第158話 彼は逃げたのではなく、呼ばれていた
名誉を戻しても、人は戻らない。
そのことを、クラリスは知っていた。
ハーゲン補助官の評価票には、ようやく注記が付いた。
強硬ではなく、用途不一致およびC-3正温行先不明に関する早期警鐘。
その一文は、紙の上では大きな前進だった。
だが、本人はまだいない。
どこにいるのか。
なぜ消えたのか。
自分の意思で姿を消したのか。
誰かに逃がされたのか。
それとも、別の力で消されたのか。
再評価は、終わりではなかった。
むしろ、ここからが本当の失踪確認だった。
クラリスは、顧問室の机に新しい見出しを書いた。
ハーゲン補助官失踪当日足取り再確認
ミレーヌは、壁の札を見上げていた。
正しい問いを、性格の問題にしてはいけない。
「ハーゲンさんの足取りですね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「これまでは、彼が強硬で、勝手に動いた可能性があるという前提で見られていました」
「でも、それが違うなら……」
「足取りの意味も変わります」
オスカーが、古い資料を机へ置いた。
ハーゲンの外出記録。
財務院の退勤控え。
下宿の出入り証言。
南門馬車場の乗降控え。
旧礼拝堂周辺の聞き取り記録。
そして、ハーゲンの机から回収された私物目録。
イリスが茶を置きながら言った。
「逃げる方は、持っていく物と置いていく物が違います」
ミレーヌが顔を上げる。
「分かるのですか」
「完全には分かりません。けれど、長く戻らないつもりの方は、手紙や金子、替えの靴を気にします。すぐ戻るつもりの方は、机の上をそのままにいたします」
クラリスは頷いた。
「今日は、そこから見ます」
ハーゲン補助官の私物目録は、薄い紙束だった。
失踪当時、財務院が形式的に作ったものだ。
そこには、事務的に書かれていた。
筆箱一。
予備インク瓶一。
下書き紙束。
冬用手袋一組。
私用の小型辞書。
銅貨袋。
下宿の予備鍵。
母宛ての未投函書簡一通。
ミレーヌは、その最後で手を止めた。
「母宛ての手紙を置いていったのですか」
「はい」
「逃げるなら、持っていきそうです」
「ええ」
クラリスは答えた。
「少なくとも、長く姿を消すつもりなら、未投函の家族宛ての手紙を置いていくのは不自然です」
オスカーが補足する。
「銅貨袋も机に残っています。大金ではありませんが、日常で使う小銭です」
「冬用手袋も」
ミレーヌが呟いた。
「失踪したのは冬ですよね」
「はい」
クラリスは頷いた。
「寒い時期です。手袋を置いて出るのは、すぐ戻るつもりだった可能性があります」
ミレーヌは手帳に書いた。
長く逃げる人は、母への手紙と冬用手袋を置いていかない。
もちろん、絶対ではない。
人は混乱すれば、奇妙な物を置いていく。
だが、これは「逃亡」と決めつけるには弱すぎる。
むしろ、「短時間の外出」と見る方が自然だった。
次に確認されたのは、退勤控えだった。
失踪当日、ハーゲンは夕方の鐘の後も財務院に残っている。
通常勤務後、下書き箱と主任机の間を二度往復。
その後、北廊下でミケルと短い会話。
さらに、外出札が一枚出ている。
Hgn 南門外 私用確認 短時間
ミレーヌは首を傾げた。
「私用確認?」
「曖昧な言葉です」
「何を確認するのか分かりません」
「はい」
ヘレナ修復記録官が呼ばれ、外出札の筆跡を確認した。
彼女はすぐには答えず、ハーゲンの他の署名と並べて見た。
「Hgnの略字は、本人のものに近いです」
「本人筆ですか」
カレルが尋ねる。
「可能性はあります。ただし、“南門外 私用確認 短時間”の本文は別人筆の可能性があります」
部屋の空気が変わった。
「別人?」
「はい。Hgnの署名部分だけ本人、本文は別人。あるいは、本文を先に書いた札へ、本人が署名した可能性」
ミレーヌが慎重に記録する。
外出札:Hgn署名は本人筆可能性。本文“南門外 私用確認 短時間”は別人筆の可能性。本文先行・署名後入れの可能性。
クラリスは、紙を見つめた。
つまり、ハーゲンは自分で外出内容を書いたわけではないかもしれない。
誰かが用意した札に、署名だけした。
それは、呼び出しの可能性を強める。
「本文を書いた人は分かりますか」
「比較が必要です」
ヘレナは答えた。
「ただ、財務院の若い書記の字ではありません。むしろ、商務評議会側の連絡札に似た崩しがあります」
K筋連絡卓。
赤茶札。
商務評議会。
また、そこへ線が戻る。
午後、ハーゲンの下宿へ確認に向かった。
下宿は財務院から少し離れた、職員向けの小さな建物だった。
主人は年配の女性で、名をマルタという。
彼女は、ハーゲンの名を聞くと、しばらく黙った。
「真面目な子でした」
最初に出てきた言葉は、それだった。
「いつも帰りが遅くても、靴を揃える子でね。冬は手袋を忘れない。そういう子でした」
ミレーヌが、少しだけ目を伏せる。
クラリスは尋ねた。
「失踪当日、彼は下宿へ戻りましたか」
「一度、戻りました」
「何時頃ですか」
「夕方遅く。食事前です。部屋へ上がって、すぐ降りてきました」
「荷物は?」
「小さな鞄を持っていました。でも、旅支度ではありません。書類を入れるような鞄です」
「服装は?」
「普段の外套でした。厚手ではなく、短い外出用の」
「手袋は?」
マルタは眉を寄せた。
「していませんでした。だから、寒くないのかと聞いたんです」
「彼は何と?」
「“すぐ戻りますから”と」
部屋が静かになる。
ミレーヌの筆が、ゆっくり動く。
下宿主人マルタ証言:失踪当日夕方、ハーゲンは一度下宿へ戻り、小型鞄を持って外出。旅支度ではない。手袋なし。問いに対し“すぐ戻りますから”と返答。
「どこへ行くと言っていましたか」
クラリスが尋ねる。
マルタは少し迷った。
「はっきりとは。ただ、“確認するだけです。戻ったら食事をお願いします”と」
「誰かが訪ねてきましたか」
「訪ねては来ていません。でも、玄関の隙間に紙が差してありました」
全員の空気が変わる。
「紙?」
「ええ。小さく折った紙です。あの子が帰ってきた時、それを見つけて……顔色が変わりました」
「紙は?」
「持っていきました」
「内容は見ましたか」
「見ていません。けれど、表に小さく“Hへ”と」
Hへ。
ハーゲンへ。
「紙の色は?」
「白ではありません。少し赤茶けた、古い紙でした」
赤茶。
G札と同じ系統かもしれない。
ミレーヌは、慎重に書く。
下宿玄関に赤茶けた小折紙。“Hへ”と表記。ハーゲンが読み、顔色を変え、持参して外出。内容不明。
クラリスは、胸の奥が冷えるのを感じた。
これは、呼び出しだ。
まだ断定ではない。
だが、強い。
ハーゲンは、赤茶の小折紙を受け取り、すぐ戻るつもりで小型鞄を持ち、手袋も持たずに出た。
逃亡ではない。
少なくとも、その時の彼は戻るつもりだった。
次に確認されたのは、南門馬車場だった。
古い乗降控えには、ハーゲンらしき人物の記録がある。
以前にも見たものだ。
だが、見方が変わっている。
若い財務官風。小型鞄。南門外礼拝堂道へ。片道。
以前は、失踪した補助官が自分で旧礼拝堂へ向かった可能性として読まれていた。
今は違う。
呼び出されて向かった可能性がある。
馬車場の元係員が再度呼ばれた。
名はユリス。
彼は以前よりも細かく覚えているようだった。
「若い人でした。落ち着かない様子で、何度も鞄を触っていました」
「誰かと一緒でしたか」
「いいえ。ただ、乗る前に後ろを気にしていました」
「追われているように?」
「それとも、待ち合わせ相手を探しているように。そこまでは」
「行き先は自分で言いましたか」
「はい。“旧礼拝堂道の手前まで”と」
「手前?」
「ええ。礼拝堂そのものではなく、手前の分かれ道で降りると」
ミレーヌが顔を上げる。
「手前で降りたのですか」
「はい」
「なぜでしょう」
ユリスは首を振った。
「分かりません。ただ、降りた後、道の奥へ歩く前に、誰かを待っているように立っていました」
「誰か来ましたか」
「私は馬車を戻したので見ていません」
クラリスは記録させた。
南門馬車場元係ユリス証言:ハーゲンらしき若い財務官風人物は旧礼拝堂道手前で降車。降車後、誰かを待つように立っていた。小型鞄を気にしていた。
手前で降りる。
つまり、直接旧礼拝堂へ入るのではなく、誰かと合流する予定だった可能性がある。
呼び出し紙。
小型鞄。
手袋なし。
すぐ戻る。
旧礼拝堂道手前。
誰かを待つように立つ。
線は、逃亡ではなく呼び出しへ向かっていた。
夕方、顧問室に戻ると、机の上で時系列が作られた。
失踪当日。
夕方、財務院で下書き箱と主任机を往復。
北廊下でミケルと会話。
外出札作成。署名は本人、本文は別人筆の可能性。
一度下宿へ戻る。
玄関に赤茶小折紙「Hへ」。
読んで顔色変化。
小型鞄を持つ。手袋なし。
「すぐ戻ります」「確認するだけです」と下宿主人に告げる。
南門馬車場から旧礼拝堂道手前へ。
降車後、誰かを待つ様子。
以後、足取り不明。
ミレーヌは、時系列を見て言った。
「逃げたように見えません」
「はい」
クラリスは答えた。
「少なくとも、計画的逃亡の所持品ではありません」
「呼ばれています」
「その可能性が高いです」
オスカーが低く言った。
「誰に呼ばれたかが問題です」
「赤茶小折紙」
ミレーヌが言う。
「G札やK筋の紙と同じ系統かもしれません」
「照合が必要です」
クラリスは頷いた。
「ただ、紙そのものは失われています」
「ハーゲンさんが持っていったから」
「はい」
その紙がどこかに残っていれば。
ハーゲンの鞄の中か。
旧礼拝堂か。
誰かの手にあるのか。
まだ分からない。
だが、「Hへ」という赤茶の紙は、非常に重要だった。
夜、報告書がまとめられた。
表題。
ハーゲン補助官失踪当日足取り再確認報告
主な内容。
一、私物目録では、母宛て未投函書簡、銅貨袋、冬用手袋、下宿予備鍵が机に残存。長期逃亡準備として不自然。
二、外出札「Hgn 南門外 私用確認 短時間」は、署名は本人筆可能性があるが、本文は別人筆の可能性。商務評議会側連絡札に似た崩しあり。
三、下宿主人マルタ証言では、失踪当日夕方、ハーゲンは一度下宿へ戻り、小型鞄を持って外出。旅支度ではなく、手袋なし。
四、マルタに対し「すぐ戻ります」「確認するだけです。戻ったら食事をお願いします」と発言。
五、下宿玄関に赤茶けた小折紙が差し込まれており、表に「Hへ」とあった。ハーゲンが読み、顔色を変え、持参して外出。内容不明。
六、南門馬車場元係ユリス証言では、ハーゲンらしき人物は旧礼拝堂道手前で降車し、誰かを待つように立っていた。
七、以上より、従来の自発的失踪・逃亡よりも、短時間確認のつもりで呼び出され、旧礼拝堂道方面へ向かった可能性が高まる。
八、赤茶小折紙とG札・K筋札の関連、外出札本文筆跡、旧礼拝堂道手前の合流相手を継続確認する必要。
クラリスは最後に一文を書いた。
ハーゲン補助官は、逃げる者の荷を持っていなかった。彼は、戻るつもりで出て、誰かに呼ばれた場所へ向かった可能性がある。
ミレーヌは、壁の前で筆を取った。
少しだけ手が震えていた。
そして、こう書いた。
戻るつもりで出た人を、逃げたことにしてはいけない。
イリスが、その札を丁寧に貼った。
国際案件の箱に、報告書が入る。
紙の中で、ハーゲンはまた少し戻ってきた。
強硬ではない。
逃亡でもない。
正しい問いを持ち、短時間で戻るつもりで、呼び出しに応じた若い実務官。
次に追うべきは、赤茶の小折紙だった。
それを書いた者。
下宿へ差し込んだ者。
そして、旧礼拝堂道手前でハーゲンを待っていた者。
ハーゲンは、自分で消えたのではないかもしれない。
誰かが、彼を紙一枚で呼び出したのだ。




