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第155話 筋で足りる、と言った男

名前を書かない命令ほど、強い時がある。


 名前がないから、責任を避けられる。

 名前がないから、否定できる。

 名前がないから、受け取った者は勝手に忖度したことにされる。


 だが、名前がない命令ほど、従う者には重く見えることもある。


 誰の命令か、皆が知っているからだ。


 K筋。


 それは、ただの曖昧な呼び方ではなかった。


 ミケル・ロウ書記は言った。


 私の名を書くな。筋で足りる。筋で動ける者だけ動かせ。


 ケイン元参事補佐の言葉だと。


 クラリスは、顧問室の机にその証言を置いた。


 その横に、K筋連絡卓から見つかった赤茶札を並べる。


 外客用 済

 礼裏一包 控へ

 白館分 端済 問無


 さらに使用簿。


 置:K直 取:M書 白館八床 G可。


 ミレーヌは、前日の札を見上げていた。


 名前を書かない命令ほど、誰が消したかを見る。


「今日は、ケインさんですね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「今度は、K筋という言葉そのものを確認します」


「逃げますよね」


「逃げます」


「でも、今回はミケルさんの証言があります」


「あります。ただ、証言だけでは足りません。札、使用簿、筆跡、実際に動いた荷。それらを重ねます」


 ミレーヌは手帳を開いた。


「言葉だけではなく、動いたものを見る」


「その通りです」


 オスカーが資料を整える。


「今日の確認項目は四つです。K直、K筋、G可、Hが気づく」


「最後が重いですね」


 ミレーヌが小さく言う。


 Hが気づく。


 ハーゲンが気づいた。


 そして、ケインはその札を見た後に言ったという。


 若い正義感は、机を壊す。


 その言葉には、怒りよりも冷たさがあった。


 若い正義感。


 ハーゲンのことを、そう見ていたのか。


 クラリスは、感情を紙の外へ置いた。


 今日必要なのは、怒りではない。


 逃げ道を一つずつ塞ぐための順番だった。


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「名前を書かない方は、名前を呼ばれるのを嫌がります」


「今日は、何度も呼ぶことになりますね」


「ええ。丁寧に、逃がさぬように」


 王弟府の小会議室は、以前より狭く感じた。


 出席者は絞られている。


 レオンハルト。

 カレル調査官。

 クラリス。

 オスカー。

 ミレーヌ。

 グレゴール参事官。

 ヘレナ修復記録官。


 そして、ルドルフ・ケイン元参事補佐。


 今回は、エリオットは同席していない。


 財務院内部処理の整理ではなく、ケイン本人の確認だからだ。


 ミケル・ロウも同席していない。


 証言者を前に置けば、ケインはそちらへ言葉を向ける。


 それを避けるためだった。


 ケインは、前回より少し遅れて入ってきた。


 それでも定刻前だ。


 ただ、以前のような余裕ある早さではない。


 椅子に座る時、彼はいつもよりゆっくり手袋を外した。


 黒ではない。


 茶色の革手袋だった。


「また、古い紙が見つかったようですな」


 ケインは静かに言った。


「はい」


 クラリスは答えた。


「古い紙ほど、よく喋ることがあります」


 ケインの口元がわずかに動いた。


 笑いかけて、やめたように見えた。


 カレルが最初の紙を出した。


 K筋連絡卓使用簿。


 置:K直 取:M書 白館八床 G可。


「この記録について確認します」


 ケインは紙を見た。


 前回よりも長く見た。


「使用簿ですか」


「はい」


「K直というのは、誰が書いたものです」


「使用簿担当者の記録です。ミケル・ロウ書記は、あなたの口頭指示を記録したものだと証言しています」


 ケインは、表情を変えなかった。


「ミケル君が」


「はい」


「彼は、気が弱い男です。問い詰められれば、そう言うでしょう」


 グレゴール参事官が顔をしかめた。


 だが、クラリスは先に言った。


「気が弱いことと、嘘をついていることは同じではありません」


「もちろんです」


「では、この“K直”は、あなたの指示ではないと?」


「記憶にはありません」


「否定ではなく、記憶にない」


 ケインは少しだけ目を細めた。


「二年前の細かな口頭指示を、全て覚えている者はいないでしょう」


「では、白鴎館北翼八床を今夜整え、G札使用を可とした可能性は?」


「前にも申し上げた通り、白鴎館の客人対応を急がせた可能性はあります」


「G札使用は?」


「港湾急送の一手段として許容した可能性はあります」


「では、“K直 白館八床 G可”は、あなたの当時の行動と矛盾しませんね」


 ケインは少し黙った。


「矛盾しないことと、私が命じたことは別です」


「その通りです」


 クラリスは頷いた。


「次を確認します」


 二枚目。


 ミケル証言記録。


 私の名を書くな。筋で足りる。筋で動ける者だけ動かせ。


 ケインは、その一文を見た瞬間、初めて目を逸らした。


 本当に一瞬だった。


 だが、確かに逸らした。


「この言葉に覚えはありますか」


 カレルが尋ねる。


 ケインは、ゆっくり息を吐いた。


「ありません」


「ミケル書記は、あなたの言葉だと証言しています」


「彼の解釈でしょう」


「解釈?」


「私は、外部の使いや商務関係者を混乱させないため、すべての連絡を私名義にするなと言ったことはあるかもしれません。私の名で不要な圧をかけるのを避けるためです」


 ミレーヌの筆が動く。


 クラリスは静かに尋ねた。


「不要な圧を避けるために、K筋と書かせた?」


「そういう場合もあるでしょう」


「しかし、結果としてK筋は圧として働いています」


「それは受け取る側の問題です」


 グレゴール参事官が低く言った。


「便利な言い方だな」


 ケインは、グレゴールを見る。


「君は、ずいぶん感情的になった」


「遅すぎたくらいだ」


「それも前に聞いた」


「何度でも言う」


 レオンハルトが短く言った。


「続けろ」


 部屋の空気が締まる。


 クラリスは、三枚目を出した。


 赤茶札。


 礼裏一包 控へ


 四枚目。


 赤茶札。


 白館分 端済 問無


「これらはK筋連絡卓の引き出しから見つかりました」


 ケインは札を見た。


「古い札ですな」


「“礼裏一包 控へ”は、ヴィクトル・レーンが旧礼拝堂裏から商務評議会一時保管庫へ荷を運んだ証言と合います」


「ヴィクトルは使丁です。何でも“指示された”と言うでしょう」


「彼は、K筋の書き付けと赤茶札で動いたと証言しています」


「K筋という言葉は、私以外にも使えます」


「誰が使えますか」


 ケインは答えなかった。


 クラリスは待った。


 沈黙が長くなる。


「商務評議会周辺の者です」


「具体名を」


「今は思い出せません」


 ミレーヌが記録する。


 K筋を使用可能な者について、ケインは“商務評議会周辺の者”と述べるが具体名を挙げず。


 クラリスは、五枚目を出した。


 白館分 端済 問無


「この“端済”は、エリック・ヴォルンが旧礼拝堂でC-3正温一梱の端印を落とした証言と合います」


 ケインは、今度はすぐに言った。


「私は端印を落とせとは命じていない」


「誰が命じたと思いますか」


「エリック本人では?」


「外注裁断師が、王宮慈善印のある布の端印を独断で切る理由は?」


「仕事を得るためでしょう」


「彼は、K筋の赤茶札で動いたと証言しています」


「誰でもK筋を名乗れた」


「その仕組みを作ったのは?」


 ケインは、また黙った。


 ミレーヌの筆が、紙の上で止まる。


 この沈黙は重要だ。


 彼は、K筋の存在を完全には否定できない。


 だが、自分だけのものではないと言う。


 つまり、曖昧にしていたこと自体が彼の防御になっている。


 クラリスは、白紙に一行を書いた。


 K筋を誰でも使えたなら、なぜ止めなかったのか。


 そして、そのまま読んだ。


「K筋を誰でも使えたなら、なぜ止めなかったのですか」


 ケインの目が、初めて明確に冷えた。


「私は、すべての雑務札を監督する立場ではありません」


「しかし、あなたの周辺名義で人と荷が動いています」


「周辺名義など、王宮にはいくらでもある」


「その周辺名義で、慈善物資の端印が切られています」


「それは私の指示ではない」


「では、あなたの名を使っていた者を明らかにしてください」


 ケインは、唇を閉じた。


 長い沈黙。


 今までで一番長い。


 レオンハルトも、グレゴールも、カレルも黙っていた。


 この沈黙は、ケインに渡された。


 彼が何を選ぶかを見るために。


 やがて、ケインは低く言った。


「ミケルです」


 ミレーヌの筆が止まった。


 クラリスは、表情を変えない。


「ミケル・ロウ書記が、あなたの名を勝手に使ったと?」


「若い書記は、上の意向を読んで動きたがる。私が明確に命じていなくとも、彼がK筋と書いた可能性はある」


「彼は、あなたから“私の名を書くな。筋で足りる”と言われたと証言しています」


「彼の受け取り方です」


「では、あなたは言っていない?」


「その形では言っていません」


「どの形なら言いましたか」


 ケインは、また黙った。


 クラリスは待つ。


「……私の名を軽々しく使うな、とは言いました」


「筋で足りる、とは?」


「似た趣旨のことは言ったかもしれません」


 部屋が静まった。


 ミレーヌの筆が動く。


 ケイン証言:“私の名を軽々しく使うな”とは言った。“筋で足りる”と似た趣旨のことは言ったかもしれない。


 クラリスは続ける。


「筋で動ける者だけ動かせ、とは?」


「記憶にありません」


「否定ではなく?」


「記憶にありません」


 少しずつ、言葉がずれている。


 完全否定から、記憶にないへ。


 言っていないから、似た趣旨へ。


 名前を消す仕組みが、輪郭を出し始めた。


 カレルが、最後の確認に入る。


「“Hが気づく。Bへ戻すな”の札について」


 ケインの顔から、ほとんど表情が消えた。


「ミケルは、あなたがその札を見たと証言しています」


「見たかもしれません」


「その後、あなたが“若い正義感は、机を壊す”と言ったとも証言しています」


「記憶にありません」


「Hはハーゲン補助官を指すと認識していましたか」


「分かりません」


「当時、ハーゲン補助官がC-3正温の行き先に気づいていたことは?」


「後で聞きました」


「誰から?」


「……バルナス主任周辺から」


「あなたは、ハーゲンの指摘を危険だと見ましたか」


 ケインは答えなかった。


「若い正義感は、机を壊す。これは、ハーゲンの指摘が財務院や商務評議会の机を壊すという意味ですか」


「私は、その言葉を言った覚えがない」


「言った覚えがない。しかし、もし言ったなら?」


 ケインは、クラリスを見た。


「仮定の問いには答えません」


「分かりました」


 クラリスは頷いた。


「では、事実だけを確認します。あなたは、Hが気づくという札を見た可能性を否定しない。ハーゲン補助官がC-3正温の行き先に気づいていたことを後で聞いた。K筋という表現について、似た趣旨のことを言った可能性を認めた。G札使用を許容した可能性も認めている」


 ケインは何も言わない。


「記録します」


 クラリスの声だけが、静かに落ちた。


 ケインは席を立つ時、以前のような礼儀正しい余裕を保っていた。


 だが、扉へ向かう歩みはほんの少し遅かった。


 退室する直前、彼はクラリスを振り返った。


「顧問殿。紙は時に、人を過去へ閉じ込めます」


 クラリスは答えた。


「紙がなければ、人は過去から逃げ続けます」


 ケインは、薄く笑った。


「なるほど」


 そして、部屋を出ていった。


 顧問室へ戻ると、ミレーヌは椅子に座ったまま大きく息を吐いた。


「疲れました」


「ええ」


 クラリスも頷いた。


「でも、少し崩れました」


「はい」


 オスカーが報告書を清書する。


 表題。


 ルドルフ・ケイン元参事補佐第三回確認報告――K筋連絡卓関連


 主な内容。


 一、ケインは“K直 白館八床 G可”について、記憶にないとしつつ、白鴎館客人対応を急がせ、G札使用を許容した可能性とは矛盾しないと認める。

 二、ミケル証言「私の名を書くな。筋で足りる。筋で動ける者だけ動かせ」について、当初否定。後に「私の名を軽々しく使うな」とは言った、「筋で足りる」と似た趣旨のことを言った可能性を認める。

 三、「筋で動ける者だけ動かせ」については記憶にないと主張。

 四、K筋を使用可能な者について、商務評議会周辺の者と述べるが具体名を挙げず。

 五、K筋が誰でも使えたなら、なぜ止めなかったのかとの問いに、自身は全ての雑務札を監督する立場ではないと主張。

 六、ミケル書記が勝手にK筋と書いた可能性を示唆。ただしミケル証言との矛盾あり。

 七、「礼裏一包 控へ」「白館分 端済 問無」等の赤茶札について、直接指示を否定。

 八、「Hが気づく。Bへ戻すな」の札を見た可能性は否定せず。ハーゲンがC-3正温の行き先に気づいていたことは後で聞いたと証言。

 九、「若い正義感は、机を壊す」との発言については記憶にないと主張。

 十、総合すると、ケイン本人は直接命令を否定し続けるが、K筋運用、G札許容、白館優先、H認識について否定範囲が狭まっている。


 クラリスは最後に一文を書いた。


 ケイン元参事補佐は、命令書を書かなかった。だが、彼の名を書かないための言葉を作り、その言葉で動ける者だけを動かしていた可能性が高い。


 ミレーヌは、壁の前で筆を持った。


 しばらく考え、こう書いた。


 名前を書かないよう命じることも、ひとつの命令である。


 イリスが、その札を壁に貼る。


 国際案件の箱に、また一枚、報告書が入った。


 ケインはまだ完全には認めていない。


 しかし、K筋はもう霧ではなくなった。


 連絡卓があり、札があり、書記がいて、使丁が動いた。


 そして、本人は「似た趣旨のこと」を認めた。


 次に必要なのは、ミケルを守ることだった。


 ケインが逃げ道として彼の名を出した以上、若い書記に圧がかかる。


 ハーゲンの時と同じことを繰り返してはいけない。


 気づいた者。

 書いた者。

 証言した者。


 その人たちを、今度こそ紙の外へ追い出してはいけない。

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