
返答草案か。
C-3の控えか。
K筋札の写しか。
まだ分からない。
だが、「確認するだけです」と言った彼は、手ぶらで行ったわけではなかったのかもしれない。
午後、下宿周辺の聞き取りが行われた。
隣の靴修理屋の少年が、当時のことを少し覚えていた。
今はもう青年になっているが、その頃は店番をしていたという。
名はリオ。
彼は、戸口に紙を差し込んだ人物を見たかもしれないと話した。
「顔は見ていません」
リオは最初にそう言った。
「夕方、店の奥にいたので。ただ、誰かが下宿の前で立ち止まったのは見ました」
「どんな人でしたか」
カレルが尋ねる。
「背は高くなかったです。外套は暗い色。灰色ではなかったと思います。手袋をしていました」
「手袋の色は?」
「黒……だった気がします」
黒い手袋。
ヴィクトル・レーンを思い出す。
だが、ここで飛びついてはいけない。
「歩き方は?」
「普通でした。右足を引く感じはなかったと思います」
つまり、セヴランではない可能性が高い。
ミレーヌが書く。
下宿隣店リオ証言:夕方、下宿前に立ち止まる人物を目撃。背は高くない。暗色外套、黒手袋らしきもの。歩行癖は目立たず。顔不詳。
「その人は、紙を差し込みましたか」
「そこまでは見ていません。でも、立ち止まって、すぐ離れました。扉を叩いた音はしませんでした」
「方向は?」
「南門の方ではなく、財務院通りの方へ戻ったと思います」
財務院通り。
王宮実務棟方面。
K筋連絡卓へつながる方向でもある。
クラリスは静かに記録させた。
夕方、ヘレナによる紙粉の初期比較が行われた。
下宿扉から採取した赤茶粉。
K筋連絡卓の赤茶札。
G席返却札。
乾き場札片。
ヘレナは小さな皿にそれぞれを置き、光を当てて確認した。
「下宿扉の粉は、K筋連絡卓の赤茶札と色味がかなり近いです」
ミレーヌの筆が動く。
「G席札とは?」
「G席札にも近い。ただ、G席札の方がやや粗い。K筋連絡卓の札は、少し細かい繊維が混じっています。下宿粉は、そちらに近いかもしれません」
「同じ束ですか」
「そこまでは言えません」
ヘレナはすぐに釘を刺した。
「ですが、少なくとも、一般的な白紙や普通の便箋とは違う赤茶系札紙で、K筋連絡卓の紙と整合します」
クラリスは頷いた。
「その表現で記録します」
下宿扉採取紙粉は、一般便箋ではなく赤茶系札紙由来の可能性。K筋連絡卓赤茶札と色味・繊維が近い。ただし同一束断定不可。
さらに、折り方にも手がかりがあった。
K筋連絡卓の赤茶札には、二つ折りして小さく差し込む癖があるものが何枚か残っていた。
角が少し潰れ、粉が出ている。
ヘレナは言った。
「連絡卓の札には、封書ではなく、小さく折って隙間や札溝へ挟む運用があったようです。下宿扉の差し込み跡と扱い方が似ています」
ミレーヌは書く。
K筋連絡卓札は、小折りして隙間・札溝へ差し込む運用痕あり。下宿扉差し込み跡と扱い方が類似。
その時、オスカーが別の資料を持ってきた。
商務評議会の使丁出入り控え。
失踪当日夕方。
V.R. 外用短。財通。戻り早。
V.R.
ヴィクトル・レーン。
外用短。
財通。
財務院通り。
戻り早。
ミレーヌが息を呑んだ。
「ヴィクトルさん……」
「可能性が出ました」
クラリスは言った。
「ただし、財務院通りに行っただけでは、下宿へ紙を差したとは言えません」
「でも、黒手袋の目撃と……」
「整合します」
クラリスは頷いた。
「確認しましょう」
ヴィクトル・レーンは、その日のうちに呼ばれた。
彼は、以前よりもさらに慎重な顔で入ってきた。
クラリスは、回り道せずに聞いた。
「ハーゲン補助官失踪当日、財務院通りへ行きましたか」
ヴィクトルは、手元を見た。
「行きました」
「何のために」
「連絡紙を届けるためです」
「誰へ」
「覚えていません」
「Hへ、ですか」
ヴィクトルは口を閉じた。
長い沈黙。
カレルが言う。
「下宿扉から赤茶札紙粉が出ています。隣店の証言では、暗色外套・黒手袋の人物が下宿前に立ち止まり、財務院通り方面へ戻っています。同日、あなたの出入り控えに財務院通りへの短い外用があります」
ヴィクトルは、目を伏せた。
「紙を届けました」
「誰へ」
「ハーゲン補助官へ」
ミレーヌの筆が止まった。
すぐに、また動く。
「内容は?」
「知りません。封はありませんでしたが、折ってありました。私は読んでいません」
「表には?」
「Hへ」
「紙の色は?」
「赤茶です」
「誰から?」
「K筋連絡卓です」
「置いた人は?」
「分かりません」
「あなたは、下宿へ差し込んだのですか」
「はい」
部屋が静まり返った。
ようやく、赤茶小折紙を下宿へ運んだ手が見つかった。
黒い手袋の男。
ヴィクトル・レーン。
ただし、彼は内容を知らないと言う。
また、運んだ手だ。
書いた手ではない。
クラリスは尋ねた。
「なぜ直接渡さなかったのですか」
「そう指示されました」
「どういう指示ですか」
「“手渡すな。戸へ。見られるな”と」
ミレーヌの背筋が冷えた。
手渡すな。戸へ。見られるな。
これは明らかに顔を見られないための指示だった。
「その指示は、どこに?」
「連絡卓の白い書き付けに」
「残っていますか」
「ありません。処分しました」
「赤茶小折紙を届けた後、完了札は?」
「戻しました」
「何と書いた?」
「H戸済」
H戸済。
ハーゲンの戸へ済み。
クラリスは、心の中で息を整えた。
「その札は連絡卓に残っていますか」
ヴィクトルは首を振った。
「分かりません」
「探します」
クラリスは答えた。
夜、K筋連絡卓の引き出しが再度確認された。
前回見落としていた小さな札片が、下段の奥、木の割れ目に挟まっていた。
ヘレナが慎重に取り出す。
読める文字は、わずか。
H戸……済
ミレーヌが、息を止める。
ヴィクトルの証言と合う。
ただし、札片だけでは弱い。
それでも、重要だった。
K筋連絡卓下段奥より札片。“H戸…済”と読める可能性。ヴィクトル証言“H戸済”と整合。
顧問室に戻った後、報告書がまとめられた。
表題。
ハーゲン補助官宛赤茶小折紙配達経路確認報告
主な内容。
一、ハーゲン下宿玄関扉右枠内側より赤茶色粉末を採取。紙粉の可能性。
二、当該粉末は一般便箋ではなく赤茶系札紙由来の可能性があり、K筋連絡卓赤茶札と色味・繊維が近い。ただし同一束断定不可。
三、下宿扉には薄い小折紙を差し込んだような跡があり、K筋連絡卓札の小折り運用痕と類似。
四、下宿主人マルタは、表に「Hへ」と書かれた赤茶小折紙をハーゲンが読み、顔色を変えて外出したと証言。
五、下宿隣店リオは、暗色外套・黒手袋らしき人物が下宿前に立ち止まり、財務院通り方面へ戻ったと証言。
六、商務評議会使丁出入り控えに、同日夕方「V.R. 外用短。財通。戻り早」。
七、ヴィクトル・レーンは、ハーゲン補助官宛て赤茶小折紙を下宿戸口へ差し込んだことを認める。表記は「Hへ」。内容は読んでいないと主張。
八、指示はK筋連絡卓由来で、「手渡すな。戸へ。見られるな」との白い書き付けがあったと証言。
九、配達後、完了札「H戸済」をK筋連絡卓へ戻したと証言。連絡卓下段奥より「H戸…済」と読める札片を発見。
十、赤茶小折紙は、K筋連絡卓を経由し、ヴィクトルの手でハーゲン下宿へ届けられた可能性が高まる。
十一、書き付けの筆者、小折紙本文の内容、Hを呼び出した者の特定が次の課題。
クラリスは最後に一文を書いた。
ハーゲン補助官を呼び出した赤茶の紙は、誰かの手紙ではなく、K筋連絡卓から戸口へ差し込まれた札だった可能性が高い。
ミレーヌは、壁の前で筆を取った。
しばらく迷い、こう書いた。
手渡せない紙ほど、誰が渡したくなかったのかを見る。
イリスが、その札を貼った。
国際案件の箱に、また一枚、報告書が入った。
赤茶の紙は、下宿の戸口まで来ていた。
ヴィクトルの黒い手袋で。
K筋連絡卓から。
手渡すな。
戸へ。
見られるな。
その指示は、あまりに明確だった。
ハーゲンは逃げたのではない。
顔を見せたくない誰かに、紙で呼び出された。
次に必要なのは、その紙の本文だった。
ハーゲンは何を読んで顔色を変えたのか。
そして、なぜ小型鞄に紙包みを入れて、旧礼拝堂道へ向かったのか。
紙は失われている。
だが、ハーゲンが持っていった紙包みの中身が分かれば、呼び出し文の意味も見えてくるかもしれなかった。




